あの頃の思い出をもう一度

犬吉琉

第1話


「もう、居眠いねむりしてるんだから」


 うずめていた顔を上げると困ったような声がした。授業はいつの間にか終了のチャイムを告げていたらしく、気付けば昼休みになっている。私は重いまなこを擦りながら、回らない舌をどうにか動かす。


「姉さん……どうしてここにいるのですか」


 視線の先には一人の女生徒——夢野ゆめのゆうなが佇んでいた。キャラメルベージュの淡い髪色に桃色の瞳。くりっとした大きな目が私を捉えている。綺麗に整った細長い睫毛は、その目を保護するステンドグラスのようだ。整った顔立ちに成熟した身体、時々垣間見せる色気には少々立ち眩みを覚えたりもする。

 別に彼女は私の姉でもなければ年上でもない。けれどこうして呼んでしまうのは昔からの癖だ。今更呼び方を変えるのはどういう心境の変化だと思われそうで、こうして変わらず呼び続けている。


「今日はわたしのお友達を紹介しようと思ったの!」

「……私に紹介する意味が分かりません。寝ます」


 理解が及ばず顔を伏せる。姉さんはよく突拍子もない事を言い出す。それは大抵考えるだけ無意味で、理屈で片付けられるものではない。そんな事に時間を費やすのなら大人しく寝ていた方が有意義だ。


「そんなコト言わないの。ほら、行きましょう?」


 私の胸中などお構いなしに肩を揺らしてくる。折角の昼休みの筈が、これでは心も身体も全く休めない。鬱陶うっとうしくそのまま放置していると、姉さんは寝ている私の背後に周り、そのまま抱き着くような形で無理やり起こさせようとして来た。背中に伝わる大きな膨らみと腹部まで延ばされた細い指。

 睡眠どころではない。うつらうつらと漕いでいた船も、荒波に揺らされれば眠気も飛んでしまう。


「分かりましたから、公衆の面前で大胆な行動は控えて下さい」


 仕方なく身体を起こすと耳元で「ありがとう」と甘い声でささやかれた。肌にかかる吐息はむず痒く、周りからの視線も加えて全身が痒くなる。身体中を虫に徘徊されるような気持ち悪さが込み上げてきて、私は逃げるように教室を出た。


「あ、待って~」


 一切周りを顧みない姉さんは能天気な声でついて来る。

 廊下は昼休みも始まったばかりという事もあり、喧騒で包まれている。油蝉が鳴いているのと大差なく、これ以上にないくらい耳障りだ。そんな通路を歩くだけでも大変で、ゴミを漁る勢いで掻き分け続ける。


「こ~ら、どこ行くの?」


 そんな風に空き地を探して彷徨っていると、後ろからコツンとつつかれた。頬を僅かに膨らませた姉さんは怒ったように唇を尖らせる。


「すみません、落ち着ける場所がなかったので」

「もう、それでこんな場所まで来ちゃって」


 辿り着いた場所は人気のない階段だった。まるで学校から切り離されたかのように思える空間で、どこか涼しく感じる。それでも夏休みが終わったばかりで、汗ばむ陽気なのは変わりない。


「まあいいわ、それじゃあお友達を呼ぶわね?」


 嫌だと言っても呼ぶだろうに確認する口振りで聞いてくる。私が何も言わずにいると姉さんは、スマホを取り出し着信音を鳴らした。

 私は身体が石像に変えられたかのように重く感じ、崩れ落ちるように階段の踊り場へと腰を下ろす。ひんやりとした材質は心地良く、汚れなど気にもならない。ただただこれから訪れる邂逅かいこう憂鬱ゆううつで、どうにかしてこの場から逃げ出したい。そればかりに囚われている。トイレに行くと言えば逃げられるだろうか……そんな逃げ道を探っていると、姉さんは隣に座り、逃がさんとばかりに手を掴んで来た。こんな拘束に意味はなく、振り払えば簡単に抜け出せる。けれど女性特有の柔らかい指と温かい感触が私から逃げるという選択肢を奪っていく。


「直ぐに来るって」


 電話の終わった姉さんはそう私に伝える。来ない事を少しは期待したが、あっさりと打ち砕かれてしまった。たちまち湧き上がる億劫おっくうは耐え難く、


「はぁ……」


 と、覇気のない溜息が零れる。その煩わしさは姉さんにも伝わっている筈なのに、まるで謝る気配がない。私とて謝って欲しい訳ではない。ただほんの少し、気を遣って欲しいだけだ。私の性格くらい熟知しているのだし、分からない筈がない。かと言って、姉さんが考えなしという訳でもないから私はこんなにも困惑している。


「溜息つかないの。幸せが逃げちゃうわよ?」


 などと在り来たりな定型文を述べては、人差し指を立てて説教じみた雰囲気を醸し出す。


「私のリラックス方法ですから、気にしないで下さい」

「もう、そんなコト言って————全然リラックス出来てるように見えないわよ?」


 姉さんはその人差し指で私の頬をつつき、面白そうに微笑む。


「そういう顔立ちなだけです。文句は両親に言って下さい」

「いいえ、小さい頃から一緒にいるわたしの目は騙せないわよ。ほら、こっち向いて」


 向いて、という言葉とは裏腹に両手で顔を挟まれて強引に向かされた。隣に座っているから顔の距離も近く、見つめてくる姉さんと目を合わせられない。しかし下を向くと大きな山脈が二つそびえており、行き場のない視線を横に逸らす。


「ふふっ、やっぱりかわいいわね」


 私の両頬をふにふに摘みながら、そんな笑みをたたえる。私はからかわれたという状況を理解すると途轍とてつもない羞恥が湧いてきた。それは全身を煮えたぎる大釜に放り込まれるようなもので、夏場とか関係なしに熱くなる。


「姉さんの審美眼は信用出来ません」


 無理矢理にでも手を振り解き、視線を更に泳がす。視界から姉さんが消えるとほっとし、バクバクと加速する心臓も落ち着きを取り戻す。それも束の間、頭に少しの重みがかかった。それは姉さんの手で、優しい手付きで私の髪を撫で始めた。


「そういう素直じゃないところもよ」


 私の拒絶さえ意を介さず、慈愛に満ちた声音で告げられる。まるで私という人間の浅さが見透かされている気がして、非常に居たたまれない。けれど、反論すれば私自身で素直ではないと認めるようなもので、最早ぐうの音も出ない状況だ。

 そうしてさながら愛玩動物のように撫でられ続ける。髪の隙間に指が入り込み手櫛で梳かされ、脳が馬鹿になっていく。姉さんは気分良さそうに、


「これで寝ぐせは大丈夫ね」


 と呟いて私の頭から手を退けた。それを少し残念に思ってしまう事に嫌気がさし、酷く滑稽こっけいに思えた。撫でられる事を不本意だと思っていながら、その行為が終わると物足りなさを感じてしまう。私は私の浅ましく愚かな精神が嫌いでならない。

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