第17話 重なる
「やったー! 月丘くん、陥落!」
有珠が上機嫌で現れたのは翌日の朝イチのフランス語の時間だった。
陥落?
わたしはなにも聞いてないのに。
「ほら、肇くん、川原さんに説明してきていいよ」
有珠は上機嫌で月丘を軽く突き飛ばした。月丘の顔は色を失っていて、まるで見るに耐えなかった。わたしはなにを言ったらいいのかまるでわからなかった。
「ニコ、この時間、サボれる?」
「いいけど」
なにもわからないまま、わたしは彼についていった。
わたしたちは図書館脇の日差しがよく当たる、風の強いベンチに座った。ビュンと時々、砂を含んだ強い風が吹いた。どうして自分がこんなに環境の悪いところにいるのか、よくわからなかった。
「ごめん」
「全然わかんないよ」
月丘は雨に濡れた仔犬のように、俯いてなにも言わなくなってしまった。わたしたちは予定通りに手袋を外すこともなく、黙って平行に座っていた。月曜日なのに。ただそれだけ。空気が重かった。
「⋯⋯髪を撫でてしまったんだ」
「?」
「昨日、別れる時、つい。『よく手入れされた髪だね』って僕は言った。彼女は『髪の毛だけでもすきになってくれたんだね』って僕に言ったんだ。そうなのか、自分でもわからない。でも彼女は喜んで、『明日からもよろしくお願いします』としおらしく頭を下げたんだよ」
「⋯⋯」
わたしは目を開いて月丘を見た。彼は自分を恥じているようだった。
「僕は否定したんだ。でもそうこうしてるうちに彼女の終電が行ってしまって」
「泊めたんだね」
「ああ」
「ニコ! もう一度話し合ってみるから」
「わたし、月丘がショートカットを褒めてくれた時、すごくうれしかった。わたしが有珠だったらやっぱりうれしかったと思うよ」
ニコ、と呼ばれると思ったけど、わたしが背中を向けた時、月丘は席も立たなかった。仁美、とは勿論、呼んでくれなかった――。
◇
ピンポーンとチャイムが鳴って、インターフォンを覗くと慧人だった。
「入って」と告げると合鍵で彼は入ってきた。そして靴も脱がずに「鍵、返し忘れた」と笑った。
「ニコ⋯⋯? どうした? 目の周り、真っ赤だぞ」
ズッと一歩前に出て、慧人の胸に縋った。それは狡い女のすることだった。慧人は戸惑いながら、そっとわたしの背中を撫でた。
そうしてしばらく経った頃、わたしは顔を上げて「ごめん」と言った。慧人は「上がってもいい?」と尋ねた。頷いて「コーヒーでもいれるね」と答えた。
「『髪の先』でも、か。随分、強かだな、その子」
「そうかな? わたしならうれしいと思うよ。髪が長ければよかったのかなと思ったくらいに」
そう言えば本上さんも髪が長かった。今、主流はロングヘアなんだろう。わたしは流行に疎いから。
「でも俺はニコの髪が長くても短くてもすきだよ。これは本当に。点数稼ぎとかじゃないから。⋯⋯だから、昨日の観覧車でのことはなかったことにしない?」
コーヒーのカップが熱くて持つことができずにいたわたしは、慧人の目を、目の奥までしっかり見てしまった。
「楽しかったことも?」
「また行けばいい。楽しいことは増やせばいいよ。第一、ニコはあの男と付き合ってなかったわけだし、フリーなんだからなにも問題ないだろう?」
「⋯⋯よくわかんない。わかんないけど、うれしいかもしれない」
「ならそれでいいよ。ペナルティならバツイチが俺で、仁美はまだなにもしてないよ」
「ペナルティ」
わたしはくすくす笑った。笑うことであの一連の騒動がすべて冗談に変わる気がした。例え事実がひとつも変わらなくても、だ。
照れくさくなったのか、慧人はケトルに水を足して沸かし始めた。
そして後ろからそっとわたしを抱きしめると「もう離さないよ、仁美」と囁いた。ドキッとする。付き合って三年にもなるのに、まだときめくなんて、自分が信じられない。
「慧ちゃん、本当に?」
「俺の方が先にすきになったんだ。仁美のいいところ、先に見つけたんだよ。難しいかもしれないけど信じてよ。すきだって気持ちは本当だから。急がなくていいよ。でも追いついてくれたらうれしい」
「⋯⋯うれしいかも」
「かもじゃなくて『うれしい』って言えよ⋯⋯」
首筋に息がかかる。襟元からすうっと手が入ってきて、すきってこういうことなのかな、と思う。
だとしたら月丘も有珠の髪にやられて、全部が欲しくなるのかもしれない。月丘だって男だ。あの毛布の中で抱きしめられた時だって、押し倒された時だって、彼は男だった。
だから有珠の前でもただの男になってしまうんだろう。それなら、手を引こう。元々、月丘が付け回してきたんだし、下手なアプローチを散々してきたんだ。
わたしにはずっと慧人がいる。
三年間も一緒にいて、今、お互い知らないことはなくなった。
溶けるように、合わさるように、混ざるように、その夜は長かった。何度も何度も求め合って、お互いを確かめ合った。まるで初めての時のように――。
◇
おじさんコートはハンガーにかけたままになった。
わたしは慧人と一緒に黒いダウンジャケットを着て、ニットの帽子を被った。慧人は「頭が小さいからよく似合うよ」と言った。「髪を伸ばしてみようかなと思うんだけど」と言うと少し黙って「どっちでもニコに変わりはないから」と言った。
わたしたちは手袋もせずに恋人繋ぎで何処でも歩いた。そして夜になると慧人がプレゼントしてくれた金木犀の香りのハンドクリームを塗り合った。
手と手はそれぞれ滑らかになって、すべるようにお互いの身体をなぞる。身体を重ねることが日課になって、ぼんやり、そういうのは良くないかもしれないと思いつつ、身体を預けた。
身も心も全部、というのは恋愛の極意だろう。
そこから『愛してる』という言葉が生まれるんだろう。わたしには難しい。まだお子様だからかもしれない。
時々、慧人の下で月丘のことを思い出した。
彼も今、有珠をこんな風に抱いてるんだろうかと思うと思考回路はぶっ飛んだ。すべて、滅茶苦茶になってもいいという気になって、有珠の長い髪が目の前を塞いでしまう。あの長い髪を、今頃、彼は――。
「ううっ」と嗚咽を抑えきれず呻くと、慧人が勘違いして「痛かった?」と訊いてくる。
「ううん、気持ちいいよ」と答えると彼はわたしの頭の形をなぞるように髪を撫でて、口付けをする。
「痛かったら言って。急ぐ必要はないんだから」と彼は言った。
けど、そうは思えなかった。
夜を重ねれば重ねるほど、彼の焦りを感じたし、彼は丁寧に隅々までわたしを愛したから。
心の焦りを隠すように、ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり、わたしを愛した。
◇
クリスマスがやって来て、慧人はわたしにシルバーリングをくれた。ペアのシルバーリング。
黒ずまないようにするにはいつも着けてる方がいいんだって、と彼は言った。
シルバーリングだったけど、それは白くて小さなツヤのある箱に入れられて、二つ並んでいた。まるで小さなクリスマスケーキのようなかわいらしさで、箱から出すのが惜しい気もしたけど、慧人はまるでその時のように、わたしの手を持ち上げて薬指にそれをはめた――けど、リングは空回りした。サイズが合わなかった。
「おかしいな。あ、でも詰めることはできるって言われたから」と指輪は小箱に戻された。そこには小さな紙袋と金色のリボン、白い小箱が残された。
わたしは慧人に新しいワイヤレスイヤホンを買った。慧人は「高かったんじゃないの?」と抱きついてきた。うれしかったのかと思うと、買ってよかったと思えた。
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