第26話 エピローグ 地の果て

 フランスに帰国してから一週間後、ピエールはレマン湖北岸沿いの道を車で走らせていた。ハリスツイードのジャケットにボルドー色を基調としたペイズリー柄のウールのスカーフを首に巻き、ダークブロンドの髪を無造作に纏めた身なりは、カジュアルだがどこか洗練された雰囲気を醸し出している。


 緩やかな曲線カーブに沿ってゆっくりとハンドルをきり、空を映し出す鏡のような湖が広がる光景を楽しんでいると、冬の訪れを告げるように、対岸の山々にはうっすらと初雪が積もっているのが見える。世界には特殊な場所がいくつかある。アルプスに囲まれ、美しい湖に恵まれたこの国は、そんな特殊な場所の一つだった。


 父親が組織の地位を譲り、地中海に浮かぶ島に隠居したのが十年前。現在の上司マスターは、本部のある首都ベルンではなく、湖畔の静かなエリアを好むらしく、一年の大部分をモントルー近郊のクラランスで過ごしている。毎回、報告のためにレマン湖の北岸東部まで足を運ばなければならないが、美しい景観の由緒あるヴィラを訪れるのは決して嫌いではない。


 さらに車を走らせ狭い路地を曲がると、湖のそばに静かに点在する上品な区域に入る。フランス風の建物が高い生垣の間から見え、ようやく目的の邸宅に到着すると、予期していたかのように細いアイアンゲートが開き、車を敷地内に招き入れる。ピエールは車から降りると、周囲を一瞥した。前回訪れた時は薔薇が咲き誇る真夏であったが、今はすっかり秋花が庭を彩っている。


 年配の執事に案内され、客間に通されると、ピエールは応接セットに腰かけた。大理石の暖炉は丁寧に手入れされていて、シルバーの写真立てがいくつか置かれている。湖に面した二階建ての優雅な邸宅だが、一歩足を踏み入れると、相変わらず中はがらんとしていて冷たささえ感じさせる。


「メルシー」

 エントランスホールの方から声が聞こえ、振り向くと、上司が客間に入ってきたところだった。

「お久しぶりです、マスター」

 ピエールは立ち上がろうとしたが、

「ああ、そのままで構わない。疲れているだろう?」

 そう云って、ピエールと向かい合うようにソファに腰を下ろした。


「日本はどうだった?」

「フフフ、楽しかったですが、CIAの協力など必要ありませんでした」

「黒川和男に近づくには、彼らの許可が必要だったから仕方ない」

「警察の取り締まりが強化されて、もう店じまいしたようですけどね」

 不貞腐れたようにピエールが云うと、

「まあ、いずれそうなるだろう。それで?」

 上司の眼がピエールをまっすぐに捉え、報告を待つ。


「優秀な生徒たちを数か月観察してみましたが、私のような〝能力者〟は見つかりませんでした」

 大学での出来事やエリックとの接触など、ピエールは限りなく自然体で報告した。直人を組織に売るつもりは全くない。アレは隠し玉だ。


「そうか……」

 考え込むように暫く沈黙が落ちたが、

「次はどこに?」

 静寂さを破るようにピエールが次に送られる場所を尋ねた。上司は苦笑すると、

「たぶん、南米のスペイン語圏のどこかじゃないかな? でも年が明けるまでは欧州ここにいられるようにスケジュールを組むよ」

「では、スペイン語でも学んでおきます」

 エリックもいずれピエールが南米に飛ぶことを聞きつけるだろう。想像するだけで眩暈がする。


「羨ましいな……私は大学でドイツ語をちょっとかじったぐらいで、フランス語はさっぱりだったから苦労したよ」

「マスターのフランス語は悪くないですよ」

「二十年も欧州にいればね」

 何気ない会話を交わしていると、ふと、渡辺から伝言を預かっていることを思い出した。


「そういえば、ミスター渡辺にお会いしました」

「なぜ接触した?」

 一瞬にして空気が変わったのがわかる。だが、ピエールは冷静に話を続けた。

「一度だけ、空港でお会いしました。伝言をお預かりしています」

「──何と?」


 複雑な表情を見せる上司を、ピエールのグレーの瞳が捉える。万が一、危険な状況に発展するのであれば、それなりに対応するつもりだ。


「社会の最小単位である家族さえも守れない男が、世界を守れるとでも思っているのか……とのことです」


 暫くの間、沈黙が二人の間を流れたが、

「アイツらしいな」

 上司が懐かしそうに笑った。ピエールはため息をつくと、

「では、次の仕事の詳細が決まり次第、ご連絡ください」

 ソファから立ち上がった。


「そんなに急がなくとも、ここに泊ればいい」

 ピエールは首を振ると、

「マスター、犬か猫でも飼ってみてはいかがですか?」


 ソファを離れ、エントランスホールへと向かったが、何かを思い出したように踵を返すと、

「日本のお土産です」

 ジャケットの内ポケットから一枚の写真を取り出し、テーブルの上に置いた。


 上司は手を伸ばしてテーブルの上に置かれた写真を拾い上げると、まるで時が止まったように写真を見詰めた。そこにはピエールが空港で撮った直人の姿が映っている。そんな上司を横目で確認しながら、塵一つない大理石の暖炉の上に飾られているシルバーの写真立てを手に取ると、そこに納められた一人の女性の写真を眺めた。


「四年前に亡くなられた奥様にそっくりでした。来年の春には二十八になりますよ、ミスター神崎」


 写真立てを元に戻し、ピエールは神崎隆一の邸宅を後にした。 


                  ***


 橘宗一郎の住まいは、田園調布の駅から西側に扇状に広がる静かな高級住宅地にある。部分的な白い塀と植栽が敷地を囲み、二階建ての邸宅はヨーロッパ調である。


 門のベルを鳴らすと、犬の吠え声が聞こえる。少し間があってから、十和子夫人が出てきて門を開けた。


「フランキー!」


 十和子夫人の腕の中にいるフレンチブルドッグが、直人の呼び声に反応して喜んで吠える。フランキーに尻尾があれば鞭のように十和子夫人の腹部を叩いていたことだろう。


「フランキーは本当に直人君が大好きね。上がって頂戴、叡治さんも来てるわ」


 子供のいない十和子夫人にとってフランキーは子供のような存在だ。そんなフランキーに無条件で気に入られている直人は、十和子夫人から絶大な信頼を得ている。


 腕から飛び出そうともがくフランキーを困った表情で抱え込みながら、十和子夫人は直人を玄関まで案内した。


「お邪魔します」


 十和子夫人とフランキーのあとから玄関に入り、応接間に案内されると宗一郎と渡辺がソファに腰を掛けて雑談をしている。


「お久しぶりです、伯父さん」

「正月ぶりだね、直人君。一体誰のせいだろうねぇ?」


 宗一郎は横でソファに深く腰掛ける渡辺をチラリと見たが、渡辺は眼を細めるだけだった。


「青山夫妻の件はお疲れさま。十和子さんが感謝を込めて昼食を振舞うと言いたいところだけど、実際はメニュー開発のための試食会らしい……」


 そう云うと、十和子夫人の腕からようやく逃れ、床を駆け回るフランキーを呼びよせた。橘十和子は料理研究家として地位を確立しているが、時々こうして身内が〝新しい試み〟というババを引かされる。


「青山さんは予定を早めて、クリスマス前には東京に戻ってくるそうよ」


 十和子夫人は満足そうに云うと、部屋を出て行った。床を駆け回っていたフランキーは宗一郎ではなく、直人の足元に飛びつくと、そのまま直人の腕の中に落ち着いた。


「フランキー」

 寂しそうに嘆く宗一郎を気の毒に思いながらも、

「犬に好かれるのも、例の能力のお陰だと思います」

 ピエールの話を思い出しながら、苦笑いを浮かべた。


 能力者同士なら、きっとまたいつか会える。だが今は、ピエールと行動を伴にする気はない。直人には、渡辺や宗一郎といった信頼できる人たちと一緒にいれば安心だという確信がある。だが同時に、小さな好奇心の渦が心のどこかに芽生えつつあることも否定できなかった。


(了)

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