第3話 自己紹介
弘明寺(ぐみょうじ)駅は、関内から市営地下鉄に乗って約十分。自宅から会社まで、ドアTOドアで三十分が理想と考えた私が選んだ駅だ。
最初私は、こうみょうじと駅名を間違えて読んでいた。駅に降り立った時に、駅名が書かれた看板のアルファベットを見て正しい読みに気が付いた。
弘明寺駅は、昔ながらの商店街があり人情味あふれた雰囲気の街並が広がっている。大岡川という川もあり、その川沿いには桜の木が植えられ春になったらとても綺麗で、私の大好きな場所だ。
駅に降り立った私たち二人は、そのまま真っすぐに自宅に向かった。雨はずっと降り続いていて、足元を濡らしている。
時間は二十二時を過ぎた辺りだった。今日はまだ木曜日で明日も仕事。いつもなら、家に帰ってお風呂に入ってご飯を食べて寝る。そんな普通の毎日のはずだった。
見知らぬ男の子を拾って帰って来るなんて、私の人生では予定していない出来事だ。
隣を歩く彼は、弘明寺駅からの道も傘を差してくれている。まだ名前も聞いていない。もしかしたら、私の名前はさっき社員証を見せたからわかっているかも……。
電車に乗っている最中も、特に話すことはせずドアの近くに立って見慣れている景色をぼんやりと見ていた。
聞きたいことは沢山あるのだけれど、周りの人たちを気にして訊ねることができなかった。家に帰ってから、人心地付いた頃に色々聞いてみよう、そう景色を見ながら考えていた。
黙々と歩いていた私たちだったが、前方に私が住んでいるマンションが見えてきた。二階建てのマンションで、十世帯の規模でそんなに大きな建物ではない。
外観は白で、築年数は八年。それほど古い建物でもなく、中も綺麗に使われていて私は結構気に入っている。
「ここの二階の角部屋なんだ」
彼がマンションを見上げた。表情からは、どんな印象を持ってくれたのかはわからなかったけれど悪くはなさそうだ。
マンションの中に続くアーケードを通って、内部に入って行く。ガラスでできた扉開きの重いドアを開けて中に入ると、住居者のポストが目に入る。
一度、自分のポストを開けて何も入ってないことを確認して二階へ続く階段を上る。エレベーターもあるのだが、見た感じ一階にいなかったので降りて来るのを待つくらいなら階段で上がってしまった方が早い。
私の部屋は、二〇五号室。先ほども言ったけれど角部屋だ。何度か引っ越しをしているのだが、今度は絶対に角部屋がいいとずっと探していた。
玄関の前に着くと、私は自分の鞄から鍵を出して鍵穴に差す。いつも通り鍵を回した所で自分の部屋の状態を思う。
変な物とか出してないよね……。ってか、そもそも大人の女性の部屋とは言い難い部屋だけどいいかしら……。
「あのね、余り期待しないでね……。漫画とか本とか山積みな部屋だから……」
「あっ、はい」
彼がちょっと挙動不審になっている。もしかした、緊張しているのかも……。それはそうか……、いくら怪しくないって説明してもさっきが初対面な訳だし。
ドアを開けると、馴染みのある自分の部屋の玄関だった。単身者用の1LDKなので玄関は狭い。私が先に入ってちょっと待っていて貰った。
カバンをリビングに置くと、脱衣所に行ってタオル持って来る。いつもお風呂は、朝掃除をして帰って来るころには入れるように予約をしている。
だからもう、いつでも入れるようになっている。
「お待たせ。はい、タオル。お風呂沸いてるからそのままお風呂に直行ね」
「えっ? でも……」
彼は、戸惑いの表情を浮かべる。いきなりお風呂って言われてもびっくりするだろうが、びしょびしょなのだ、そのまま上がられても困る。
「だって君、びしょびしょなんだもん。お願い、お風呂入っちゃって」
私は、手を合わせてお願いする。それを見た彼は、自分を見て諦めてお風呂に入ることに決めた。大人しくタオルを受け取る。
「ギター拭いといてあげるから頂戴」
「すみません」
彼は、もう拒否するのを諦めたのか私の言うことに素直に従う。玄関で、びしょびしょになった靴下を脱いで上がって来た。私は、お風呂に案内して扉を閉める。
「ちょっと近くのコンビニに行って来るからゆっくり入ってね。しっかり温まるんだよ。あと、洗濯物は洗濯機に入れといて。乾燥もできるから明日の朝には乾いてるよ」
「はい」
ドア越しでも、私の声はちゃんと聞こえたみたいで返事が返って来る。よし大丈夫そうだなと確信した私は、ギターを拭いてリビングに置くと財布だけ持ってもう一度外に出た。
歩いて三分の場所にあるコンビニに行って、今日の夕飯と彼の下着やTシャツを買う。コンビニって本当に何でもあるから便利。
急いで戻ったので、まだお風呂からシャワーの音が聞こえた。自分の部屋からメンズの短パンを出して来て、さっき買った下着とTシャツを脱衣所に置く。
部屋着に大きめサイズを使う、私のこだわりが役に立って良かった。短パン、メンズサイズのMだけど多分彼なら大丈夫だろう。
「着替え、コンビニで買って来たから使ってねー」
蛇口をキュッと捻る音が聞こえて、シャワーの音が止まる。
「ありがとうございます」
ちゃんと返事が返ってくる。よし、大丈夫。彼だけラフな格好で、私がスーツだと違和感があるから着替えようと自分の部屋に向かった。
バタバタしていたからあまり気にしなったけど、私自身も結構濡れている。彼が、気を遣って私が濡れないように傘を差してくれていたけど、それでも二人で入っていれば濡れてしまう。
部屋着に着替えてリビングのソファーに座る。やっとちょっとホッとする。
そこで、この状態を改めて考える。私、あの子のことどうするつもりなんだろう……。何であそこにいたのか、訳を聞かないことには始まらないけれど……。
自分らしくないことをしているな自覚は多いにある。んー、どうしよ?
ガチャッ
彼がお風呂から上がったようで、リビングの扉を開けて入って来た。白Tシャツも短パンも問題なさそうだ。
「あのっ、着替えとか色々ありがとうございます」
律儀に、ちゃんと頭を下げている。会ってからここまで、ずっと謝罪とお礼の繰り返しだ。
「良かった。こっち来て座って。疲れたでしょ?」
私は、自分が座っていた三人掛けのソファーの隣を指さす。彼は言われた通りに、一人分の間を開けて隣に座った。
私は、さっき買ってきたコンビニの袋からペットボトルのお茶を取り出して彼の前に置いてあげた。
「どーぞ、飲んで。あっ、その前に名前教えて貰っていい?」
「すみません。名前も名乗っていませんでした。政本 幸知(まさもと ゆきと)っていいます」
「私の名前は、藤堂咲(とうどうさき)だよ。ふじに食堂とかのどう。さきは、花が咲くのさきだよ」
「さっき、社員証でちらっと見ました。俺は、政治のせいに本。幸福のこうに知識のちです」
「へー幸福のこうに知識のち。しあわせをしるって書くのか。めっちゃ格好良い名前だね」
「はぁー恰好よくなんかないですよ……。大げさ好きて恥ずかしい……」
幸知は、頭を抱えて俯いてしまう。恥ずかしいか? めちゃくちゃ恰好いいが。でも、だから遠回りするような漢字の教え方なんだ。笑っちゃいけないけど、笑っちゃう。
「ふふふ」
「ほらっ、やっぱり笑ってる」
幸知がちょっと怒っている。さっきよりも少し緊張が解けてきたのか良い傾向だ。
「違うよ。名前に笑ったんじゃなくて、隠そうとする幸知くんが面白かったんだよ。良い名前じゃん。人生をかけて幸せを知って欲しいってご両親の想いだね。かっこよ」
「そんなんじゃないですよ……」
恥ずかしいのか、ちょっと照れている。
「それより、どれくらいあそこにいたの? お腹空いたでしょ? ご飯にしよ。もう今日は作る気がなくてコンビニでごめんね」
私は、ガサゴソと袋から買って来たお惣菜やらおにぎりを出す。
「多分、五時間くらいです……」
幸知がボソッと口にする。
「五時間? 全く、何がどうしてそうなったの?」
私は、何を食べようかなと思いながらテーブルに出した物を見ながら訊ねる。
「話すと長くなるんですが……。すみません、遠慮なく頂きます」
幸知は、目の前に置いてあげたペットボトルに手を伸ばした。蓋を開けてゴクゴクと勢いよく飲んでいる。そうとう喉が渇いていたらしい。
そして、静かに話し出した。
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