伯爵家の堅物当主は元同級生から離れられない

 アーサー・グレイは、同級生のリチャード・ウィンザーが嫌いだった。


 彼はウィンザー公爵家の嫡男である。

 公爵家というのは王家に連なる血筋で、他の貴族とはいささか性質や役割が異なっている。国が安泰であるためには、公爵家が安泰であることが重要になってくるのだ。それゆえに責任が重い。

 なのに彼はその責任を軽視している。

 公爵家の人間ともなれば公の場に出ることも多いのだが、彼はごくたまにしか姿を現さない。未成年のうちだけならまだしも十六歳で成人になってもだ。それはすべて彼個人のわがままだという。

 学業においても真摯に取り組んでいる姿勢が見えない。自主的に勉強している様子はなく、授業中でもぼんやりと窓の外を眺めていることが多い。ときには目をつむって微睡んでいることさえある。

「いまは自習の時間だ。居眠りをしていいわけじゃない」

「んだよ……誰にも迷惑かけてないんだから別にいいだろう」

「いいかげん公爵家の後継者たる自覚を持ったらどうだ」

「おまえ、ほんといつもそればっかりだな」

 そんなやりとりは日常茶飯事だった。

 課題の提出もいつも期限ギリギリだ。催促する役目はたいていアーサーに押しつけられる。誰も未来の公爵の不興を買いたくはないのだろう。先生も級友もみんな及び腰なのが腹立たしい。

「君はどうして期限ギリギリにしか提出しないんだ」

「期限には間に合ってるんだからいいだろう」

「催促されなければ提出しないつもりじゃないのか?」

「まさか」

 アーサーが苦言を呈すのは、彼を公爵たるにふさわしい人物にしなければと思ったからだ。級友として、貴族として、国民として——頼まれもしないのに勝手に使命感にかられていたのである。

 もっとも成績は彼のほうが良かった。いつも学年一位か二位で、アーサーはだいたい五位前後で一度も勝てたことがない。武術と剣術も彼が群を抜いて優秀である。ついでにいえば見目もいい。

 そんな恵まれたものを持っているにもかかわらず、何にも関心を示さず、いつも醒めた目をしていることがひどくもどかしかった。

 決して孤立しているわけではない。多くのひとに囲まれて笑みを浮かべてはいるが、誰にも心を許していないように見えるのだ。ときどき避難するように穴場の木陰でひとり寝転んでいた。


 八年の学生生活を経て、雲ひとつない快晴の日に卒業を迎えた。

 首席はリチャードである。これが不正や忖度でなく実力によるものだということは、同級生であればみんなわかっていただろう。本人は望んでいなかったようで面倒そうにしていたけれど。

 それでも卒業生総代の辞は立派なものだった。内容もだが、それを堂々と述べる彼自身の姿に惹きつけられてしまった。さすが公爵家に生まれた人間だけのことはあると、感心せざるを得ない。

 式が終わると、彼は中庭で大勢のひとに囲まれていた。

 それを横目で見ながら通りすぎようとしたところ、彼がこちらに気付き、すぐにまわりのひとたちに断ってひとり駆け寄ってきた。めずらしく屈託のない表情をしているように見える。

「アーサー、いろいろ世話になったな」

「自覚があったのか」

 急に殊勝なことを言われて軽く驚きながらそう返すと、彼はおかしそうに笑った。

 つられてアーサーもかすかに笑みを浮かべた。これからはもうあまり顔を合わせることもなくなるし、苦言を呈することもなくなる。そう思うと、すこしだけ感傷的な気持ちになった。


 卒業後、アーサーは領地に戻った。

 領地経営をみっちり叩き込みたいという父親の意向である。アーサーは後継者として手伝いながら学んでいった。そしてほどよい頃合いに親の決めた相手と結婚し、三人の子供にも恵まれた。

 妻のアリシアとは政略結婚だが、相性が合っていたようであたたかい家庭を築けていると思う。夫婦として互いに尊重し合いながら子供たちを慈しむ日々に、かつてない幸せを感じていた。


「それでは王都に?」

 文官として働かないかと王宮から打診があり、それを承諾した旨を告げると、妻のアリシアは驚いたようにそう聞いてきた。アーサーは静かに頷く。

「先方が急いでいるので来週には行かなければならない。それで、できれば君と子供たちも一緒に連れて行きたいと考えている。まだ子供たちが幼いし、君には少なからず負担をかけることになると思うが……」

「もちろん一緒に行きますわ」

 迷う素振りもなく彼女はにこやかに即答した。

 家族一緒に暮らしたいという気持ちは彼女も同じなのだろう。それでも急だったにもかかわらず笑顔で承諾してくれたことはありがたく、頭の下がる思いだった。


 翌週から、家族ともども王都のタウンハウスで暮らし始めた。

 急に環境が変わって子供たちがどうなるかと心配していたが、すぐに馴染んだ。特に第一子のシャーロットは街が好きなようで、使用人の買い出しにもしょっちゅうついていくという。

 アーサーは予定どおり王宮で文官として勤めている。しばらく人手不足だったので仕事がたまっていたらしく、かなり忙しくはあったが、それでも夜遅くまで働かされるようなことはなかった。


「え、アーサー?!」

 ある日、文官としての仕事で騎士団本部に足を運んだところ、ふと驚いたように名前を呼ばれた。ありふれた名前なので自分のことなのか不明であるが、反射的に声のほうに振り向く。

 そこには騎士服姿のリチャードがいた。

 思わず目を見開くが、そういえば彼は卒業したら騎士団に入るという話だった。公爵家の嫡男としては異例のことで、当時はかなり話題になったはずだ。いまのいままで忘れていたけれど。

「ウィンザー侯爵、お久しぶりです」

「いや、リチャードでいいよ」

「そういうわけにはまいりません」

「相変わらずだな」

 リチャードはそう言って苦笑する。

 現在、彼は従属爵位であるウィンザー侯爵を儀礼称号として名乗っている。学生のときは階級など関係なく対等に話すことになっていたが、社会人となったいまはそういうわけにもいかない。

「おまえ領地に帰ったって聞いたけど」

「はい、ですが王宮に勤めることになりまして」

「なるほどな」

 騎士団にも王宮の人手不足の影響があったという話なので、彼もそのあたりのことは聞き及んでいたのだろう。

 流れで妻子のことも尋ねられた。隠すことでもないので聞かれるまま答えるが、こういう話を穏やかに彼としていることが何か不思議だった。それだけ二人とも大人になったということかもしれない。

「あなたは……」

「ん、ああ、俺は先日婚約したところ」

「それはおめでとうございます」

 彼にも聞いてみたところ、思いがけない答えが返ってきて表情が緩んだ。

 公爵家は何より血筋を絶やさないことが求められている。なのにその嫡男である彼が結婚を忌避しているようだったので、学生時代は勝手に気を揉んでいたのだ。あとは彼個人の幸せにもつながるよう願うばかりである。


「すみません、失礼ですがグレイ卿でしょうか?」

 会話が途切れたところで、事務方と思われる男性がアーサーに声をかけてきた。自分を知っている人間がそういないはずのところで名指しされ、思わず怪訝な顔になる。

「そうですが……」

「さきほど近所の子供がこれを持ってきまして。どうやら見知らぬ男から騎士団本部に届けるよう頼まれたらしいのですが」

 差し出された封筒には『グレイ卿』と宛名が記してあった。

 おそらく騎士団本部に入るところを見ていたのだろうが、それにしても不可解だ。封筒を裏返してみても差出人の名前は見当たらないし、封蝋の紋章らしきものにも見覚えはない。けれど——。

「アーサー、いますぐ開けろ!」

「えっ、どういうことでしょうか?」

「いいから開けろ!!!」

 リチャードが血相を変える。

 戸惑いながらもアーサーは言われるまま封蝋を破り、二つ折りの手紙らしきものを取り出して開くと、冒頭の文章に目を落とす。それはいわゆる脅迫状だった。娘のシャーロットを誘拐したから身代金を払えという——。

「貸せ!」

 血の気が引いたまま呆然と立ちつくしていると、リチャードがひったくるように脅迫状一式を奪い取った。ひととおり目を通したのち、怖いくらい真剣な顔でアーサーを見据えて問いかける。

「アーサー、おまえ身代金は用意できそうか?」

「領地に帰れば……ですが、三日で用意できるかは……」

「だったら俺が個人的に貸してやる」

「えっ」

 当然ながら気軽に借りられるような金額ではない。ごく親しい相手であっても躊躇してしまうだろう。まして久方ぶりに再会したばかりの元同級生という、交流さえなかった相手になんて。

「いえ……それ、は、さすがに……」

「他に当てはあるのか?」

 そう言われて考えてみるが、それだけの金額をすぐに用意できるひとなどそういないだろうし、そもそも王都に来て間もないので交流のある知人からしてあまりいない。だとしたら——。

「お言葉に甘えさせていただきます」

 気は引けるが、娘の命がかかっているのだからなりふり構っていられない。

「おまえは家に帰って状況を確かめてこい」

「わかりました」

 そう答えてすぐに自宅に向かう。

 リチャードに命じられて事務方の男性もついてきた。名はレオという。冷静ではいられないかもしれないので、事情を知っている人間がいてくれるだけでありがたい。

「あなた! シャーロットがいなくなったみたいなの!」

 邸宅に入るなり、妻のアリシアが顔面蒼白でそう訴えてきた。

 やはりシャーロットは誘拐されていたようだ。焦燥と恐怖と不安と怒りでどうにかなりそうだが、自分がいまここで取り乱すわけにはいかない。

「話を聞かせてくれ」

「侍女のマヤがシャーロットを連れて街へ買い物に行ったんですけど、彼女ひとりが路地裏で頭を殴られて気絶していたらしくて……シャーロットの姿はあたりを探しても見当たらなかったみたいなの」

 おそらくそのときに誘拐されたのだろう。侍女を殴り倒してまでということは、最初からシャーロットを狙っていたとしか思えない。それもグレイ伯爵家の娘であることを知ったうえで。

「マヤはいまどこに?」

「病院です。さきほど執事が向かいました」

「わたしも話を聞いてこよう」

「お願いします」

 アリシアの双眸はひどく不安そうに揺らいでいた。そんな彼女に追い打ちをかけるのは気が咎めるが、黙っているわけにもいかない。アーサーは覚悟を決めると一呼吸してから切り出す。

「実は、シャーロットを誘拐したという脅迫状が届いている」

「えっ?」

「身代金の受け渡しは三日後と指定されているから、それまでは無事だろう。身代金は借りられることになったし、騎士団も動いてくれている……シャーロットは必ず無事に戻ってくる」

 最後は力強く断定した。

 アリシアはいまにも泣きそうに顔を歪ませたが、どうにかグッと唇を引きむすんでアーサーを見つめ返すと、気丈に頷く。こぼれそうなほどの涙をその目にたたえながら。


「もっ、申し訳ありません……取り返しのつかないことを……」

 病院に行くと、ちょうど侍女のマヤが目を覚ましたところだった。かなり出血したとのことで頭には白い包帯が巻かれている。最初はまだぼうっとしていて状況も理解できていないようだったが、こちらから説明すると記憶がよみがえってきたらしく、真っ青になって震え出した。

「謝罪よりもまずは話を聞かせてほしい。何か覚えていることはないか」

「はい……いきなり後ろから何かで頭を殴られたので、顔は見ておりません。ただ、倒れたときに船乗りのような靴が見えました。潮のにおいもかすかにしたような気がします」

 これが手がかりになればいいが——。

 何か思い出したら騎士団本部まで連絡するよう言い置くと、病室の隅に控えていた執事にマヤのことを頼み、同行していたレオとともに急いで騎士団本部へ向かった。


 騎士団本部では、誘拐事件の捜査会議が行われていた。

 リチャードも参加していたが、レオが会議の邪魔にならないよう静かに呼びに行ってくれた。すぐさま抜けてきた彼にさっそく侍女から聞いた話を伝えると、彼は納得したように頷く。

「やはり港だ」

「えっ?」

 思わず聞き返すと、すこし躊躇う様子を見せながらも教えてくれた。この一年のあいだに類似の誘拐事件が三件あったこと、今回の誘拐事件も含めて同じ組織の犯行と思われること、三件で得られた情報を総合して港に目星をつけていたことを。

「それで、過去三件の事件はどうなったのでしょう?」

「……最初の二件は身代金を払って子供は無事に戻ってきた。ただ、騎士団が知ったのは身代金の受け渡しが終わってからだ。最後の一件は期限までに身代金を用意できずに騎士団を頼ってきた。それで身代金を受け取りに来た男を捕らえたが、監禁場所を吐かせようとしたところ自害され……子供は遺体で発見された」

 アーサーは息を飲んだ。わかってはいたつもりだが、その危険があることをまざまざと思い知らされた。目の前が暗くなるのを感じてふらりとする。

「そ、れは……身代金さえ払えば、無事に戻ってくると……」

「身代金はいま用意させている。ただ、騎士団としては素直に身代金を払うだけというわけにはいかない。これ以上の犠牲者を出さないために組織を壊滅する必要がある。もちろん娘の身の安全は最優先に考えるが、状況によっては身代金の受け渡し前に作戦行動をとるかもしれない」

 リチャードがつらそうな顔をして現実を告げるが、すぐには受け止められない。

 これ以上の犠牲者を出さないためにというのは理解できるし、王国や王都を守る騎士団としてはそれが正しいのだろうが、親としてはすこしの危険も冒したくない。身代金を払えば無事に戻ってくるのであればそうしたい。けれどそれは自分たちのことしか考えていないということで——。

「シャーロットは必ず助ける」

 逡巡したまま承諾も反対もできずに奥歯を食いしめていると、彼はまっすぐにアーサーを見つめてそう断言した。


 アーサーはそのまま騎士団本部に留まることになった。

 とはいえ捜査会議には入れないので来客用の部屋で待つだけだ。たびたびレオが姿を見せてはこまごまと世話を焼いてくれたが、せっかく用意してくれた軽食はあまり喉を通らなかった。

 そのうちウィンザー家の執事が身代金となる金貨を届けてくれた。それが手元にあるだけで安心感が違う。これほどの大金をこんなにも早く用意してくれた彼らには、いくら感謝してもしきれない。

 夜になると出入りが激しくなり慌ただしい気配を感じた。気にはなるが、状況については聞いても答えられないとあらかじめ言われている。アーサーにはただ祈ることしかできなかった。

 そのまま一晩が過ぎる——。

 ずっと一睡もせず、胃がキリキリするのを感じながらソファに座っていた。用意してくれた毛布はきれいに折りたたまれたままだ。いつ何が起こるかもわからないのに眠れるわけがない。

「グレイ卿!」

 空が白み始めたころ、レオが慌ただしくバタンと扉を開けて飛び込んできた。ハッとはじかれたように立ち上がったアーサーに向かって、髪を乱したまま声を張り上げる。

「娘さんが救出されました! 無事だそうです!!!」


 いてもたってもいられず騎士団本部のまえで待つ。

 シャーロットは港から馬で連れ帰るところだという。手足を縄で縛られていたので若干の擦過傷はあるが、それ以外は何ともないらしい。けれど自分の目で確かめるまではとても安心できなかった。

 朝靄が消えるころ、数頭の馬がゆっくりとこちらに向かってくるのが見えた。どうやら白馬に乗っているのがリチャードのようだ。そして、彼のまえに乗せられている小さな子供が——。

「シャーロット!!!」

 到着するのを待っていられずに我を忘れて駆け出した。リチャードは白馬を止め、眠っているシャーロットを片腕に抱えて下りると、必死に両手を伸ばしたアーサーに横抱きにして渡す。

 瞬間、アーサーの視界がにじんだ。

 そのぬくもりで、重みで、ようやく娘が無事に生きて戻ってきたことを実感した。全身の力が抜けそうなほど安堵して膝から崩れ落ちる。それでも娘はしっかりと腕に抱いたまま離さない。

「ありがとうございます。本当になんとお礼を言ったらいいか……ああ……」

「俺は騎士として仕事をしただけだ」

 リチャードはあたりまえのようにさらりと受け流すと、じゃあなと軽く手を上げ、馬を引きながら仲間と騎士団本部のほうへ足を進める。その背中にアーサーは精一杯の気持ちをこめて頭を下げた。


 数日後、妻と子供たちは領地に帰した。

 今回の誘拐事件で王都に置いておくことが心配になったのだ。必ずしも王都だからというわけではないのだろうが、子供たちに起こりうる危険は可能なかぎり回避したい。妻も同じ気持ちだった。

 領地においても、グレイ家の敷地外に子供たちを出さないよう妻に頼んだ。過保護かもしれないが、大人と一緒にいても誘拐された事実があるのだから、そうでもしないと安心できなかった。

 ただ敷地はかなり広く、小規模ながらも山や川や森などの自然があるし、広場で乗馬もできるようになっているので、遊びには事欠かない。少なくともあまり窮屈な思いはしないですむはずだ。

 遊び相手には従兄弟、つまりアーサーの弟たちの子供を考えている。いまのところ男の子ばかりなのが難点だが。みんな遠くないところに住んでいるので、ときどき来てもらうことは可能だろう。

 そして、いつか外に出るときのために護身術を習わせるつもりだ。成長に合わせてすこしずつ——。


 翌々日、ひとりの男性がアーサーを尋ねてきた。

 彼は広大な領地を有するポートランド侯爵家の嫡男で、名をグレアムという。アーサーとは同年齢で、互いの領地が隣接しているということもあり、友人というほどではないがそれなりに交流はあった。

「それで、どういったご用件でしょうか」

「いますぐ金を借りたい」

 まさか裕福なポートランド家の人間からそんなことを頼まれるとは思わなかった。いくらなのか聞いたところ、アーサーでもすぐに出せるくらいの金額だったが、だからこそなおさら何があったのか事情が気になる。

「理由をお伺いしても?」

「……先日、恩人夫妻が馬車の事故で亡くなり、その息子が借金の形に売られそうになっている。今日の午後四時までに相手方に返済しなければならないが、手持ちではすこし足りなかった。領地に戻っていては間に合わないのであなたに縋った次第だ」

 葬儀に出たとき、息子の叔父夫妻が話しているのを耳にしたという。借金の相手はカドガン伯爵だ。少年を性的に好んでいて孤児に手を出しているとか、良くない噂をささやかれる人物である。

「そうなると、本当にただの事故だったのか疑わしいですね」

「ああ……だが時間がないので、ひとまず借金を返済して彼を助けたい」

「わかりました」

 アーサー自身も誘拐事件のときに金を借りた。結局、使うことなくそのまま返却したのだが、借りられたことでどれだけ精神的に助かったかわからない。だから、自分が金を貸すことで助けられるのならそうしたいと思った。

「助かる。来週には返済する」

 金貨を用意すると、グレアムはそう言い残して屋敷をあとにした。


 翌週、返済に訪れた彼に話を聞いたところ、恩人の息子は無事に助けることができたそうで、いまは彼の屋敷に住まわせているという。関わったひとりとして上手く事が運んだことに安堵した。

「それで、その子のことはどうするおつもりですか?」

「養子先を探そうと思っていたが、よそに行きたくないと言うので悩んでいる。カドガン伯爵のところで怖い思いをしたせいだろう。一時的なものかもしれないし、いまはあの子が落ち着くのを待っているところだ」

 アーサーは頷く。

 実直で思慮深い人物なので心配はしていなかったが、この答えを聞いて、あらためて彼に任せておけば大丈夫だと思うことができた。きっとその子にとって望ましい結論を出してくれるに違いない。


「アーサー、久しぶりだな」

 慌ただしさが落ち着いたころ、王宮の仕事場に突然リチャードがやってきた。

 誘拐事件のあとも聴取などで会っていたので久しぶりという気はしないが、言われてみれば十日くらいは顔を合わせていなかったかもしれない。自席から立ち上がると軽く会釈して尋ねる。

「お約束はなかったと思いますが、いかがしましたか?」

「こっちに用があったから寄ってみたんだ」

 彼がここに来たのはアーサーの知るかぎり初めてだ。同僚の若い女性たちは色めき立っているし、上司は当惑している。公爵家の跡継ぎが前触れもなくふらっと訪れたら、そうもなるだろう。

「こちらへどうぞ」

 内心で嘆息しながら隣の応接室へ通した。

 そこは応接セットがあるだけの簡素な部屋である。仕事の打ち合わせには基本的に会議室を使うし、賓客向けには共用の立派な応接室もあるので、ちょっとした来客のときにしか使わないのだ。

「別に応接室でなくてもよかったのに」

「申し訳ありません、こちらの都合です」

「まあ二人っきりのほうがいいか」

 リチャードは軽く笑いながらそう言うと、向かいに腰を下ろしたアーサーに優しい目を向ける。

「元気そうでよかったよ」

「ええ、もうだいぶ落ち着きましたので」

「このまえは顔色が悪かったからな」

 気付いていたのか——。

 確かに誘拐事件から数日は心労が響いたのか体調が優れなかった。睡眠不足もあったかもしれない。妻子を領地に帰すための準備に追われていたのだ。それでも彼のまえではいつもどおりに振る舞っていたつもりなのに。

「ご心配をおかけしました」

 そう応じて、座ったまま丁寧に頭を下げる。

「このとおり体調も戻りましたので、今度、何かお礼をいたします」

「礼は不要だ。あくまで騎士団としての仕事だから気にしなくていい」

「でも身代金は個人的に用意してくださったのですよね」

「まあ、それは……」

 リチャードは困惑したように目をそらせて言いよどみ、そのまますこし考え込むような素振りを見せたあと、再び視線を上げる。

「じゃあ、一緒に食事に行くってのはどうだ?」

「……あなたがそれでよろしいのでしたら」

「店は俺が決める。明日の夜は都合がつくか?」

「問題ありません」

 ただ、そんなことで果たしてお礼になるのか——。

 一抹の不安を感じつつも、本人が望むものを拒否するわけにもいかず、彼に仕切られるまま約束を交わしてしまった。


 翌日、リチャードに連れられて店に向かったのだが、そこは酒場だった。

 公爵家の人間にはおおよそ似つかわしくない庶民的なところだ。うるさいくらい賑やかだが、治安は悪くなさそうに見える。おそらく騎士団の同僚たちと飲みに来たりしているのだろう。

「こういうところは初めてか?」

「ええ……」

「安心しろ。意外と味は悪くない」

 リチャードはニッと口元を上げると、店員を呼んでメニューを見ながら適当にあれこれと頼んでいく。ほどなくしてジョッキが運ばれてきて乾杯した。そのうちに料理も次々と運ばれてきて二人で食べていく。

 アーサーは何もかもが初めてだった。いかにも庶民的な料理も、大雑把な大皿の盛り付けも、ジョッキで飲む酒も、陽気で騒々しい店内も。戸惑う気持ちはありつつも料理は素直においしいと思えた。

「そういえば、おまえ妻子を領地に帰したんだって?」

 お互いの仕事のことで軽く雑談したあと、リチャードがジョッキを片手にふと思い出したようにそう言った。どうしてそんなことまで知っているのだろうと驚いたものの、表情には出さずに頷く。

「ええ……このまま王都に置いておくのはやはり心配でして」

「まあな。でも帰すまえに言ってほしかったよ。一度きちんと会いたかった」

「申し訳ありません」

 言われてみれば、恩人の彼に何も言わないままというのは失礼だった。余裕がなくてそこまで頭がまわらなかったのだが、本来なら妻とともに挨拶くらいは行ってしかるべきだろう。ただ——。

「シャーロットは元気か?」

「ええ、とても元気にしています」

「それならよかった」

 ふっとやわらかい笑みを浮かべるリチャードを見て、心苦しくなる。

 彼女は元気にしているが、どうやら誘拐された事実を忘れているようなのだ。それほどショックだったということだろう。だから、恩人がいるということさえ話すわけにはいかなかった。


 それからリチャードはたびたび仕事場に訪れるようになった。

 ただ長くは居座らず、すこし言葉を交わしただけで帰っていくのでそう支障はない。おそらくついでに寄っているだけなのだろう。同僚たちもいつしか慣れたようであまり気にしなくなっていた。


 しかし——その日、リチャードは応接室で話がしたいと言ってきた。

 最初に来たときのように簡素な応接室に通して向かい合わせに座る。ただ、そのときとは違って彼はひどく真面目な顔をしていた。アーサーもつられるように緊張して落ち着かない気持ちになる。

「先日、俺は婚約を解消した」

「えっ?」

 思わず聞き返した。聞こえていなかったわけではないが、あまりにも唐突でにわかには受け止められなかったのだ。しかし彼は何でもないかのように淡々と話をつづける。

「公表は明日だ。そのまえにおまえには伝えておきたくて」

「そう、ですか……何と申し上げたらいいのか……」

「そんな顔するな。別にショックを受けたりはしていない」

 リチャードはクレランス侯爵令嬢のロゼリアと婚約していた。

 両家の親が決めた縁談とのことだが、誰もがうらやむ美男美女でとてもお似合いだと評判だった。実際、アーサーが数週間前に夜会で二人を目撃したときも、リチャードがそつなくエスコートし、彼女も誇らしげに受けていて、これといって問題はなさそうに見えたのに——。

「何か、家のご都合で?」

「悪いが理由は話せない」

「申し訳ありません」

 どうにも信じがたくて思わず聞いてしまったが、いささか不躾だった。

 ただ、やはり考えられるとしたら両家の問題ではないかということだ。二人が仲違いした程度のことで婚約解消が認められるとは思えない。あるいは二人のどちらかに結婚を取りやめざるを得ない事情が発覚したか——。

「いつか……話せるときがきたら話すよ」

 リチャードは遠くに思いを馳せるかのような顔をしてそう言うと、アーサーに視線を移してふっと笑う。このときの表情を、アーサーはどうしてだかいつまでも忘れることができなかった。


 翌日、予定どおりリチャードとロゼリアの婚約解消が公表された。

 当然ながら、数日後の夜会ではその話題で持ちきりになっていた。理由が公表されていないことも拍車をかけているのだろう。みんな好き勝手に憶測を披露しては盛り上がっているのだ。やはり家同士の事情ではないかという説が有力なようだが、その事情については意見が分かれている。

 アーサーはその話題に積極的に加わろうとはしなかったが、リチャードの元同級生だと知られているため、何か聞いていないかとあちらこちらで尋ねられた。本当に聞いていないので正直にそう答えているが、たとえ聞いていても、公表されていないものを勝手に話すことはないだろう。

 ザワッ——。

 ふいに空気が変わった。ざわめきがさざ波のように広がっていく。

 何があったのだろうと怪訝に思いながら周囲の視線を追うと、人垣のあいだからロゼリアの姿が見えた。エスコートしているのは彼女の兄だ。まさか婚約解消した直後に現れるとは誰も思わなかっただろう。

 しかし彼女はそんな好奇の視線など意に介していないかのように、堂々と背筋を伸ばして歩いている。優美な笑みさえ浮かべながら。それは前を向いて生きていくのだという覚悟の表れのように見えた。

 まだ年若い女性なのに、強い——。

 恥知らずだの小癪だの鉄面皮だのと眉をひそめるひともいるのだろうが、むしろ貴族の常識からすればそういうひとのほうが多いのかもしれないが、アーサーはひそかに彼女に好感を持った。


「リチャード様って本当に素敵よねぇ」

 昼休憩中にあてもなく王宮内を散歩していたら、ふとそんな声が聞こえた。

 振り向くと、同僚の女性二人が庭園のベンチに並んで昼食をとっていた。どちらも後ろ姿しか見えないが誰なのかはわかる。その若いほうがどうやらリチャードに憧れているらしい。

「言っとくけど、リチャード様が婚約解消したからって夢見ちゃダメよ」

「わかってるわよ……いろんな意味で分不相応だってことくらい自覚してるわ」

「ん、それもあるけど」

 知人の話なので気になるが、だからといって盗み聞きするつもりはなかったので、そのまま足を止めずに通りすぎようとしたところ——。

「リチャード様って実は男色らしいのよ」

「え、うそ?!」

 思わぬ発言に驚き、ほとんど反射的に白い柱の陰に身を隠してしまった。幸か不幸か周囲には他に誰もいない。鼓動が速くなっていくのを感じながら聞き耳を立てる。

「婚約解消もそのせいじゃないかって」

「じゃあ、どうして婚約なんて……」

「婚約してから目覚めたとか聞いたけど」

「なるほど」

 彼女たちは合間にすこしずつサンドイッチを頬張りながら、なおも話をつづける。

「でも目覚めたというより自覚したというほうが近いのかも。子供のころからずっと女嫌いだったみたいだし、女性関係も皆無のようだし、そういうお店にも行ったことがないらしいわ」

 いまはわからないが、確かに学生時代は女性関係が皆無だったはずである。女遊びは一切しないし、娼館にも決して行かないともっぱらの噂だったのだ。そのあたりに関しては真面目だなとひそかに感心していたのだが。

「でね、リチャード様はいまアーサーに懸想してるみたいなの」

「ええっ?!」

 はあっ?!

 どうして自分が——あまりにも予想外のことでわけがわからない。もしかしたら名前が同じだけで別人かもしれないと思ったが、この二人がどちらも同僚であることを考慮すると、やはり自分だろう。

「騎士団のひとに聞いたんだけど、リチャード様って自ら積極的に交流するタイプじゃないらしいのよ。苦手なわけじゃなく淡泊みたいで。なのにアーサーには自らグイグイ行ってるでしょ?」

「確かに……」

「事務方の雑用を奪ってまで王宮に来てるって話よ」

 言われてみれば、騎士団員が王宮に来るような用事はそう頻繁にないはずだ。もちろん王宮や王族の護衛にあたっていれば別だが、リチャードはそうではない。

「ふふっ、それが本当なら初めて恋をした少年みたいね」

「騎士団でも初恋なんじゃないかって言われてるらしいの。みんなこっそりと生あたたかく見守ってるみたい。だから本人は気付かれてるなんて全然わかってなくて。何かちょっとかわいいわよね」

 笑い合う二人の声を聞きながら、アーサーはひっそりと音を立てないようにその場を離れた。彼女たちの目の届かないところまできても足を止めず、そのままあてもなく回廊を歩きつづける。

 まさか、いくら何でもそんなことは——。

 男色については判然としないが、アーサーに懸想しているというのは周囲の憶測にすぎない。こんな何の確証もないことを安易に信じるわけにはいかない。そう自分に言い聞かせた。


「よう、元気にしてるか」

 その日もリチャードはひょっこりと王宮の仕事場に姿を現した。

 妙な憶測を聞いてしまったせいで少なからず意識してしまうが、それでも努めて普段どおりに接する。どうやら不審に思われない程度には取り繕えているようだ。彼の様子はいつもと変わらない。

「おまえ十日ほど領地に帰るんだって?」

「そんなことまでよくご存知ですね」

 ほんの数日前に上司に相談して休暇をもらったばかりなのに。思わず半ば呆れたような物言いになったが、彼は気付いているのかいないのか平然として話を進める。

「それさ、俺もついていっていいか?」

「……何か御用がおありなのでしょうか」

「シャーロットに会いたくなってな」

 それが本心なのかはわからない。ただ、いずれにしてもグレイ領の邸宅までついてくれば、シャーロットと顔を合わせないわけにはいかない。机の上で組み合わせた両手に力がこもる。

「あなたがシャーロットを救ってくれたことには、本当に心から感謝をしています。ですが……こちら側の事情で非常に申し訳ないのですが、シャーロットには会わないでいただきたいのです」

「事情?」

「シャーロットはあの事件のことをあまり覚えていないようなのです。それだけショックが大きかったのでしょう。ですから、それを思い出させるようなことは避けたいと考えていまして」

「そうか……」

 ひどく残念そうにしながらも、それなら仕方ないと一応は納得してくれたようだ。それでもただでは引き下がらないのが彼である。

「じゃあ、せめて写真を撮ってきてくれないか」

「……わかりました」

 受けた恩を思えば、写真のひとつやふたつくらいやぶさかではないが、彼がそこまで必死に要求することに何か違和感を覚えた。本当に救出した少女を気にかけているだけなのだろうか——。


「おとうさま!」

 領地の邸宅に帰るなりシャーロットが満面の笑みで駆け寄ってきた。アーサーはすぐに抱き上げ、遅れてやってきた妻や息子二人とも笑みを交わし、胸を熱くしながらただいまと告げる。

 子供たちはみんな一目でわかるくらい大きくなっていたし、重くなっていた。子供の成長は本当に早い。それをこうしてありありと実感できるのは幸せだが、一緒に暮らせない現状はやはり寂しい。

「仕事を辞めたくなるな」

「さすがに早いわよ」

 おかしそうにころころと笑う妻に、こちらに戻ってからの子供たちの様子を聞いたところ、敷地内だけで楽しく日々を送っているとのことだった。いまのところ街に行きたがることもないらしい。

 ひとまずは安堵した。けれど成長するにつれて不満が出てくる可能性は大いにある。そうなったらどうすればいいのだろうか。そもそもいつまで禁止すればいいのだろうか。今後の不安は尽きない。

 とはいえ、いずれにしてもいますぐにどうこうすべき問題ではないのだ。おいおい妻と相談しながら考えていけばいいだろう。それよりもまずは子供たちと過ごす時間を優先しようと決めた。

「シャーロット、写真を撮るよ」

「写真ってなぁに?」

「肖像画みたいなものかな」

 翌日には写真技師を呼んでシャーロットの写真を撮った。ついでに妻の写真も。息子二人はまだじっとしていられないので見送ったものの、もうすこし成長したら撮れるようになるはずだ。

 決して安くはない。しかしそれに見合うだけの価値は十分にあると思っている。

 そもそもはリチャードに頼まれたことがきっかけなのだが、いまはアーサー自身がおおいに乗り気になっていた。家族の写真があれば、離れて暮らしているあいだの心の支えになるだろう。

「どれもよく撮れているな」

「わぁ、そっくり!」

 写真が出来上がると、ローテーブルに広げて家族みんなで見ていく。

 シャーロットは初めて見る写真に驚いているようだった。すぐに手にとり、凝視したり裏返したり光にかざしたりと興味津々である。一方、妻は自分の写真を目にして微妙に恥ずかしそうな顔になった。

「これ、あなた本当に持っていくの?」

「そのために撮ったからな」

 反対はしないので、ただ単に照れているだけなのだろう。

 写真はすべて折れないよう丁寧にファイルに挟んで鞄にしまった。それを持ってあした王都に戻る予定だ。寂しい気持ちはあるが、妻子を領地に帰したあのときほどの孤独感はなかった。


「シャーロットの写真です」

 王都に戻ると、約束を果たすために騎士団本部のリチャードを訪ねた。

 挨拶もそこそこに厳選した五枚を彼の執務机のうえに並べる。どれもこのうえなくかわいくてきれいで愛らしくて、彼の思惑がどうであれ、見てもらえるだけで誇らしいような気持ちになる。

「あのときよりもすこし大きくなってるよな」

「はい、元気にすくすくと育っております」

 どうして写真をと思ったりもしたが、もしかしたら本当にシャーロットのことを気にかけていたのかもしれない。彼はやわらかい微笑を浮かべつつ一枚一枚しっかりと目を通していた。ただ——。

「ありがとな。五枚ももらえるとは思ってなかったよ」

「……あの……差し上げるつもりはなかったのですが」

「えっ?」

 彼は困惑しているようだが、アーサーのほうこそ大いに困惑している。写真を撮ってきてくれとは言われたものの、写真をくれとは言われていないのだ。

「元気にしている姿をお目にかければいいだけかと」

「いや、せっかく撮ってきたんだからくれよ」

「ですが……よその子供の写真なんて要りますか?」

「俺とおまえの仲だろう!」

 どうしてそこまで写真をほしがるのかもわからないし、俺とおまえの仲というのもわからない。一瞬、アーサーに懸想しているという例の憶測が頭をよぎったが、そんなわけはないと慌てて思考から振り払う。

「わかりました」

 すこし迷ったが、恩人である彼の要望なら断るわけにはいかない。度が過ぎたものではなく写真がほしいというだけなのだ。

「それでは一枚だけ差し上げますのでお選びください」

「ん、一枚だけ?」

「もともとわたしが眺めるために持参したものですから」

「なるほど、それで五枚も撮ってきたというわけか」

 彼は得心したように頷くと、机のうえに並べられた五枚を見比べながら考え始める。どうしてそこまでというくらい真剣な様子で。

「んー……じゃあ、これをもらうよ」

 選んだ写真はシャーロットの顔がアップになっているものだ。すこしの揺るぎもない清冽な緑の瞳をまっすぐに向けられて、まるで奥底まで見透かされるかのように感じてしまう、そんな一枚である。

 なかなかお目が高い——。

 それが最もシャーロットの本質を捉えていると思っていた。もちろん他もそれぞれ違った魅力があるのだが。そんなことを考えながら丁寧に残りの写真を回収して、脇に抱えていたファイルに挟む。

「あなたも早く結婚すればいい。我が子はかわいいですよ」

「そうはいっても当分のあいだは結婚できないんだよなぁ」

「それは、どうして……」

 聞いていいのかどうかわからず躊躇いがちに尋ねると、彼はふっと思わせぶりに口元を上げ、紫色の挑発的なまなざしでアーサーを見据えて告げる。

「おまえのせいだ。責任は取ってもらうからな」

「えっ……わたしの……?」

 そのとき、最後のピースがはまった気がした。

 ここまできたらもはや誤解や曲解だと思うほうが難しい。アーサーに懸想しているという例の憶測は正しかったのだ。彼の同僚たちも、そこここでひっそりと生あたたかい笑みを浮かべていた。


 どうしたらいい——。

 その夜、自宅に帰ってからひとり書斎で煩悶した。

 学生時代はリチャードのことが嫌いだったものの、いまはそうではない。しかし彼の気持ちには応えられない。アーサーは既婚者だし、そもそも男性を相手にすることは考えられないのだ。

 それでも彼から向けられる恋情を不快には思っていない。むしろ悪い気はしていないというか、かすかな優越感のようなものさえ感じている。そんなことは絶対に誰にも言えないけれど。

 さんざん悩んだ結果、いままでどおり何も知らないものとして接することに決めた。もし交際を迫られたら丁重に断るが、彼なら現状を犠牲にしてまで見込みのない賭けには出ない気がした。


 そうして翌日からも変わらない関係をつづけた。

 リチャードは王宮に来る用事があるとついでに顔を見せるし、アーサーも騎士団本部に行く用事があるとついでに顔を出している。そしてときどき一緒に昼食をとったりもしていた。

 そのうち、たまに彼に誘われて休日に出かけるようにもなった。このあいだなど、アーサーが紅茶を好んでいることを知ったからか、わざわざ評判の店を調べて連れて行ってくれたりもした。

 シャーロットの写真については領地に戻るたびに撮影し、彼に渡している。アーサーの気を引くためかもしれないが、彼はいつも興味を持って見聞きしてくれるので、親としてはうれしかった。

 ただ、シャーロットに会いたいという要望だけは断っている。もうだいぶ時間が経過したので大丈夫かもしれないが、記憶がよみがえって再び恐怖にとらわれる可能性もなくはないのだ。


 そんな折、ポートランド侯爵家のグレアムが自宅を訪ねてきた。

 内密に相談したいことがあるので二人きりで会えないだろうか——という主旨の文を受け取り、あらかじめ承諾の返事をしていたのだ。深刻な話かもしれないと緊張しつつ応接室に通したのだが。

「実は、ある令嬢と結婚したいと思っているのだが、どうすればいいか……」

「は?」

 肩透かしを食らった気分だった。

 しかし目のまえにいる彼はひどく思い詰めた表情をしていて、本気で言っているのだということは理解できた。ただ何について悩んでいるのかまではわからない。

「縁談を申し込めばよろしいのでは?」

「それは……そうなのだが……」

 広大な領地を有し、海運の要衝も抱え、強い発言力を有するポートランド侯爵家と縁続きになりたい貴族は多い。しかもグレアムは次期後継者である。普通に考えれば先方から断られる可能性は低いだろう。

「相手側に何か問題があるのでしょうか?」

「問題というか……彼女は過去に婚約解消していて……」

「なるほど、それでご両親に反対されているのですね?」

「いや、両親はクレランス侯爵家なら歓迎だそうだ」

 クレランス侯爵家ということは相手はロゼリア嬢だろう。彼女はリチャードと婚約解消したことで傷物とみなされている。夜会でも敬遠され、ひとり壁の花になっているのをときどき目にしていた。

 そうなったのは自分のせいかもしれないという後ろめたさもあり、アーサーは何度かダンスに誘っている。実際に話してみると凜としていながらも意外と可愛らしくて、ますます好感を持った。

 だから彼女にはぜひとも幸せになってほしいと願っている。グレアムが相手であれば家柄的にも人柄的にも言うことはない。彼に結婚する気があるのなら全力で応援したいところだが——。

「では、あなた自身の気持ちの問題でしょうか?」

「……おそらく彼女はまだ元婚約者を忘れられずにいる。きっと傷も癒えていない。わたしのことを男として意識さえしてくれていない。ダンスを踊ったときの感触だと嫌われてはいないと思うが」

 侯爵家の次期後継者でもう二十代も半ばだというのに、あまりにも青いことを言うので驚いた。思わずあきれたような胡乱なまなざしになってしまう。

「それで、自分のことを好きになってくれるまで待ちたいと?」

「……彼女の気持ちを蔑ろにしてはかわいそうだ」

「だからといって手をこまねいていたら掻っ攫われますよ」

 それは決して大袈裟な物言いではない。

「婚約解消からもう二年です。あなたが好意を寄せるくらい魅力的な女性ですし、何よりクレランス侯爵家と縁続きになりたい家は多い。彼女のご両親もそろそろ次の縁談を考える頃合いでしょう」

「…………」

 彼はグッと押し黙ったまま葛藤しているようだった。額にはうっすらと汗がにじんでいる。その様子をアーサーはしばらく無言で見守っていたが、やがて静かに口を開く。

「結婚してから信頼関係を築いていくというのも、悪くないと思いますよ」

 その言葉はアーサー自身の経験によるものだ。

 もちろんひとそれぞれなので押しつけるつもりはないが、彼が後悔しない選択をするための一助になればいい。そう願いながら、まだ躊躇っている様子の彼にやわらかく微笑みかけた。


 まもなくグレアムとロゼリアは婚約し、一年の後、領地に戻って結婚した。

 今後、グレアムは後継者として領地経営をすこしずつ引き継いでいくという。アーサーはまだ王都にいる予定だが、いずれ領地に戻ったときには仕事方面でも彼と関わることになるだろう。

 結婚式にはアーサーも妻を伴って参列した。

 グレアムが好きな女性と結ばれたことには素直に祝意を表し、ロゼリアが良縁に恵まれたことにはひそかに安堵した。彼女の婚約解消にはいささか責任を感じていたので、勝手ながら肩の荷が下りた思いだ。

 ただ、二人ともまだどこか遠慮がちでぎこちなさが窺える。きっとこれから時間をかけて信頼関係を築いていくのだろう。この結婚を望んだひとりとして、二人が幸せになれるよう願わずにはいられなかった。


 その後も王都で文官として働き、ときどき領地に戻るという生活をつづけていた。

 リチャードとは友人としてそれなりに親しくしているが、想いを告げられたとかそういうことはない。やはりアーサーとどうこうなりたいわけではないのだろう。だからといって結婚して身を固めるような気配もなかった。


 ある日——何の前触れもなく、そんな日常を打ち破る出来事が起こった。

 父親であるグレイ伯爵が急死したという一報が入ったのだ。事故ではなく、急に倒れてそのまま亡くなったらしい。急いで領地に戻り、葬儀を執り行い、諸々の手続きをすませて伯爵位を継いだ。

 領地経営も継ぐので文官の仕事は辞めざるを得ない。事情が事情だけに引き留められることはなかったが、突然だったので申し訳なく思う。上司にも同僚にも迷惑をかけることになってしまった。

「大変だったな」

「ええ……」

 父親の死亡は公表済みなので、説明するまでもなく事情はわかっていたのだろう。文官を辞して領地に戻ることを告げると、リチャードはただ静かに寄り添うような言葉をかけてくれた。

 本当に慌ただしくて、大変で、悲しむ暇さえなかった。

 それでも落ち着いていたし意外と平気だと思っていたのに、彼の言葉を聞いた瞬間、何かがぷつりと切れて目頭が熱くなるのを感じた。そのとき初めて心が憔悴していたことに気付いた。

 そんなアーサーの様子に、彼はつらそうに痛ましそうに顔を曇らせた。そして何かに操られるようにそろりと手を上げかけたが、途中で戻し、代わりにごまかすような微苦笑を浮かべて言う。

「また王都に来たら顔を見せてくれ」

「はい」

 今後も何らかの用事で王都に来ることはあるだろう。

 ただ、彼もいつまでもこのまま王都にいるわけではない。その現実に思い当たり、アーサーは追い打ちをかけられたかのように感じて、うっすらと目を潤ませたままそっと静かにうつむいた。


「シャーロット、おいで!」

 まばゆいくらいの陽光が降りそそぐ芝生の庭で、二人の弟と楽しそうにじゃれあっている彼女を呼ぶと、ぱあっと顔をかがやかせて駆け寄ってきた。ドレスにも髪にもあちこちに細かい芝がついている。

「写真を撮るのね」

「そう、だけどまずは準備だな」

「はい!」

 彼女は満面の笑みで元気よく返事をすると、邸宅のほうへ駆けていく。

 今日、写真を撮るということはあらかじめ伝えてあった。五歳のころから少なくとも年二回は撮影しているので、もう慣れっこである。何を準備するのかということもわかっているのだ。

 写真はリチャードに送るためのものである。

 領地に戻ってからの慌ただしさが一段落したころ、シャーロットの写真を添えて彼に手紙を出したところ、近況をしたためた返事が来て、そこからゆるやかに文を交わすようになったのだ。

 写真については別に求められたわけではないが、手紙だけというのは何となく気恥ずかしくて、毎回、言い訳のように添えている。彼もそれなりに楽しんでいるようなので構わないだろう。

「旦那様、写真技師の方がいらっしゃいました」

「すぐに行く」

 そう返事をして、アーサーも邸宅のほうへと足を進めた。


 そんな楽しくて賑やかで平和な日々を積み重ねて、シャーロットは十五歳になった。

 少なからず親の欲目はあるのかもしれないが、本当にいい子に育った。明るくて、素直で、穏やかで、誰にでも分け隔てなく優しい。気がかりなのは聞き分けが良すぎることくらいで——。

 結局、あの日からずっと敷地外に出ない生活を強いてしまったが、彼女は一度も文句を言わなかった。

 だからといっていつまでもこのままというわけにはいかない。十六歳になるまえにすこしずつ外を見せていかなければ。あまりに世間知らずでは社交デビューにも差し障りがあるだろう。


 そんなことをのんびりと考え始めていた矢先、グレイ家に激震が走った。


「は……っ……?!」

 ウィンザー公爵家から前触れもなく正式な書状が届いたが、何なのか見当もつかず、おそるおそる開封して緊張しながら中に目を通したところ——驚愕のあまり頭がまっしろになった。

 それは、シャーロットに対する縁談の申し入れだった。

 相手はウィンザー公爵家の嫡男であるリチャードだ。そう、あのリチャードなのだ。しかもどういうわけか国王陛下の口添え状まである。何もかもが想定外すぎて現実を受け止めきれない。

 どうして、こんなことになった——。

 静寂に包まれた書斎でアーサーはひとり頭を抱え、執務机に突っ伏した。


 やがてどうにか落ち着きを取り戻すと、妻を書斎に呼んだ。

 ローテーブルを挟んで互いに向かい合わせに座り、無言で例の書状を渡す。彼女は不思議そうな顔をしてそれに目を落とすが、すぐに息を飲み、ほっそりとした色白の手でそっと口元を覆った。

「ウィンザー公爵家って……陛下の口添えまで……」

 驚愕しながらも、取り乱すことなく念入りに読み込んでいく。やがて腑に落ちない表情でそっと書状を置いた。

「ウィンザー公爵家がどうしてそこまでしてうちを選んだのでしょう。正直、うちと縁続きになっても先方に利があるとは思えません。口添えを頂戴したのなら他にもっといい選択肢があったはずです」

 その疑問に、アーサーは答える義務がある。

 彼女をここに呼んだ時点ですべて打ち明けるつもりでいたが、あらためて覚悟を決めて話していく。彼が十年前に婚約解消したのは男色に目覚めたからだということ、そしてそのころからアーサーに懸想しているということを。

「本当は結婚したくなかったが避けられなくなったのだろうな」

「では、グレイ家に縁談を申し入れたのは……」

「ウィンザー家ではなく彼個人の希望ではないかと思う」

「あなたとは結婚できないからせめて姻戚関係にということ?」

「せめてわたしの血を引いた娘をということかもしれない」

「それって、身代わり……ですよね」

 アーサーにはそれを否定することができなかった。つらそうな顔をしている彼女から曖昧に視線を外し、いま言える精一杯のことを絞り出す。

「悪いやつではないんだ。シャーロットを蔑ろにはしないと思う」

「……そう祈るしかありませんよね」

 国王陛下の口添えがある以上、縁談は断れない。

 妻にはもはや祈ることしかできないだろうが、リチャードに懸想されているアーサーになら、もうすこし何かできることがあるかもしれない。シャーロットにつらい思いをさせないために——。


「わかりました」

 縁談について告げると、シャーロットはやわらかく微笑んでそう応じた。

 さすがに相手が男色だとかそのあたりのことについては話していないが、それでも異例ずくめの急な縁談なので、少なからず動揺したりショックを受けたりするだろうと思っていたのに——。

「わたしは貴族の娘ですから、家のために結婚するのは当然だと思っています。陛下のお口添えがあるのなら従うしかありませんし、相手が公爵家なら当家にとっても悪い話ではありませんよね」

「シャーロット……」

「そんなお顔をなさらないでください。相手がどのような方なのかはわかりませんが、どうせならお父さまとお母さまのようないい夫婦になりたいですし、そうなれるよう努力するつもりです」

 そんなことを言ってニコッとかわいらしく笑う。まだ幼さの残る少女の顔で。

 泣かれるのもつらいが、これほどまで殊勝なのもやりきれない——アーサーは返す言葉が見つからずに目を伏せる。その隣で、妻はこらえきれずに顔を覆って嗚咽した。


 ウィンザー家に承諾の返事を送り、ほどなくしてアーサーはひとり王都に赴いた。

 久しぶりに訪れた騎士団本部はあのころとあまり変わっていない。懐かしく思いながら受付でリチャードへの面会を申し入れたところ、すこし待たされてから騎士団長の執務室に案内された。

 その奥の執務机にリチャードはいた。

 いつのまにか騎士団長になっていたらしい。騎士服はいささか立派なものになっていたが、彼自身の見目はあのころのままである。一礼すると、彼は気まずそうな笑みを浮かべて立ち上がった。

「久しぶりだな」

「はい」

 部下を下がらせてアーサーに応接ソファを勧めると、向かい合わせに座る。

「約束もなくお伺いして申し訳ありません。所用で王都まで来たので、失礼ながらついでに寄らせていただきました」

「来てくれてうれしいよ」

 リチャードがやわらかい微笑を浮かべるのにつられて、アーサーの頬も緩んだ。

 何となく縁談には触れないまま互いに近況を話していく。しかしすぐに話題は尽き、二人きりの部屋に息の詰まるような沈黙が落ちた。アーサーは腿のうえで組み合わせた手に力をこめる。

「……シャーロットは」

 目を伏せたまま、どうにか決意を固めて本題を切り出した。

「あの子は、わたしたち夫婦にとってかけがえのない大切な娘です。これまで愛情をもって大事に育ててきました。なので……こんなことを言える立場でないのは重々承知しておりますが……」

 そこで顔を上げると、まっすぐにリチャードの目を見据えて訴える。

「どうか、シャーロットを幸せにすると約束してください」

 彼女のために自分ができるのはせいぜいこのくらいのこと。しかし他ならぬアーサーが頼むからこそ効果がある。そう信じて、仕事が忙しいにもかかわらず自らここまで足を運んだのだ。

「ああ……必ず幸せにすると約束する」

 リチャードは目をそらすことなく受け止めてくれた。

 本当にシャーロットが幸せになれるかは別にして、きっと努力はしてくれる。少なくとも蔑ろにはしないはずだ。彼の言葉で、表情で、態度で、どうにか自分をそう納得させることができた。


 非常識に短い婚約期間は着々と過ぎていき、婚儀の日が迫る。

 リチャードは騎士団の仕事が忙しく、いまだにデートどころか婚約の挨拶にさえ来られないままだ。無理して来なくてもいいと言ったのはアーサーなのだが、やはり微妙な気持ちにはなる。

 ただ、両親のウィンザー公爵夫妻は当人抜きで挨拶に来てくれた。どちらも物腰が柔らかい印象だ。シャーロットには申し訳ないことをしたと頭を下げられて、こちらが恐縮したくらいである。

 婚儀の準備についてはすべてウィンザー家に任せてあるが、進捗に問題はないと聞いている。さすがは公爵家というべきか。ウェディングドレスもいっさい手を抜かずに間に合わせたらしい。


 そして、とうとうシャーロットがグレイ家で過ごす最後の日になった——。

 婚儀までにはまだ数日あるが、ウェディングドレスの最終調整や段取りの打ち合わせがあるので、すこし早めにウィンザー家へ向かうことになっているのだ。アーサーたち家族も同行する予定である。

「お父さま、お母さま、今日はひとりで考えたいことがあるので、部屋にいます。夜までそっとしておいてもらえませんか?」

「……わかった」

 おそらくまだ心の整理がついていないのだろう。アーサーとしてはやはり家族と過ごしてほしかったが、それを押しつけるわけにはいかない。残念に思いながらも彼女の意思を尊重することにした。

「ありがとうございます」

 シャーロットは申し訳なさそうに微笑むと、昼食用のサンドイッチと紅茶を用意して二階の自室にこもってしまった。なのでアーサーもひとり書斎にこもって仕事を片付けていたのだが——。

「お嬢さまが部屋から消えていました」

「どういうことだ?」

 夕方になり、青ざめた侍女からそんな報告を受けた。

「部屋の窓がずっと大きく開いたままで、物音ひとつ聞こえなくて、お声をかけてもまったく返事がなくて……奥様に相談して扉を開けてみたら、お嬢さまの姿はどこにもありませんでした」

 結婚が嫌で逃げた、のか——?

 部屋にはサンドイッチも紅茶も手つかずで残っていた。置き手紙は見当たらない。カーテンがゆるくはためく窓のほうへ目を向けると、すぐ近くに木が見える。木登りの得意な彼女ならそこから庭に降りられそうだ。

 だが、逃げるとしてもどこへ。金を持っていないので遠くへは行けないはずだが、彼女に同情して手引きした者がいないとも限らない。彼女と面識があるのは親族、教師、使用人くらいだろうか。

「エリザは手の空いているものと敷地内をくまなく探してほしい。メイソンはシャーロットと面識のある人物すべてに当たってほしい。同時に自警団にも捜索を依頼しておくように」

「畏まりました」

 冷静に指示を出すと、控えていた侍女と家令はともに一礼して部屋をあとにする。すぐに侍女のパタパタという軽い足音が聞こえてきた。本来であればいくら急いでいても走るべきではないのだが、いまは咎める気になれない。

「わたしも探してみます」

 動揺していた妻も、気を取り直したように足早に部屋から出て行った。


「お嬢さまーーー! どこですかぁーーー!!!」

 さっそく外から侍女の声が聞こえてきた。

 敷地内にいるのなら本気で逃亡する気はないだろうから、呼びかければ出てくるかもしれない。問題は本気で逃亡しようと敷地外に出てしまった場合だ。取り返しのつかない事態になっていないことを祈るしかない。

 アーサーは執務机につき、かすかに震える両手を組み合わせてうつむく。

 すまない、シャーロット——。

 そこまで嫌なら断ってやりたいが、陛下の口添えに従わなければ叛意ありとみなされてしまう。爵位と領地を没収されるくらいですめばまだいいが、家族もろとも処刑ということもあり得るのだ。

 結論の出ないまま胃が痛くなるようなことばかり考えていると、にわかに書斎の外がざわめく。すぐにバタバタと足音がして、開けっ放しにしていた扉の向こうから侍女のエリザが飛び込んできた。

「お嬢さまがお戻りになりました!」

 アーサーは息を飲み、はじかれたように椅子から立ち上がった。


「シャーロット!」

 リビングに駆け込むと、彼女は普段とすこしも変わらない姿でそこにいた。アーサーの姿をみとめて気まずげな顔になったものの、すぐさま我にかえったように表情を引き締めて一礼する。

「お父さま、ご心配とご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。結婚するまえに、どうしても一度カーディフの街に行ってみたかったのです」

「……逃げ出したのではないのか?」

「そんなつもりはありません。最初に言ったように結婚は受け入れていますから。いつか誰かとすることですもの。あ、これおみやげです」

 ふと思い出したようにローテーブルの上の紙袋を手に取り、アーサーに渡す。

 中にはいくつかの茶葉の瓶と小さな包みが入っていた。ローテーブルの上にはまだ同じ小さな包みが三つあるので、家族みんなに買ってきたのだろう。中身はおそらくハンカチではないかと思う。しかし——。

「おまえ、お金なんて持っていなかっただろう?」

「ネックレスをひとつ売りました。申し訳ありません」

「それは構わないが……」

 ほとんどのものはここに置いていくことになっているので、最後に役に立てたのならよかったが、未成年が売るとなると裏通りの治安のよくない店しかない。下手したら無事ではすまなかったと今更ながらヒヤリとする。

「……街は、楽しかったか?」

「はい、劇場でお芝居を観ましたし、カフェにも行きました。移動販売でサンドイッチも食べたんです。とても楽しくて……本当に、夢みたいで……」

 最初はニコニコと無邪気に声をはずませていた彼女が、途中で言葉を詰まらせる。ここではないどこかにせつなげなまなざしを向けて。その表情にアーサーは胸を締めつけられてしまい、何も言えなくなった。


 翌日、予定どおり馬車でウィンザー家に向かった。

 夜更けに到着すると、公爵夫妻はにこやかな笑顔で歓迎してくれたが、結婚する当人であるリチャードはまだ来ていなかった。どうしても外せない仕事ができたので少し遅れるとのことである。

 仕方ないとは思いつつも、婚約者どうしの顔合わせもまだなのにと不満は募る。結婚式に間に合うかも不安だ。シャーロットもそういう素振りは見せないものの、同じ気持ちではないかと思う。

 ただ、彼女にはそれなりにやることがあったのでよかった。ウェディングドレスのサイズ調整をしたり、結婚式の段取りを確認をしたり、公爵夫人とお茶をしたりであまり悩む暇はなかっただろう。

 だが、結婚式当日の朝になっても夫となるひとが到着していないと聞くと、さすがに不安をにじませた。公爵夫妻もひどい顔色である。それでも時間までには来ると信じて支度を進めるしかなかった。

 シャーロットを幸せにすると約束してくれたはずなのに、さっそくこんな——。

 アーサーも心配と不安でどうにかなりそうだった。自分たちの支度をすませると、他にすることもないのでひたすら気を揉むしかない。グッと奥歯を噛み、まだ姿を見せない彼に内心で苦言を呈したそのとき。

「リチャード様が到着しました! いま大急ぎで支度をしているそうです!」

「そう、か……よかった……」

 グレイ家の控え室に飛び込んできた執事の報告にほっとして、全身から力が抜けた。開始時刻に間に合うのかはまだわからないので、安心するのは早いが、それでも最悪の事態は避けられたと思っていいだろう。

「お嬢さまのお支度が終わりました」

 つづいて侍女が報告に来た。

 アーサーも妻もまだ一度もウェディングドレス姿を見ていない。そわそわしながら花嫁の控え室に向かい、先導していた侍女の手でゆっくりと扉が開かれると——アーサーは大きく息を飲んだ。

 そこにいたシャーロットは、まるで天使か妖精のようだった。

 純白のウェディングドレスは公爵家が用意しただけあって見事なもので、その方面に詳しくないアーサーにも上質で精緻であることが窺えた。そして何より彼女自身の可憐で清浄な美しさがそれに負けていないのだ。

「きれいよ、シャーロット」

 ふいに隣の妻が感極まったようにそう声を震わせる。

 アーサーも実感をこめて頷いた。ただ、本当に嫁いでいくのだという現実をあらためて突きつけられて、いまさらながら胸がつぶれそうなほど苦しくなってしまった。

「シャーロット、夫のウィンザー侯爵のことで何かあれば言ってきなさい。わたしのほうからできることがあるかもしれない」

「でも、あまり実家が出しゃばるのはよくないですよね?」

「まあ、そうだが……それでも本当に困ったときは躊躇わずに言ってきなさい。実家というより友人として話すつもりだから」

 自分が頼めば、リチャードはそれなりに聞き入れてくれるはずだ。

 彼の恋心を利用するようでいささか気が咎めるが、そもそも彼が恋心を暴走させたせいで彼女が犠牲になったのだから、このくらいのことは許されてしかるべきだろう。

「……はい」

 シャーロットは当惑したような面持ちで話を聞いていたが、一呼吸して肯定の返事をすると、あらためて姿勢を正してまっすぐにアーサーたちを見据えた。

「お父さま、お母さま、これまで本当にありがとうございました。わたし、お二人のように幸せになります。だから、どうか心配なさらず笑って送り出してください」

 そう告げてふわりと花が咲くように笑った。

 アーサーは思わず隣の妻と目を見合わせてしまったが、すぐに二人してシャーロットのほうに向きなおると、彼女の願いどおりに微笑んでみせた。寂しさと不安と後ろめたさは心の中にしまいこんで。


 花嫁の控え室を退出すると、そのすぐ傍らでグレイ家の執事がひっそりと待ち構えていた。そろそろ参列者が聖堂に入る時間だと知らせに来てくれたのだ。

「君は子供たちを連れて先に行ってくれ」

「あなたはどうするのです?」

「ウィンザー侯爵が間に合うか見てくる」

 妻を執事に任せて、アーサーはそのまま花婿の控え室へ向かった。

 扉のまえで足を止めてコンコンと軽くノックすると、どうぞと応じる声が中から聞こえてきた。それは間違いなくリチャード本人のものだ。急激に緊張が高まるのを自覚しながら、そろりと扉を開く——。

「アーサー!」

 リチャードはパッとうれしそうに顔をかがやかせ、立ち上がった。

 後ろから従者が黒髪を整えていたところのようだが、もう十分に整っているし、衣装もきっちりと着ているし、見たところだいたい支度は終わっているようだ。アーサーはほっと息をつく。

「どうやら間に合いそうですね」

「ああ……おまえにも心配かけたな」

「あなたは昔からいつもギリギリだ」

「それでも遅れたことはないよ」

 リチャードは悪戯っぽく肩をすくめる。パブリックスクール時代を思い起こさせるやりとりに、アーサーもつい表情が緩んでしまう。

「ところで何の用だ?」

「いえ、あなたが結婚式に間に合うのか確認に来ただけです。気が気でなくて……シャーロットに惨めな思いはさせたくありませんから」

 仕事なら責められないが、花嫁の父として心配するくらいのことは許されるだろう。そう思ったが、彼はどういうわけか急に怖いくらい真剣な顔になり、一気に間を詰めてアーサーの背後の扉にドンと勢いよく手をついた。

 えっ——。

 さらに息がふれあうくらいにグイッと顔を近づけ、覗き込んでくる。

 思わずアーサーはびくりと体をこわばらせて息を殺した。まさか——これから娘と結婚しようというのに、この教会で宣誓しようというのに、よりによってどうしていまここでこんなことを。

「じょっ、冗談にしても……あまりこのようなことをなさるのは……」

 冗談であってほしい、そう願いながらおずおずと探るような言葉を向ける。

 それでも彼の表情はすこしも変わらなかった。アメジストのような紫の双眸で鋭くアーサーを射竦めたまま、さらに顔を近づけてくる。こらえきれずにアーサーはギュッと目をつむったが——。

「おまえさ、俺がおまえに懸想してるだなんて本気で思ってるのか?」

「えっ……ぁ……えっ……?」

 驚いて目を開くと、彼は呆れたような冷ややかな半眼でこちらを見ていた。しかしアーサーとしては何がなんだかわからないままで、困惑の声しか出ない。

「どうしてそれを……いえ、あの…………違うのですか?」

「おまえのことは友人としか思ったことがないし、そもそも俺は男色じゃない」

「……本当に?」

 はぁ、と彼は盛大な溜息をついて体を起こした。

 彼の顔が離れてアーサーはようやくほっと息をつくが、彼の言ったことはまだ信じきれずにいた。じっと訝しむような探るような目を向けていると、彼は何とも言えない微妙な面持ちで腕を組む。

「なあ、俺がおまえに懸想してるだなんてどうして思ったんだ?」

「同僚がそうではないかと……いえ、すぐにそれを信じたわけではなかったのですが、あなたが……結婚しないのはおまえのせいだ責任を取れなどと言うので、やはりそういうことなのかと……」

 そう告げると、彼は眉をひそめながら首をひねる。

「そんなこと言ったか?」

「言いました」

 確信したのはそのときなのではっきりと覚えているのだが、彼は記憶にないらしい。本当に懸想などしていないというのなら、いったいどういうつもりでそんなことを言ったのだろうか。

「まあ、何にせよおまえに懸想してるってのは完全な誤解だ」

「でしたらシャーロットとの結婚を望んだのはなぜですか?」

「ああ……」

 彼はどこか緊張した面持ちでアーサーに向きなおり、口を開く。

「シャーロットとの結婚を望んだのはシャーロットが好きだからで、他意は一切ない。おまえが心配しなくても彼女のことは大事にするし、二人で幸せになるつもりだ。何せ十年も待ったんだからな」

「えっ?」

 十年も待った? シャーロットのことが十年前から好きだった??

 確かに十年前の誘拐事件のときにシャーロットと出会っているが、彼女はまだ五歳だった。そのときから結婚を意識していたというのはさすがに無理がある。写真で成長を見守るうちにということだろうか。

「ほら、時間だぞ」

「ですが……」

「またあとでな」

 肩を押され、半ば強引に控え室から追い出された。

 詳しく話を聞こうと思ったところだったので、何となくごまかされた気がしないでもないが、確かにもう時間はない。釈然としない心持ちのまま身を翻して歩き始める。

 カツッ、カツッ、カツッ——。

 無機質な靴音が一定のリズムを刻む。

 それを意識することなく耳にしているうちに、何か言いようのない苦しさと寂しさが湧き上がり、足が止まった。たったひとつの音が消えた冷たい廊下にひとり佇む。

 ——シャーロットとの結婚を望んだのはシャーロットが好きだから。

 ——おまえのことは友人としか思ったことがない。

 それが事実なら、きっとシャーロットのことを大事にしてくれるだろう。身代わりなどではなかったのだから。もうアーサーが心配する必要もないのかもしれない。ただ——。

「いっそ、嫌いなままでいたかった」

 幽かな声がこぼれ落ちた。

 瞬間、ハッと我にかえって顔を上げる。さいわい周囲を見まわしても誰ひとりいなかったが、それでも何か気まずくて、その場でゆっくりと深呼吸をして仕切りなおした。

 よし——。

 再び聖堂へ向かって歩き始める。その足が途中で止まることは、もうなかった。

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