29.【蒼月と喪失】
「それでは、お気を付けていってらっしゃいませ」
大司教の見送りをほどほどに受け流した俺は、大聖堂の前につけていた馬車へと迷わずと乗り込んだ。
「シシィ、しっかりと受けた召命を果たすのだぞ」
「はい、大司教様。皆に、月神様の御加護があらんことを」
やがて、
「ヴィクター様、改めまして、よろしくお願いいたします!」
「ああ、日が沈むまでには町に着く。それまでは好きにしろ」
大聖堂の白亜の尖塔が段々と遠ざかっていく。
馬車の揺れに身を委ねながら、隙間から風景をぼんやり眺める。
かつて暮らしていた村の方角に自然と目が向く。
今はもう、ただただ荒れ果てた焦土だが、目を閉じれば、そこにあった懐かしい景色が、胸の奥から浮かび上がってくる。
隣人の声が響く家並み、そこらを駆け回る子供達、ディアナと過ごした我が家──
(いってらっしゃい、兄さん。どうか、身体に気を付けてね)
――脳裏に浮かぶ、かつての最愛の妹の言葉。
すべてが灰となった今でも、記憶の中では変わらず息づいている。
馬車は変わらず進み続ける。
だが、俺の心だけはあの焦土に取り残されたままだ。
「――あ、あのぅ……ヴィクター様……?」
どれくらい経ったろうか。
その静寂に耐え切れなくなったのか、隣から恐る恐る声がかかる。
「何か用か?」
「お歳を、お訊きしても?」
「二十と六つだ」
「なるほど、わたくしより三つ歳上ですね!」
「そうか」
再び、馬車の荷台に、気まずい沈黙が落ちる。
ただ馬の蹄の音と、車輪の軋む音だけが淡々と響いた。
「――えぇっと、ヴィクター様?」
「なんだ」
「食べ物は、何がお好きですか?」
好きな食いモン――ね。
「今は……口にできれば、なんだっていい」
「そう……ですよね。好き嫌いは、良くありませんものね!」
みたび、流れる静寂。
少し遠くから、木の葉を揺らす風の音と、鳥のさえずりが聞こえてくる。
「あ……そうだ、ヴィクター様――」
「……なぁ、シシィ」
「は、はいっ!?」
突然、名を呼ばれて、シシィがその細い体をビクンと跳ねさせる。
「用が無いんなら、無理して話さんでいい。間が持たんのは分かるが――」
「……違うんです」
俺の言葉に首を横に振りながら、シシィが、きゅっと軽く拳を握り締める。
「ヴィクター様、お会いした時からずっと、とても辛そうなお顔をしてらっしゃるんです。まるで、今にも心が壊れてしまいそうな……見ているだけで私、その、胸が苦しくて……つい、放っておけなくて……」
「俺が、辛そうに……か」
思わず、皮肉めいた笑みが口元に浮かぶ。
「シスターさんってのは見ず知らずの男の心配までしなけりゃいけねぇのか? 献身的だねぇ……頼めばミルクでも飲ませてくれんのか?」
「ミルクですか? 次の町の市場にあるといいのですが……」
「たとえだよ。わかんねぇか」
「……たとえ、ですね」
しょんぼりとした顔を見せるシシィに、溜め息を吐きながら言葉を継ぐ。
「もうこれ以上、軽々しく俺の闇に首突っ込むな。俺の味わった地獄はお前には一生分からねぇよ」
それでも、シシィはほんの少しだけ眉を下げて、俺の顔をじっと見つめていた。
「確かに……分かりません。でも、分かりたいと思うことすら……いけませんか?」
か細い声だったが、そこに籠められた意思は確かなものだった。
思わず目を逸らしたくなる。
「地獄がどんなものかなんて、私には分からないです。でも……分からないからといって、誰もあなたに近付いてはいけないのなら……あなたは、ずっと独りです」
ぐっと身を寄せてくる。
祈るような、真っ直ぐな眼差し。
「私は、あなたを独りにしたくない……それだけなんです」
思わず、重たい息が喉奥から漏れる。
「……いいか? 俺がお前と一緒にいるのは"目的"のためだ。馴れ合うつもりもなけりゃ、お前の手を引いてやる気もない。そのつもりでいろ」
いつか泡のように消えてしまう想いなら、いっそ初めから持たなければいい。
もう、失いたくない。だから得ることもしない。
そう、心に決めたのだ。
「あなたは……自分を許せずにいるのですね……」
その言葉に、胸の奥を掴まれたような痛みが走る。
ふと見れば、シシィの頬を涙を伝っている。
俺なんかより、彼女の方がよっぽど深刻そうなツラだ。
「おい、馬鹿……なんでお前が泣くんだよ」
「分かりません……でもこれは、きっとあなたの涙でもあるんです……」
「お前、大司教から……俺の身の上を?」
「はい……」
「妹の、話もか……」
「はい……でも、あなたは悪くありません……」
「……そうか」
その声からは、ただの慰めでなく、理解と覚悟が感じられた。
「わたくしは……ただ"月神の乙女"としてあなたに同行している訳ではありません。ただの女"シシィ"として、ヴィクター様の過去を共に背負う覚悟で、ここにおります」
やがてシシィは、その袖で涙を拭うと、俺の目を真っ直ぐ見て言い放った。
「ヴィクター様が今、絶望の淵にいるというのなら……わたくしが、あなたの手を引きます」
俺はしばし言葉を飲む。
そしてようやく、ぽつりと答える。
「……シチューだ」
「……え?」
「それと、リゾットに、チーズタルトも」
シシィが、ハッと何かに気付いたかのように目を見開いた。
「わたくしも……シチュー、大好きです」
「ああ。それも、味をうんと濃くして、そいつを
「えぇっ、わたくし、お酒は
「禁じられてるのか?」
「いえ、明確には……ただ、泥酔は戒められています」
「だったら、いつか程々に付き合ってくれよ」
シシィの顔が、ふわりと花のように綻ぶ。
「まぁ、俺もたしなむ程度だがな」
「ふふっ、案外わたくしの方が強いかもしれませんよ?」
「へっ、そん時ゃあ、お手柔らかに頼む」
口元に手を当てて、クスクスと上品に笑う彼女。
驚いた。年端もいかない女に、俺がこうも簡単にほだされるとは。
まぁ、とりあえず今だけは、この頑固なシスターさんの"ご奉仕"に付き合ってやるとするか。
「いってくるよ、ディアナ――」
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