第11話 渓谷の観光地
早い時間に出てきたおかげで、観光をするには十分な時間がある。早速バスへ乗り、観光地の一番はずれまで移動した。
そこからのんびりと、歩きながら宿へと戻るのが楽な方法だろうと思ったから。
あまり有名ではない場所、そのせいか観光客はまばらで、記念館などは待つこともなく見て回れた。それなのに、どこを回っても心が浮かない。
食欲も湧かなかったけれど、土地のものを口にしておくのも悪くない、そう思って軽く昼食も済ませた。
その後、ロープウェイに乗り、彼と計画を立てたときから、行きたいと思っていた見晴らし台へと向かった。
高所から見る景色は壮大で、周囲の山々がくっきりと見渡せる。頭上には真っ青で雲一つない空が……。
あの日、もしもあのとき、本当に彼とこの場所へきていたら、今ごろはどうなっていたのだろう?
今日、あの人が一緒にいたら、今ごろは……。
取りとめのない思いがあふれ出し、私は涙をこらえる。どちらにも手は届かなかった。今、ここに私は一人でいる。それが現実だ。
「……ありがとう……さよなら」
それは彼にも、あの人にも、面と向かっていうことのできなかった言葉。声に出せずに心の奥底に沈めてしまった言葉。
ぽつりと呟くと、乾いた空気の中、鐘の音がかすかに響いてきた。そういえば、マップには恋人同士や夫婦が訪れるのにちょうどいいスポットがあったっけ。
同じロープウェイに、若いカップルがいたのを思い出した。
(誓いの鐘の音か……)
私のいる場所から、その場所は見えない。けれど、幸せそうに微笑み合うカップルの姿が想像できる。
私にはもう、きっと一生……縁のない場所だ。胸の奥が痛み、逃げるようにその場を離れると、帰りのロープウェイに飛び乗った。
一度、バス停へと戻り、そこからは渓谷に添って宿へ戻るだけ。私はゆっくりと歩いた。滝を覗き見て、巨岩を眺め、いくつかの橋を渡る。
遊歩道へ入ると、何組かの観光客の姿がちらほらと見えるようになった。一人なのは私くらいだ。
木の枝が広がり、直接の日差しを避けられるとはいえ、動いていると暑さが増す。途中の休憩スペースにあったベンチに腰をおろし、また地図を眺めた。
ここから先へ進むと、またカップルにはうってつけのスポットがあるようだ。共に渡ると愛が結ばれるというらしい。
憂鬱な気分。
ベンチの後ろを老夫婦や、家族連れが通り過ぎていく。子どもたちの甲高い笑い声が響き、私もつい顔がほころんだ。
せっかく来ているのだから、今はせめて景色を楽しもう。地図をたたみ、家族連れの後を少し離れて歩きだした。
「あ~っ!」
「ホラ、気をつけないからいけないのよ、もう、しょうがないわね」
母親の小言と、女の子のぐずる声が聞こえてくる。
なんだろう?
そう思いながら近くまでくると、女の子のかぶっていた帽子が、手摺を越えた向こう側の岩の上にチョコンと乗っている。
強い風が吹いたら、川に落ちてしまいそうだ。父親のほうは、男の子と一緒にずいぶんと先へと進み、気づいていない。
「お母さん、取ってよ~」
「え~、あんなところに落ちちゃったら、もう取れないわよ、諦めなさい」
母親はスカートで、靴は登山やハイキングには向かない、ヒールが高めのパンプスだ。確かに、あれでは取るのは無理だろう。
でも、私はジーンズにスニーカー。それに帽子の落ちた岩は手摺からも近く、しっかり掴まってさえいれば簡単に取れそうだ。
「あの、私が取りましょうか?」
「えっ? でも危ないですよ?」
「すぐそこですし、汚れても構わない服ですし、大丈夫です」
私は母親の返事を待たずに、手摺をまたいだ。手摺にしっかり掴まり、そっと屈むと、右手を目一杯に伸ばして帽子を掴み取った。
ホッと息をもらし、立ちあがって女の子へ帽子を差し出した瞬間、ザッと頭のてっぺんから血が引いた。
立ちくらみに目の前が真っ暗になる。
そういえば最近は、ろくに寝ていなかったっけ。昨夜も眠れないままにここへ来たんだ。耳鳴りとともに薄れる意識の中で、誰かが私の名前を呼んだ気がした。
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