盤上のイカロス

エワルド

第1話 届かぬ高み

 1988年の帝国科学大学、通称「帝科大」の中庭は、まだ初夏の気配を纏う木々と、あちこちで談笑する学生たちで賑わっていた。この大学は国内有数の理工系総合大学であり、世界的にも知られた研究施設や大型計算機を有している。かつてこの大学ではパンチカードを使ったプログラミング実習が行われていたが、ようやくそれも過去のものになりつつある。新旧が交錯する場で、世界はひっそりと、しかし確実に変わり始めていた。


 そんな帝科大の講義棟裏手、旧式の盤上遊戯研究室と呼ばれる場所がある。ここでは主に国産の古典的ボードゲームや思考ゲームが研究対象になっており、学生サークルや研究者が出入りする。将棋、囲碁、チェス、チェッカー……そして「アルカ」。

 アルカは、ここ数十年で世界的に普及した複雑なボードゲームの一つだ。二人対戦が基本で、盤面には種類ごとの駒が配置され、互いに自軍を優位に運ぶべく手を尽くす。将棋や囲碁と比較するとやや駒種・盤面はシンプルだが、引き分けが比較的多く発生する独特のバランスがあり、不利になったらいかに引き分けに持ち込むか、有利なときにいかに引き分けの目を潰すか、が戦術の要となる。

 各国にトッププレイヤーが存在するが、日本はこの競技で長らく強豪として名を馳せていた。「日本一は事実上、世界一」――そんな評価が成り立つほどだ。その頂点に君臨する存在こそ、朝霧七海である。


 朝霧七海――若くしてグランドマスターとなり、その後も数々のタイトルを総なめにした天才。とくに中終盤の強さは圧倒的で、ここ数年のあいだ引き分けはあっても負けはない「無敗のプリンセス」。彼女は今、この研究室の一角、誰もいない小さな対局室でアルカの盤に向かっていた。一見したところ彼女は儚げな少女に見える。背中まで伸びた黒髪、華奢な体躯。その目は静かに盤上を見つめ、細い指先で駒の並びを修正している。その一手には狂いがない。

 七海は医師から余命わずかと宣告されていた。循環器系に深刻な疾患を抱えており、長時間の対局は負担となる。だが、彼女は盤上に向かうことを止めない。「負けるかもしれない相手」がもうどこにも存在しない世界で、彼女は満ち足りぬ飢えに苛まれていた。人間との対局では彼女が負ける可能性はほとんどない。それは彼女自身が一番理解している。しかし、自分が本気でぶつかり合える相手に出会う希望を、彼女はいまだ捨て去ることができないでいるのだ。


 そのとき、廊下で小さな足音が響いた。開きっぱなしのドア越しに入ってきたのは、一人の学生――藤崎つばめ。眼鏡をかけ、短く整えた髪、白衣のような実験着を引っかけている。彼女は七海の幼なじみだった。

 小学生の頃、つばめは将来プロプレイヤーを目指しアルカに熱中していた。しかし、ある日の七海との対局で実力の差をまざまざと見せつけられ、その道を諦めた。あれから幾年――つばめは自らの才能を別方向に咲かせ、プログラミングの世界で頭角を現していた。帝科大では計算機科学を専攻し、プログラムを自在に操る。

 「久しぶり」

 と、つばめは静かに笑みを浮かべる。七海は顔を上げ、わずかに口元を緩めた。

 「本当に久しぶりね、つばめ。」

 二人は軽く会釈し合う。外から差し込む光が二人を照らした。対局室には旧式の木製テーブルとアルカ盤、そして手入れの行き届いた駒が並んでいる。ここは七海がしばしば訪れては研究用に使う私的な空間だった。

 「最近はどう?」

 つばめが尋ねる。

 「うん、相変わらず、強い相手を探してる。」

 七海は投げやりな口調で言う。

 「でも……誰もいない。もう私に本気を出させる相手は人間界にはいないみたい。」

 その言葉は悲哀を含んでいた。どんなに圧倒的な力を得ても、七海が求めているのはさらなる高み。限界に手がかかるほど、逆に虚しさが募る。

 つばめはそんな七海の様子に目を細める。自分が幼少期に憧れ、そして挫折した少女は、今や誰も届かぬ場所に立っている。それは栄光であり、同時に孤独でもある。

 「ねえ、七海ちゃん」

 つばめは少し意地悪な笑みを浮かべた。

 「人間じゃない相手と対局したら? たとえば——コンピュータとか。」

 七海は思わず笑みを漏らす。

 「コンピュータ? まだまだでしょ。雑誌で読んだけど、アルカ用のプログラムはどれも弱いって聞くわ。」

 事実、当時のコンピュータにはアルカのような複雑な戦略ゲームを極めるだけの計算資源もアルゴリズムもなかった。チェッカーやオセロならそこそこ強いが、アルカは手が広く、奥深い。コンピュータにとっては、いまだ未知の迷宮だった。

 「確かに、今のは弱いかもしれない。でも、もし私が本気で作ったら、どうなると思う?」

 つばめは胸を張る。その態度はかつての内気な少女からは考えられないほど自信に満ちていた。七海は目を見開き、苦笑する。

 「ふふ、面白いこと言うわね。」

 しかし、その瞬間、七海の脳裏にかすめたものがあった。それは師匠・中山のかつての言葉だ。

 「計算機なんかにアルカをやらせたらあかん。人間は、勝てなくなる。」

 若い頃、タイトルを総なめにした中山が、コンピュータが初心者レベルであった時代に放った言葉。七海はその言葉を当時半ば笑い飛ばしていた。だが、今その記憶は鮮明によみがえった。世界は変化している。帝科大には大型計算機があるし、つばめはその道の天才だ。

 「……もし作れるなら、作ってみてよ。」

 七海は静かに言う。その声には本気の色が滲んでいた。

 「本当に私を追い詰めるようなプログラムができるなら、対局してみたい。」

 つばめはその反応に一瞬驚くが、すぐに笑顔を返す。

 「やった! じゃあ約束ね。私が最強のアルカプログラムを作って、あなたを倒す。それくらいできなきゃ、私がプログラマとして一流とは言えない。」

 そんな軽口の裏には、つばめ自身の複雑な感情がある。幼い頃、七海に完膚なきまで打ちのめされたあの日からずっと、彼女は「自分は届かない」高みに七海を見続けてきた。アルカのプレイヤーとしては届かなくても、技術者としてなら七海を超える支点を作り出せるかもしれない。その願いが彼女の原動力だった。


 ふと、室内の古い時計が時刻を刻む。夕暮れまでまだ間があるが、研究室の廊下はしんと静まりかえっている。そこから漏れ聞こえるのは、微かに稼働する計算機室のファンの音、学生たちの遠い笑い声。

 七海はアルカ盤から視線を外し、つばめを見る。

 「つばめ、アルカのこと、まだ覚えてるわよね?」

 「当然。プロの定石は全部頭に入ってるとは言わないけど、アマチュアでは負け知らずよ。」

 「なら、もう一度私と打ってみる?」

 七海が誘うと、つばめは少し困ったような顔をする。

 「今、ここで?」

 「そう。あなたが今どの位置にいるのか、私も知りたい。」

 実は七海も確かめたかった。つばめがどれほど成長しているか、その感覚を摑むことで、コンピュータが成し得る可能性を推し量ろうとしていた。

 2人は木製の椅子に腰掛け、アルカ盤を挟む。つばめが先手、七海が後手。

 並べられた駒が織りなす初形は静謐だが、そこには無数の変化が潜んでいる。アルカは先手がやや有利とされるが、プロ同士であれば一手の緩みが致命傷となることもある。

 「じゃあ、はじめましょう。」

 つばめが一手目を打つ。すぐさま後手の七海が軽やかな手つきで駒を動かし、盤上に新たな気流が生まれる。つばめはその手を見て、懐かしい感覚を覚える。幼い頃に味わった「到達不能な高所」の空気が、まだそこにあった。

 数分後――序盤戦略をめぐるやり取りは、圧倒的だった。つばめが必死に考えて応じても、七海は常に数手先、いや十数手先まで見通しているかのようだ。一見穏やかな表情の裏で、七海の頭脳は音もなく研ぎ澄まされている。

 やがて中盤に差し掛かり、つばめは決定的に不利な局面へ追い込まれた。引き分けへの布石すらも、七海は当然のように潰してくる。アマチュアではトップレベルとはいえ、プロではないつばめには、これ以上の抵抗は徒労に思えた。

 「参りました。」

 つばめは駒を置く。再び味わう圧倒的な差――しかし今回は昔と違って絶望ではない。なぜなら、今度は別の手段がある。自分で盤上に立たなくても、プログラムを通じて七海に挑める。技術という長剣で彼女の胸元に切っ先を突きつけられるかもしれない。

 「やっぱり強いね、七海ちゃん。まあ、世界一だもんね」

 「あなたも悪くないけど、まだまだかな。」

 七海は控えめに肩をすくめる。

 「だけど……」

 つばめは微笑む。

 「次に挑むのは私じゃない。私が創るコンピュータよ。いつか、あなたを倒してみせる。」

 七海はその言葉を聞いて、静かに頷く。その瞳には微かな光が戻っていた。絶対に負けないと思っていたはずの彼女が、今ここで「いつか負けるかもしれない」という予感を抱き始めていた。


 外では風が吹き、新旧が交錯する帝科大の一角で、新たな闘いの序章が幕を上げる。アルカという盤上の宇宙を、人と機械がいかに渡り合うのか――その答えを、二人はまだ知らない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る