第29話   死闘の果てに

「目くらましのつもりか!」


 龍善は顔面に飛んできたベストを得意の爪撃で薙ぎ払った。


 真っ二つだったベストが細切れになり、破片が空中に飛散する。


「ぬうッ!」


 龍善は低く唸った。


 正面に捉えていた涼一の姿が消えていたのである。


 涼一が投げたベストは充分に目晦ましの効果があった。


 涼一はベストを投げた瞬間、下半身の筋力を最大限に駆使して〈乱歩〉を使った。


 涼一は目視不可能な速度で移動すると、龍善から見て左側に回った。


 龍善は涼一の投げたベストを左の爪撃で外から内に向かって水平に薙ぎ払ったため、一瞬だったが左の脇腹がガラ空きだった。


 涼一はその脇腹に狙いを定めた。


 くらえッ!


 すでに脇の位置に添えられていた右拳を、涼一は抉りこむように鋭く突き放った。


 風を巻き込みながら放たれた涼一の拳が龍善の脇腹に突き刺さる。


 ミシリ、と涼一の拳に肋骨を砕いた感触が伝わってきた。


 確実に三本は折れただろう。


 だが、そこは龍善であった。


 肋骨が折れれば呼吸をする度に激痛が走り、下手に動けば折れた肋骨が肺や内臓に突き刺さる。


 にもかかわらず、龍善は歯を食い縛りながら涼一に反撃してきたのである。


 龍善は内から外に向かって左の爪撃を繰り出した。


 虚空を素手で切り裂きながら龍善の爪撃は涼一の顔面を薙ぎ払う。


 涼一は後ず去った。


 無我夢中で繰り出してきた龍善の爪撃を、涼一は超人的な反射神経により何とかかわした。


 だが、まったくの無傷とはいかなかった。


 涼一の左頬には同じ方向に走る四本の裂傷ができていた。


 その傷口からは夥しい量の血が溢れ出しており、顎先から床に向かってぼたぼたと滴り落ちている。


 痛み分けというには互いのダメージは深刻だった。


 龍善は肋骨が折れたことで激しい動きは困難になり、涼一は左頬の裂傷から溢れ出ている大量の血が体力を徐々に削っていく。


 この瞬間、涼一と龍善の姿がホール部屋から掻き消えた。


 涼一と龍善は自分と相手のダメージ状況を瞬時に把握した結果、これ以上戦闘に時間を有するべきではないと判断した。


 だからこそ〈乱歩〉を使用した。


 神速の速度で間合いを詰め、相手の急所に必殺の一撃を見舞う。


 これが時間をかけずに相手を戦闘不能にできる唯一の戦法と互いに確信したのである。 


 ホール部屋の一角に一陣の竜巻が発生した。


 涼一と龍善である。


 二人は〈乱歩〉を使用しながら戦いの主導権を握ろうと動いていた。


 その動きがちょうど円を描くような動きだったため、竜巻に似た現象が発生したのである。


 そしてその竜巻の中では壮絶な攻防が繰り広げられていた。


 威力は高いが体勢を崩しやすい蹴り技は一切使用せず、涼一と龍善は己の必殺武器である拳撃と爪撃を相手の急所に打ち込んでいく。


 だが一つたりともまともに当たらない。


 涼一が散弾銃のように一呼吸の間に数十発の拳打を放つと、龍善は両手で巧みに捌き、そして受け流していく。


 続いて龍善が狙撃銃のように一発の威力が高い爪撃を水平に薙ぎ払い、または真上から引き裂くように繰り出すと、涼一はその猛襲を上半身の動きだけで巧みにかわしていく――その繰り返しであった。


 しかしそんな攻防も長くは続かない。


 二人とも超人の域に達している忍者とはいえ人間である。


 いずれは体力が尽き、動きに支障が出てくる。


 しかも二人は手負いであった。


 遅からず支障が出るのは必然であったが、その到来は意外と早く訪れた。


 六合ほど拳を交えた直後、爪撃を受けていないはずの涼一の平衡感覚が崩れた。


 まずいッ!


 涼一は心の中で激しく舌打ちした。


 予想以上に頬から流れた血が多かったためか、出血多量による運動機能の低下が起こり始めていた。


 このままではいずれ意識障害も出始めてくるだろう。


 だが今の涼一の心配はそれではなかった。


 ここぞとばかりに龍善は、ボールを投げるように右腕を振りかぶらせた。


 そうである。龍善ほどの忍者が一瞬だったとはいえこの隙を見逃すはずはなかった。


 涼一の心配は見事に的中した。


 龍善はこれが最後とばかりに全体重を乗せた爪撃を繰り出してきたのである。


「チェイッ!」


 気合の声とともに龍善は渾身の力を込めた爪撃を真上から振り下ろしてきた。


 それは文字通り虚空に爪痕を残すほどの威力。


「がはッ!」


 涼一は口内から血を吐き出すと、それ以上の量の血が空中に噴出した。


 龍善の爪撃が涼一の身体を引き裂いたのである。


 内臓までは達していなかったが、涼一の心臓の辺りからへその下辺りまでは五本の裂傷が縦に走っていた。


 着ていた衣類は破れ、その隙間からは鍛え抜かれた上半身が露出している。


 だがすでに肉体は血で真っ赤に染まっていた。


 次の瞬間、涼一と龍善の二人はホール部屋に姿を現していた。


〈乱歩〉の使用を解いたのである。もとより肉体に負荷がかかる〈乱歩〉は長時間使用ができない。


 現に二人が〈乱歩〉を使用していた時間は三分も経過していなかった。


 ぐらりと身体が大きく揺れた涼一。


 それを見た龍善は今がとどめを刺す絶好の機会だと薄笑いを浮かべると、もう一度右腕を振りかぶって追撃を放つ準備に入った。


 だが、龍善は追撃を放てなかった。


 右腕を振りかぶった瞬間、龍善の脇腹からは全身を硬直させるほどの激痛が波紋となって浸透した。


 過剰に身体を酷使したせいでヒビが入っていた肋骨が完全に折れたのである。


 戦闘中はアドレナリンが大量に分泌されていたせいで痛みは感じなかったが、戦闘が一旦区切られた今になって脳は痛みの信号を容赦なく発信したのである。


 両者は互いに向き合う状態で静止した。常人ならばもうこれ以上戦えなかっただろう。


 だが、この二人の忍者の死闘は終わらない。


「おおおおおおおお――――ッ!」


 涼一は突如、腹の底から喉を枯らすほどの雄叫びを上げた。


 出血多量による意識障害が出ていた涼一は、己に喝を入れることで一時的に身体を覚醒させた。


 それにより三人に見えていた龍善が今でははっきりと一人に見え、下半身の痙攣がピタリと治まっていた。


 一方、龍善は並みの人間ならば失神してしまうほどの激痛に耐え、正面にいる涼一を何とか見据えていた。


 そして涼一の全身から放出されている研ぎ澄まされた名刀のような気の圧力を鋭敏に感じ取っていた。


 数瞬後、再び二人の忍者は動き出した。


 先手を取ったのは龍善だった。


 激痛を堪えながら振りかぶっていた右腕を涼一の頭上目掛けて振り下ろす。


 満身創痍だった涼一は為す術もなく爪撃の餌食になる。


 龍善はそう確信していた。 


 しかし次の瞬間、周囲の空気と同化するように涼一の身体が消えた。


 その直後、振り下ろされた龍善の爪撃は涼一の残像だけを虚しく引き裂いた。


〈乱歩〉であった。


 ここにきて涼一は〈乱歩〉を多用したのである。


 はっきり言って涼一の身体はもう限界を超えていた。


 使用した〈乱歩〉の速力も本来の三分の二も出ていなかったかもしれない。


 それでも涼一は全神経と意識を集中させ身体を疾風に変化させた。


 龍善は右腕を振り下ろした状態で硬直していた。


 動けなかったのである。


 信じられないことに、龍善の周囲には四人の涼一がいた。


〈乱歩〉の速度を生かした〈分身の術〉。


 そしてその〈分身の術〉により身体を分けた四人の涼一からは右掌が真っ直ぐ突き出ており、龍善の額、後頭部、両側頭部の合計四箇所に吸い付くように密着していた。


 そのせいで龍善はその場から一歩たりとも動けなかったのである。


 だがそれ以上に龍善が動けなかったのには理由があった。


 龍善は人間としてはともかく、忍者としては一流であった。


 幼少の頃から完璧な忍者になるための徹底的な英才教育を受け、今となっては体術、武器術、忍術どれをとっても最高の技術を習得したと自負していた。


 それが返って仇となった。


 龍善は数秒後に起こる出来事を先読みしてしまった。


 予想ではなく確固たる現実として――。


 次の刹那、四人に分かれた涼一は密着させた右掌から練り上げた渾身の気を放出した。


 ゼロ距離射程から放たれた涼一の気は、肉体内部を破壊する振動と化して龍善の身体に浸透していく。


 直後、龍善の巨体が平衡を欠いた。


 電撃を浴びたように身体を痙攣させると、龍善の両目、両鼻、両耳から血が溢れ出てきた。


 一方、龍善の身体に深刻なダメージを与えた涼一は、龍善の後方二メートル付近で膝をついていた。


 胸元を強く押さえ、荒く呼吸をしている。


 涼一は何とか意識を保ちながらピクリとも動かない龍善に視線を向けた。


 龍善は物言わぬ彫刻品のように固まっている。


 死んでいるかどうか技を放った涼一でさえわからなかった。


 何しろ龍善は超至近距離から頭部にまともに気打を受けたのである。


 例え生きていたとしても、脳に甚大な被害が出ていることは間違いなかった。


「……お、終わったか?」


 涼一は安堵の息を漏らすと、ゆっくりと前のめりに倒れた。


 そのまま龍善同様ピクリとも動かなくなった。


「りょ、涼一さん!」


 聖は血の匂いと倒れたときに生じた音を頼りに涼一に近づいていった。


 伝蔵や正義、舞花も急いで涼一の元に駆けつけてきた。 


「涼一さん! 涼一さん!」


 聖は涼一の背中を擦りながら一心不乱に声をかけた。


 目こそ見えなかったが、聖は大量の血の匂いにより涼一の身体が深刻な状態に陥っていることを悟った。


 だからこそ必死に声をかけていたのだが、それでも涼一は一向に返事を返さない。


 続いて駆けつけてきた舞花が涼一に呼びかけた。


「涼ニイッ! こんなところで死なないでよ!」


 二人の少女が必死に呼びかけている中、伝蔵が無言で割って入ってきた。


 片耳を涼一の背中に押し当て、心音を確かめる。


「ふむ、まだ息はあるが危険な状態じゃな」


 会話を繋げるように両腕を組んでいた正義が頷いた。


「当然です。あんな瀕死の状態から伊賀流体術の極技とも呼べる〈乱閃〉を発動させたんですからね。筋肉組織も崩壊寸前でしょう」 


 舞花はきっと鋭い目つきで伝蔵と正義を交互に睨みつけた。


「二人とも何を冷静に喋ってるのよッ! このままだと涼ニイの命が――」


 そのとき、舞花の脳裏に一筋の光明が浮かんだ。すかさず聖に顔を向ける。


「聖ちゃん……そういえばさっき聖ちゃんは不思議な力を使って涼ニイの怪我を治したよね? あれってもう一度できないの?」


 気が動転していた聖は、舞花の言葉を聞いてようやく我に返った。


 忘れていた。


 自分には三途の川を渡りかねない涼一を現世に引き戻す力があることを。


 聖は両手を重ねると、そっと涼一の背中に押し当てた。


 硬く閉じられた瞼を上げ、琥珀色の瞳孔を露にさせる。


 聖はそれから一分ほど両手を涼一の背中に押し当てていた。


 その聖の行為を身近にいた舞花はずっと見ていたが、何か様子がおかしいと眉をひそめた。


 一向に涼一の身体が回復する気配が感じられなかった。


 それでもとめどなく流れていた出血は止まっていたが、それだけであった。


 依然として涼一の意識は戻らない。


「どうしたの? 涼ニイはこのまま治るの?」


 たまらず舞花は聖に尋ねた。


 聖は難しい表情で押し当てていた両手を離した。


「……すみません。今の私では出血を抑えることが精一杯です」


「ちょっと、それどういうこと!」


 舞花は聖の両肩を摑み、激しく揺さぶった。


 聖は申し訳なさそうに説明する。


「私の力は人間が本来持っている自己治癒能力を向上させて怪我を治します。ですから怪我の治り具合は私の意志ではなく本人次第なのです。それでも大抵の怪我はすぐに治るのですが、今の涼一さんはその自己治癒能力も追いつかないほど瀕死な状態なのです」


 ふむ、と伝蔵は顎を擦りながら頷いた。


「そうそうこの世には万能な力は存在せんということだな」


 正義も両腕を組みながら伝蔵の意見に同意する。


「ですね。しかし人間の自己治癒能力を意識的に向上させる能力ですか。一昔前だと妖術の類と恐れられた力ですね。確か甲賀五十三家の分家筋にそのような力を持った忍者がいたと聞いたことが……」


 この現状においても冷静に会話をしている父親と祖父に舞花が激怒した。


 立ち上がり、後方にいた正義の胸倉に摑みかかる。


「だから何でお父さんもお爺ちゃんもそんな呑気に構えてられるのよ! このままだと涼ニイが死んじゃうかもしれないのよッ!」


 薄っすらと目元に涙を浮かべていた舞花を見て、正義はやはり冷静な表情でポンポンと舞花の頭を軽く叩いた。


 まるで何も心配するなと言っているようであった。


「そうだな、では手遅れになる前にさっさと涼一を病院に運ぶか」


 舞花は正義から伝蔵に視線を転じた。伝蔵は片腕で涼一の背中を無造作に摑むと、肩に軽々と担いだ。


 その光景を見た舞花は、今度は伝蔵に突っかかった。 


「待ってよ、お爺ちゃん。病院って言ったってここから何十キロも離れているのよ。その間にもしも涼ニイの身に何かあったらどうするの」 


 舞花の呼びかけに伝蔵は「いいから行くぞ」と言い返し、入り口のほうへ軽快な足取りで歩いていく。


「では私たちも行くか」


 伝蔵の次は正義が行動を起こした。


 聖へ近づいた正義は、一言詫びてから聖の身体を抱きかかえた。


 ちょうどお姫様だっこの形で聖を抱きかかえた正義は、伝蔵の後を追うように入り口に向かって歩き出す。


 舞花は訳が分からなかった。


 伝蔵と正義の二人は、涼一が助かるのは当たり前だとも言わんばかりの自信に満ち溢れていたからだ。


 しばし舞花は呆然とその場に立ち尽くしていた。


 すると、歩みを止めた正義が顔だけをちらりと振り向かせた。


「忍者たる者、常に先の先のそのまた先を読むべし。わかったら早くついて来い」


 正義はそれだけ言うと、再び正面を向いて歩き出した。


 舞花はますます何のことかわからなかったが、その意味を考えている暇はなかった。


 舞花は最後にざっと周囲を見渡した。


 ホール部屋のあちこちには死んだように倒れている伊織や龍善、そして何人かの甲賀流忍者の姿があった。


 これって修羅場と言うよりも惨劇だよね。


 心の中でくわばらくわばらと唱えながら、舞花は二人の後を追って走り出した。

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