俺のチャリは二人乗り
その日、浜は南端がわずかに揺れただけで、ほとんどの土地で有感ではなかった。が、海晴は誰かの声が聞こえた気がして、なにかが乗っているかのように重い布団を力いっぱい蹴飛ばした。浜は沖を暖流が流れている影響で、緯度のわりに真冬でも寒くなく、石油ストーブを点けていなかったにも関わらず、海晴の下着は汗でぐっしょりと濡れ、パジャマ代わりにしている中学のジャージにまで滲んでいた。心臓がばくばく唸る、夢精に似た、気持ち悪い目覚め方だった。あれは誰か……大切なひとの声ではなかったか……と、まだ判然としない頭で、頼りない記憶を辿りながら、尿意はなかったのだが、気を紛らわすため前屈みで勃起を抑えつつ、トイレに足を引きずると、玄関わきの梟を模した壁掛け時計は常夜灯にうっすら照らされてまだ六時前であることを示している。居間の明かりは灯っていた。おじさんの弁当を拵えるおばさんが、朝早く起きるのはいつものことなので、素通りしようとしたところ、どうもおじさんも起きているらしく、なにか秘密めいた、伏せた声が、薄い障子越しに聞こえてきた。それは、海晴には聞かせまいと気を遣ったのか、だとしたらそれはどうしてか。のち、海晴はこの一言を何度か思い出すことになる。このとき、おじさんとおばさんは、すでに浜を離れることを決意していたのではないだろうか、と。
「原発は大丈夫かねえ……」
明日は晴れるか問うようなおばさんの声の平坦さに驚き、海晴が引き戸の隙間からこっそり覗きこむと、萎れかけた白いカトレアの花瓶の向こう、小さなブラウン管のテレビに映っている光景を見て、ハリウッドの映画でも観ているのかと思った。
この日の海晴の記憶は多少混濁している。発生からまだ十数分しか経っていない六時前に、横倒しになった高速道路や、片足で堪える長距離バス、液状化した地面、粉々になったマンション、火と煙を吹き上げる商店街を、報道できているはずがないからである。そもそもワイドショーを「茶番」と一笑に付する親戚が朝のテレビを観ているのはおかしい。思いちがいをするほど海晴にとっては衝撃的であった代わり、地に足が着くような一人称には欠如していた。
どこか浮ついた足取りで、高校に向かった。ネクタイを着け忘れ、生活指導の教師に怒られたとき珍しく謝った舌の強張りのほうを、強く覚えていたりする。学校では、地震の話題で持ちきりだった。いつもなら、海晴は机に伏せて寝たふりをしつつ、せいぜい芸能界のゴシップしか取り上げない彼らの雑談は下らないものとイヤフォンで耳を塞ぐのだが、この日は授業の合間のたびできるだけ時間を割き、隣の席の女子や、黒板を磨く日直、煙草の匂いを漂わせる不良など、ろくに接点もなかった相手と話すことを試みた。主体性がないのはみなおなじようで、あけっぴろげな会話は妙な熱を持っており、いつもより拡張した瞳孔は興奮している。なにかに似ている、と、海晴は思った。たとえば戦争、という喩えに、全く当てはまらない苛立ちを覚え、上擦った声に嫌悪感を催しながら、たずねるべきそれを求める迷子のように教室中を歩き回る。ふと、教壇前に立っていた男子が、愁香の噂をしていたところを見つけ、海晴は彼ににじり寄った。この日、愁香は学校に来ていなかったのである。彼女が神戸から来ていたこと、彼女の実家が神戸にあることを、誰もなにも頓着していなかったが、誰よりも海晴自身、ホームルームで担任が彼女は今日休みであることを事務的に伝えるまで、気づいておらず、昼休みになるとその申し訳なさのようなものは怒りのような感情に化身した。役にも立たないキャッサバの原産地を教えてくる教師への怒り、なにかできることはないだろうかと折り鶴ごときを提案する委員長への怒り、電車の窓から外を見たとき後ろの荷台が軽そうに自転車を走らせていたガッチャンへの怒り、すべて現実だということへの怒り。怒ることによって自分の罪は免除される、とまで、海晴が考えていたわけではなかったが、底知れない罪悪感がふつふつと湧き上がるのはいつもどおりなはずの早弁でジャムパンを齧ったときの呑み込めなさで味わっており、それを昇華するため、ブリックパックの牛乳は飲めても、祈ることができるほど、ほとんどの高校生がそうであるとおり、彼はまだ十全な大人ではなかった。
愁香の噂をしていたのは、放課後の壇上でコメディ番組を真似た一発芸を披露するなどクラスでもとりわけお調子者の男子だった。そこに空っぽの愁香の机があったからだろう。「あなたに会いたい」などひどくベタなJポップの歌詞が深く彫刻刀で刻まれた、机にやがて尻を下ろすと足を組み、深夜の通販を思わせるいんちきくさい口上により、ニュースで報道されていた内容に尾ひれを付け始めた。海晴は踵を潰した上履きの足をリノリウムの床に滑らせて彼に近づく。
「数字どんどん増えております。安否確認の電話番号はこちら!」
へらへら笑いながら調子よくしゃべる彼の後ろ頭をツッコミ役が小突くより早く、彼の肩に手を置くと、腑抜けた顔が振り向いた瞬間、海晴は、
「なじょだらッ!」
と海老が跳ねるような頭突きを鼻っ柱にぶちこみ、教室の戸口で立ち話をする女子たちを突き飛ばし、廊下を走ると、階段を一段飛ばしで駆け下りた。ひどく頭が痛かった。でもこれは自分の痛みではないと思った。そう思うことも身勝手だった。愁香のことなど、ろくに思いやれていない。いや、思いやれているふりをしたいだけだ。海晴はただ、怖かった。誰かが死ぬことより、愁香がどこかに行くんじゃないかって、そんなことをそんなことと思うことが怖かった。
カーディガンを教室に忘れてきたからか、ずいぶんと寒い日だった。それでももっと寒い思いをしているひとがいる、と、嘘のように晴れた空を見上げたところ、ひとすじの粘っこい鼻水が顎の先から零れ、気づけば血で汚れているシャツに落ちた。校庭を出て裸の桜の木に背中をあずけ座り込み、木枯らしを浴びながら、どこにも行きようがない気持ちを燻らせていると、聞き覚えのある自転車の歯切れが悪いベルが鳴らされた。海晴が気怠そうに顔を上げれば、ガッチャンが冗談っぽいガニ股で靴を地面に滑らせつつ、自転車を止めた。
「乗れよ」
ガッチャンはいつもそうであったとおり、笑いながら、後ろの荷台を親指でくいくいと示した。こんなときでも、いつもとおなじように笑えるガッチャンがすごいと思った。それはクラスメイトの笑顔とも違う。楽しいから笑うんじゃない。彼の笑顔は相手に向けられている。たとえば海晴がどんな不幸であれ、ガッチャンはおなじように笑ってくれるんじゃないかって、そう思うと海晴は嬉しく、このやるせない嬉しさのことを「信頼」と呼ぶのではないかと考えた。
「乗ってもいいの?」
どこかガッチャンがどのように答えてくれるのか分かりながら、海晴は寒さで強張ったくちびるをふるわせる。海晴の知るかぎり、ガッチャンの自転車の後ろに座ったことがあるのは、愁香だけのはずだった。
「俺のチャリは二人乗りなんだ」
ガッチャンはアニメのキャラクターを真似た口調を装い、喫煙で黄色く汚れた前歯を見せれば、いつかのように海苔がど真ん中に付着しており、「おい、スネ夫じゃねえのかよ」と、海晴もやっと笑った。笑ってみて、笑ってはいけないのだと考えていたことを知った。それでも自分が傷つくのは違う。少なくとも考えるべきことは多くあったけれど、とにかくガッチャンが立ち漕ぎする自転車は、すべてを振りきるようなスピードで、いつもは海晴が電車の窓から見ていた畦道を逆むきに爆走した。
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