05

 私を捕まえていて──。

 それが恋でも、愛でも、別の違うものでも構わないから。




【太陽と月の終わらない恋の歌 月の盗人 5.】




 その朝は妙にゆっくりと明けていった。

 眠れずに過ごす夜は長くて、こんな時は、心身を休めるはずの宵の時間が、逆に疲れを増長させる気だるいものになる。


(もう、太陽が……)

 レースのカーテンを通じて落ちてくる朝日が、マノンの重い瞼をくすぐった。

 遠くからは、小鳥達が新しい一日の到来を軽やかに歌っているのが聞こえる。

 ピピピ、チー、チー……


 いつもは寝起きのいいマノンだったが、この朝だけは、このままぐずぐずとベッドにすがり付いていたい気分で、ゆっくりと顔を上げた。

(私、きっとひどい顔してる)

 のが分かっていたから、余計に起きづらい。


 昨夜は一晩中、ダヴィッドの声が頭にこびりついて離れなかった。

 冷静な声で、少年の所へ行けとマノンに諭すダヴィッド──その少年とはつい先日、病院でマノンの唇を奪おうとし、それに失敗するとこの屋敷まで忍び込んでくるような『馬の骨』だというのに、だ。


 そして、

「『知ってるよ』なんて……ダヴィッドの、いじわる」


 マノンの真剣な愛の言葉を、いつも通り、ダヴィッドは簡単にかわしてしまうのだ。

 まるで赤ん坊をあやすように。

 そんなものは真剣に取り合う必要がないとでも言うように、あっさりと。


 いくら家族として、娘として大事にしてくれても、他の誰も知らない夜の秘密を打ち明けてくれても、ダヴィッドはこの一線だけは絶対に越えなかった。

 マノンは子供で、ダヴィッドは大人で、それは魚が鳥に恋をするようなものだと、一笑に付して、それでおしまいなのだ。

 恋心は幼い気まぐれで、告白は子供の戯言だ、と。


「ブラン」

 マノンは身をかがめ、ベッドの下の籠中の白猫をすくい上げた。

 ひざに乗せ、頭を撫でてやると、なー、と喉を鳴らしてマノンに擦り寄ってくる。


 子猫の時分に捨てられていたところを偶然見つけ、拾って以来ずっと部屋を共にしているこの白猫は、他人には無愛想なくせにマノンにだけは良く懐いていた。


 マノンもそんなブランが好きだ。この子は自分が見つけ、拾ってきたのだという、保護欲のような……優越感のような、説明し難い愛着もある。

 ──多分、ダヴィッドにとってのマノンは、これなのだ。


 白猫を腕に抱いたまま立ち上がったマノンは、静かにベッドを降りて、窓際のカーテンを引いた。

 真っ直ぐに差し込んでくる白んだ日差しに目を細め、ガラス越しの新緑を見つめる。


 今日という日が始まったのだ。

 止めることが出来ないのならば、出来るだけのことをしなくては。




「ダヴィッド、居ないの?」

 その朝、マノンが朝食にサロンへ出ると、いつもなら先に食事を始めているダヴィッドの姿がなかった。

 ただ執事バトラーだけが、いつも通りテーブルの横に控えている。


「遠出の仕事があられるそうで、ダヴィッド様は半時間ほど前に出て行かれました」

「そう……」

 何をしようとか、何を言おうとかいった明確な計画があった訳ではないが、朝からダヴィッドが居ないことに出足を挫かれたような気分だった。

 せめて出発の時くらい、声を掛けてくれるかと思ったのに。


「本日は、ドロレス小児病院へ行かれるのでしょう。供をするように言い付かっています」

 マノンのカップにミルクたっぷりの紅茶を注ぎながら、バトラーは言った。

「ん……」


 確かに、バトラーを供に付けると言っていたダヴィッドの言葉を思い出し、マノンはテーブルの上に視線を置いたままコクコクと頷いた。

 相変わらずそつのないダヴィッドの手配が、今朝ばかりは少し恨めしい。


 あのサイモン少年には悪いが、マノンにとって今日のドロレス小児病院訪問は、気が重いばかりだった。



 馬車に揺られてルザーンの郊外まで出ると、都会の光景はゆっくりと視界から消え去り、代わって牧歌的な景色が広がり始めた。

 マノンを乗せた二頭立ての小型馬車の御者台には、バトラーが手綱を持って納まっている。

 移りゆく景色を眺めながら、客席のマノンは一人ぼんやりと、ダヴィッドの事を思った。


『俺と来るか』

 あの満月の夜に現れた彼を──。


 真冬の満月の夜、ありったけのボロに身を包みながら路地裏で震えていた哀れなマノンに手を差し伸べた、黒装束の男。

 それがダヴィッドだった。


 温かさとはどんなものだったのかさえ忘れていたマノンの身体を、そのビロードのマントで包み、暖めてくれたのも、彼だった。

 震えるマノンをぎゅっと抱きしめて、低くも優しい声で、『大丈夫か』と具合を聞いてくれた。


 喉まで凍えて答えられなかったマノンを、彼は抱き上げると、

『嫌でもいい、今夜だけは俺の所に来るんだ』


 差し出された彼の手を取るのは、息をするよりもずっと楽で、自然な行為だった。

 一晩だけの慈悲のはずが、もう一晩、もう一晩と引き伸ばされ、気が付けば部屋を与えられて、彼の家族となっていた。

 あかぎれだらけだった手は見る間につややかになり、髪は綺麗に漉かれ、高級なドレスを与えられ、美味しくて温かい料理を毎日一緒に食べるようになった。


 真っ暗で先の見えなかった世界に、突然現れた太陽。──それも、ダヴィッドだった。


(ダヴィッドは知らないの……)

 彼が、マノンの人生にとってどれだけの意味があるか。

 助けてくれたから、拾ってくれたからという理由ではない。もしダヴィッドが明日マノンを元の裏路地に捨てても、そのせいで再び飢えても凍えても、マノンはきっとダヴィッドを想い続ける。


 どんな大人の女だって、きっと、こんなに深く彼を愛することは出来ない。




 マノンとバトラーの乗った馬車がドロレス小児病院へ辿り着くと、なんと入口に小さな花束を抱えたサイモン少年が立っていた。

 バトラーに手を取られて馬車から降りようとするマノンへ向かって、サイモンは足早に駆け寄ってくる。


「これ」

 と、挨拶も前に、花束を差し出してきた。


 白の野花を寄せ集めた小振りな花束で、根元にはリボンが結ばれている。サイモン本人が飾り付けたのだろう、不器用に結ばれたそれはあらぬ方へ傾いていたけれど、一生懸命な愛情が感じられる可愛いらしい求愛の花束だ。

 驚いたマノンがきょとんとしていると、緊張に焦ったサイモンは何を勘違いしたのか、拒否されたととったらしかった。


「い、いらないなら無理にいいよ! 別にお前の為に作ったんじゃないんだ。たまたま、庭に落ちてたから拾ってきただけで……!」

 そう言って花束を後ろに隠し、顔を紅潮させた。

 マノンはますます、きょとんとして、首を傾げた。突然花束をくれようとしたり、それを隠してお前のじゃないと言ったりと、忙しい人だと……そんなことを思って。


「私のじゃないの?」

「ち、違うよ! お前のだけど、でもいらないんだろ!」

「そんなことないもの。でも、他の人のだったら仕方ないから……」

「だっ」

 サイモンは毛を逆立てんばかりにして声を上げた。

「だからお前のだってば! ほら! なんですぐ受け取らなかったんだよ!」


 花束がばさりとマノンの胸元に投げ込まれる。

 マノンは取り落としそうになったそれを慌てて捕まえて、手に抱えると、くんと匂いを嗅いだ。摘み立ての青々しい香りと、新鮮な甘い香りがする。


 自然と顔がほころんで、マノンは花に口元を埋めたまま、サイモンに礼を言った。

「ありがとう……とっても素敵」

「なっ、なっ、」

 サイモンの興奮は頂点へ達していた。

 そんな微笑ましい若い二人のやり取りを横目に、バトラーは無言で馬を柵に繋いでいた。



 病室に入ると、サイモンは大人しくベッドへ戻った。

 マノンにはベッド脇に椅子が与えられ、バトラーは彼女の後ろを陣取っている。椅子を勧めてもバトラーは座らなかった。

 そもそもバトラーが座っているところを、マノンはあまり見たことがない。


「よく来てくれたね。サイモンも嬉しいだろう、あれからずっと君のことばかり話していたからな」

 通りがかった副院長が、マノンの姿を見とめると病室へ入ってきた。


 相変わらずの人の良さそうな笑顔と、柔らかくも堅実な物腰で、部外者であるはずのマノンを歓迎する。

 マノンは、そういえばダヴィッドは最初にここへ来たとき、自分が病院を訪れたがったという口実を使ったことを思い出して、慌てて頭を下げた。


「先日は、お招きありがとうございました。ずっと病院を見学してみたかったんです」

「いつでも歓迎だよ。若いのに感心だ」

 それだけ言って、「では邪魔者はお暇しよう」と病室を出て行った。


 サイモンは余計な事を言われてしまって顔を赤らめていたが、副院長が去った後の病室に静寂が訪れたのに慌てて、急いで捲くし立てた。


「ふ、副院長の言ってることなんて気にしなくていいからな! まあ……その、なんだ、座れよ!」

「もう、座ってるのに?」

「れ、礼儀だろ! だから言ってやっただけだっ」

「…………」


 気まぐれな発言の数々に疑問を抱きながらも、マノンは大人しく座り直した。

 同時に、さらりと揺れる金色の髪が、甘い石鹸の香りを誘ってゆらめき──少年のサイモンを興奮させるには充分すぎる色香が、あたりに溢れた。


 そう、ダヴィッドを基準に考えるからまだまだ子供だと思えるけれど、外に目を向けて同年代の少年少女と比べれば、マノンはどこか大人びた存在なのだ。月のような静かな魅惑。

 サイモンは息を呑んだ。

 息を呑んで、背筋を伸ばす。


「今日は、その、来てくれて、ありが、とう」

 絞り出すような声で、赤毛の少年はそう言った。

「いいの、それより……あなたは病気なんでしょう? ダヴィッドが言っていたわ」

「大したことないよ。大人しくしてれば気分はいいんだ。ただ、時々胸の辺りが苦しくなって、息が出来なくなる」

「そう……」

「それで、俺、お前の親父さんに頼んで」


 と言って、サイモンはちらりとバトラーの方へ視線を移す。蝋人形のように微動だにしない、執事の見本標本のような男は、無言の冷たい目でサイモン達を見ていた。


「その……お前と話したいって……出来たらその、ダチになりたいっていうか、何だ」

「友達、ね?」

「そうだよ! いいだろ? だって俺は多分もう長く──」

 言いかけて、サイモンはきゅっと口をつぐんだ。

「?」

「い、いや、何でもないよ……」

 サイモンは手元に視線を落とした。


 うな垂れたような横顔には、腕白で豪快な少年の影は薄く、ただ己の無力に打ちひしがれる人間の悲しさがあった。少なくともマノンには、そう見えた。


 明日をも知れない重い病気になどなった事がないから、マノンにとって、少年の複雑な心は理解し切れない。治るかもしれないし、治らないかもしれない。

 生きられるかもしれないし、生きられないかも……しれない。

 こんな不安な運命の下に立つことが、どれほど難しいか。


 分からないけれど、例えば、もうすぐダヴィッドに会えなくなるかもしれないと怯えながら生きる自分を想像してみれば、その悲しみの片鱗は感じることが出来る。

 少しでもいい、一秒でも長く、彼の傍に居たいと願うだろう……きっと。


「前みたいに、口づけをしたいって言うなら嫌だし、駄目だけど」

 シーツの上に投げ出されていたサイモンの手に、マノンの片手が触れた。

「友達になるのは大丈夫よ。お話したり、一緒に散歩したりするだけでしょう?」

「ほ、本当か!?」

「うん」

「ーーっ!」

 その時のサイモンの喜びようといったら、バトラーの能面さえわずかに綻ばせる程だった、とか。



 話し始めてみると、サイモンとマノンは意外にも馬が合った。

 気が付けば時刻は昼に差し掛かっていて、病室に昼食が届けられた。サイモンは質素な銅器に乗った食事を勢い良く平らげる。その姿ばかりは、病気に苦しむ少年という感じではなく、微笑ましい。


「あなたはどうして、いつも『黒の怪盗』を名乗るの?」

「そりゃ、怪盗は俺の最高の英雄だからだよ! 俺だっていつかあんな風になるんだ。だからさ」

「ふうん」


 ダヴィッドのようになるサイモンを想像してみる。

 それは可笑しくて、それでいてそれなりに絵になる図のように思えた。マノンがくすくすと笑うと、サイモンは口をへの字にして文句を言った。


「笑うなよっ」

「笑ってないのに」

「いーや、笑った。俺は黒の怪盗より凄い奴になるんだ、その時に後悔しても遅いぞ!」


 ──ガタン。

 その時、病室の入口に急な音が響いて、皆が振り返った。

 初老の男が立っている。副院長とは違う、マノンの知らない顔だった。サイモンの顔がさっと嫌悪に染まっていくのを、マノンは見た。

(誰……)

 と、疑問を持つまでもない。

 サイモンがすぐに口を開いた。「院長──」

(え)

 マノンは院長と呼ばれた男の顔をもう一度見た。神経質そうな鷲鼻と、窪んだ瞳がギラギラとしている、気味の悪い顔だ。


「私の病院で騒ぐ者は今すぐに出て行ってもらうぞ」

 外見に違わず、低くて物騒な声だった。


「ごめんなさい……静かにします」

 マノンが言うと、院長はフンと鼻を鳴らして立ち去ろうとした。そこに、

「うるさいっ、誰がお前の言う事なんか聞くもんか!」


 サイモンの怒声が響いて、彼の手から投げられた銅皿が素早く空を切った。銅皿は病室入口の柱に勢い良く当たって、床に落ちるとカラカラと空しい音を立てて回る。

 院長はそれに見向きもせず、廊下の先へ消えてしまった。


「くそっ!」

 サイモンが悪態を吐く。


 突然の出来事に、マノンは身体を硬くした。

 ダヴィッドが言っていた言葉を思い出す──『新しく院長に就いた男が、汚い横領をしているらしい……それを確かめるんだ』


 今の男が……。

 緊張に心臓が高鳴る。

 今の男が、ダヴィッドがこれから戦わなくてはならない相手なのだ。


「あいつは大嫌いだ。急に治療費を上げたり、俺達には厳しいばっかりで大した治療もしない。値上げされた治療費が払えなくて、病院を出て行った奴もいるんだ……」

 狼の唸りのような声で、サイモンが言った。


「だから……だから俺は黒の怪盗になるんだ。そうして奴をやっつけてやる……っ」

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