第18話 まちわびた再会
鉄格子の間からは満月の光が斜めに差し込み、まだあどけない少女の顔も青白く染めていた。
そこは狭い個室であった。
広さはせいぜい十畳ほど。
室内には洋式トイレだけという留置場のような部屋の中に、聖は一人ぽつねんと正座していた。
だが、顔はうつむいてはいない。
窓にはめられていた鉄格子の隙間から満月を見ていた。
いや、正確には見てはいなかった。
ただ夜空に浮かんでいるのだろうと思い、顔を向けていたに過ぎなかった。
「涼一さん、今頃は何をしているのかしら」
聖は〈影組〉の忍者たちにこの本部施設に連れてこられてからも、ずっと涼一のことを考えていた。
自分は目が見えない。
だがその分、嗅覚や聴力には自信があった。
どんな薄い匂いも嗅ぎ分けることができたし、どんな小さな音も聞き分けることができた。
点字も習っていたので字を読むこともできる。
そして生まれてからずっと目が見えなかったので、健常者が急に視覚障害者になるよりも光に対して気にすることはなかった。
しかし、今だけはこの目が見えないことが恨めしい。
聖は思い出していた。
涼一に自宅まで送ってもらった道中は本当に楽しかった。
何気ない日常会話のやりとりだったが、涼一の言葉には嘘偽りが混じっていなかった。
人間は自分が味わったことのない痛みは決してわからない。
視覚異常もそうである。
目が見えないといえば、大抵の人間は親身になって接してくれる。
しかし、言葉の節々からはどこかで哀れんでいる韻が含まれており、聖はそれを明確に察していた。
それは言い換えれば屈辱であった。
自分も同じ健常者と同等に扱ってほしい。
そんな思いが聖の胸中には収まっていた。
「でも、そんなことは無理だってわかってる」
そう、誰よりも自分がそれをよくわかっていた。
自分はたまたま目が見えなかっただけだが、もし耳が聞こえなかったらどうか?
手足が不自由だったらどうか?
一生、寝たきりの生活を余儀なくされる難病に犯されていたらどうか?
聖は溜息をついた。
わからない。
わからないのである。
ゆえに健常者が視覚異常者である自分を哀れんだとしても、それを屈辱と考えるのは間違いであった。
何故なら、それが世間一般の正常な反応なのだから。
しかし、涼一は違った。ず
っと手を握ってくれたまま、哀れんだ韻を含まない言葉で話しかけくれた。
温かかった。
会話がとても温かかった。
聖はゆっくりと立ち上がった。
そのまま軽快な足取りで窓まで近づくと、より一層満月の光が自分の顔に降り注ぐような感じがした。
聖の頭の中には涼一の顔がぼんやりと浮かんでいた。
と言っても、本当の涼一の顔は見たことがない。
ただ、涼一の顔を触らせてもらったことはあった。
髪型、顔の輪郭、目の形、鼻の高さなどから、あくまでも想像として雑賀涼一という人物を頭の中のスケッチブックに描くことはできる。
精悍な顔つきをした少年である。
何と形容すればいいのだろう。
自分の意志に反する行為は絶対に認めないという力強さがあるというか、他人からどう言われようが自分の信念を貫こうとするような顔つきであった。
「……雑賀涼一」
思わずフルネームで聖は呟いてしまった。
そしてはっと気づく。
先ほどから何度同じように涼一の名前を呟いているのだろうと。
不思議な高揚感だった。
偽りの父親と一緒にいるときも、施設で少年少女たちと一緒にいるときの感じとはまったく違う。
聖は自分の胸にそっと両掌を重ねた。
心臓の鼓動がリズムよく動いている。
涼一のことを考えるといつもこうだった。
胸が締め付けられるというか、呼吸が荒くなり息苦しくなる。
だが辛くはない。
それどころかひどく落ち着くのである。
それは、十四年の人生の中で初めて芽吹いた淡い恋心だと聖は気づき始めていた。
そしてもう一度、直に涼一に会いたいという思いが募っていた。
自分の気持ちを伝えなくてもいい。
ただ、喋るだけでいい。
たったそれだけでいい。
それからしばらく涼一に対する密かな思いに耽っていた聖だったが、常人よりも聞こえがよかった耳はこの部屋に近づいてくる足音を嫌でも拾った。
とても静かな足音だったが、聖はすぐにそれが誰だかわかった。
ガチャッと施錠されていた鍵が外されると、その人物はそっと部屋の中に入ってきた。
「気分はどう? 聖」
部屋の中に入ってきた人物は伊織であった。
だが伊織の問いかけに聖は無言で通した。
「実の姉がこうして顔を見せにきたのに無視をするの? いい御身分ね、聖」
伊織はキッと聖を睨みつけるが、もとより聖は目が見えないので効果がない。
だが聖は伊織から放出されている微弱な怒りに気づいたのか、真剣な表情で伊織を見据えた。
「姉さん。橋場さん……橋場さんはどこにいるのですか? 伊織姉さんなら知っているんでしょう?」
聖の口から出てきた名字を聞いて、伊織は首を傾げて記憶を辿った。
しばし脳内を検索した後、ようやく思い出しように頷く。
「橋場? ああ、あんたの境遇を哀れに思って馬鹿な真似をした幹部信者ね。ええ知ってるわよ。今頃、冷たい土の中でゆっくりと眠ってるんじゃないかしら」
その言葉を聞くなり、聖の顔面から血の気が引き潮のように引いていった。
それにともない心臓に数百本の針を打ち込まれたような痛みを感じ、普通に呼吸をするのさえ苦しくなった。
それほど信じがたい内容だった。
目元から涙が溢れ出るほどに。
「どうして、どうして姉さんたちはそんな非道なことが平然とできるんですか? 橋場さんは本当に良い方でした。そんな人を殺めるなんて……」
次の瞬間、ぎりりと歯を軋ませながら、伊織は固く握った拳を身近な壁に叩きつけた。
コンクリート製の壁はビクともしなかったが、その衝撃は内部に浸透していた。
その証拠に天井からはぱらぱらと小さなゴミが零れ落ちてくる。
「あんたは本当に甲賀流の恥さらしね。わかってるの? あんたは抜け忍も同じなのよ。本来ならば即始末するところだけど、お父様はまだあんたの力を必要としている。だからこそ殺さないのよ。そのことを胸に強く刻んでおきなさい」
吐き捨てるように言い放った伊織は、そのまま鉄製の扉を開けて外に出ていった。
すぐに鍵が施錠される音が鳴る。
すると、扉の外にあった伊織の気配が一瞬で消えた。
聖は伊織が使用した〈陰形術〉の完成度に改めて戦慄した。
伊織は甲賀流忍者の中でも麒麟児と謳われたほどの術者である。
気配を完全に消して敵地に潜入することなど造作もなく、噂によればあまりにも気配を消す術が凄すぎて目に見えているというのにその姿を認識できないほどだという。
しかしそれは単なる噂ではなく、事実だということを聖は知っている。
現に今も扉の向こう側に消えた伊織の気配が一瞬で捉えられなくなった。
常人よりも感覚が鋭い聖でさえ遠ざかる伊織の気配を追えなかったのである。
「涼一さん」
聖は涙を手の甲で拭いながら涼一の名前を呟いた。
たった一日世話になっただけの赤の他人であったが、自分を連れ出してくれた橋場と同じ匂いを感じていた。
だからこそ会いたくなった。無性に会いたくなった。
そう考えた瞬間、聖の気分は奈落の底にまで落ち込んだ。
そんなことは絶対に実現しない。
橋場家の自宅前で涼一とはきちんと別れた。
おそらくあのまま涼一は帰宅し、今では自分のことを思い出さずに日々を送っていることだろう。
当然である。
たった一日かそこらの面倒を見た人間のことなど、時が経つにつれて風化していく。
それにどう考えても涼一がこの場所に来ることはありえない。
ここは涼一たちが住んでいる街から数十キロも離れた山中であり、どうやってここに自分がいるのだとわかるというのだ。
淡い期待だった。
いや、ほとんど妄想といっていい。
もう忘れよう。
忘れる努力をしよう。
聖は自分の記憶から涼一の存在を抹消することに決めた。
このままでは自分の心がどうにかなってしまう。
それでも人間はすぐに記憶は消すことはできない。
聖は落胆するように顔をうつむかせた。
まさにそのときである。
聖はうつむいていた顔を上げ、そのまま扉のほうに向けた。
誰かが来る。
「おお、本当にいたぜ!」
「ほう、中々可愛いじゃねえか」
「ぼ、僕の好みなんだな」
そう言いながら鍵を開けて部屋の中に入ってきたのは、それぞれ年齢も体型も違う三人の男たちであった。
筋肉質の角刈りの男に長髪の優男、そして舌なめずりをしている太った丸眼鏡の男。
三人とも赤いスーツを着ていることから信者であったことは間違いなかったが、聖にはその姿は確認できない。
だが、ひしひしと感じていた。
三人の男たちから放たれている吐き気を覚えるような下種な気配に。
聖は瞬時に理解した。男たちが何の目的でこの部屋にやってきたかを。
それでも聖は動揺することなく招かざる客の応対を取った。
「こんな夜更けに女一人の部屋を訪れるのは無礼ではありませんか? 即刻、出て行ってください」
険を込めた言葉を男たちに放った聖だったが、男たちにとってそれは自分の欲求を高める材料の一つでしかなかった。
「ヒュウ~、いいねいいね。その容姿にその言葉、そそるね~」
角刈りの男が口笛を吹くと、隣にいた長髪の男は手櫛で髪を整えながら頷いた。
「だから言っただろ? この小女は特別だって」
男たちは下卑た笑みを浮かべていた。
目の前にいる聖を人間ではなく、ただの性の対象としか見ていない顔つきであった。
「なあなあ、いいだろ? この子を好きにしていいんだろ?」
丸眼鏡の男は三人の中央にいた長髪の男にそっと囁いた。長髪の男は囁き返す。
「もちろんさ。何せ相手は目が見えないんだ。こっちが名前を明かさない限り俺たちのことはバレない。好き放題だろうが?」
丸眼鏡の男は「くっひっひっ」という変な笑い方をした。
好き放題という言葉を聞いて気分が高まってしまったのだろう。
聖は眉間に皴を寄せた。
男たちは先ほどから自分に聞こえないように小声で喋っていると思っているだろうが、はっきり言って筒抜けであった。
どんなに男たちが小声で喋ろうが、この部屋にいる限り聖の耳にはどんな小さな音も届いてくる。
三人の男たちは打ち合わせを止めると、じりじりと聖に向かって近づいていった。
聖は男たちの打ち合わせをしっかりと聞いていた。
だが、打ち合わせといっても粗末なものだった。
自分を力ずくで押さえつけ、持参した眠り薬を嗅がせて意識を奪う。
そのあとは時間と自分たちの気持ちと体力が続く限り事に及ぶ。
手口の巧妙さや男たちの落ち着き振りから、聖はこの男たちは常習犯だと察した。
まさに吐き気を覚える男たちであった。
聖はゆっくりと近づいてくる男たちは自分と同じ人間ではなく、本物の悪魔か鬼畜のように思えた。
そして同時に、自分一人の力では現状を抗えないことも悟ってしまった。
こんな下種な人間たちに身体を汚されるのか。
聖は血が滲むほど唇を噛み締めた。
「おいおい、抵抗しないのかい?」と角刈りの男。
「ふっ、もしかしてこうなることを君も望んでいたりして」と長髪の男。
「ど、どうでもいいよ。早く、早く」と丸眼鏡の男。
聖は男たちを正面に見据えながら拳を固く握り締めた。
その瞬間、
「うおッ!」
「な、何だッ!」
「ひいッ!」
部屋の中央まで歩み寄っていた三人の男たちは、悲鳴を上げながら大きく仰け反った。聖はすぐに顔を横の壁に向ける。
聖が向けた視線の先には、人間一人がようやく通れる大きさの通風孔があった。
もちろん聖は目が見えないため視認することはできないが、あることは知っている。
そして今、いったい何が起こったかというと、その通風孔の表面を覆っている金網が何故か恐ろしい速度で飛来し、男たちの眼前を掠めていったのである。
三人の男たちは予想していなかった不測の事態に驚き、後頭部や背中を壁に激しく強打させた。無様な呻き声を発しながらのた打ち回っている。
「ああ……」
聖は思わず口元を両手で覆った。
自分の心の燭台に立てた決心という名の蝋燭の炎が、強風に煽られたように激しく揺れ始めた。
信じられなかった。
そんな気配などまったく感じなかったが、間違いなくそれは現実の出来事であった。
今、聖の目の前には一人の少年が立っていた。
姿形は視認できない。
だが、確実に目の前には一度は忘れようと決心したあの少年がいる。
「危ないところだったな、聖」
間違いなかった。
ずっと頭の中に残っていた逞しい声であった。
そのとき、聖の中にあった氷解が急速に解け始めただけではなく、決心という名の蝋燭の炎も吹き消える寸前であった。
もう聖が二度と会うことはないと諦めていた少年は、三人の男たちを睥睨しながら激しい怒りに打ち震えていた。
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