第137話

 エスティラはそっと書斎の扉を開け、廊下に出た。

 腕にはもちろん、スピアーノを抱えている。


 応接室には客人がいるはずなので、応接室には近づかず、誰にも会わずに一階に降りたい。


 エスティラは足音を立てないように静かに廊下を進み、階段を目指した。


『あ』


 階段を目の前にした時、スピアーノが声を上げだ。


「? どうし……あ」


 どうしたのか、と問い掛けようとした時、スピアーノが声を上げた理由が分かった。


 階段の踊り場に黒服に身を包んだ家令と思しき年嵩の人物が昇って来ようとしている最中だった。


 家令らしき人物はあまり家令らしくなくふくよかな身体付きで、テカテカと脂っぽい顔をしているのが特徴的だった。


 家令だと思った理由は身に纏う黒服の質が下級使用人のそれとは違ったからである。


 そんなぽっちゃりとした白髪交じりの家令はエスティラの抱えている緑色の生き物を見て目を丸くする。


 やっぱり手荷物として運ぶにはカメレオンは存在感が強過ぎた。

 時々チロっと出たり引っ込んだりする舌もなかなか強烈にカメレオンを主張している。


 当然、誰かと遭遇すれば誤魔化せないことは分かっていた。


「おいっ! それは旦那様の……一体どこへ行くつもりだ⁉」

 

 当然、こうなる展開は読めていた。

 当然、こうならない展開を祈っていた。


「ですよね!」


 そうなりますよね!


 そしてエスティラは反射的に身を翻し、駆け出した。


「はっ⁉ 待ちなさい!」


 家令が背後で大きな声を上げるが、エスティラは振り返らず走った。

 逃げなければ言い訳もできたかもしれないが、もう遅い。


「誰か来てくれ! 不審者だ!」


 ひぃっ!


 階段で家令が下の階に向かって叫ぶ声がし、エスティラは心の中で悲鳴を上げた。

 下の階がバタバタと騒々しくなり始めて、エスティラは青ざめる。


 とにかく、どこかに隠れないと!


 エスティラはスピアーノを抱えて廊下を走る。

 バタバタバタと物凄い速度でエスティラの後を追い掛ける足音がしてエスティラは恐怖した。


 まさかと思うけど、家令じゃないわよね⁉


 あの重たそうな身体で絶対にあり得ないと思いながらも、下の階から上がって来た応援がエスティラに追いつけるとは思わない。


 背後に迫る追手にエスティラは恐怖しながらも必死に廊下を爆走した。


 とにかく、逃げないと! どこか部屋! 部屋!!


 エスティラは廊下の角を曲がった先にある部屋の扉を開け、飛び込んだ。


『エスティラ、急げ!』


 エスティラは急いで扉を閉めようとしたが遅かった。

 扉を引いて閉めようとするのに、扉が何かに引っ掛かって閉まらないのだ。


 気付くと扉と壁の間に誰かの足が挟まっていて、外から誰かが扉をこじ開けようとしていたのが分かった。


 エスティラは思いっきりノブを内側に引っ張ると僅かに扉が動き、隙間が小さくなったが、それは一瞬だった。


 挟まった足がどんどんと内側に侵入し、扉の脇に手が掛けられ、エスティラは完全に力負けし、侵入を許してしまう。


 これでは捕まる!


 エスティラは最終手段を使うためにスピアーノをぎゅっと抱え直し、窓に向かって駆け出そうとした時、後ろから伸びてきた腕に身体を絡めとられてしまう。

 そしてそのまま口を塞がれ、強い力で身体を抑え込まれた。


「んぐっ」


 身動ぎしようとするが、後ろから強く抱き締められるように捕まってしまい、エスティラは抵抗ができない。


「しっ。静かに」


 耳元で囁くような声が聞え、エスティラは硬直した。

 その声が聞き馴染んだ人物のものだったからだ。


 嘘でしょ……。


 そんな訳ない。


 エスティラは自分の考えを否定する。

 しかし、その声に覚えがあり過ぎる。


 目を大きく瞬かせていると、部屋の外をバタバタと駆ける複数の足音がして、エスティラは咄嗟に息を止めた。


 足音が通り過ぎ、部屋の前から人の気配がなくなると、止めていた呼吸を再開する。



 エスティラの口を塞いでいた手が離れ、自分を拘束していた腕から解放されると、エスティラはゆっくり振り向いた。


「あんた……どうしてここにいるのよ」


 エスティラが小さく睨むと相手も同じようにエスティラを睨んでいた。


「こっちの台詞だ」


 男は苛立ったように少し癖のある茶髪を掻き上げる。

 細身ではあるが鍛錬を重ねて作られた身体は意外に逞しく、そこにはもう少年らしさはない。

 はぁっと深い溜息と共に、癖のある茶色い前髪の間から覗く薄い黄色の瞳が迷惑そうに細められる。


「何でこんなところにいるんだよ、姉様」



 エスティラを助けてくれたのは弟のウォレストだったのだ。





 

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