プロローグ②

**


 なにがあっても「よろず相談課」になんて自分が異動になることはない。なんならあと二年はここにいる。


 ……なんて。あるかもしれない未来を度外視して、笑っていた天罰かなにかなのだろうか、これ。

 異動者名簿の一ページを見つめたまま、あたしの思考は完全に停止していた。「マジで?」「マジだよ」「マジでよろ相だよ」という声が五月雨のように落ちてくるものの、反応ひとつままならない。


 神様、仏様、天国のおばあちゃん。

 あたし、そんなになにか悪いことしましたでしょうか。よく知りもしない部署のことを「まさかぁ」などと言い放った報いでしょうか。


 終業時間の十七時半を過ぎているものの、辞令発表の本日は、ほとんど全員が課内に残っている。

 うちの課のみならず一階全体が騒めいているわけだけど、お隣の福祉課は予想外に異動人員が多かったらしくて、阿鼻叫喚のご様子だ。あたしの心も阿鼻叫喚だけど。


「三崎ちゃん、三崎ちゃん」


 優しい声で肩を叩かれ、はっと我に返る。顔を上げた先には、声同様の優しい笑顔があった。


「あ、有海さん……!」


 新卒で配属されたときからずっと、優しく指導してくれた大好きな主任さん。


「三崎ちゃんがいなくなったら寂しくなっちゃうけど、がんばってね」


 聖母マリアさまもかくやとばかりの笑顔で、有海さんはあたしの手をぎゅっと握った。通常の五割増しのほほえみも、今は不安を煽る材料にしかならない。

 なに。なに、なんなの。有海さんがそんな顔しちゃうほどの墓場なの。あの噂って、やっぱりマジもんなの。


「あ、あの、あの、よろず相談課っていったい」

「謎よ」


 鈴木さんがいやに重々しく断言する。


「あそこに異動する人ってほとんどいなくて、だから、なにをしているかもいまひとつ謎で。まぁ、旧館に取り残されている唯一の部だし、あそこの部署、よろ相以外になにもないし、ほかの課とも連携取ってないし、逆に言えば連携を取るような事案もないしで、本当に謎の部署なの」

「謎」

「そう、謎。でもね、三崎ちゃん。きっと良い経験になるわよ。たぶん、二年かそのくらいでまた本館に戻ってこれるから」

「あそこって、一回追いやられたら辞めるまで異動はないってもっぱらの噂ですけどね」

「こら、鈴木さん。そんなこと言わないの」


 顔面蒼白のあたしが気の毒になったのか、有海さんは鈴木さんを窘めた。そうしてから、例の笑顔であたしに言い聞かす。


「よろず相談課っていう名称は、どんな相談でも受け付けるっていう意味だって聞いたことはあるわよ」

「どんな相談でも」


 それって、いわゆる理不尽すぎるクレームってやつじゃ。思い浮かんだ言葉にぞわわと悪寒が走る。なにそれ、怖い。だが、有海さんは笑顔のままだ。


「そう。どんな相談でも。たとえば、市民の方から電話を受けても、どこに回せばいいかわからない相談事ってあるでしょう? そういった課の枠に収まりきらない……そのまま零れ落ちていきかねない相談を一身に引き受ける課がよろず相談課なの。これって、すごく市民の方のためになる部署だと思わない?」

「は、はぁ……」


 有海さんのお言葉はまったくもって正論であったものの、上滑りしている気がしてならない。だって、墓場だ。夢守市役所の墓場ともっぱらの評判の姥捨て山だ。


 ――あたし、そんなに、使えないって思われるようなこと、しでかしたかなぁ。


 この三年間を内省するあたしの傍らで、鈴木さんと玉原さんが恐ろしい噂話を繰り広げている。


「唯一、よく姿を見るよろ相の職員があのもじゃおくんだっていうのも問題だと思うんだよね。だって、あの子、いつもぼさぼさ頭につなぎの作業着だし。水道課でも建築課でもないのに、その服装なんなの? みたいな」

「逆に考えると、そういう肉体労働ばかりなのかも。どこの課にも収まりきらない厄介ごとって、かなりのクレーム案件だろうし。山狩りでもしてたりして」

「さすがに猪とかサルを追いかけるのは農林課の仕事でしょ」

「誰もそこまで言ってないって」


 よろず相談課の実態を知らないので、笑うに笑えない。完全に他人事としておもしろがっているおふたりの話に、あたしはワンテンポ遅れて「ん?」と首を傾げた。


「もじゃおくん?」


 その呟きに、鈴木さんが目を見開く。


「あれ、三崎ちゃん、知らないの? もじゃおくんのこと」

「何回かそのお名前を聞いたことはあるんですが、あまりはっきりとは。飲み会とかでもお会いしたこともないような」

「ないない、あるわけない。もじゃおくん、飲み会に顔なんて絶対に出さないから」


 ばっさりと切り捨てて鈴木さんが笑う。すごい名前だなと思ったが、聞き覚えはあった。たしか、「旧館のもじゃおさん」だったかな。同期の子が言っていたのは。

 あたしたちが入所するより少し前に夢守市役所は改築されていて、現状ほとんどの業務は新館で行われている。けれど、その大移動のときに本館に移築されなかった課があるのだ。

 旧館に取り残された唯一の課、「よろず相談課」。

 そこの職員のひとりが「もじゃおさん」であるらしい。ちょっと変わった気難しい人だという話を飲み会の場で聞いたことがある。

 とは言っても、直接お会いしたことはないのだけれど。


「あのね、もじゃおくん……本名なんだったかな。も……なんとかくんだったんだけど。森田くん、違うな」

「しずちゃーん、きみ、もじゃおくんの同期じゃなかったっけ。あの子の名前、なんて言うの?」

「最上です。それとそこまで悪いやつじゃないですよ」


 隣の島でひとり、真面目に事務案件を処理していた静山さんが苦笑いで振り返る。


「まぁ、ちょっと変なやつではありますけど」


 静山さんはあたしの二期上の先輩だ。その静山さんと同期ということは、見たことがあってもおかしくはないはずなんだけど、……まぁ、でも、部署が離れていて仕事でのかかわりがなかったらそんなものか。

 若手の飲み会にもあまり顔を出されないというのなら、なおさら。


 ――でも、最上さん。最上さん、か。


 うーんと三度うなってあたしは考える。あたしの二期上ということは、同じ高卒枠での採用だったら二才違いだろうけれど、市役所は大卒採用の人が圧倒的に多いのだ。

 おまけに、社会人経験を経て転職したという人や、何年も落ちてやっと公務員になったという人もいるので、同期と言っても年齢層には幅がある。だから、そこまで年が近くない可能性もあるのだけれど。

 そこまで考えて、あたしは「あ!」と短く叫んだ。みんなの視線があたしに集中する。


「あの、最上って、まさか」

「ん?」

「最上、真晴さんですか。あの、北高の」

「あぁ、そういや、あいつ北高だって言ってたかも。うん、そうだ。たしか、真晴だよ、下の名前。あれ、そういえば三崎ちゃんも北高だっけ。ということは、あいつのこと知ってた?」

「いや……」


 知ってはいたけど、旧館のもじゃおさんは知らないというか、なんというか。

 興味津々の鈴木さんの視線を交わし、静山さんにへらりと笑いかける。鈴木さんはいい人だけれど、ちょっと口が軽いのだ。


「名前だけは。高校の、二個上の先輩なので」


 あたしの脳裏に青春のきらめきが翻って、消えた。もじゃおくん。

 あたしの記憶違いでなければ、最上真晴先輩は、あたしたち下級生女子の王子様的存在だったはずなのだけれど。


 もじゃおくん。もう一度、そのあだなを胸中で繰り返し、うーんと三度心のなかで唸る。

 まぁ、人生、なにがどうなるかわかったもんじゃないもんな。

 あたしだって、まさかよろ相に飛ばされるとは、昨日まで、というか、小一時間前まで想像すらしていなかったわけだし。


 ――でも、最上先輩がいるのは、ほんのちょっとうれしいかもしれないな。


「あら、三崎ちゃん。ちょっと元気が出た?」

「はい、みなさんのおかげです!」


 現金すぎてとても口にはできないものの、一筋の光明が見えた気分だ。

 それに、墓場だなんていうのも口さがない噂で、実際には有海さんが言ってくださったような素晴らしい課なのかもしれないし。市民の方のために日々を尽くしているような。

 とにもかくにも、あたしはそう自分に言い聞かせた。噂だけで物事を判断するのはどうかと思うし、自分の目で見なければ実態はわからない。もしかしたら本当に素晴らしいところなのかもしれないではないか。


 ――いつも笑顔で真摯にがんばるんだよ。そうしたら、誰かがきっとわかってくれる。


 大好きなおばあちゃんの言葉は、あたしを奮い立たせるおまじないだ。

 わかってる。わかってるよ、おばあちゃん。

 あたし、この町のためにがんばるからね。

 おばあちゃん手作りのお守り袋はあたしの一番の宝物だ。首から提げているそれをぎゅっと握りしめ、あたしは決意を新たにした。

 三崎はな、異動先でも精いっぱいやらせていただきます!

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