第7話

 所変わって、学院内の広場。

 生徒達の憩いの場、そして実習の場として設けられているそこには、現在“戦闘科”3年生一般クラスの生徒達が、箒の実習のために集められていた。


「はぁ……」


 そんな生徒達の中に、憂鬱そうに溜息をつき顔を俯かせている1人の少女。

 彼女の名はバニラ=ヴァルシローネ。年齢は12であり、身長はその年代の少女ならばごく一般的な大きさ。クリーム色をした少々癖のある柔らかい髪を持ち、赤い縁の眼鏡を掛けている。


 バニラは、実技の授業が大嫌いである。

 学科の成績は悪くない。むしろ同じ専攻の中でも上位の成績である。

 ではなぜ実技が嫌いなのかというと、単純に苦手だからである。それこそ、“落ちこぼれ”と認定されるくらいに。

 誰でもできるような低級の魔術すら失敗し、下手をすれば発動すらしない。今までまともに成功した魔術はたった1つであり、そのたった1つの魔術も級友に馬鹿にされるような代物である。


「はぁ……」


 バニラは再び溜息をつくと、盗み見るように前へと目をやった。

 そこには、今回の授業を請け負っているシルバという教師が、自分の前で整列している生徒達を睨みつけていた。白髪混じりの金髪に痩せて骨張った顔と、見た目には60歳近くにも見える彼だが、意外にも実年齢は40代前半だったりする。

 彼の顔を見て、バニラは先程よりも大きな溜息をついた。シルバは、彼女が最も苦手とする教師の内の1人だった。

 なぜなら彼は――


「さて、今日は諸君らにこの箒に乗って、ちょっとした競走をしてもらう。コースは、この学院を塀に沿って3周するというものだ。前に何回か練習はしているから、まぁ普通に完走できるコースだな」


 シルバは高圧的な態度で、目の前の生徒達にそう言った。“競走”と聞いて血気盛んな男子達がにわかにざわついた。女子達も男子ほどの反応は見せないものの、やる気になっているのか口元に微かに笑みが浮かんでいる。

 ただ1人、バニラの表情にだけ影が差したままだった。


「はぁい、バニラ」


 そんな彼女に、やけに明るく、それでいてねちっこい声が掛けられる。

 そちらに目を向けると、長い金髪を大きな赤いリボンで後ろに縛る女子生徒が、ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべていた。


「どうしたの、バニラ? 随分と暗い顔してるじゃない」

「そ、そんなことないよ……」

「あぁ、分かった。あなた、完走できるか心配なんでしょ。そりゃそうよねぇ。あなたみたいな“落ちこぼれ”にとって、学院を1周回るだけで相当キツいんだもの。ていうかあなた、そもそも飛べるの?」

「と、飛べるもん……」

「どうかしらぁ。最初の実技だって、私達が普通に飛んでる中、あなただけ壁に突っ込んでたじゃないの」

「そこ、私語は慎め」


 シルバが喋っている2人を窘めると、その女子生徒は口を閉じてバニラから離れるようにその場を離れた。しかし去り際に、シルバには見えない角度で例のいやらしい笑みを一瞬だけバニラに向けた。

 しかし、それは彼女だけの話ではなかった。先程の会話を聞いていた周りの生徒達も、同じように侮蔑の色を含ませた視線を不躾にバニラへと向けている。

 そんな視線から逃げるように目を伏せた彼女に、シルバの声が届く。


「安心したまえ、バニラくん。この箒は最新モデルだから、浮遊機能はもちろん、バランス制御まで備わっている。だからどんな“落ちこぼれ”でも飛行は可能だ。まったく、諸君らは本当に恵まれている。私が学生の頃は浮遊機能しか備わっていなかったから、箒に乗るのにわざわざ風の魔術を使わなければならなかったんだからな――」


 そう話すシルバの目に宿るのは、まさしく“侮蔑”の一言に尽きた。

 バニラは目に溜まる涙が零れるのを必死に堪えながら、制服が皺になるくらいに強く握り締めた。


「さてと、どうでもいい話はこの辺りにして早速始めるか。――全員、箒に乗れ」


 そんな彼女のことなど気にするどころか目を向ける素振りも見せずに、シルバはそう言って右手に持つ杖を振り上げた。

 それを合図に、生徒達が一斉に箒に跨る。

 そして箒に魔力を込めると、腰の高さにまで浮き上がった。

 皆、緊張した面持ちで前を見据え、箒を握る手に力を込める。バニラも周りに倣って一応はそうしているが、その表情からは不安の色がありありと見て取れる。

 静かになった広場では、シルバの声がよく通る。


「位置について、よーい――」

「ちょ、ちょっと! 何なのよ、あなた!」


 シルバの声を遮ったその大声は、バニラから少し離れた箇所から発せられた。シルバのみならず、生徒全員が一斉にそちらへと振り返る。

 集団の一番端っこに移動していた先程の女子生徒が、宝石のように鮮やかな緑色の髪を持つ少女に箒を奪われていた。

 当然ながら、その少女とはアルのことである。


「うーん、こうして見ても、普通の箒と全然変わらないんだよなぁ……。なんでこんなので空が飛べるんだろ?」

「だ、誰なのあなた! さっさとそれを返しなさい!」

「ひょっとして中身が違うのかな? どうにか分解できないかな?」

「え、な、何をしてるの、あなた! は、早く返して! そんな曲がるようにできてないから、それ! やめて!」

「……貴様、何をしている?」


 最初は唖然としながらそれを見ていたシルバだったが、箒を奪われた女子生徒がだんだんと涙目になってきたところでようやく我に返り、アルに声を掛けた。

 そしてそれに反応してアルがそちらを向いた隙に、女子生徒が彼女の手から箒を取り返した。「あ」とアルが気づいた頃には、女子生徒は自分の箒を胸に抱え、アルから遠く離れていた。

 他の生徒達はアルのことを、あからさまな嫌悪の眼差しで見ていた。突然授業を妨害したからかもしれないし、襟がくたびれている薄汚れたシャツ1枚に所々破れたズボンという、おおよそ学院の者とは思えない風貌をしているからかもしれない。

 ただ1人、バニラだけが、彼女の鮮やかな緑に目を奪われていた。


「貴様は誰なんだ? 見たところ、ここの生徒ではなさそうだが」


 不穏な空気が流れる中、シルバが再びアルに尋ねた。

 それに対しアルは、うーん、と腕を組み、


「何て答えれば良いんだろ……。保護されているというか、観察されているというか……」

「は? ――まぁ良い。とにかく、今は授業中なんだ。邪魔をしないでくれ」

「わたしも箒に乗りたいので、混ぜてください」

「貴様みたいな不審人物を、授業に参加させるわけないだろ。分かったら、さっさとここから立ち去れ」

「それじゃ、箒を貸してください」

「予備の箒なんて、あるわけないだろ」

「えー? それじゃわたしは、どうやって箒の練習をすれば良いの?」

「知るか!」


 シルバは何だか頭が痛くなってきた。突然やってきた怪しさ満載の少女に授業を妨害されたばかりでなく、自分に執拗に食い下がってくるのだ。その心中は、察するに余りある。

 シルバは痛みを抑えるようにこめかみに手をやりながら、生徒達を見渡した。皆が皆、いったいどうするつもりなのか、といった困惑の表情で自分を見ていた。

 ふと、1人の女子生徒が目に留まった。


「そうだ。バニラくん、君が教えたまえ」

「え、私がですか?」


 突然指名されたバニラが、驚きの声をあげる。


「でも、授業は出なくて良いんですか……?」

「ふん、君ならば1回授業に出なかったからといって特に支障は無いだろう。さっさとその子を連れていきたまえ」


 シルバの言葉に、バニラの表情が曇った。『きみみたいに優秀な生徒なら、1回くらい授業に出なくても大丈夫だろう』という意味合いでないことは、そのときの彼の顔を見れば容易に分かることだった。


「……分かりました」


 暗い表情で、バニラはそう言った。


「あなたが教えてくれるの? よろしくね!」


 それとは対照的に、アルの笑顔はまるで太陽のように明るかった。





「えっと……、それじゃ今から、箒の乗り方を教えるね」

「はい! よろしくお願いします、先生!」


 “先生”という単語に、バニラの頬が微かに紅くなった。

 ちなみに2人は今、塀から離れて広場の中央辺りにいる。シルバに「塀の近くだと授業の邪魔になる」と言われたからである。自分だってその授業を受けるはずだったのに、とバニラは思ったが、それを口に出すことはできなかった。


「あの……、“先生”っていうのは、ちょっと恥ずかしいかな……」

「じゃあ何て呼べば良い?」

「……そういえば自己紹介がまだだったね。私はバニラっていうの。普通に呼び捨てで良いからね。あなたは?」

「わたしはアル」

「そっか。よろしくね、アルちゃん」

「うん、よろしくね!」


 そう言って、アルはにかっと笑った。裏の無い純粋な笑顔にバニラは嬉しくなり、そして一種の寂しさを覚える。


 ――アルちゃんも、私が“落ちこぼれ”だって知ったらきっと……。


 ふと浮かんだ想いを、バニラは頭の隅っこに追いやった。


「それじゃまずは、浮くことから始めよっか。とはいっても、箒に魔力を込めるだけで箒自体にバランス制御と浮力が自動で掛かるから、それに上手く跨れれば良いだけなんだけど」

「バランス制御?」

「紐とかを張ってそこに跨ってみたら分かると思うけど、箒に乗ったままバランスを保つのってかなり難しいんだよ。だからこの箒には、乗っている人の重心を感知して修正する機能がついてるんだ。具体的な仕組みは全然知らないんだけど」

「へぇ、バニラって物知りだね!」

「そ、そんなことないよ……。これだって、シルバ先生の受け売りだし……」


 バニラは体の中心がむず痒くなるような心地になった。今まで純粋な尊敬の念を向けられたことのない彼女にとって、アルの笑顔や言葉はとても気恥ずかしいものだった。


「そ、それじゃ、やってみよっか」

「うん! よーし、行くぞぉ」


 アルは張り切った様子で、箒に跨った。両手で箒をしっかりと握り、目指す天空をしっかりと見据える。


「そのまま、箒に魔力を込めてみて」

「分かった! ――ふん!」


 威勢の良い声に反して、箒からは何の反応も無かった。アルの足は地面からまったく離れることはなく、べったりと地面にくっついたままである。


「……えっと、もう一度やってみて」

「分かった! ――とりゃぁ!」


 威勢の良い声に反して、箒からは何の反応も無かった。


「うりゃ!」


 何の反応も無かった。


「どりゃぁ!」


 何の反応も無かった。


「せいやっさぁ!」


 何の反応も無かった。


「そりゃあああああああ!」


 何の反応も無かった。


「ふむおおおおおおおおおおおおおお!」


 何の反応も無かった。

 さすがに疲れたのか、アルの手から箒が零れ落ちた。何の反応も無かった。


「駄目だ、全然動かない……」


 地面に倒れたまま沈黙している箒を睨みつけるアルに、バニラは苦笑いを浮かべた。


「えっと、そんなに難しく考えなくても良いんだよ……? 体の中にある魔力を掌から押し出すような感じで……」

「それのやり方が分かんないんだよ。魔力なんて言われても、今までそんなの感じたことも無いし」

「……感じたことが無い? 魔力を?」

「うん」

「そ、そんなはずは無いよ。ほら、目をつぶって、よーく集中してみてよ? 体の奥で何か流れているような感覚が、絶対にあるはずだから」


 バニラに促される形で、アルは渋々ながら目を閉じた。言われた通りに意識を集中し、体の奥に流れている魔力とやらを感じ取ってみようとする。

 しかし、


「……うん、やっぱし無理だよ。全然分かんないし」

「そ、そんなこと無いって。絶対に感じてるはずだよ。ほ、ほら、もう1回やってみて」

「何回やったって同じだよ。体を流れてる力なんて、全然感じないもん」

「ぜ、絶対嘘だよ! だって、魔力だよ! 私だって、わざわざ学院で習わなくても感じ取れるんだよ! そんな嘘ついて私をからかおうとしたって騙されない――」


 バニラはそこまで怒鳴るように叫んだところで、突然その声を止めた。


「ご、ごめん……、バニラ……」


 アルが呆然とした表情で、そしてどこか戸惑うような目で、自分を見ていることに気づいたからである。

 バニラは、高ぶっていた自分の熱が急速に冷めていくのを感じた。

 そして冷えすぎたのか、バニラは身震いした。

 困惑の表情で謝るアルの姿に、幼い頃の自分の姿が重なった。

 だとしたら今、自分は、誰と重なって見えるのだろう。


「……ねぇ、私がお手本を見せようか?」

「うん、お願い」


 呟くように問い掛けたバニラに、アルは頷いて箒を手渡した。バニラはそれを受け取ると、脚で挟み込むようにして跨った。

 箒に魔力を込める。

 たったそれだけで、いともあっさりと、彼女を乗せた箒はふわりと宙に浮き上がった。


「凄いなぁ、なんでそんなにあっさりとできるんだろ……」

「……そんなこと無いよ」


 罪悪感からか、先程にも増してバニラの表情が暗くなっていく。

 一方アルはそれに気づいているのかいないのか、ふよふよと浮く箒を眺めながら、はぁ、と盛大に溜息を吐いた。


「うーん、やっぱりわたしには無理かもなぁ……。まぁ、わたしには向いてなかったってことで、潔く諦めよっかな」

「――だよ」

「え?」


 あまりにも小さなバニラの声に、アルが彼女に耳を寄せる。

 すると、


「駄目だよ!」

「うわっ!」


 突然バニラが大声を出したために、アルが驚きのあまり思わず仰け反った。思わず倒れそうになる彼女の両手をバニラが掴み、今度は思いっきり引き寄せる。

 バニラの顔が、アルの眼前にまで迫った。その表情は先程までの弱々しいものとはまるで違う、決意に満ち溢れたものだった。


「バ、バニラ? どうしたの?」


 鼻先が触れそうなほどに近いバニラに、アルが戸惑いながらも問い掛けた。

 するとバニラは怒っているような、そして泣きそうな声で、


「駄目だよ、アルちゃん! 練習すれば、絶対にできるようになるんだから! だから、諦めちゃ駄目だよ!」

「そ、そう言われても、魔力なんて分からないし……」

「私も協力するから、飛べるようになるまで特訓だよ!」

「う、うん……」


 バニラの勢いに圧され、気がつくとアルは首肯していた。それを見てバニラはにっこりと笑うと、「よぅし、やるぞー!」と両手を空へと突き上げた。

 両手に鈍く残る痛みを感じながら、アルは突然性格の変わった彼女に首を傾げた。



 *         *         *



「『ここで待ってて』って言ったのに、何勝手に移動してるのよ……」


 広場の中央で空を飛ぶ練習をする2人――熱心に指導するバニラと言われるがままのアルを、クルスは少し離れたところから眺めていた。困ったような台詞ではあるが、それに反して彼女の口元には笑みが浮かんでいた。

 そんなクルスに、近づく人物が1人。

 シルバだ。


「まったく、あいつは君が連れてきたのか。いったい何者なんだ?」


 そう話し掛けながら彼は足を止め、クルスの隣で2人を眺め始めた。もっとも彼の場合、彼女と違い不信感を露わにした表情だが。


「何者かって訊かれると、私も答えに困りますね」

「ふん。まぁどうせ、君が関わっている時点で碌な奴じゃないんだろうがな。――それで、君はあいつをどうするつもりだ? まさか、この学院に住まわせる気じゃないだろうな?」

「残念ながら、そのまさかですよ。ついさっき、学院長から許可を貰ったところです。学院長、二つ返事で承諾してくれましたよ?」

「……まったくあのお方は、何か事件が起こる度にそれを楽しんでおられる節があるから困ったものだよ。――それにしても、君は昔から面倒事を巻き起こすな。箒にも碌に乗れない子供なんて、どうにもならないというのに」


 シルバの言葉に、クルスがちらりと視線を向ける。

 その眉間に、ほんの微かな皺を寄せて。


「シルバ先生だって、昔から変わらないじゃないですか。――まだ、その癖治ってないんですね」

「ふん、この学院はイグリシアの歴史そのものだ。そんな由緒ある学院に“汚点”は必要無い。ただ、それだけだ」

「前にそれで手痛い目に遭っているのに?」

「……あれは、偶々だ」

「偶々、ね。まぁ、そういうことにしておきましょうか。――言っときますけど、魔術が使えないからって、彼女を甘く見ない方が良いですよ。もう1回“偶々”に遭いたくないならね」


 クルスはそう言うと、バニラに応援されながら必死に魔力を箒に込めようとするアルを見つめて、不敵な笑みを浮かべた。

 シルバは忌々しそうにそれを見遣ると、その視線をアルへと移した。

 そして、誰にも聞こえないくらいに小さな声で、


「……無能は所詮、無能だろうが」


 ぼそりと、呟いた。

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