第5話 だからあの日の私を導いてくれたんですね
海からそれなりに傾斜のある住宅地の坂を登っていく。
着いた時に息を切らしていては恥ずかしい。ゆっくりと足を進めて『植村』と彫られた表札のある戸建ての家の前に立ち止まった。
教えてもらった住所とスマホの地図アプリの場所が一致していることも確認する。
インターホンを押すと、「草薙さんですね。どうぞお入りになってください。主人ならアトリエの方にいますから。外から回ってくださって構わないですよ」と女性の声がした。
「こんにちは」
「これはこれは。お久しぶりですね」
植村さんは今日はもちろん私服だったけれど、声と顔は私の中で瞬時に一致した。
「ご無沙汰しています。お怪我をされていると聞いたので、なんだか申し訳なかったのですけど、どうしてもあの時のお礼が言いたくて来てしまいました」
交番で私と植村さんとの話を聞いたお巡りさんたちは、お休み中のご自宅に電話をしてくれて、私がこれから訪ねていっていいかとの許可を取ってくれたんだ。
「ケガって言っても、パトロール中に自転車で転んで指の骨を折っただけなんだけどね。いやはや情けない話だ。もうほとんど治っているから心配いらないですよ」
植村さんは恐縮している私を心配させないように、あの当時の声で笑ってくれた。
「あの……」
「分かってますよ。あれから何度も来ているのを見かけました。邪魔をしてはいけないと声をかけることはしなかったんだけどね。その努力の結果があれだよね。よく頑張ったね。おめでとう草薙さん」
アトリエの一角にあるコルクボードに新聞の切り抜きが留めてあった。
それはあのコンクールの授賞式の記事だった。地元紙だったから写真も載っていたのを切り抜いてくれていたのだろう。
「金賞をとられた草薙沙織さんがあの時の女の子だとすぐに分かりましたよ。仕事は変わったけれど、絵のセンスを見ることはできたみたいだ」
「はい。先日、大学の推薦入試の結果通知が来まして、
「ほう、それはおめでとう。それは草薙さんがご自分で手に入れた道です。ご両親は何とおっしゃってますかな?」
「はい、半ば呆れてしまったようで。もう好きなようにしなさいとしか言いません」
勉強にしか興味がないと揶揄されたこともある私が全く違う進路を向いたことで、「受験では打倒草薙沙織」を目指していた子たちが目標を失って混乱。なぜと平柳先生に詰め寄ったって。そこでも先生は「芸術学部は頭がいいだけじゃ入れない。草薙さんは一年以上前から準備をしていた」と諭したって話も後で耳に入った。
「日共大の芸術学部ですって? 私の後輩になるんですね。嬉しいです!」
紅茶を持ってきてくれた奥様は思っていたよりずっとお若い。たぶんご夫婦で十歳くらいは離れているんじゃないかと思う。
「私、草薙さんと同じで両親の反対を押し切って飛び出してきてしまったんです。そこで色々と世話をしてくださったのが植村先生で……」
えっ? ということは、さっき交番で聞いた、元々は先生だったという植村さんの生徒さんが今の奥様ってこと?
私の表情を読み取ったのだろう。奥様は恥ずかしそうに頷いた。
「そうなんです。でも、私が夜道で危ない目に遭いそうになったことをきっかけに、先生は『この街を守りたい』とお巡りさんになったんですよ。大学の先生という職にいた恩人の人生を変えてしまったんですもの。私は『一生かけて責任を取ります』って、こうやって居させていただいているんですよ」
「この街にはなぜかいろいろな事情を持った若い子がたどり着くことが多くてね。草薙さんを最初に見かけたときも、そんな子なのかなと思いましたよ。でも、ノートを拝見した時に、あなたはいつか芽が出ると思っていました。間に合ってよかったですね」
「あ、そうだ。そうなんです。あの時のお礼に今日はこちらを受け取っていただきたくて持ってきました。まさかそんな大先輩方とは知らなくて……」
額縁の箱に入れてきた絵を見て、今度は二人が息を呑む。
「これ……、受賞された作品の原画というか本物ですよね? 記念になさらなくていいのですか?」
「はい。大学にはこの鎌倉からの方が近いので、一人暮らしを始めようと思っているんです。何度も来ているうちにすっかり気に入ってしまって。この街を起点にしたいと思うようになりました。いまアパートを探しはじめたところです。それに心強いお巡りさんのいる街だと分かりました。また絵は描けます。これはあの時のお礼として受け取っていただけたらと思います」
「強くなりましたな。草薙さんは。もうあの時の顔ではありませんね。さすが金賞を射止めた素晴らしい色使いと描写センスです。ありがたく飾らせていただきますよ。街の安全は私に任せてください。あと一週間もすれば勤務に戻ります。部屋探しや、街のことは妻の
奥様の琴美さんと連絡先の交換をして、お二人に駅まで見送りに来てもらって、私は家路についた。
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