第13話 二度と戻れない
慧人から送られてくるマメなメッセージに、わたしは既読だけ付けて返事は一切しなかった。多分、別れるというのはそういう風にやって来るんだろうと思っていた。
学内ですれ違うこともあった。食堂で、図書館前で。チラチラこちらを見ながら、いつものグループと結局行ってしまう。
わたしと月丘といえば、人前で手を繋ぐなんて愚かしい友情を壊すようなことはしなかったし、月丘はあくまで月丘だった。
慧人のことにしてもわたしから話を持ち出さなければなにも言わなかった。そういうところが心地よかった。
いよいよ銀杏の葉も盛大に散り始めた頃、慧人は意を決したようにわたしたちの前に現れた。本上さんを伴って。なんのつもりだか全然わからなかった。
今朝、熱いメッセージを送ってきたのに、やはり気が変わったんだろうか? わたしが訝しんでいると、慧人が口を開こうとした。本上さんは慧人の斜め後ろに控えていた。
月丘が「僕は外そうか? こういうのは当人同士で話し合った方がこじれないのでは?」と言うと、慧人は「いや、立ち会ってほしい」とはっきりそう言った。
奇妙な風景だった。
本上さんは下を向いて、なにも言おうとしない。
「彼女には話を付けてある。もう、なんの関係もなしだ」
本上さんはいっそう下を向いた。
「彼女はそれじゃ納得しないんじゃない? 忘れられないふたりの思い出もいっぱいあるでしょう? 例えばふたりで部屋で過ごしたこと、恋愛映画を一緒に観たこと、ランチで小洒落たお店にふたりきりで行ったこと――忘れたくても忘れられるものじゃないよね?」
ベッドで⋯⋯は敢えて言わなかった。言わなくても明白だったから。
「バレちゃったから別れようじゃ納得いかないよね? わたしだってそうだよ。本上さんといた時間、放っておかれたのに都合よく戻ってくるなんて。『ずっとすきだった』なんて言われても、都合のいい思い出話くらいにしか思えないよ」
「思い出話じゃないよ。今だって心からニコだけを想ってるよ」
「心から、だなんて」
ははっとわたしは笑ってしまった。月丘が、行儀が良くないと一言いった。
「じゃあわたしのことは『心から』じゃなかったってことなの!? すきだって散々言ったじゃない。だからその気持ちに応えたかったのに、こんなのあんまりでしょ!」
本上さんは感情が爆発したように、一気に
「確かにわたしから『付き合ってほしい』って言ったし、『友達から』って答えに
「もういい! 痴話喧嘩はふたりでやってよ。行こう、月丘」
月丘はふたりを振り返り、様子を窺ったけど、なにもいいことはなさそうだった。なにひとついい方向にむかっていないように見えた。
「ニコ!」と呼ぶ声が聞こえた気がしたけど、走ってついてきたのは月丘だった。
「ニコ、いいのかい? これで彼とはもう縁が切れてしまうよ。したことは許せなくても愛してるんだろう?」
「愛って重くない?」
「ふたりが付き合った三年を思えば、重すぎることはないと思うんだが」
「愛してるなんて、どっちも言ったことがないよ」
「ニコ、それは心の中にあるもので、言葉にしないと伝わらないものなんだよ。意地を張ってないで彼のところに行くんだ。取り返しがつかなくなる前に」
「月丘は、月丘はそれでいいの? ――バカ!」
わたしは五十メートル走のようにひたすら走った。足はそれほど速い方じゃなかった。みんなよりリードできるとしたら、身体が細い分、空気抵抗が少ないことくらいだ。
膝に手をついて肩で息をする。ふたりはまだ言い争っていたところだった。
「ニコ!」
感動的だったかもしれない。ほかの人から見たら。でもわたしにはそのバカげた行動も、慧人を取り戻すには必要に思えた――。
わたしは爪先で地面を蹴って、慧人の首に手を回した!
「慧ちゃんとやり直したい。きちんと、向き合って」
「ニコ? 許してくれるの?」
「許さない、絶対に、忘れない。でもこれで慧ちゃんが、わたしを一番だって思ってくれるならそれでいい」
「あの男は?」
「月丘? 月丘は――」
考えなしだった。ここに月丘の居場所はなかった。
心の中にぽっかり穴が開いた。流れ星が瞬く間に消えていくように、月丘が消えてしまったような気がして不安になる。
月丘は多分、戻ってくれない気がした。
わたしは捨てられた気になった。
◇
慧人とわたしの甘い生活が始まったかというとそうでもなかった。お互いに、遠慮があった。一緒にこたつでコーヒーを飲んでも、会話が続かない。
「あのコート、そろそろ新しいの買ったら? クリスマスに買ってあげようか?」
おじさんコート。
隣にあるのは慧人の黒いダウンジャケットだった。軽くて暖かいそのコートの着心地をわたしは知ったけれど、月丘の、黒いロングコートが忘れられなかった。ブルーグレーのマフラーも。
「なに突っ伏してるの?」
「うーん、コートっていろいろあるなぁと思って」
「今度、似合うヤツ見に行こう」
慧人だけが乗り気であることに、彼は一向に気づく様子がなかった。わたしはそんな風にひとりで突っ走る彼に慣れているはずだったのに、「自分勝手なんだから」と憤慨した。言葉には出さなかったけれど。
月丘とはどの講義でも一緒になったけれど、席を共にすることはなくなった。たまに移動は一緒にした。たわいもない世間話をしながら。ちっとも楽しくなかった。
その凛とした横顔は以前の月丘とどこも変わったところがなかったのに、わたしには彼がまるで別人のように思えた。わたしと彼の間は、壁一枚で隔てられていた。見えない壁。触れられない壁。壊すことができない。
そのうち女の子たちはわたしたちが『別れた』と噂をするようになった。
「モテモテだね、月丘」
「今でもニコに一途なのに?」
「⋯⋯そんなお世辞、もういいよ。あの時、『行け』って言ったのは月丘じゃない」
「僕は提案しただけだよ」
彼はコートの裾が地面につくのも構わずに跪くと、一番綺麗な黄金色の銀杏の葉を一枚拾った。なにかの宗教画を思わせる風景だった。
すっと立ち上がると「あげよう。変わらない愛の証に」と冗談なのかわからない台詞を言って、自分の部屋の方向に帰っていった。
たかが枯葉一枚――。
捨てられない。フランス語の辞典の頁にスッと差し込んだ。
枯葉が木に戻れないように、わたしたちのいい時間は過ぎてしまった。過ぎ去った過去は綺麗すぎた。月丘と過ごした時間を思い返せば思い返すほど、取り返しのつかない⋯⋯そんなことを思ってもどうしようもないのに。
本当に?
本当にもうどうしようもないの?
◇
慧人は有言実行でコートを見に、ことあるごとにわたしをショッピングに誘った。
どのモールもクリスマスシーズン到来でイルミネーションがキラキラ光っている。金や銀、赤や緑。すべてがまだ拭き取られていない窓ガラスのように、どんよりしたわたしたちには似合わない色だった。
「まぁ基本はウルトラライトダウンだけど、ダウンは苦手なんだろう? 一度、着てみる?」
「⋯⋯うん」
袖を気乗りしないまま通してみると、スルッと化繊に袖が通る。
「やっぱりニコは何着ても似合うよな」
「そうなの?」
「知らなかったの?」
そう言えば月丘がそんなことを言っていたような気がする。背が高くてスラッとしてると言えば聞こえのいい、凹凸のない身体。
「これにしようかな?」
「ほんとに? 色はどうする?」
「なんでも⋯⋯ううん、黒がいいかな」
「お揃いじゃん」
慧人はうれしそうに、約束通り、そのコートを買ってくれた。焦げ茶にしようかと思った。でも一瞬、黒いロングコートが目の前をチラついて、自分もその一部になりたいと思ってしまったんだ。
病気。
心の病。
雨の日は特に憂鬱。ウールのコートは雨粒を弾く。
グレンチェックのブルーグレーの傘。マフラーとお揃い。傘まで撥水。
はぁ、吐いた息は窓を曇らせる。彼の姿が手で拭いたところから見える。相変わらず背筋がピンとしている。でも
わたしは思い切って、彼が教室に入ろうとした瞬間に声をかけようと決める。その時を待つ。
と、ウェーブのかかった長い黒髪の女の子が走ってきた。
「おはよう」
「元気だな、
「だって月丘くんの彼女一日目の一番最初の挨拶だもの」
――ああ、そういうことってあるよなぁ。ダウンジャケットのポケットに両手を入れる。過ぎ去った時間が、すれ違いを生み出して、わたしたちは二度と戻れない時間軸の住人になった。
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