⑯「愛してるよ、とリオンは言った」
◆
リオンは先ほどまで精神を真っ黒に染めていた憎悪が、次第に抜け出していくのを感じていた。
憎悪が摩耗していったのではない。
他に宿るべき場所があるとでもいう風に、するりと抜けていったのだ。
それに、憎いは憎いが、今一番大切なことを見誤るわけにはいかなかった。
一番大切なこと、それはクラウディアを待つこと。
クラウディアが帰ってきたら、「お帰り」と迎えてやること。
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リオンは彼にしては珍しく木杯に酒を満たし、食卓に向かっていた。
空はまだ暗いが、辛抱強く待つつもりだった。
やがて夜が明け、朝が来る。
太陽が真上に登っても、未だに待ち望んでいることは起きない。
──まさか、失敗したのか?
そんな考えが頭をよぎると、張り詰め、かろうじて形を保っていた精神がバラバラに砕け散ってしまうような気がした。
ブルブルと手が震え、足がカタカタと揺れる。
太陽が傾きだし、夕暮れが訪れた。
クラウディアは来ない。
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どんなこともうまくやろうとすれば、準備が必要になる。
殺すにせよ、生き返らせるにせよ。
そして準備とは時間がかかるものだ。
人間は複雑だ。少なくとも犬猫よりは。
そのあたりのことを、本来ならジャハムが説明すべきではあった。
彼の友人であったコトリから得た知識にはそのこともあったのだから。
しかし、ジャハムは説明するつもりはなかった。
犬や猫だから、ジャハムはリオンに精霊の森のことを教えたのだ。
もしあの時、クラウディアが馬車に引かれたとしたら、その時は教えなかっただろう。
なぜなら、もし最悪の結果となった時、自身では責任を取りきれないと思ったからである。
◆
そして夕暮れが過ぎゆき、夜が訪れた。
リオンはただその時を待っている。
待つこと以外、何もできないからだ。
「空っぽか」
乾いた酒杯を見遣り、リオンが呟く。
注ぎ足そうとしたが、やめた。
酒瓶にはせいぜい一杯、二杯程度の量しかなかったからである。
せっかく飲み干すのなら、クラウディアと一緒に飲みたかったのだ。
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やがて、その時が来た。
夜の静けさに、何かを引きずるような音が聞こえる。
何かを引きずる音は、どんどん近づいてくる。
◆
音が聞こえなくなる。
立ち止まっているのだ、とリオンは思った。
このまま待っているか、それとも扉を開けて迎えるべきかとわずかに逡巡していると、ギイ、と扉が開く音がした。
そして──
──リ、オン
ごぼり、ごぼりと液体が泡立つ様な音に混じって、クラウディアの声が、あれだけ聞きたかった声が聞こえてきた。
戻ってきたのだ。
帰ってきたのだ。
「僕のために、還ってきてくれたんだね」
リオンは嬉しそうに呟いて、後ろを振り向く。
果たして其処には、リオンが期待していたようにクラウディアの姿があった。
記憶にあった姿とはまるで違っていたが、リオンはゆっくりとクラウディアに向かって歩み寄っていく。
──リィィィィ、オオォン
ぼろりとクラウディアの眼球が零れ落ちた。
黄色く変色し濁ったそれは、リオンの目にはまるで満月のように見える。
──黙って抱きしめるべきか、それとも愛していると囁いて抱きしめるべきか。
リオンはそんな事で少しだけ悩み、やがて笑みを浮かべて「なんて幸せな悩みなんだろう」と嬉しくなった。
──決めたぞ、僕は
リオンはクラウディアを抱きしめ、接吻をし、その後で愛していると囁こうと思った。
だからまずは、抱きしめる。
泥で汚れたクラウディアの体を強く、強く抱きしめる。
そして接吻をした。
腐った肉の臭いが鼻から入り込むが、リオンには全く気にならない。
長い接吻の最中、クラウディアは身じろぎ一つしなかった。
唇を離すと、クラウディアの口元からごぼりと音がする。
喉に大きな裂傷があるのだ。それでは声を出すのは難しいだろう。
「クラウ?」
何か話したいことがあるのかと気遣わしげにリオンが問いかけると、クラウディアはゆっくりとした動きでリオンを抱きしめた。
そして耳元で
──私を、殺して
と囁いた。
◆
クラウディアを愛していたリオンにはよく分かった。
今目の前に立つクラウディアが、心の底からそう言っていることを。
クラウディアの望みを拒否することが彼女を絶望させることを理解した。
今この瞬間にも、クラウディアの体からクラウディアの一部がぼとぼとと床へ落ちていっているのだ。
愛する男にそんな姿を見せたいと思う女が一体どこにいるだろうか?
リオンは一瞬泣きそうな顔になり、そして小さく頷いて台所へと向かっていく。
リオンは台所で目的のものを二振り見つけ、食卓へと戻った。
クラウディアは変色した……今はもう一つしかない瞳でリオンを見つめている。
そんなクラウディアにリオンは一歩、また一歩と近づいていく。
両の手に肉切り用の短刀を携えて。
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「僕の手でそうしてほしいと思っているのがわかるから、クラウ、君を殺すよ」
そう言ってリオンはクラウディアの首元に刃をあてがった。
そして空いた手でクラウディアの手にもう一振りの短刀を握らせる。
「君も、僕の気持ちがわかるはずだ」
リオンがそう言うと、クラウディアは一瞬後ずさりしようとしたが、すぐにその場に留まった。
リオンを愛していたクラウディアにはよく分かったからだ。
今目の前に立つリオンが、心の底からそう言っていることを。
リオンの望みを拒否することが彼を絶望させることを理解した。
次の瞬間──
愛してるよ、とリオンは言ってクラウディアの首を掻き切った。
それとほぼ同じタイミングで、クラウディアの唇が愛の形を取ってリオンの首を掻き切った。
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空では月が翳り、夜陰はますます濃くなった。
リオンとクラウディアの家の、その食卓──二人の死体が重なる様にして倒れている。
そんな二人の死体に近づく小さい影があった。
シーラだ。
猫は黄色く濁った眼で二人を見つめ、にゃあと一声鳴いてその場に蹲った。
そして二度と動かなくなった。
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夜より昏いどこかをリオンは歩いていた。
歩けど歩けど先は見えない。
どこまで歩けばいいのか、いつまで歩けばいいのかリオンには分からなかった。
周囲に視線を向けると、自分と同じ様に歩いている影が見えた。
影はいくつもあり、みな何処かへ向かっているようだ。
もうどれ程歩いただろうか?
リオンは疲れ切っていたが、一たび足を止めればそこで自分がどこかへ行ってしまう──巡ってしまう事が感覚的に理解できた。
そうはいかないのだ。
一人で巡ってしまうわけにはいかない。
もし休みたいなら、せめて自分が自分でいられる場所で、安心できる場所で休まなければならないという思いがリオンにはある。
時間の感覚もないまま足を動かしていると、やがて前方に何かが見えた。
木である。
──ここだ
リオンはそう思った。
ここでなら安心して休めると感じた。
リオンが木へ近づいていく。
何の変哲もない木だが、それには見覚えがある。
そして、その木の下で佇む女性にも。
リオンは何も言わずに女性に近づき、抱きしめた。
女性は少し驚いたようだったが、相手がだれかわかると安心したようにリオンに体を預けてくる。
──シーラはもう少し先かしら
そんな囁きにリオンも返事を返した。
──そうだね。きっと家で待っていてくれてるんだろう。ジャハムさんもいるかもね。それと
──なぁに?
──愛してる
──それはさっき聞いたわ
そうか、とリオンは女性の──クラウディアの手を握り、二人は昏いどこかを歩き去っていった。
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