第9話 ミリカの快復
ある日の昼下がり、俺は客間でゆっくり過ごしていると、扉をノックする音がした。
「失礼いたします。お客様、ミリカ様が、少しお話をなさりたいとのことです」
現れたのは、以前病室で出会った侍女だった。彼女は少し控えめな笑みを浮かべている。客室に案内されてから初めて、正式な「ミリカ嬢からの呼び出し」だ。俺は素早く身支度を整えた。
「わかりました、お連れください」
侍女の後をついて、例の特別室へと向かう。廊下には、男爵家特有の落ち着いた装飾が続いており、その先には以前と同じ扉があった。侍女が軽くノックをして中へ声を掛けると、か細いがはっきりとした「どうぞ」という返事が聞こえる。
扉を開け、病室に入ると、ミリカ嬢は枕を高めにし、上体を少し起こしていた。まだ完全な健康体ではないが、あの日見た虚ろな面差しとは比べ物にならないほど、確かな生命の気配を帯びている。その傍らには小さなサイドテーブルがあり、温かい薬草茶を湯気が立つ状態で用意したらしい。
「お加減はいかがですか、ミリカ様」
俺が静かに問いかけると、ミリカ嬢は微笑み、弱々しいがはっきりとした声で応じた。
「……おかげさまで、ずいぶんと良くなりました。あなたが来る前は、こんな風に声を出すのも、苦しい夢を見ているようで……何度も呼吸が浅くなり、時には自分がどうなってしまうのか不安で仕方なかったのです」
彼女は長いまつ毛を伏せ、思い返すように小さく息を吐く。その表情には、まだ病後特有の儚さこそ残るが、同時に内面からくる強さの芽生えが感じられた。
「本当に、ありがとうございます。あの薬はまるで奇跡のようでした。私には、たくさんの医師や薬師が来ましたが、誰も私をここまで快方へ導けなかったのに……あなたは、わずかな時間で治療法を見いだしてくださった」
淡い銀色の髪が、窓辺からの光を受けて柔らかく輝いている。ミリカ嬢はまっすぐ俺を見つめ、その銀色の瞳は感謝と戸惑いとが
「私が今こうして、声を出し、あなたにお礼を伝えられること――それが、どれほど嬉しいか分かりません」
「お礼だなんて、俺が好きでやったことですから。ミリカ様が回復されて、俺はその姿を見られただけで十分報われています。どうか、ご自身の体を最優先になさってください。まだ完治には時間が必要でしょう。焦らず、ご自愛ください」
俺は過剰な謙遜ではなく、本心を伝えるつもりでそう告げた。俺にとって、彼女を救えたことは交渉上の有利さを得るためだけでなく、人として誇りに思える行為だった。何より、その結果として彼女がこうして感謝を口にしてくれること自体が嬉しかった。
「この数日、父も心配の表情が和らいでいます。あなたが来る前は、父はいつも険しい顔で、誰かを犠牲にしなければ私を救えない、そんな追いつめられた雰囲気を纏っていました。それが今、少しずつですが、父も領主としての務めを正しく果たそうとしているのが分かります。あなたは、私を救っただけでなく、父と領地全体を救う機会を与えてくださったのでしょう」
「……望むところですね。俺は、男爵様が本来の正しき領主として、公平な裁きを下されることを期待しています。そのきっかけが、ミリカ様の回復であるならば、これほど有意義なことはない」
俺が穏やかな笑みを返すと、ミリカ嬢は再び微笑み、少し頬を赤らめるように見えた。疲労が戻らぬうちに話を切り上げた方がよさそうだが、彼女がもうひと言、声をかけた。
「その……私、また調子が良くなったら、改めてお話を聞かせてくださいませんか? あなたの不思議な治療法や、フォン・フェルトドルフ伯爵家について、そして……私の知らない世界について」
「喜んで。ミリカ様がその気になられた折には、遠慮なくお呼びください。俺にお伝えできる範囲なら、何でもお話しましょう」
彼女は満足げに頷く。けれどそのまぶたは少し重たそうだ。侍女が「そろそろお嬢様、お休みになりますか?」と気遣うと、ミリカ嬢は名残惜しそうに俺に視線を送りながら、「また……後で」とささやいて目を閉じた。
俺は静かに一礼し、侍女に導かれて病室を後にした。扉が閉ざされると、廊下には心地よい静寂が戻る。
まだ完治ではない――しかし、ミリカ嬢は確実に、ひとつの山を越えている。その回復は男爵家のみならず、領地全体にとっても光明となるだろう。トルカスについての決着、村人たちの生活の改善、そして何より、この領地が正しい方向へ進む転機になるかもしれない。
廊下を歩きながら、俺は自然と微笑んでいた。ミリカ嬢のかすかな声での「お礼」は、まるで儚く柔らかな花が初めて蕾を開くかのようだった。そしてその花が、時とともに鮮やかな彩りを取り戻し、やがて強い陽光の下で咲き誇る未来を、俺は期待せずにはいられなかった。
* * *
ミリカ嬢は最初に出会った頃よりも体調はさらに良くなり、上体を起こしたまま侍女と会話をする余裕も見えるようになっていた。
俺が黙って見つめているのに気付いた侍女が「お嬢様、少々お話されますか?」と声をかけると、ミリカ嬢は嬉しそうに頷き、俺に手招きをする。
「どうぞ、こちらへ。もう少し話を聞きたくて……。あなたはまだ名前を教えてくださっていませんよね?」
言われてみればそうだった。男爵には「アルフ」とだけ名乗ったが彼女には名乗っていない。
(インスタンス分析:ミリカ・フォン・グリーデル。内容:フォン・フェルトドルフ家の嫡子が死んだという話を知っているか否か)
「分析結果:NO。ずっと病で寝込んでいたから、知るはずないね」
なるほど、もしそうであれば彼女にフルネームを伝える事もやぶさかではない。ただ、侍女や衛兵に聞かれて万が一下手に広まってしまっては困る。
「ミリカ様、俺の名前については……少しお時間をいただけますか?」と答えつつ、俺は微かに笑みを浮かべた。
侍女が少し不思議そうな顔をしたが、俺は話を続けた。「お嬢様、お加減が良くなられた今、少し歩かれるのも良いリハビリになると思います。短い距離ですが、一緒に庭へ出てみませんか?」
侍女は驚いたように俺を見るが、ミリカ嬢は予想外の提案に目を輝かせ、すぐに頷いた。
「外の空気を吸うなんて、どれくらいぶりかしら……ぜひお願いしたいです」
彼女の体調を考慮しながら、侍女と俺が支え、病室を出た。暖かな陽射しが降り注ぐ庭園では、小鳥がさえずり、色とりどりの花が咲き誇っている。ミリカ嬢は視界に広がる景色に小さく息を漏らし、その場に立ち尽くした。
「こんなに綺麗だったのですね……」
彼女の声は感動に満ちていた。
侍女が少し離れた位置で目を配る中、俺は彼女を支えつつ、なるべく人目につかない一角へと誘った。そして、他の誰にも聞かれる心配のない場所に立ち止まると、彼女をゆっくりとベンチに座らせた。
「ミリカ様、実は先ほどのお話の続きをさせていただきます」俺は穏やかに言いながら、周囲を確認する。侍女の姿は見えず、庭園に響くのは鳥の声と風のざわめきだけだ。
彼女は不思議そうに俺を見上げた。「続きを、ですか?」
「ええ。名前のことです。実は……アルフ・フォン・フェルトドルフと申します」
「アルフ……フォン・フェルトドルフ……?」
ミリカ嬢はその名を口にすると、目を細めて考え込むように視線を彷徨わせた。
「そうです。実を申しますと、俺はフォン・フェルトドルフ伯爵家の嫡男です。しかし、俺のフルネームは誰にも明かさないでいただきたいのです。お父様にも、決して」
俺の言葉に、彼女は戸惑いの表情を浮かべたが、次第にその瞳には理解と好奇心が宿る。
「分かりました。……伯爵家のご嫡男で、卓越した医療の知識をお持ちで……お医者様でいらっしゃるんですか?」
「いえ、俺は正式な医者ではないですし、なる気もありません」
「えええっ!?」
あれだけの医療を施され、日々効果を実感している彼女が驚くのも無理はないが、俺からしたらあの医療行為は「インスタンス生成・分析で出来る事の一つ」にすぎない。
俺は軽い説明口調で答えた。
「ミリカ様、実のところ、俺がやっていることは医療とは少し違います。『特殊な手法で医療行為を再現しているだけ』とでも言いましょうか。だから、正式な医者になるつもりはないんです。それよりも、もっと広い視点で世の中を変える力を追い求めています」
「彼女になら、たとえインスタンス生成・分析についてバラしても誰にも言いふらさない」……と、彼女をインスタンス分析した結果が告げているが、さすがにそこまではしなかった。
さて、俺の発言にミリカ嬢は少し驚いた顔をしたが、やがてその表情は柔らかなものに変わった。
「広い視点……世の中を変える力……。あなたは、本当に不思議な方ですね。でも、あなたのような人がいれば、きっとこの世界は少しずつ良い方向に向かっていくのでしょうね」
その言葉に、俺は少しだけ照れくささを覚えた。けれど同時に、この短い対話の中で、彼女が俺の思いを理解し、共感してくれたことに安堵も覚えた。
「ありがとうございます、ミリカ様。俺の力がどれほどの影響を与えられるかは分かりませんが、この出会いもまた、俺にとって大切なものです。あなたが回復していく姿を見ることができただけでも、俺はこの地に来た意味を感じています」
彼女は穏やかに微笑み、庭園の花々に目を向けた。
「私も……この出会いを大切にしたいです。そして、いつかあなたが目指すものを知る日が来たら、私も力になれる存在でありたい」
その言葉は、ただの病弱な少女からではなく、未来に希望を抱く強い意志を持った一人の人間から発せられるものだった。俺はその言葉に勇気づけられ、再び心の中で自分の決意を強くする。
「それで、アルフ様、その……」
「……?」
「もし私が全快した折には、一つ、お願い事がありまして……」
「何でしょう?」
「え、えと……その時に話します!!!」
と彼女が不意に言葉を切り上げた時、その頬はわずかに赤らみ、彼女自身の照れくささが入り混じっているように見えた。
俺は微笑み、軽く頷いて応える。
「分かりました。その時を楽しみにしています」
ミリカ嬢の表情がわずかにほころび、控えめな笑みが浮かぶ。彼女の表情に現れたそのささやかな変化が、俺には大きな一歩に思えた。病と向き合う彼女が、未来のことを考え、願いを抱き、そしてそれを俺に伝えようとしている。この庭園で交わされた短い会話が、俺にとってどれほどの希望をもたらしたかは、計り知れないものがあった。
彼女が全快した折に話す「お願い事」とは何なのか、それを聞ける日を楽しみにしながら、俺は自分の目指すべき道を見据え始めるのだった。
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