第4話「黒歴史を作った元想い人は、なぜか俺に優しくしてきます」
「あ、部屋は本当にすぐそこで……」
男っていう生き物は、随分と単純な生き物だと思う。
ちょっとしたことで、すぐ調子に乗る。本気と捉える。真に受ける。
「本当にありがとう、
憧れの
更には知り合いのレベルを越して、こんなにも親しくさせてもらっている。
自分の人生幸運なのか不運なのか分からない。
「そこまでだったら、俺一人でも運べます」
笹田結奈さんが指し示す部屋まで、たかだか数歩でしかない。
この人を叩き起して歩いてもらった方が早いような気もするけど、初めましてのその人にそんなことができるわけがない。
「っていうか、女性に介抱させるまで炭酸飲料飲み干すとか……」
「意外と炭酸で酔っちゃう人って多いのよ?」
「アルコールを扱っていないっていう、お店の配慮が台無しだと思います……」
笹田結奈さんを心配して、中から人が出てくるということはないのだろうか。
やっぱりこの二人は付き合っていて、部屋の中には誰もいないのか。
もし、この二人が付き合っているのだとしたら、しっかりしてくれ! 彼氏!
「ごめんなさい、和生くん」
一人で対処できなくなって、ごめんなさいなのか。
彼氏が迷惑かけて、ごめんなさいなのか。
どちらにしても、笹田結奈さんに謝られると胸が痛い。
「和生くんは、そっか……」
「はい?」
「どう? 初めての先輩方との食事会」
そう言って、彼女は満面の笑みを見せてくれた。
「楽しんでる?」
「っ」
この笑顔が大好きで。
この笑顔が見たくて。
この笑顔を守ってあげたくて。
それで俺は、声優の笹田結奈さんに恋をした。
「あれ? 今日だったよね? 食事会」
「あ……えっと……はい……」
昨日も、俺と笹田結奈さんは言葉を交わし合った。
俺が先輩方と初めての食事会ってものを経験しますってことを、笹田結奈さんはきちんと記憶に留めてくれていた。
人間という生き物は誰と何を話したかなんて、すぐに忘れてしまう。
それなのに、いちいち俺と何を話したかを覚えているとか、男心をくすぐるポイントを理解しすぎだと思う。
「俺の予定なんて、忘れてくれて良かったんですよ」
本当は、嬉しすぎて叫びたい。
行く先は暗闇しか見えてこないような高校生活を送っている俺に、少し遅れたプレゼントを神様がくれたんだって。そんな喜びを抑えきれない。
(でも、俺は笹田さんを見返すって決めた)
笹田さんに
俺は、プロの声優として笹田結奈さんを見返すって決めたはず。
「忘れるわけないでしょ?」
それなのに。
「だって!
なんで。
「こういうところで、ちゃんとコネを作っておくのはとっても大切で……」
なんで、俺の気持ちを揺さぶるようなこと言うんですか?
俺、あなたに
(もしかして笹田さん、わざとやっているのかも)
実は俺の正体に気づいていて、笹田結奈さんも笹田結奈さんで俺に対して復讐したいのかもしれない。
炎上きっかけになったオタクへの復讐。確信犯。
それなら、彼女の行動すべてに納得できる。
「中に人、います?」
平生を装いながら、襖向こうに誰かがいるか確認する。
「うん。あ、ここまで運んでもらえたら大丈夫。あとは私たちの責任だから」
笹田結奈さんは、いっつも笑みを絶やさない女性だった。
そこが、可愛いわけですけど。
そこに、惚れ込んだわけですけど。
「あ、そうだ! 和生くん」
俺の正体を知っていても知らなくても、こんなにも可愛らしい笑みを向けてくれるなんて反則だと思う。
元笹田結奈オタクから言わせてもらうと、彼女から笑顔を向けられただけで心が大きな喜びを咲かせていくから困り果ててしまう。
「どうかしました?」
襖の横に男を寝そべらせると、笹田結奈さんは満面の笑みを浮かべて俺を見ていた。
そんなに嬉しいことがありましたかと尋ねたくなるくらい綺麗な笑顔で、元想い人だったということを加味したとしても、彼女の笑顔は驚くほど美しい。
「今、放送してる『
艶やかな顔で、にっこりと笑ってくれる彼女の表情。
「あと、『
俺の実績を、自分のことのように喜んでくれる彼女の声。
「あ、でも、『四月坂の君』に出演していたときは、和生くんだって分からなくて……」
神様って奴は、神様って存在は、本気の本気で意地悪だ。
これじゃあ、いつまで経っても俺は笹田結奈さんから卒業できない。
「あ、『クライシスムーン』のレスティ役! 期待してるからねっ」
笹田結奈さんの口からは、俺が携わらせてもらった作品の名前が次々に出てくる。
(本当、もう、その口を閉じてほしい……)
これ以上、俺を喜ばせるなんて、最高の復讐方法だと思う。
「この間、雑誌で発表あったよね? 春の新番組! 和生くんの名前が二番目にあって、スゴク嬉しくなっちゃった!」
高校時代の延長で、俺が笹田結奈さんのファンのままだったら。
彼女は、こんなにも綺麗な笑顔を見せてくれない。
(俺が……今は声優をやれているからであって……)
このまま彼女の笑顔を見続けていたら、気持ちが抑制できなくなりそうだ。
これからの、笹田結奈さんとの関係を期待してしまう。
俺に惚れてくれるんじゃないかって自惚れた気持ちが、再び復活してしまう。
「和生くんを雑誌で見かける機会が凄く増えて、森村荘の同期としては物凄く嬉しいの」
「……森村荘の入居日、一緒でしたもんね」
「同じ日に入居した同業者くんが、本当に良い子で良かったな~って」
酔っ払ってこの場に寝込んでいる、この男性。
頼むから起きてください。
俺、もう、自分でいられる自信がない。
「ゆいなちー、大丈夫ー?」
天からの助けは、この泥酔している男性ではなかった。
襖を開けて、部屋の中から廊下の様子を窺う女性。
この人こそ、俺を助けてくれた女神様。
「俺、もう行きます。荷物持ってくれて、ありがとうございました」
笹田結奈さんから解放されるべく、俺はここから立ち去ろうとした。
こっちもこっちで、炭酸酔いを引き起こした先輩声優たちが待っている。
「ああ!
「え、あ、はい」
廊下の様子を覗きに来てくれた女性は、顔見知りだっただろうか。
早くこの場を立ち去りたいという気持ちから、その女性の顔を確認しなかった。
俺の名前を知っているってことは、もしかすると知り合いだったのかもしれない。
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