記憶

 物心ついたときから、ピアノが一番の友達だった。


 多くの人にとってピアノは、所定の鍵盤を叩くことで対応する音が出る道具に過ぎないのだろう。だが、おれにとっては違った。


 好きだ、と同じ言葉を口にするのでも、そのときの声音や表情次第で相手が受けるニュアンスは大きく変わり、したがって返ってくる反応も異なる。ピアノを弾く行為も同様で、鍵盤を叩く指先に込められた感覚の微妙な差異が、無限に近い響きのヴァリエーションという形で豊かな返答を引き出してくれるのだ。


 この「対話」が楽しくて、幼いおれはいつも家のピアノに向かって座っていた。都内にあるピアノ教室の講師を務める母はそんなおれのピアノへの関心を喜び、時間があるときにいくつか曲を教えてくれた。


 両親を自動車事故で亡くしたのは、五歳のときだ。おれは父方の叔父夫婦に引き取られ、子供のいない彼らのもとで育てられることとなった。


 叔父たちは優しかった。おれのことを実の息子のように可愛がってくれ、前の家でおれがピアノを弾くのが好きだったと知ると、自分たちの家に運んできて置いてくれた。叔父夫婦に感謝しているのは確かだが、幼少期のおれが彼らに馴染むことができていたとはいいがたく、ずっとひとりでピアノと会話して過ごしていた。


 小学四年生のとき、全日本コンクールで優勝した。名門の私立音楽大学の附属中学校に進学し、練習漬けの毎日を送った。名声だとか、世間の期待だとか、そんなものはどうでもよかった。ただ、この美しく繊細な漆黒の友人と一緒にいられたら、それで十分だった。


 あの日。

 血のにおいが充満した叔父の書斎で、おれの平穏な日々は唐突に終わりを迎えたのだ。

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