侯爵家の強がり夫人は元婚約者を忘れられない

 そのときまで、ロゼリアは世界でたったひとりのお姫さまだった。

 貴族の中でも裕福なクレランス侯爵家に生まれ、蝶よ花よと育てられ、いつどんなときもロゼリアを中心に世界がまわっていた。そして、それをあたりまえのこととして享受していた。けれど——。


 それは、五歳になってまもないころのことだった。

 ロゼリアは両親に連れられて初めてパーティに行った。敷地外に出るのも初めてだったので、馬車から見える光景にわくわくしていたが、会場に入るや否やひどくショックを受けた。

 どうして——。

 そこには時間をかけて準備したロゼリアと同じように、あるいはそれ以上に、きらびやかに着飾った女の子があちこちにいた。すこし年上の子はきらきらとしたアクセサリまでつけている。

 まわりの大人たちはロゼリアのことを褒めてくれるけれど、彼女たちも褒めている。そして両親までもが彼女たちを褒めるのだ。そのことにガツンと頭を殴られたような衝撃を受けた。

 まだ幼いロゼリアは気持ちを言葉にすることもできず、無言で逃げるように庭に飛び出した。両親はほかの大人としゃべっていて気付いてもいない。そのこともまたロゼリアを傷つけた。

 おとうさまも、おかあさまも、だいっきらい——!

 小さなこぶしをグッと握りしめて心の中で絶叫した瞬間、ズキリと胸が痛んだ。じわじわと目が熱くなり涙がこぼれる。そのまま崩れ落ちるように地べたに座ると、グズグズと泣いた。

「君、迷子?」

 前触れもなく降ってきたその声にびっくりして、涙も拭わずに顔を上げる。

 そこにいたのは見たこともないくらいきれいな男性だった。さっぱりとした清潔な黒髪に、紫色の瞳、白い肌、ほんのりと甘さのある整った顔。まるで絵本に描かれている王子様のようだと思った。

「お父さんお母さんのところへ戻ろうか」

 ぽかんと口を半開きにしたまま見とれていたが、そう言われてあわててふるふると首を振る。彼は不思議そうに小首を傾げた。

「迷子じゃないのか?」

「……イヤだからここにきたの」

「そっか、俺と同じだな」

 そう言って隣に腰を下ろす。

 ロゼリアはどきりとして、いまさらながらあたふたと手で涙を拭う。王子様みたいな素敵なひとに、みっともない顔を見せたくなかったのだ。しかしながら彼はもうこちらを見ていなかった。

「こういうパーティとか苦手でさ。ちょっと挨拶だけして抜けてきたんだ。できれば出たくないんだけど、たまには出ろって父がうるさくて」

 はぁ、と遠くに目を向けたまま気怠げに溜息をつく。

 その横顔もとてもきれいでロゼリアは胸がドキドキした。無意識に息を詰めて見入っていたところ——突然、ぐぎゅうとおなかが鳴った。恥ずかしくて真っ赤になりながらうつむくと、彼はハハッと笑った。

「パーティで食べてなかったのか……おいで」

 そう言って颯爽とした足取りで庭を横切っていく。ロゼリアがあわててトタトタと小走りで追いかけると、彼はすみっこの木から小さな赤い実を二つもいで、その一つをロゼリアに手渡した。

「これ、なぁに?」

「ヤマモモだ。真ん中に種があるから気をつけろよ」

 赤い実を掲げて答えると、半分ほどかじってその断面をロゼリアに見せる。まわりはとげとげしているが、思ったよりもやわらかくてみずみずしいようだ。興味をひかれてロゼリアもおずおずとかじってみる。

「ん……っ!」

 甘いのかと思ったら、びっくりするくらい酸っぱかった。

 ギュッとおもいきり目をつむって顔をしかめてしまったが、だからといって吐き出すなんて行儀の悪いことはできなくて、涙目になりながら飲み込んだ。

「ダメだったか?」

「すっぱいの……」

「そうかぁ」

 彼は苦笑すると、ロゼリアの手から食べかけのヤマモモをひょいとつまみ、そのまま自分の口に放り込んだ。たったそれだけのことなのに、ロゼリアはすごくびっくりしてドキドキとしてしまった。

「ロゼリア!」

 後ろから息が上がったような父親の声が聞こえてきて、思わず振り向く。父親は心からほっとしたような顔になりロゼリアを抱きしめた。

「いなくなって心配したんだぞ」

「だって……おとうさまが……」

「寂しくさせてごめんな」

 それだけではなかったが、うまく言えそうになかったし言いたくもなかった。もやもやした気持ちのまま口をつぐんで小さく頷く。父親は慈しむようにロゼリアの頭をなでてから、すっと立ち上がった。

「リチャード様、お手を煩わせてしまったようで申し訳ありません」

「いや、こちらの暇つぶしにつきあってもらっただけだ」

 リチャードと呼ばれた彼は、たいしたことではないかのようにさらりと答えた。

 それを聞いて父親は安堵したようにありがとうございますと頭を下げた。いつだって頭を下げられる側の父親が、頭を下げている。ロゼリアはどうしてだろうと不安になりながらリチャードを見上げた。

「じゃあな」

 そんな気持ちを知ってか知らずか、リチャードは淡く微笑んで小さなロゼリアに手を振ると、さらりと黒髪をなびかせながら立ち去っていった。


「ねぇ、リチャード様と会わせて」

 それからというもの、ロゼリアはしょっちゅう父親にそうねだるようになった。

 しかし何でも叶えてくれるはずの父親でも難しいらしい。当時はわからなかったが、リチャードは最上位貴族である公爵家の嫡男なのだ。娘が会いたがっているというだけの理由で会えるわけはない。

 リチャードが来そうなパーティには何度か連れて行ってもらったが、彼が来たことはなかった。パーティが苦手だと言っていたので避けているのだろう。それでも思いが薄れることはなかった。

「ほかにも素敵なひとはいると思うぞ」

「でも、わたしはリチャード様と結婚したいの」

「うーん……頑張ってはみるけどね……」

 いつからか結婚までも望むようになっていた。

 けれど父親はいつも困ったように曖昧な返事をするばかりである。会うことさえ叶わないのに、結婚の約束などできるはずもない。とはいえ子供のロゼリアにはわかりようもないことだった。


 そうしてリチャードとは会えないまま十六歳になり、社交デビューを迎えた。

 そのころにはもうだいぶ現実を理解していた。いくらこちらが結婚したいと言ったところで、相手が同意しなければどうにもならない。そしてその相手というのは引く手あまたの公爵家嫡男なのだ。

 一応、父親が顔を合わせた折にそれとなく持ちかけているとのことだが、色よい返事はもらえていない。ロゼリアは侯爵家なので家格としてはつりあいが取れている。だからこそ希望を捨てきれずにいた。

 いっそ、誰かと結婚してくれればあきらめがつくのに——。

 このままでは行き遅れてしまいそうで怖い。父親はロゼリアに甘いので、嫌だと言えば無理に嫁がせるようなことはしないだろう。だからこそロゼリア自身がどこかで見切りをつけるしかないのだ。

 こんなことを考えるようになったのは、わりと親しくしている三つ年上の侯爵令嬢が婚約したからだ。彼女はよくリチャードと結婚したいと夢見がちに話していたが、婚約相手は伯爵家の三男だった。

「緊張しているのかい?」

「大丈夫ですわ」

 ロゼリアはそう答えて、隣の父親を安心させるようにゆったりと微笑んでみせる。彼もロゼリアを見つめたまま愛おしげに目を細めた。

「さあ、行こう」

 彼のエスコートで会場に入ると、そこには目も眩むほどのきらびやかな世界が広がっていた。昼間のパーティにはない豪奢な雰囲気に圧倒されそうになったが、負けてはいられないとあらためて背筋を伸ばす。

 このデビュタントのために用意した純白のドレスは、シルエットが美しくなるよう精緻にデザインされ、夜会の照明に映えるよう素材にもこだわり、クラシカルでありながら人目を惹く仕上がりになっている。

 そしていつもよりすこしだけ大人びた夜会用のメイクも、華やかに結い上げられた金の髪も、趣向を凝らした絢爛なアクセサリも、純白のドレスとともにロゼリアを美しく見せてくれるはずだ。


 まず国王陛下と妃殿下に謁見し、そのあと父親を相手にファーストダンスを踊った。

 ダンスにはそれなりに自信があった。大人になったら夜会でリチャードと踊るのだからと、幼いころからずっと特訓をつづけてきたのだ。いまでは先生のお墨付きをもらうほどの腕前である。

 ダンスが終わると、ふと会場の一角がざわめいていることに気がついた。どうやら年頃の令嬢たちがひとりの男性を取り囲み、色めき立っているようだ。こちらからだと男性は後ろ姿しか見えていなかったが、ふいに横顔が見えて。

 えっ、リチャード様——?

 ロゼリアの心臓は壊れそうなほどドクリと強く収縮する。

 長いあいだ恋い焦がれていた相手を見紛うはずがない。彼は十年前の面影を色濃く残したまま大人の男性になっていた。身長が伸び、精悍になり、あのころよりもはるかに素敵になっている。

「リチャード様のところへ行かないのかい?」

「いまは……」

 父親に煽られたが、ロゼリアは曖昧な笑みを浮かべて受け流した。

 あの令嬢たちに加わったところで良い印象は残せない。だからといってどうすればいいかはわからない。彼はいまもほとんど夜会やパーティに姿を現さないので、この機を逃すわけにはいかないのに。

 ふと、彼がこちらに振り向いた。

 目が合ったように感じたのはさすがに気のせいだろう。そう思っていたのに、彼はまわりの令嬢たちに断りを入れると、輪から抜け出してまっすぐこちらへ歩いてくる。ロゼリアの鼓動はどんどんと高まり——。

「クレランス卿」

 しかしながら彼が見ていたのは父親のほうだった。

 期待した分だけ落胆したが、またとない絶好の機会であることには変わりない。それは父親も承知のはずだ。そっと隣を窺うと、彼は人好きのする柔和な笑みを浮かべて一礼していた。

「ご無沙汰しております、リチャード様」

「そういえば数年ぶりですね」

 リチャードは軽く苦笑しながら肩をすくめると、ロゼリアに目を向ける。

「こちらは?」

「娘のロゼリアです。この格好を見ればおわかりかと思いますが、今宵がデビュタントでして。ファーストダンスはわたしと済ませましたので、よろしければ一曲踊ってやってもらえませんか?」

 ほんのすこし話をするだけでもいいと思っていたのに、まさかダンスを踊ってもらえるの? ロゼリアは内心ドキドキしながらリチャードに目礼する。彼は困ったように逡巡していたが——。

「ダンスはあまり踊りたくないんですけどね……一曲だけ……」

 そう言うと、観念したように力なく微笑んでロゼリアに手を差し出した。


 すごい——。

 踊りたくないと言っていたのでダンスが苦手なのかと思ったが、そうではなかった。むしろ上手すぎる。父親よりも、兄弟よりも、もしかすると先生よりも踊りやすいかもしれない。

 彼が相手だと、動きを合わせようとするまでもなく自然とできてしまう。いつのまにか心地よく踊らされてしまっているのだ。それだけ彼のリードが上手いということに他ならない。

 夢のようだった。きらびやかな光を浴びて華麗に踊りながら、彼はロゼリアの目を見てくれるし、ロゼリアもずっと彼だけを見つめている。まるで世界にたった二人しかいないかのように。

「わたし、リチャード様とお会いしたことがあるんです」

 だから、つい、熱に浮かされたようにそっと打ち明けてしまった。

 しかし彼はそんなことなど言われ慣れているのだろう。もしかしたらうんざりするほど聞かされているのかもしれない。どこか作り物めいた微笑を浮かべてさらりと応じる。

「ごめんね、君のことは覚えていなくて」

「庭になっていたヤマモモを一緒に食べました」

「あ……あのときの子か」

 そのとき仮面がはがれた。彼は軽く目を見開いてそう言うと、ハハッと笑う。

「大きくなったからわからなかったよ」

 柔らかなその声に、ロゼリアはじわりと胸が熱くなって泣きそうになる。それだけで十年の恋がすこし報われたような気がした。


「リチャード様と婚約したぞ!」

 デビュタントから半年ほどが過ぎたある日のこと。父親が帰宅するなりロゼリアの私室に駆け込んできたかと思うと、興奮ぎみにそんなことを叫んだ。ひとり読書をしていたロゼリアはきょとんとして小首を傾げる。

「えっと、どなたと婚約なさったのです?」

「おまえがリチャード様と婚約したんだ!」

「……えっ?」

 思考が追いつかず固まってしまう。

 父親によれば、近々正式に婚約して一年後に結婚という予定らしい。ただしリチャード自身が望んだわけではなく、いわゆる政略結婚だ。両家が繋がることで互いに利があるという判断である。

 もっともウィンザー家からすれば他にもっと条件のいい選択肢はあった。それなのにクレランス家を選んだのは、ロゼリアと踊ったときにリチャードが楽しそうに笑っていたからだという。

 ウィンザー公爵は息子がそんな顔で女性と話すのを初めて目にした。だから彼女とならと思ったそうだ。そしてこれまで結婚に乗り気にならなかったリチャードも、渋々ながら受け入れた——と。

「うっ……う……」

「ど、どうした?」

 うつむいて両手で顔を覆いながら泣き始めたロゼリアに、父親はギョッとしたが、それがうれし泣きだとわかるとほっと安堵の息をついた。ロゼリアの向かいに腰を下ろすとティーテーブルに頬杖をつく。

「おまえがリチャード様と結婚したいって言うから、ウィンザー家に認められるように事業を拡大したり、父さんもいろいろと頑張ったよ。それでも正直なところ難しいと思ってたんだが……最後はおまえ自身が掴み取ったな」

「いえ、お父さまのおかげです……本当にありがとうございます……」

 ロゼリアは顔を伏せたまま涙声で応じる。すぐにふっとやわらかく笑う気配がして、優しく頭をなでられた。


 ほどなくして正式に婚約し、月に三、四回ほどデートをするようになった。

 観劇に出かけたり庭園を散策したりといったごく一般的なもので、リチャードはいつもそつなく紳士的にこなしていたが、ただの義務として行っているのだということは何となく感じ取れた。

 仕方ないわ、彼はこの結婚を歓迎しているわけではないもの——。

 それでもロゼリアはすこしもあきらめていなかった。いつか心を許してもらいたい、屈託なく笑い合いたい、好きになってもらいたい。そのために可能なかぎりの努力をしていくつもりでいた。


 しかし半年がすぎてロゼリアが十七歳になったころ、突然、婚約は解消された。


「えっ……どういうことなの……?」

 にわかには言われたことの意味さえ理解できなかった。婚約解消というのは結婚しないということだろうか。ほんの数日前にリチャードとデートしたばかりなのに。彼はいつもどおり紳士的だったのに。

 呆然とするロゼリアを見て、父親はひどくつらそうに顔を歪めてうつむいた。

「おまえは何も悪くない……すべて父さんのせいなんだ……」

 彼によれば、事業で不正をしていたことがウィンザー家に知られ、この件を是正するとともに婚約解消に応じるよう迫られたらしい。そうしなければ告発すると言われて受け入れるしかなかったのだと。

「……ひとりにしてください」

 感情がぐちゃぐちゃだ。このままだと父親にひどい言葉をぶつけてしまいそうで、ロゼリアはどうにかそれだけ告げると私室にひとり閉じこもった。


 翌日、リチャードが挨拶に来た。

 まだ心の整理がついていないし、目も腫れているし、とても顔を合わせられるような状態ではないのだが、それでも挨拶もせずに終わりにはしたくない。両親には外してもらって応接室で会うことにした。

「ロゼリア嬢、わたしたちの婚約解消についてはもうご存知ですね?」

「はい、きのう父から詳細に聞かされました」

「あなたに非はないが、どうか家のこととしてご理解いただきたい……すまない」

「こちらこそ、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」

 ロゼリアの非ではなくてもクレランス家の非である。彼をまえにして被害者ぶることは許されない。目が潤みそうになるのを堪えながら謝罪して頭を下げると、彼はつらそうに目を伏せた。

「あなたが望むなら、良いところに嫁げるよう個人的に手を尽くします」

「……結構です」

 わずかながら声に怒りがにじんだ。リチャードにだけはそんなことを言われたくなかった。だからといって自分に責め立てる権利がないことくらい承知している。

「わたくしの結婚はあくまで当家の問題ですから」

「わかりました……気が変わりましたらいつでもご連絡ください」

「お心遣い感謝します」

 彼の誠意に、ロゼリアは表情を変えることなく淡々と応じて一礼した。あなたにだけは絶対に頼らない、たとえ何があっても——そんな強く燃えたぎるような決意を心に秘めたまま。


 三日後、招待を受けていた夜会があったので予定どおり出席することにした。

 婚約解消についてはおととい正式に公表している。夜会に行けば、好奇の目にさらされて噂の的になることは間違いない。父親は無理して行くことはないと言ってくれたが、逃げるのは嫌だった。

「アンナ、完璧に仕上げてちょうだい」

「はい! もちろんです!!」

 侍女は元気よく答え、いつも以上に張り切ってロゼリアの支度を始めた。


 ザワッ——。

 ロゼリアが兄とともに会場に足を踏み入れると、一瞬で空気が変わった。

 数多くの参加者がこちらに注目している。ひそひそと何かをささやき合ったり、憐れみの目を向けたり、嘲笑するような顔をしていたり——前を向いているだけで嫌でも視界に入ってくる。

 それでもロゼリアはうつむかなかった。兄と離れても、ひとり背筋を伸ばしたまま優美な笑みを浮かべる。婚約解消された不憫な女だなんて思われたくない。それはロゼリアの矜持だった。

「ロゼリア様!」

 皆が遠巻きに見る中、同じ年齢の男爵令嬢がにこやかに声をかけてきた。

 彼女は社交界ではめずらしいほど率直なひとである。ただ、それゆえか気遣いというものが抜け落ちているらしく、悪意はないのだろうが、ことあるごとに相手の地雷を踏み抜いているのだ。

「リチャード様との婚約は解消されたのですって?」

「ええ、もう終わったことですわ」

 その会話をつづける気はないと暗に示したつもりだが、やはりというか彼女には伝わらなかったらしい。琥珀色の目をきらきらと輝かせながら顔を近づけてくる。

「当然リチャード様のほうからですわよね?」

「双方が納得して決めたことですわ」

「でしたら理由は何だったのでしょう?」

「さあ、わたくしにはわかりかねます」

「もしかしてリチャード様に女ができたとか?」

「あら、男かもしれませんわよ」

「え……ええっ! リチャード様ってそっち?!」

 あまりにしつこかったので冗談めかした返しで煙に巻こうとしたら、彼女は真に受けてしまったらしい。誤解を解く間もなく、なぜかうれしそうに「きゃあ〜!!」と興奮して走り去っていった。

 え、何なの——?

 ロゼリアは呆気にとられた。

 わけがわからないまま小さく息をついて気持ちを仕切りなおすと、まわりから向けられる不躾な視線にはあえて気付かないふりをして、努めて優雅な所作でフルートグラスを手に取った。


 婚約解消から一年半が過ぎた。

 そのあいだ両親から縁談を持ちかけられることはなかった。傷心のロゼリアをそっとしておいてくれたのか、単に相手が見つからなかっただけなのかはわからない。おそらく後者だろう。

 そしてリチャードも未婚のままだ。男性側なら婚約解消もあまり汚点にならないし、公爵家嫡男なら引く手あまたのはずなのに。何か事情でもあるのかと気になっていたところ、とある噂を耳にした。

 リチャードは男色に目覚めたようだ、と。

 もともとあまり女が好きではなかったが、婚約解消してから男が好きだということに気付いたらしい。いまはパブリックスクール時代の同級生に懸想しているという。もちろんすべて噂だけれど——。

「本当なのかも」

「え? 何ですか?」

「独り言よ」

 思い返せば、彼は女性に話しかけられてもうれしそうではなかったし、女性とつきあったとか娼館に通ったとかいう話も聞いたことがない。決めつけるわけにはいかないが男色であれば納得がいく。

 そうこう思案しているあいだにお茶の用意が調えられていく。そろそろかしらと読んでいた本を閉じてティーテーブルの隅に置くと、ロゼリア付きの侍女であるアンナがそれを目に留めた。

「あ、それ面白いですよね!」

「……ええ」

「最初は男色なんて気持ち悪そうだなって気が進まなかったんですけど、読んでみたらせつなくてきゅんきゅんしちゃって! 報われなくても一途に想いつづけるってほんと純愛ですよね!!」

 彼女は頬を紅潮させながら両手を組み合わせて力説する。だがロゼリアは同調しなかった。ほとんど表情を動かすことなく冷ややかに一瞥して言う。

「アンナ、口ではなく手を動かしなさい」

「あっ、すみません!」

 彼女はこなれた手つきで紅茶をティーカップに注ぎ、一礼して退出した。


 両親が家にいるときは一緒にお茶を飲むことも多いのだが、今日はどちらも所用で出かけているため、ロゼリアは私室でひとりきりのティータイムを過ごしていた。侍女のアンナも当分は戻ってこない。

 紅茶に口をつけると、さきほどティーテーブルに置いた本に目を向ける。

 それは若い女性のあいだで流行している娯楽小説だった。とりわけ貴族令嬢のあいだで大きな話題になっているらしい。というのも、リチャードを主人公にして書かれたと言われているからだ。

 ただ、作者は何も公言していない。

 本当はどうなのかと気になったので入手して読んでみたところ、登場人物の名前はみんな違うし、創作も多分に含んでいるが、リチャードまわりのことを土台にしたのは確かだろうと感じた。

 当然、ロゼリアらしき女性もいる。事業で財をなした裕福な貴族の一人娘で、金に物を言わせて主人公の婚約者になった悪役令嬢である。最終的には悪事を暴かれて惨めに婚約破棄されるのだ。

 事実とはだいぶ異なるが、世間からはそういうイメージを持たれているということだろう。そして今後ますますそうなりそうだ。面識もないうちから悪役令嬢と決めつけられてしまうのは正直つらい。

 こうなってはもう結婚など望めないのではないか。

 ひどく気持ちが沈むが、せめてもの救いはリチャードもまだ結婚していないことだ。先を越されたらきっと惨めでたまらなくなる。その結婚相手にも一方的に敗北感を抱いてしまうだろう。

 本当に彼が男色なら今後も結婚することはないのかもしれない。少なくとも好きなひととは結ばれない。どれだけ強く望んだところで同性とは結婚できないのだ。そう思うといささか溜飲が下がる。

 嫌ね、これでは本当に悪役令嬢だわ——。

 ロゼリアはふっと力なく自嘲の笑みを浮かべて、目を伏せた。


「ロゼリア、ちょっといいか?」

 数日後、何とも言えない表情をした父親に呼び出された。

 もしかしたらあまり良くない話なのかもしれない。そう覚悟しつつ、促されるまま書斎の応接ソファに向かい合わせで座る。使用人がお茶の用意を調えて退出するとすぐに、父親が話を切り出した。

「おまえ、グレアム・ポートランド卿を知っているか?」

「何度か夜会でダンスに誘っていただきました」

 いまやロゼリアをダンスに誘うひとはあまりいないので、記憶に残っている。彼は婚約解消してから三度ほど誘ってくれただろうか。

「どんな印象だ?」

「そうですね……とても真面目そうな方だと……」

 会話が苦手なのか必要なこと以外はあまり喋らないし、容姿も平凡なので、印象を問われてもそれくらいしか言えることがない。ただ、朴訥ながらも丁寧に接してくれるので嫌な気はしなかった。

 父親はどことなく神妙な面持ちでひとつ頷いてから、本題を切り出す。

「実は、ポートランド家から縁談が来ていてな」

「えっ?」

「もちろんおまえの婚約解消については承知のうえだ。相手のグレアム・ポートランド卿は二十代で婚姻歴なし、誰に聞いても実直な男という評判で、結婚相手としては悪くないと思うんだが……どうだろう?」

 ゆったりと両手を組み合わせて遠慮がちにロゼリアを窺う。その表情からは複雑な感情が見てとれる。ロゼリアのためだけに勧めているわけではなさそうだ。

「これはクレランス家にとって望ましい縁談なのですね?」

「ん……まあ、それはそうだが……」

 きまり悪そうに目が泳いだ。どうやら図星らしい。

 もっとも貴族令嬢が家のために結婚するのは当然のことである。一方的に命じても構わないのに、彼はこうして意向を確かめてくれる。おそらくロゼリアが難色を示せば断るつもりでいるのだろうが——。

「お父さまさえよろしければ、お受けしてください」

「いいのか?」

「わたしも行き遅れたくはありませんから」

 冗談めかして答えると、まだあたたかい紅茶を優雅な手つきで口に運ぶ。

 もちろんクレランス家の役に立ちたいという気持ちはあるが、行き遅れたくないというのも本心だ。こんなロゼリアを娶ってくれるひとが他にいるとは思えない。ありがたく受けようと心を決めた。

 父親は安堵の息をつき、それでもどこか心配そうに複雑な微笑を浮かべた。


 後日、正式に婚約をして、その一年後に予定どおり結婚した。

 ロゼリアは二十歳だ。女性が結婚する年齢としては早くも遅くもない。一時は独身のまま生涯を終えるのだろうと覚悟していただけに、ロゼリアを望んでくれたポートランド家には感謝している。

 ただ、夫となるグレアムは不本意に思っているのかもしれない。婚約中のデートでも真面目な表情を崩さず、口数も少なく、楽しそうでもなく、義務感だけというのがありありと伝わってきた。

 なのに——初夜のいま、彼の表情はいつになく緩んでいた。

 ほんのりと紅潮した顔に、どことなく気怠げな笑みを浮かべ、まなざしも甘くとろりとしている。それが酒のせいであることは理解しているが、あまりにも普段と違うのでドキリとしてしまった。

「触れても?」

「はい、妻の役目を果たす覚悟はできております」

 真新しいベッドの上であらためてすっと背筋を伸ばし、恭しく決意を伝えると、彼は気のせいか物寂しそうにふっと淡く微笑んだ。そして遠慮がちにロゼリアに手を伸ばして抱きしめる。

「ありがとう……わたしのような何の取り柄もない男のところに、あなたのような気高く美しい女性が来てくれるだなんて……本当に夢のようだ」

「?!」

 おおよそ彼らしからぬ美辞麗句にロゼリアは耳を疑った。だがさらに言葉は続く。

「あなたの気持ちがわたしにないことはわかっているが、精一杯、大事にする……好いてもらえるように努力する……だから……」

 あっ——。

 抱擁が解かれると、ひどく熱っぽいまなざしを向けられて息をのんだ。そのまま口づけられ、清潔な白いシーツに沈められていく。ロゼリアは緊張で無意識に体をこわばらせながらも、彼のすべてを受け入れた。


 翌日から、グレアムとの結婚生活が始まった。

 夫婦となっても彼は寡黙だった。ほとんど必要なことしか話さないため打ち解けるのは難しい。それでも何かとロゼリアのことを気遣ってはくれるので、それなりに平穏に日々を過ごせていた。

 初夜の彼らしからぬ発言については尋ねられないままだ。それを口に出したのは酒に酔っていたからだろうが、本心なのか、睦言なのか——確かめたい気持ちはあるのにどうしてもできずにいる。

 きっと恐れているのだ。心にもない言葉だったと言われてしまうのを。ロゼリアに好意はないと明かされてしまうのを。これが両家の利になる政略結婚であることくらい、とうに承知のはずなのに。

 馬鹿みたい——。

 気まぐれに与えられた不確かなものに縋っている自分が、ひどく滑稽に思えた。

 確かめられないのならもう考えるのはやめてしまおう、忘れてしまおう——そう心に決めて意識的に奥底に沈めることにした。いまは妻の役割を果たすことに注力すべきなのだから。


 しかし——。

 一年が過ぎても、二年が過ぎても、ロゼリアに懐妊のきざしは見られなかった。

 義両親には何かにつけて早く跡継ぎをと催促されていた。見かねたグレアムが追いつめるなと注意してくれたので、面と向かって言われることはなくなったが、その空気はひしひしと感じている。

 もちろん跡継ぎを産むのが責務であることは理解している。だが医者に診てもらっても原因は判然としないし、教会で祈っても効果はない。これ以上はもうどうしたらいいかわからなかった。

 このままではいつ離縁されてもおかしくない——。

 ロゼリアはあまり気にしていないかのように振る舞いながらも、次第に思い詰めるようになっていった。


 二十七歳になっても子供は授からないままだった。

 さすがにもう彼女に跡継ぎは望めないのではないか——そんな閉塞した空気の中、針のむしろに座っているかのように感じながらも、どうにか背筋を伸ばして日々を過ごそうとしていた。


 その日、ロゼリアは同年代の女性三人を招いて茶会を開いた。

 場所はポートランド家が誇るバラ庭園である。他では見られないバラや景色が楽しめると評判なので、準備はやや大変になるが、気候のいいときには度々こうして庭園で行っているのだ。

「そういえば、みなさまご存知です?」

 紅茶を味わいながら、それぞれの近況などをひとしきり穏やかに語らったあと、伯爵家夫人のフローラが思い出したようにそう切り出した。その口元はどことなくウズウズとしているように見える。

「何でしょう?」

 ロゼリアが水を向けると、待ってましたとばかりに前のめりになって言葉を継ぐ。

「ウィンザー公爵家のリチャード様なんですけど、先日、騎士団長になられて」

「まあ!」

 まさかここで彼の名前が出てくるなんて思いもしなかった。驚きのあまりロゼリアは凍りついたが、他の三人は色めき立っていたので気付いてもいないようだ。

「きっと騎士団長の衣装もお似合いでしょうね」

 うっとりと夢見がちに応じたのは侯爵家夫人のアメリである。既婚者となったいまでもリチャードに憧れを抱いているのだろう。そういう女性は少なくないと聞く。物語の登場人物を好きになるような感覚なのかもしれない。

「ここからが本題よ」

 フローラはますます楽しそうに声をはずませる。

「騎士団長に就任すると通常は支度金を賜るのですけど、リチャード様は支度金の代わりに陛下のお口添えをいただいて、ご婚約なさったの」

「ご婚約?!」

 驚くアメリの隣で、ロゼリアはガンッと鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。思考も感情も追いつかずただ呆然とすることしかできない。まさか、いまになって結婚だなんて——。

「お相手はまだ十五歳のとても可愛らしい伯爵令嬢という話よ」

「でもリチャード様って、その、男性がお好きだったはずでは……」

「そう思うでしょう?」

 もっともなアメリの疑問に、フローラはなぜか得意満面でそう返してふふっと笑う。

「実は、お相手はリチャード様が懸想なさっている方の娘さんなの!」

「えっ……それって、彼とは許されないから彼の娘とってことかしら?」

「でしょうね。そこまで一途に求めるなんて究極の純愛ですわ!」

「せつなくてキュンとしますわね!」

 二人はきゃいきゃいと少女のようにはしゃいでいた。

「その娘さんと結婚することは十年前から決めていたって噂よ。もちろん十年前はまだ小さな子供だったから、十年待ったの。リチャード様が婚約解消したのもそのためだったようですわね」

「ちょっと、あの、フローラ様……」

 それまでおとなしく聞いていた男爵家夫人のシーリアが、気まずげに声を上げる。それでようやくフローラは思い至ったのだろう。その婚約解消した相手がロゼリアだったということに——。

「申し訳ございません!!」

 悪気がなかったことは、青ざめたまま必死に頭を下げるその姿を見ればわかる。ロゼリアはナイフで切り刻まれたような胸の痛みを隠して、どうにか優美に微笑んでみせる。

「いいのよ。もうずいぶん昔のことですし、わたしもこうして結婚して幸せに暮らしていますもの……リチャード様も結婚して幸せになれるといいですわね」

「ええ」

 三人ともほっと安堵の表情を浮かべた。

 それからは話題を変え、何事もなかったかのように平和におしゃべりを楽しんだ。ロゼリアもにこやかに招待者としての務めを果たした。少なくとも表面上は——。


「冗談じゃないわ!!」

 ロゼリアは茶会を終えて私室に戻ると、リチャードをもとにしたとされる例の小説を本棚から引っ掴み、怒りまかせに絶叫しながら床に叩きつけた。一部が折れ曲がった状態で床に転がる。

 結婚せずに想いを貫くのならよかった。

 でも十五歳の子と結婚ですって?

 しかも好きなひとの娘?

 そのためにわたしは婚約解消されたの?

 原因は父親の不正だが、それが発覚したタイミングについては違和感を覚えていた。相手の家を調査するなら普通は婚約前である。婚約中に調査したのは婚約を解消したかったからではないか、と。

 たとえそうだとしてもウィンザー家の都合によるものだと思っていた。それならまだ受け入れられた。けれど、もし、本当に彼が元同級生の娘と結婚するためにロゼリアを捨てたのだとしたら——。

「よくも馬鹿にしてくれたわね!!」

 ダンッ! と床に転がっている小説を力いっぱい踏みつけて歯噛みする。じわりと目が潤むが、グッとこぶしを握りしめて涙がこぼれるのを必死にこらえる。すこし離れたところで侍女のアンナがおろおろとしていた。

「ロゼリア様……あの、わたしに何かできることは……」

「あるわけないでしょう!!」

「でも……」

「だったらリチャード様の結婚を潰してちょうだい!!」

 何も悪くないアンナに感情的に当たり散らしたものの、彼女がいまにも泣きそうに唇を噛みしめているのを見て、我にかえった。

「ごめんなさい……いまはひとりにして……」

「はい……失礼します」

 静かに扉が閉まり、躊躇いがちに足音が遠ざかっていく。

 その場でロゼリアは膝から崩れ落ち、床にうずくまったまま子供のように声を上げて泣いた。大粒の涙がぼたぼたと小説の上に落ちる。こんなふうに号泣するのは結婚してから初めてのことだった。


 しかし、そのことがまさかあんな騒動を引き起こすだなんて、このときはまだ想像もしなかった——。


「あの、明日から五日間おやすみをいただけますか?」

 例の茶会から数か月が過ぎ、ロゼリアの傷ついた心も緩やかに癒えつつあったころ、侍女のアンナがおずおずとそう切り出した。彼女がこれほど急に休暇を申し出るなど初めてのことである。

「ご実家で何かあったの?」

「あ、いえ、そうではなく……大事な用があって……」

「そう……わかったわ。行ってらっしゃい」

「ありがとうございます!」

 アンナはうれしそうにパッと顔をかがやかせると、勢いよく一礼する。

 いつも素直に答える彼女が言葉を濁したことは気になったものの、もういい大人なのだから言いにくいことのひとつやふたつあるだろうと、ロゼリアはあまり深く考えようとしなかった。


 翌日からアンナは予定どおり休暇を取った。

 当然、代わりの使用人はいるので特に不自由なく過ごしている。もちろん長年の専属侍女である彼女ほどは行き届かないが、戻ってくるまでの数日のことなので辛抱すればすむ話である。


 そんな折、リチャードが何の前触れもなくポートランド家にやってきた。それもロゼリアに面会を求めて。婚約解消してから一度たりとも連絡を取っていなかったのに、いったいどうして——。

「わたし、本当に何も心当たりはないのです」

「とりあえず彼の話を聞いてみよう」

 ロゼリアはひどく動揺したが、夫のグレアムに促されて彼と二人で面会に応じることにした。拭えない不安はありながらも、彼が一緒にいてくれるというだけで随分と心強く感じられた。


「時間がないので単刀直入に申し上げます」

 あれから十年——にもかかわらず姿は驚くほど変わっていない。ロゼリアと夫が客間に入り、すでに通されていたリチャードと軽く挨拶を交わすと、さっそく彼のほうから本題を切り出してきた。

「そちらの使用人であるアンナとジョンが、わたしを陥れて犯罪者に仕立て上げようとしたうえ、わたしの婚約者に危害を加えようとしました」

「えっ……?」

 にわかには理解できず、思わずロゼリアは素で聞き返してしまう。

 リチャード様を陥れようとした? 彼の婚約者に危害を加えようとした? あの二人には彼との接点などほとんどないはずなので、考えられるとしたら——もはやそれしかないという心当たりに血の気が引いていく。

「十年前、アンナはあなたの侍女でしたよね。顔を覚えています」

「はい……いまもわたくしの専属侍女です……」

「彼女は自分が勝手にしたことだと主張していますが」

 それを聞いて、息もできないほど胸が押しつぶされそうになった。しかしうつむきはしない。あらためて真摯なまなざしで彼を見つめて自供する。

「申し訳ありません、アンナの行動はすべてわたくしのせいなのです」

「説明していただけますか」

 そう言われ、ロゼリアはそっと頷いてから話し始める。

「数か月前、リチャード様がご婚約なさったという話を知人から聞きました。お相手は恋い慕っている方の娘で、わたくしと婚約解消したのは彼女と結婚するためだったとも。それでショックのあまり我を忘れてアンナに叫んでしまいました。リチャード様の結婚を潰して、と」

 リチャードはじっと表情を変えることなく聞いていた。どう思っているのかは窺えない。ロゼリアはますます緊張して手のひらが汗ばんでいく。

「わたくしとしては、ただ感情的になっただけで命令のつもりはありませんでしたし、そのすぐあとに謝罪して発言を撤回した気になっていたのですが……軽率だったと思っています」

「……そうですね」

 リチャードは静かに肯定の相槌を打つと、言葉を継ぐ。

「忠実な使用人であればあるほど主人の意向に従おうとします。直接、命令を下さなくても。だからこそ我々は間違いのない言動を心がけねばならないし、主人として相応しい人間であらねばならない」

「はい……」

「まあ、わたしが偉そうに言えたことではありませんが」

 神妙に頷いたロゼリアに、彼は肩をすくめておどけるようにそう付言した。

「それで、あなた方はアンナとジョンをどうしますか? 彼らは命令もなかったのに主人の意向を読み違えて暴走した。その結果、主人が不利益を被るなら解雇もやむなしと思いますが」

「いえ、二人はこれからも我がポートランド家の使用人です」

 間髪を入れずに答えたのは隣に座っている夫のグレアムだ。これまでずっと沈黙していたので驚いたが、振り向くと彼はかつてないほど緊張した顔をしていた。

「あなた方が主人としてその責を負うことになっても?」

「覚悟しております」

 毅然と応じたグレアムを、リチャードはじっと深く探るようなまなざしで見つめる。グレアムも逃げることなく真正面から受け止める。しばらくそのまま息の詰まるような沈黙がつづいたが、やがてリチャードがふっと表情を緩めた。

「わかりました。それでは後ほど二人をこちらにお送りします。あなた方が身柄を引き受けてくださるのであれば、罪には問いません。さいわい未遂でしたし。あなた方のほうから軽く説教でもしておいてください」

 思いもよらない話だった。グレアムも驚いたらしくわずかに目を見張る。

「寛大なご処置に心より感謝いたします」

 そう応じて深々と頭を下げた。隣のロゼリアも同じように深々と頭を下げた。ただ単に妻として夫に従ったというだけでなく、アンナの主として、ロゼリア自身もこの処置に心から感謝していた。

 リチャードは湯気の立たなくなった紅茶に手に取り、一気に飲み干した。

「結婚式が迫っていますので、慌ただしくて申し訳ありませんがそろそろ失礼します。何かありましたらウィンザー家までご連絡ください」

「リチャード様」

 立ち上がろうとする彼をロゼリアが呼び止めた。鼓動が速くなるのを感じながら、それでも挑むように紫の双眸を見据えて告げる。

「最後に、ひとつだけ教えていただけませんか」

「何でしょう」

 リチャードはあらためてソファにゆったりと座り直した。たったそれだけのことでロゼリアはすこし気圧されてしまうが、くじけることなく言葉を紡ぐ。

「十年前、ウィンザー家がわたくしとの婚約解消を求めたのは、恋い慕っている方の娘と結婚するためだというのは、本当なのでしょうか?」

 いまさら知ったところでどうなるわけでもないが、許されるなら真実を知りたい。まじろぎもせずただひたむきに見つめていると、リチャードはやがて考えあぐねたような面持ちになり、小さく息をつく。

「まず、わたしは男色ではありません」

「えっ?」

「どういうわけか元同級生に懸想していると一部で思われているようですが、まったくの事実無根です。ただ、その元同級生の娘と結婚するためにあなたとの婚約解消を求めたのは事実です。彼女と出会ってどうしようもなく心惹かれてしまったのです」

 そこまで話すと、すっと真剣な表情になってロゼリアを見つめる。

「わたしの都合であなたとクレランス家を蔑ろにしてしまいました。正直に話さず卑怯な手段を用いたことも言い訳のしようがありません。申し訳ありませんでした」

「いえ……父のしたことは事実ですし……」

 率直な謝罪とともに頭まで下げられて、ロゼリアは思わずそう返してしまった。すぐにあわてて言い継ぐ。

「もちろん正直に話していただきたかった気持ちはあります。ですが、あのとき聞いていたらショックで立ち直れなかったかもしれません。結果的にはこれでよかったのだと思うことにします」

「お心遣い、痛み入ります」

 彼はそう言うが、あくまでロゼリアの今現在における素直な所感である。

 そんなふうに冷静に受け止めることができたのは、もう彼への恋心がないからだ。今日こうして彼と対面することでそれに気付けた。長年トラウマのように引きずってきたけれど、いまようやく過去にできたのかもしれない——。


 帰路につくリチャードとその執事を玄関先まで見送ると、ロゼリアは深く息をつく。ただ座って話をしただけなのにひどく疲れてしまった。もちろんそれが精神的なものだということはわかっているけれど。

「大丈夫か?」

「ええ……」

 夫のグレアムが顔を覗き込んでくる。表情や声音があまり変わらないのでわかりにくいが、いつだって彼はこうしてロゼリアを心配してくれるのだ。ただ、今回の件についてはすべて自業自得である。

「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。本当に妻失格ですわね。跡継ぎも産めないくせにこんな面倒を起こしてしまって……離縁は覚悟しております」

「誰に何を言われても離縁などしない」

 その物言いは、断固とした意思表示のように感じられた。

 生真面目なひとなので、娶ったことに責任を持とうとしているのかもしれない。七年も子供ができないのに離縁をしなかったのも、その責任ゆえだろうか。我知らず自嘲の笑みが浮かんでロゼリアは顔を伏せる。

「お優しいのですね」

「優しくは、ない……君の心にまだウィンザー卿がいることはわかっていたのに、跡継ぎのことでつらい思いをしているのも知っていたのに、君を手放したくなくて離縁してやれなかった」

 えっ——?

 まるでロゼリアが離縁したがっているかのような物言いだ。もちろんそんなことは言ってもいなければ思ってもいない。どういうことなのかと怪訝に思いながら顔を上げた、そのとき。

「君が、好きだから」

 グレアムと視線が絡んで、息を飲む。

 嘘を言うようなひとではないはずだけれど……本当なの? わたしとの結婚は家のためで、あなた自身は不本意に思っていたのではないの? 責任感から仕方なく夫の義務を果たしていたのではないの?

 ふいに彼が目をそらした。どういうわけか耳のあたりをほんのりと紅潮させながら。ロゼリアにとってはにわかに信じがたいことで、しばらくそのまま固まったように呆然と彼を見つめていたが——。

「わたしたち、お互いに言葉が足りなさすぎたように思います」

「……それは……そうだな……」

 ロゼリアも、彼も、相手の気持ちを勝手に決めつけてしまっていた。

 心で思っていることなんて相手に聞かなければわからないし、言わなければわかってもらえない。そんな大事なことがいまになってようやくわかった気がする。

「だから……七年分、話をしませんか?」

 そう提案して、無表情の夫にやわらかく微笑みかける。

 すこし怖いけれど、きちんと話をしなければきっと何も始まらない。誤解があるなら解きたいし、そのうえでこれからのことも話し合いたい。たとえそのさきにどんな結果が待ち受けているとしても——。

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