第6話 友だち、やめない?

 ほら、ニコ、寄り添ってしまえばいいんじゃないの?

 その時、こたつの中でふたりの足がちょっとだけ触れた。いつもは当たっても気にせず、ふたりとも楽にしているのに今日は違った。慧斗はちんまりと座り直した。

 わたしはなんだか気まずくて、ほんの数センチ、足をずらせた。そして自由に動かなくなったふたりの足は永遠に触れ合わなかった。交わったあと、永遠に交わることのない二本の直線のように。


「そっか、だよね。だから毎日、わたしの顔、ゆっくり見たりできないよね。彼女の部屋で少しゆったり遊んで、放課後わたしと会って、また彼女に会ってたんだ。忙しいね」

「悪かったと思ってるよ。これからは一緒にランチにも行くし、夜中まで彼女とDVD観たりしないって約束するし、なんならニコの部屋に泊まるよ。だから許してくれよ」

「わたしなんかと別れればいいじゃない? そんなにしがみつく価値なんかないよ。ペタンコだし目も一重だし、あの子の方がずっと華やかで……華やかだから」

 しがみつく前にカップがガタンと穏便ではない音を立てて揺れて、離れた距離から慧斗はわたしを抱きしめた。


「そういうの、気にしてるの?」

「すごくね」

「知らなかった。三年も付き合ってるのに、コンプレックス感じてるなんて」

 よく知った腕の中にすっぽり入って、ああ、やっぱり慧斗は男の子なんだなと思う。わたしと身長はあまり変わらないのにたくましい。腕の力もずいぶん違う……。月丘とは全然、違う。

 強く、唇が押し付けられて、苦しくて背中にしがみつく。ああ、どんな言い訳したってあの子ともしたよね、こういうの。バカにしないでほしい。力ずくで心が軌道修正されるとでも?

「⋯⋯慧ちゃん、考えさせて。すぐに答えが出なさそうなの」

 一瞬、目が合ってそのままにしておくと流されてまたキスしてしまいそうなところをすっと避ける。けど、それは彼から見たらあからさまだっただろう。

 とにかく今はとてもそんな気持ちになれなかった。

「わかったよ。気持ちが決まったら連絡して」


 ◇


 嫌いになれたらいいのに。

 行儀よく道の両脇に吹き付けられた落ち葉をブーツで蹴飛ばす。今日もツイードのコートは健在で、わたしの心ごと包んでくれている。

「荒れてるんだね。おはよう、ニコ。今朝は寝坊した?」

「なんで?」

「後から講義室に入ってきて、離れた席に座ったから」

 わたしは足先で落ち葉をガサガサ鳴らした。なにも言うことのできない自分が腹立たしかった。でもこういう時に月丘に頼ってしまったら、それはフェアではないんじゃないかと感じていた。


「……あのさ」

「うん」

「友だち、やめない?」

 月丘はすぐには答えなかった。わたしの言葉をよく反芻して、その真意を吟味しているんだろう。しばらく黙り込んでいた。

「ニコにとってそれが答えなら」

 ズキッとしたのは何故なんだろう? 月丘しか友だちがいないからだろうか? それとも――それとも月丘は絶対、認めないと信じていたからかもしれない。

 ここ数日、雨が降らないせいで空気が乾燥している。なにか言葉を返さなくてはならないのに、唇が乾いて上手く動かない。あ、という声さえ出せずに、わたしは俯いた。

「僕はニコが今まで通りでいてほしい。それ以上だって許してくれるならそばにいてほしい。でもニコがそれで不都合があると言うなら、僕は引くよ。忘れないで、好きだから引くんだよ」


 ぶわっと心の奥底から悲しさが噴水のように湧いた。その液体は心の中をひたひたと浸し、体の芯からわたしを凍えさせた。

 わたしも、と言うだけなら簡単だ。たった四文字の言葉だ。だけどその言葉は決してなにも考えずに口に出すことはできない。様々な小さなことを整理しては振り分けて、それで正しい答えを見つけないとなにも言うことなんてできないんだ。

「好き」じゃなきゃダメなの? ふたりでいる時の空気が好きだというのは理由にならない? わたしも、月丘の言う「好き」に追いつかなきゃいけないんだろうか?

「そんなに困ることないよ。僕はニコをすぐに嫌いになんてならないし、ニコはニコの心の答えに従えばいいんじゃないかな。ほら」

 木の葉がドラマティックに舞い降りたりしなかった。降るべき木の葉はすべて落ち尽くしていた。だから、なにもわたしたちを隠すものはなかった。裸になった木立だけが静かに立っていた。


 講義を終えて学部棟から出てくる学生たちを気にせず、月丘はわたしの後ろ頭に大きな手をやって自分の胸にそれを押し付けた。

 よく知った香り。

 こんな風に、恋人同士みたいに抱き合ったのは初めてだった。わたしもそろそろとその背中に手を回した。

 人前だ。噂になる。

 でも今日だけ。これが最後だから、神様にも目をつむっていてほしい。黒いコートに隠されてしまいたい。どこにも行きたくないと思ったら、それは罪だろうか? 彼に対する不貞になるのか?


 ◇


 慧斗の講義が終わるのを講義室の入口で待っていた。知らない学部棟にいると緊張する。同じ大学の中でも見知らぬ他人のような場所だ。

 学部棟全体に暖房は入っているようだったけど、さすがに廊下の足元は冷えた。すっと、寒気が走り抜ける。

 ざわっと人の動きがあって、わたしはドアの横の壁に避ける。くしゅん、とくしゃみが出て嫌だなぁという気持ちになる。背中からリュックを外してティッシュを探す。ごそごそと探すカバンの中はカオスで、わたしってズボラだよなと反省する。なにしろ今まで甘やかされて生きていたので、くしゅんと言えば隣からすっとティッシュが出てくる生活を半年以上も続けてしまっていた。


「ニコ、待たせた? レポート提出の列がなかなか進まなくてさ」

「だいじょ……」

 言いかけてまたくしゃみが出た。

 慧斗が気にして一度出た講義室の中にわたしを引っ張る。

「寒かったよな。考えなしでごめん」

「大丈夫だよ」と言ったわたしの手には白いティッシュペーパーが握られていた。

 ちら、と慧斗の目が動くのにつられてわたしも自然にそちらを目で追う。

 彼女だ。何度も見たから間違いはない。

 薄いグレーのノーカラーコートを着て色鮮やかなサーモンピンクのストールを手に提げて彼女は慧斗に目をとめた。つまり、ふたりの視線が合った。どうしてそんなどうしようもないことばかり、気がつくんだろう。

 一瞬、ふたりは目で会話して、彼女は小さく手を振ってレポートを出して部屋を出ていった。


 沈黙。

 なにを喋ったらいいのかわからない。

 考えてみれば、付き合い始めてからここまでライバルというものはいなかった。

 慧斗がモテなかったというわけでもないと思う。背はそれほど高くはなかったけど、元バスケ部だし、快活だし、男友達も多いし、彼を好ましく思ったのはわたしだけではなかったはずだ。でも、そんなことを考えたことはなかった。

 きっとそれは、彼がわたしだけを見ていてくれたからだ。遠目に見て誰にでもわかるくらい、近くにいてくれたからだ。

「どう、落ち着いた?」

「うん、寒かっただけだよ」

「今度はもう少し暖かいところで待ち合わせしよう」

 行こう、と先に席を立った慧斗は手を出した。わたしは引っ張りあげられる。ああ、これは今までなら月丘がしてくれてたことだ。だから、そんなこと思い出したらまずいよ。


 どこまでも天井のない青い空が頭の上を覆っていた。そんな無防備なわたしたちは、三年も付き合ってぎこちなく手を繋いだ。わたしが毛嫌いしていた慧斗の黒いダウンコートのポケットの中は柔らかくて、思っていたよりずっと温かかった。

 彼女ともこんな風に手を繋いだんだろうか?

 わたしにはなかった。いつもしっかり手袋をしているから冬は手を繋がないのかと思っていた。でも冬だからこそ、繋ぎ合った手は素手でもお互いを温めることができるのだ。

 わたしの思っていたのとは、全然、現実って違うんだなぁとそう思った。

 ◇


「ニコはなにが好き?」

「え、それって冗談?」

「いや、そうじゃなくてどの店が好きなのかなと思って。こんな風にデートみたいなランチって初めてじゃない?」

 頭の中がこんがらがる。

 確かに学外でランチというのはほとんどなくて、高校生の時から例えば駅前のサイゼリヤとかマックとか、そんなところで手近に済ませてしまっていた。

 どこなのか答えなくちゃいけないと思って焦る。ああそう、いつも月丘がわたしのその時の気持ちに合うように上手に選んでくれて、わたしはついて行くだけだった。月丘の店の選び方は素晴らしくて、わたしをがっかりさせることなまずなかった。たまにオシャレすぎて困ることはあったけれど。


「カジュアルイタリアンの店に行く? スパゲッティは好きだっけ?」

「食べるよ」

「じゃあそこに行こうか。ピザも美味しいよ」

 手を繋いでいるんだから寄り添ってしまえばいい。今のところ少なくても彼はわたしだけのものだ。誰に遠慮もいらない、三年も付き合ってるんだもの。

 キィッと木でできた扉が慧人に押されて開く。ガラス張りの店内は女の子ばかりだった。ガッカリした。食べる前から食欲が落ちていく……。

「彼女とも来たんだね」

「……ああ」

 今さら隠しても、という空気が流れた。彼女のことはもう、お互いに既知のこととして認識されていた。

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