⑲「エドワード(下)」
◆
捕らえられたイザベラは、両手を拘束されたまま王城の地下へと運ばれていった。
この時点でイザベラは強い違和感を覚える。
身分が高いからと言って、どんなことでもしていいわけでは当然ない。
罪を犯せば捕らえられ裁かれる。
しかし捕らえられると言っても、いきなり牢獄に叩き込まれるわけではない。
北の塔と呼ばれる場所へ移されるのだ。
そこに罪が確定するまで閉じ込められる。
罪人が牢獄に行くか断頭台の露と消えるかは、犯した罪の重さによる。
つまり公爵令嬢であるイザベラは普通なら北の塔に送られるはずだった。
しかし現実はそうなってはいない。
──わたくしはどこへ連れていかれるの?
イザベラは自分がどこへ連れて行かれるのか確かめたかったが、それを確かめる勇気が出なかった。
・
・
・
王城地下回廊。空気は湿気ており、重苦しい。
イザベラはまるで目に見えない何かに両肩を押されているような気がしていた。
ともすれば膝が挫け、座り込んでしまいそうだった。
一歩、また一歩と進むたびに、もう二度と帰れないどこかへと向かっているような気がする。
これ以上進みたくないと思い踵を返そうとしても、護送の兵士たちがイザベラを引きずるように無理やり前へと進ませるため、立ち止まることすらできない。
──昏いわ
石張りの通路は最低限の灯りはあるが、それが余計に闇を濃くしているような気がする。
兵士たちはイザベラが普通に歩いている分には何もしてこないが、少しでも足が鈍ると乱暴な所作で彼女に歩き続けることを強いる。
生来気の強いイザベラではあるが、兵士たちの暴の気配に委縮してしまった様で文句の一つも言うことができない。
そうしてしばらく歩き、やがてイザベラは錆だらけの鉄扉の前へと連れてこられた。
途端、イザベラは総毛立つ。
死神がその冷たく白い手を伸ばし、彼女の背骨を握りこんで撫で擦っている様だった。
この先に行くくらいだったら断頭台の穴に首を納めた方がよほどマシに思える──それほどの強い忌避感。
鉄扉はひたすら禍々しい。
扉の向こうにこの世界のあらゆる厄が押し込められ、収めきれない厄が錆の形をとって表面に浮き出している様にも見える。
「嫌! この先にはいきたくない! 絶対入りたくない!」
イザベラは暴れ出すが、兵士に頬を殴られて部屋に放り込まれてしまった。
◆
「痛ッ……」
乱暴に放り投げられたイザベラは苦悶の声をあげる。
しかし兵士たちは全く取り合わずに鉄扉を閉め、彼女を閉じ込める。
──何? この匂い……
錆びた鉄と湿気を含んだ木材の香り──あるいは生い茂る夏草の下に隠れる乾いた死骸の残り香。
一口に悪臭と言えるわけではないが、吸い込む空気の端々に
イザベラは顔をしかめ、とにかく状況を把握しようと周囲を見渡した。
しかし部屋には明かりがなく、全く状況がわからない。
部屋がどれだけ広いのかも分からない。
音は、と言えばイザベラの荒い息遣いと仕立ての良い寝衣が擦れる音だけだ。
両手が縛られたままなので身動きもままならない。
ただ本能よりももっと奥深くの部分で察するものもあった。
──"ここに留まっていてはならない"
そんな声に従うようにイザベラは立ち上がろうとするが──
「え?」
体が重い。先ほど放り投げられた時、歩けないほどの怪我を負ってしまったのだろうか──そう不安になるが、それにしては痛みがない。
投げられた時こそ痛みはあったが、今はもう収まっていた。
──違う、誰かが
私の首に、手を当てている──イザベラがそう思った時、声が響いた。
「動くな」
その短い言葉は電流となってイザベラの全身の神経を駆け巡り、身動き一つできなくなった。
物理的にどうこうされたわけではなく、この声に逆らってはならないと感じたからだ。
イザベラは今、手が拘束されているとか首を押さえつけられているとか、そういうこととは関係なく、ただ彼女の意思によって自発的に動きを止めている。
「改めて名乗るまでもないが、エドワードだ。弟のことで少し話がしたいと思っていた。手を取りなさい。ここの床は特別製だ、長く肌を触れさせていると肉を腐らせる」
エドワードはイザベラの答えを待たずその手を取り打ち上がらせた。
イザベラはやはり逆らえない。エドワードの言葉は波動となってイザベラの全身と全霊を支配し、抗いがたい強制力となって彼女を縛り付けている。
だが
先ほどエドワードは何と言っただろうか。
体を案じてくれてはいなかっただろうか。
ということは本当に話がしたいだけで、ひどい目に遭うというようなことはないかもしれない。
そう思った時、イザベラの瞳にある種の光が宿った。
それは彼女が好む光だ。
多くの者が彼女を見る時に瞳に宿す光。
媚びの光である。
◆
「灯りをつけた。さあ、この椅子に座ってくれ。なに、少し座り心地は良くないが、イザベラ嬢に二心が無ければすぐに体を休められる場所へ連れていこう」
その椅子は固く冷たく、背もたれには奇妙な突起があって体重をかけると痛みが走る。
しかしただの一時も耐えられないという程ではない。
イザベラは仕方なくその椅子に座ってエドワードを見た。
椅子には肘掛けの部分と足首部分と腰が当たる部分のそれぞれから革の帯のようなものが伸びている。
イザベラはその帯が一体何なのか測りかねていたが、すぐに使い方に思い立った。
しかしその帯で自分がどのようにされるかを理解していながらも、やはり彼女はエドワードの言葉に逆らうことができない。
そしてエドワードはイザベラが椅子に座るのを見届けると、彼女が想像通りにその帯で体を拘束してきた。
やがてイザベラが身動きできなくなるとエドワードはそんなことはまるで粗末なことのように、気軽な様子で質問をする。
「さあ、話をしよう。イザベラ嬢、貴女は何をした? 答え、そして貴女の気持ちを聞かせてくれ」
エドワードがそう言うと、イザベラの口は途端に軽くなる。
「エドワード様、わたくしはリオン様に何もしていませんわ! 信じてくださいまし!」
イザベラは貴族の令嬢らしからぬ大声でエドワードに言い募った。
対するエドワードは何も答えない。
ただじっとイザベラを見つめている。
まるで鉄の仮面をつけているようだとイザベラは思った。
イザベラはこれでいて意外にも人の感情に敏である。
しかしエドワードから何も感じないのだ。
怒りも悲しみも何もかも。
・
・
・
「イザベラ嬢が直接弟を殺したわけではない事は知っている」
「そ、うですか。ではなぜわたくしはこのような……」
イザベラは手首を気にするように視線を向けた。
「その革も特別製だ。長く触れていると皮膚がただれる。最初はかゆみを感じ、次に痛みを感じる。痛みはまるで何百本もの細く小さい針で突き刺されているような痛みだ。とはいえ初めのうちは耐えることは難しくはない。それから先は耐え難い苦痛となるが、今の所は大丈夫だ。ところでイザベラ嬢、先ほどの質問の答えだが私はそうは思わない。イザベラ嬢が直接手を下したとは思ってはいないが、無関係だとは思わない」
エドワードの言葉はひどく断定的だった。
さすがに抗議しようとするが、腰に鋭い痛みが走ってほんのわずかに身じろぎする。
とはいえその体の挙動は非常に小さなもので、注意深く観察していたとしても気づくことは難しいだろう。
しかしエドワードはイザベラが何を気にしたか知っているかのようにこんなことを言った。
「腰の部分の突起の位置、形状は体に最も負担をかけるように設計されている。このように硬い椅子に長く座っていれば背もたれに背を預けたくなることもあるかもしれないが、あまりおすすめはできない。最悪、2度と立ち上がることができないほど体を痛めてしまうだろう」
エドワードはなおも続ける。
「これは今より少し前の話になるが、私は純粋にイザベラ嬢の気持ちが知りたいと思っていた。弟に何をしたのか、その決断に至った原因は何か。結果は過程が形作るが、過程はもっと細かい要素から形作られる。私はその細かい要素を知りたかった。いつもいつもイザベラ嬢のことを考えていた。だから分かるのだ──貴女の気持ちが。相手のことを本当に想えば、なんとなく考えていることは分かってくるものだ。だからイザベラ嬢、今は私を想うといい。私のことを知りたいと心の底から願うといい。私が知りたいと思うことを話しなさい」
◆
エドワードの態度は終始一貫していた。
感情をあらわにして脅しつけたり怒鳴りつけたりといったことはない。
しかしその態度がイザベラには恐ろしい。
エドワードが何を考えているのかさっぱりわからないのだ。
イザベラの中ではリオンに何かをしたという自覚はなく、あくまでもクラウディアという雌猫を駆除したにすぎない。
そして貴族である自分が目障りな雌猫を秘密裏に処理することは罪ではない──彼女はそう考えている。
しかし──
──もしかしてエドワード様はあのクラウディアという女を殺されたことについて怒っていらっしゃるのかしら
これはイザベラの貴族観からするととてもありえないことだったが、それでもその可能性が当たって欲しいという強い思いが湧き出していた。
というのも手首や腰の違和感がもはや耐えがたいものになっていたからだ。
四肢の革が当たっている部分がただれて肉が露わとなっており、腰はわずかに身じろぎするだけでもひどく痛む。
「わたくしはリオン様に何もしてはおりません! しかしあのクラウディアという女、リオン様にまとわりつく忌々しい女は」
「あの男たちからも話は聞いている。殺したのはクラウディアだけだと。リオンには手を出していないと。しかし弟は死んだ。クラウディアという平民の女と寄り添うようにして死んでいたそうだ。そしてクラウディアの死体は通常考えられないほど傷んでいた」
「だ、だからと言って」
「二人の死体には首に大きな傷ができていた。調べさせるとその傷跡は二人が互いに握っていた短刀によってできたものだ。傷というのは案外に多くのことを私たちに伝えてくれる。例えばその傷が争いの最中につけられたものなのか、それとも自分でつけたものなのか。そういったことを傷のつき方、傷口の開き方などからわかる。結果わかったことは二人は互いに互いを殺したということになる」
「ではわたくしは無実ではありませんか!」
イザベラが耐えかねたように叫ぶと、エドワードは小首をかしげた。
まるでなぜ自分がそんなこと言われるのかまるで分かっていないというような風だった。
「有罪か無罪かの話はしていない。私は最初からただ質問をしていただけだ──弟に何をした、と。何もイザベラ嬢に罪があるとは一言も言ってはいない。しかし最初はどうも私の意図がわかっていないようだったから、弟がどのように死んでいたかをきちんと説明をした。それを踏まえてもう一度問う。貴女は何をした? そして貴女の気持ちを聞かせてくれ」
「一体……何を仰っているのか……うっ」
イザベラが苦悶の声を上げる。四肢の、そして体の痛みは耐え難いほどになっていた。
「エドワード様、せめてこれを解いてくださいませんか……」
そう懇願するがエドワードは何も答えない。
彼はただイザベラに視線を注ぎ続けている。
・
・
・
「わ、わたくしは何もしていない!! リオン様を殺していない!! 殺したのはあの雌猫だけです!! 何が悪いのですか! リオン様はわたくしという婚約者がありながら、あのような……あんな女を!!! 傍に置いて!! わたくしは良い笑い者ではありませんか!!」
この時、イザベラの様子はもはや半狂乱といった体で叫び、暴れていた。
拘束されてからどれほどの時間が経っただろうか、彼女の両の手首と足首に皮膚はなく、革が肉に食い込んでいた。
全身から流れる脂汗の量は彼女が現在どれ程の苦痛に苛まされているかを如実に示している。
「そうだ、イザベラ嬢は弟を殺していない──そう貴女は思っている。しかし弟は死んでいるのだ。だから何度でも問う。貴女は何をした? 貴女の気持ちも聞かせてくれ」
ここへ来て、イザベラはようやくエドワードが自分に罪を認めさせたいのだ、という事に気付いた。
たとえやっていなくともやったことにしろ、という事だろうと。
彼女にとってそれはとても心外なことだったが、しかしもはやイザベラは一分一秒たりとも耐えられる気がしなかった。
革に沁み込んでいる"特別製"の薬剤のせいで手首の肉は随分と溶け、あるいは骨に達しようとしている。そればかりか、傷が広がっていっているように見えたからだ。
普通なら発狂するほどの激痛であるのに、なぜか狂うことができない。
「王太子としてイザベラ・セレ・フェルナンに命ずる。正気を手放してはならない。そして、答えよ。イザベラ嬢、貴女は何をした?」
「わ、わ、わたくし……は、リオン様を殺しましたッ……! 不逞の輩を使い、あ、あの雌猫……クラウディアを取り除こうとしま、し、しました、が……何か手違いがああ、痛い! わたくしの手が!! お、お願いですエドワード様、どうか、どうかここから……」
「答えよ、と言った」
「は、はい。な、何か手違いがあり、おそ、らくリオン様のことまでも、ころしてしまったのでしょ、う。わたくしはつ、つつみ、罪人です! だから、だからどうかここから、解いてくださいィッ!! い、痛くて痛くてたまらないのです! わたくしの足、わたくしの手、あ、ああ……」
息も絶え絶えなイザベラだが、そんな彼女の叫びを聞くと再び小首を傾げる。
「イザベラ嬢、私はただ聞きたいだけなのだ。貴女が何をしたか、何を思うかを。言い訳を聞きたいわけではない。自分が何を口にすべきかはちゃんと私のことを知ろうと思えば貴女にも分かる筈だ。少なくとも、貴女は自身に罪があるとは思ってはいないのだから謝罪する必要はないよ」
「そんなこと、あ、ありません! 痛い、痛いの……な、何もかも私が悪かったのです、だから……」
目を真っ赤に充血させたイザベラがエドワードに懇願すると、彼はゆっくり首を振る。
「いや、貴女は自分は悪くないと──そう思っている。私はイザベラ嬢、貴女のことが分かる。だから何度でも聞こう。貴女は何をした? 弟が、リオンがどんな最期を迎えたのかはもう教えておいた筈だ」
ぼとり、と音がした。
イザベラの右手首が床に落ちている。
「わ、わ、わたくし、は……わたくし、は……」
・
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・
「イザベラ嬢、貴女は何をした? それについてどう思う? 貴女の気持ちを聞かせてくれ」
エドワードがイザベラに尋ねた。
ヒュー、ヒュー、という音がするが応えはない。
イザベラの両手首、両足首は既になく、それどころか革に染みた毒液がそれぞれの部位に浸透して浸食を続けている。
肉が溶け、腐れる悪臭が部屋の中一杯に広がると、流石にエドワードも不快になったのか、懐から小さい薬瓶を取り出してイザベラへ振りかけた。
すると錆びた鉄と湿気を含んだ木材の香り──あるいは生い茂る夏草の下に隠れる乾いた死骸の残り香がふわりと香り、悪臭は鳴りを潜めた。
◆
イザベラは散り散りになっていこうとする意識を懸命につなぎとめようとしていた。
狂ってしまえば、意識を失ってしまえば楽になれるのかもしれない。
しかし他ならぬエドワードからそれは禁じられている。
彼女は自分でもなぜだかよくわからないが、エドワードの言に従わねばならない──従いたいという忠心に全神経を支配されていた。
彼こそが自分の主なのだと、王なのだという思いがある。
──でも、わからない
そう、イザベラには分からなかった。
エドワードが何を望んでいるのか。
単なる事実──自身がリオンを直接殺したわけではないことを知りたいわけではないということは理解したが、では何を知りたいというのか。
両腕と両脚を失い、芋虫のようになった自身の体をどこか他人事のように眺めつつ、イザベラは懸命に考え続ける。
やがて、毒が全身に回り、脳を侵して意識を失う直前までイザベラは考え続けた。
そして今わの際、彼女の脳裏をよぎったのは──
・
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・
「初めまして、リオン様!」
赤いドレスを着たおしゃまな少女がペコリと頭を下げて同い年くらいの男の子──リオンに挨拶をした。
「え、えっと。初めまして、イザベラ様……ちゃん?」
「イザベラと呼んでくださいまし! だってリオン様とわたくしは夫婦になるんですもの!」
「そ、そうかもしれないけど、でも、恥ずかしいよ……」
イザベラはうふふと笑い、リオンの手を取る。
年は同じでも、なんだか可愛い弟ができたようでイザベラは嬉しくて仕方がなかった。
──リオン様がわたくしの王子様になってくれるのなら、わたくしはリオン様のお姫様になってあげよう
そんなことを思うと、イザベラもなんだか恥ずかしくなってしまって、二人は揃って顔を赤らめてしまう。
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・
「あ、あ……そ、うなの……ね。ご、ごめんなさい、リオン様……」
そう言い残し、イザベラは事切れた。
それを聞いたエドワードは、わずかに頷き──
「イザベラ・セレ・フェルナン。貴女を赦そう」
と言ってイザベラの顔へ手を伸ばし、見開いたままの目を閉ざしてからその場を去った。
(了)
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