第24話   命の駆け引き

「何だと!」


 龍善は取引が決裂したと思った瞬簡、涼一から思いもよらぬ不意打ちを食らった。


 龍善の後方に控えていた伊織も目を大きく見開いて驚愕している。


「もう一つ言い忘れてたことがあったが、日本政府とコンタクトを取る際には関連省庁からの紹介状が必要だぞ。そしてその紹介状を伊賀流――いや、厳密に言うと俺の家族だけが持っている。何せ俺の親父は公安第一課課長と旧友な上、一課の人間に潜入術と変装術を指導している教官だからな。その関係で紹介状こそ貰ったが、うちの親父は今時珍しい時代錯誤な堅物忍者でね。表舞台に上がることにはまるで興味がない」


 ここで話を区切ると、龍善は肝心な部分を喋れと目つきで涼一を促す。


 涼一は龍善の真意を明確に真っ向から受け止め、龍善の聞きたい肝心な部分の話しに入った。


「俺ならその紹介状を簡単に持ち出すことができる。いや、そんな面倒なことをしなくても俺も紹介状を貰えるかもしれない。俺自身も公安一課課長やその上の人間である公安部長と面識がある。どちらにせよ、紹介状は絶対に手に入る。だがあんたらはどうだ? すぐに紹介状を手に入れるアテはあるのか?」


 そう言い終えたあと、涼一の耳は龍善の歯を軋ませる音を拾った。


 さすがの龍善でもこの展開は予想していなかっただろう。


 しかも、龍善は涼一の話が真実か嘘かの見極めも困難になっていた。


 すでに涼一個人の駆け引き術に嵌っている。


 ここが踏ん張りどころと、涼一は相手を威嚇するように声を張った。


「さあ、どうする! さっきも言ったが、俺たちの潜入した目的は聖の救出だけだ! この宗教団体が壊滅しようが甲賀流が表舞台に上がろうと俺たちには関係ない! だから開放してくれ! 紹介状は安全な場所に着き次第に必ず渡す!」


 再びホール部屋が静まり返った。


 その中でホール部屋の中央付近では、龍善と涼一の激しい心理戦が始まった。


 互いに目線を外さず、真っ向から対峙している。


 実際に肉体による戦いをしていないというのに、ホール部屋全体が恐ろしいほど張り詰めた緊迫感に包まれていく。


 低かった部屋の温度がさらに下がったような感覚だった。


 すると、大きな溜息を漏らした龍善が口火を切った。


「……いいだろう、小僧。ひとまず貴様の条件を飲んでやる。ただし開放するのは貴様とあの娘だけだ。当然だろう? 聖は私の娘なんだからな」


「……何だと」


 一瞬、涼一は龍善の言っていることがわからなかった。


 聖が龍善の娘?


「何だ知らなかったのか? 聖は私と血が繋がった実の娘だ。だが、聖は橋場と名乗る男に連れ去られてしまっていた。それを私は部下を使って捜索して連れ戻した。お前が聖と出会ったのはそのときなのだろう」 


 涼一はちらりと聖を見た。


 聖は罰が悪そうな表情のまま顔をうつむかせていた。


 それだけでわかった。


 龍善の言ったことが事実であると。


 そして涼一は、前から感じていた疑念が少しずつ晴れていく気がした。


 同時に気がついた。


 聖のことがずっと気になっていたのは、自分と同じ忍者特有の雰囲気を持っていたからだ。


 それだけではない。


 今思い出してみると、先ほどの館内放送が流れたときもそうであった。


 聖は自分に言った。


 はっきりと「舞花さんが危険に晒されている」と。


 これは聖が館内放送から流れた〈忍び伊呂波〉の意味を理解していたことを意味していた。


 だとすると龍善の言い分は最もである。


 自分の娘を渡せなどと言う資格は涼一にはない。


 だがそのとき、龍善の後ろに控えていた伊織が二人の会話に割って入ってきた。


 足音を立てない軽快な歩法で龍善に近づき、そっと耳打ちする。


「良い機会ではりませんか、お父様、いっそこのまま聖を手放しましょう。あの少年の言うことが真実であれば、もう聖の利用価値はありません。甲賀流が晴れて表舞台に立ち、聖も厄介払いもできて一石二鳥ではありませんか」


 龍善は正面にいる涼一に注意を払いつつ、ちらりと目線を伊織に向けて動かした。


「お前の言うことも一理ある。しかし、聖の力はまだ使い道がある。その力を手放すのは惜しい」


「ではいっそこうすれば……」


 龍善と伊織が何やら密談をしている最中、涼一は聖と舞花を交互に見ながら隙を窺っていた。


 距離的には聖のほうが一番近い。


 助けようと思えば手裏剣を打って聖を拘束している忍者を打ち倒すことができる。


 が、それでは舞花が無事ではすまない。


 涼一がいる場所から舞花が拘束されている祭壇までは十五メートル以上はある。


 この距離はあまりにも遠い。


 手裏剣を打てば届かない距離ではないが、その分威力も命中率も極端に低下する。


 それに舞花を拘束している人間も忍者なのである。


 十五メートル以上の距離から飛んでくる手裏剣を避けるのは容易いだろう。


 涼一は頭の中で必死に取引以外の打開策を講じていると、やがて龍善と伊織の密談が終了した。


 それを素早く察した涼一は、何食わぬ顔で龍善たちを見据える。


 再び心理戦が始まるかと思った涼一だったが、そうはならなかった。


「どうだ、小僧。そんなに聖が欲しいのならば取引しないか?」


 今度は何と龍善のほうから取引を持ちかけてきた。


 涼一は驚きを隠せなかった。


 取引材料の有無が何なのかわからない。


 ふっと龍善が軽く笑うと、後ろに控えていた伊織が龍善の前に出た。


「これはもう一人の娘である伊織だ。女の身でありながら甲賀流忍術の極意を悉く身につけた天賦の才の持ち主だ。そこで小僧、この伊織と一勝負してみる気はないか? もし伊織に勝てれば聖はやろう。だが負けた場合、お前たちはこの部屋からは永遠に出られん」


 そうきたか。


 さすがの涼一もこの展開は予想できなかったが、龍善と伊織が提示してきた聖を賭けたこの忍法勝負は取引ではなく一種の脅迫だと涼一は悟った。


 もしこのまま涼一が勝負を受けなかった場合、龍善たちは聖を手放さず紹介状を手に入れられる。そして涼一が勝負を受けた場合、伊織は涼一を死なない程度に痛めつけて情報を聞き出す。そう龍善たちは密談していたのだろう。


 ここらが限界か。


 涼一は瞬時に覚悟を決めた。


〈整息術〉独特の呼吸法により、短く吸った息を全身に隈なく行き渡らせる。


「いいだろう。その勝負受けた」


 と口に出す選択肢しか今の涼一にはなかった。


 何しろ最初の取引材料であった紹介状からして真っ赤な嘘偽りなのだ。


 勝負を受けなかった場合、すぐにその詳細の有無を問いただされることは火を見るより明らかだった。


 もしかすると龍善たちもその真偽を確かめるためにこんな勝負を持ちかけてきたのかもしれない。


 だとしたらここは一旦勝負を受け、なるべく時間を引き延ばすしかない。


 それにこの部屋の中にいる危険人物といえば龍善と伊織の二人だけである。


 さすがにこの二人同時に相手をすれば万が一にも涼一に勝機はない。


 だが、ここで伊織だけでも倒しておけば残りの危険人物は龍善のみ。


 隙を窺い、先に舞花の拘束を解ければ立場は逆転する。


 涼一はこの策に賭けた。


 しかし実際問題として現状はそんなに甘くない。


 龍善は涼一の承諾を受けるなり軽く頷くと、ふっとその場から消えた。


 いや、消えたように見えるほどの動きでその場から離れたのである。


 涼一はかろうじて龍善の動きを目で追えていた。


 龍善は聖の隣に当たり前のように立っていた。


〈乱歩〉も使わない歩法で一気に五メートルの距離を詰めた龍善はさすがであった。


 伊達に甲賀流の頭領を名乗っていない。


 しかし今は龍善よりも伊織であった。


 武器を所持した七人を一瞬で血の海に沈めた伊織の実力は相当なものであった。


 だがそれは聖の自宅で戦ったときもそれは感じていた。


 この人間は普通ではないと。


 ただ、あのときとは一つだけ違うことがある。


 涼一は両腰に携えていたナイフを瞬時に抜いた。


 ナックルガード付のナイフを指先でくるりと回して逆手に握った。


 逆手二刀流の構えである。


 初めて伊織と対峙したときは油断していた。


 いや、それは油断ではなかった。


 焦っていたのだ。


 聖を誰とも知らない人間たちに連れ去られる現場を目撃し、不覚にも思考が上手く働いていなかったのである。


 だが今は違う。


 伊織は静かな足取りで涼一に近づいてくると、互いの距離が五メートルの場所で立ち止まった。


 涼一を真正面に捕らえながら持っていた短刀の切っ先を突きつける。


「甲賀流〈影組〉忍頭、山波伊織――参りますッ!」


 そう言い終えた刹那、伊織は順手に握っていた短刀を逆手に握り直すと、勢いよく床を蹴って一気に間合いを詰めてきた。


 馬鹿正直に真正面から突っ込んでくる。


 涼一もほぼ同時に床を蹴って疾駆した。


 二人の間合いが一瞬でゼロになる。


 甲高い金属音がホール部屋に鳴り響いた。


 伊織が斬りつけてきた短刀を涼一が片方のナイフで弾いたのだ。


 すかさず涼一は反撃を繰り出した。


 伊織の武器は短刀が一本。


 対してこちらはナイフを二本持っている。


 だからといって必ずとも有利とは限らないが、片方で攻撃を捌いた場合もう片方のナイフで攻撃できる。


 涼一は左手のナイフで伊織の斬撃を受け流しつつ、右手に握ったナイフを伊織の首筋に向けて水平に斬りつけた。


 しかし伊織は上半身を後方に反らして回避した。


 薙ぐように斬りつけた涼一のナイフは虚空を斬ったに過ぎなかった。


 だが、涼一はその回避行動を読んでいた。


 伊織の眼前を通り過ぎたナイフを空中で止めた涼一は、そのまま止めたナイフを伊織に向けて再度斬りつけた。


 涼一はナイフを逆手に握っていたため、斬りつけるというよりも突き立てるような形になる。


 だが次の瞬間、伊織は反らした身体を半回転させた。


 そしてその回転力を利用して伊織は涼一に反撃してきた。


 蹴りである。


 涼一が伊織の胸元にナイフを突き立てるよりも速く、伊織の蹴りが涼一の顔面に命中した。


 それも不運なことに顎に近い部分に蹴りが命中したため、涼一の脳は頭蓋の中で激しく左右に揺さぶられた。


 しまった!


 涼一は朦朧となった意識の中で激しく動揺した。


 脳が揺さぶられると人体にどんな悪影響が出るか涼一は身を持って知っていた。


 脳震盪である。


 頭部などに衝撃を受けると一時的に意識障害が起こるのだが、とりわけ後遺症が残るようなものではない。


 ただしそれは通常の場合であった。


 そして今は通常時とは程遠い戦闘時であり、ほんの数秒の意識の消失が致命的になる状況であった。


 涼一はぐっと奥歯を噛み締めた。


 運良く意識は失わなかったが、その衝撃の影響はすでに足にきていた。


 膝がガクガクと笑い、視界も微妙にぼやけていた。


 非常にまずい状況であった。


 今の状態では追撃をまともに受けてしまう。


 しかし涼一がそう思った瞬間、すでに伊織は身体を半回転させて体勢を整えつつ追撃を繰り出してきた。


 ドズン、と鈍い衝撃が涼一の腹部を襲った。


 半開きになった口元から透明な液体を吐きながら、涼一は視線を下に向ける。


 涼一の腹部には伊織の肘が深々と突き刺さっていた。


 短刀の切っ先ではなかったことは幸いだったが、それと同等の痛みが腹部を中心に全身へと走った。

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