第36話 陽輔の大事な人
「では、前回に引き続き今回も点数上げてきます!」
「その意気だ。」
5月最後の月曜日の朝、花月はテストを受けに行くべく、HKKへと向かう。今はその旅立ち前の最後の挨拶を交わしているところだ。
「その自信があれば、俺と一緒くらいの点数取れると思うぞ。」
あれ、励まし方間違えたか。
「……嫌味ですか、それ。そこまでは無理ですよ。」
「花月、準備出来てるか?」
急に玄関の扉が開いたかと思うと、野太い声が聞こえてきた。扉の方を見ると、そこには筋肉の怪物がいた。
「重村さん……、別に来なくても大丈夫って言ったでしょう?」
「心配だったからな。遅れたことも何度もあるだろう?」
「まあ、そうですけど……。」
また、花月のおっちょこっちょいヒストリーが一つ紐解かれたな。
「俺が来れば安心だ。なんせ俺は遅刻と欠勤とは無縁の男だからな。」
「イメージ通りだ……。」
久しぶりに会ったが、鬱陶しいのも変わらないな……。
「はいはい。じゃあ、行きますか……。暑苦しくて嫌だなあ。」
「おう!」
花月が小声で陰口を言ったとは露知らず、重村は元気な返事を返す。……まあ、不憫ではあるよな重村も。まあ、花月の意見には完全同意なんだけどな。
俺は明らかにテンションが下がっている花月と相変わらず元気な重村を見送り、自室へと戻る。もう、朝ご飯は済ませてあるので、ゴロゴロタイムに馳せ参じるとしよう。
俺は自室に戻ると、勉強机の引き出しを上げた。奥のほうにある小さい箱を取り出し、パかっと開ける。そこには黒色の髪留めが綺麗な状態で鎮座していた。
「これはいつも変わらないな……。」
これは俺にとって大事な人の形見だ。ここにあるのは分かっているのに俺は定期的にこれを確認してしまう。それに、これを見ていると寂しい気持ちはあるが少しの安心感も得られる。……本当、これだけでも貰えてよかった。
去年の7月。夏真っただ中の朝、俺はいつもどおり授業を受けていた。外は倒れそうになるくらい暑かったが、幸い教室にはクーラーがついていたので、快適に授業を受けることができていた。俺は一応、真面目だったのでいつも通り真剣にノートを取っていると、急に教室の扉が開き、担任の先生が入ってきた。何事だろうと他人事のように考えていると、急に俺の名前が呼ばれた。教室内が少しざわッとしつつ、俺は立ち上がりその中を進んだ。そして、先生と一緒に職員室に向かった。何かしでかしただろうかと焦りながら脳内検索したが、赤信号になりかけの横断歩道を渡ったくらいしか思い当たる節はなく、突然呼び出されるようなことはしてないよなあと考えていた。
と、先生は突然立ち止まり俺を人気のない廊下へと誘導し始めた。俺は戸惑いながらも先生の後をついていく。そして、先生は周りに誰もいないのを確認すると、理解が不能なことを口走った。「君のお母さんが倒れた」と。その時の衝撃は今でも覚えている。急激に頭がぐるぐると周りはじめ、血の気が引き、絶望感に沈んでいった。ただそこから後の記憶はなく、気が付いたら俺は病院についていた。お母さんが寝ている病室まで先生と行き、部屋につくと先生は俺とお母さんの二人きりにするために部屋をあとにした。
そこには酸素マスクをつけ、点滴を打って静かに眠っているお母さんがいた。ただ、俺の目には倒れたあとには見えず、普通に眠っているだけのように見えた。俺が呆然とその光景を見ていると、先生が病室に入ってきた。その顔は苦肉の表情をしており、「落ち着いて聞いてください、今は非常に危険な状態です。もしかしたら、助からない可能性もあります」とそう言われた。そのときの俺は現実を受け入れきれず、ただただボーっと夢のような気分で立っていた。良い夢ではなく悪夢を。
そして、その日のうちに最愛の母は亡くなった。過労による心臓発作だったらしい。俺の母と父親は俺が小学5年生くらいのときに離婚しており、母は女手一つで俺のことを育ててくれていた。そこから母はほぼ毎日休みなく働いており、にもかかわらず料理や家事もやっていた。もちろん、俺も手伝ってはいたのだが、「陽輔は学生なんだから、学生らしく遊びと勉強をしてればいいのよ。特に勉強をね。」と言われ、俺が率先して手伝うことを良しとはしなかった。
でも、倒れたのは俺のせいだ。これは今でも思っている。一番身近にいたのは間違いなく俺で、母が忙しいのも分かっていた。それでも、母の言葉に甘えて俺は自分のことしか考えていなかった。母の疲労を見て見ぬふりして。楽しい学校生活を送っていた。俺が殺したのも同然だ。俺が助けられたはずなんだ。家のことを全部俺がやっていれば、死ぬことはなかったはずだ。何で、何で、何で、何で……。母の苦しみを分かってあげられなかった。母の辛さに気付いてあげられなかった。母を見殺しにした俺がただ生き残ってしまった。これなら、まだ俺が代わりに死んだほうが……。
その瞬間、俺の全てが終わってしまったような感じがした。夢も希望もなくなり、見たところで何の意味があるんだと虚しさだけが残った。
もうこの世からいなくなってしまおうかとも考えた。ただ、生存本能が醜く喚いてしまうせいで、それは叶わなかった。
母の葬式が慎ましく行われ、俺は伯父の高鷹文夫に引き取られることになった。絶望感に打ちひしがれながらも当時の俺はまだ伯父が良い人だと思っていたので、少し救われた気持ちになっていた。そして、夏休み中に伯父の一軒家にお邪魔した。……しかし、その気持ちもすぐに裏切られた。伯父は常に仕事やプライベートに対しての文句を言っており、そして、暗く落ち込んでいる俺を見て、俺に対しても罵倒を浴びせてきた。覇気がないだのお前といても面白くないだの散々言ってきた。それに、俺は受け身を取れず泣いた夜も少なくない。ただまあ、当然かもなとも思っていた。親族とはいえども親子関係でもないし、あまり関わったこともなく情もないやつが急に押しかけてきても困るだけだろう。ああいう態度を取るのも当然だ。
それに、俺もどうでも良かった。もう何もかも終わってしまった。本当に大事な存在は失ったあとに気付くと古来より言われているが、本当にそうだった。母に恩返しすることが生きる意味だったんだなと日々強く感じていた。それが出来なくなってしまった今、別にどうでもいい。悲しいとか辛いとかどうだっていい。そう思うのが嫌だというのも特にはなかった。それに、母はもっとつらい思いをしてきたのだろうから。これは報いだ。
夏休み明け俺が引きこもって学校に行かないと分かると、罵詈雑言はさらにエスカレートした。死ねとか消えろとかも言われるようになり、本当に殴られているような気分だった。まあ、それもどうでも良かったけどな。
そして、今に至る。母の私物で俺がもらえたのはこの髪飾りだけだった。母の死後すぐに遺品整理が行われ、これ以外のものは祖母が引き取ってしまった。これは母が死んだと分かったあの日に帰ってすぐに俺が隠し持ったものだ。たまの休みの日や時々家でもつけていたので、俺のイメージのなかの母はこれをつけていた。これだけは誰にも取られたくなく、し自然と手に握っていた。
「良かった……。これだけでも残って。」
これを見ると、母が身近に感じる。母の姿を鮮明に思い出すことができ、俺の精神安定剤になっていた。……本当、俺は心が小さく狭い人間だな。
「さあ、まあ、適当に勉強するかー。」
生前の母が一番褒めてくれたのが勉強のことだった。小学生の頃から俺はそこそこ頭が良くテストの点数はほぼ毎回良かった。それを見せるたび、母に褒められ俺は鼻が高くなっていたものだ。
そのときの嬉しそうな母の顔は今でも覚えている。俺は勉強しているときいつもその顔を思い出している。……俺が勉強を真面目に取り組む理由はそれだ。
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