第8話 英断

 ドーム型の屋根と赤レンガのファザードが人々を迎え入れる壮麗な東京駅は、ヨーロッパ調のクラッシックな雰囲気を醸し出している。だがその外観を中心として広がる光景は対照的に近代的であり、高層ビルが競うように立ち並ぶ。そしてその隙間を埋めるように周辺一帯にはオフィス街が広がり、その一角に『横山法律事務所』は所在する。


 山本一郎の葬儀からすでに十日経った六月二十一日、横山弁護士を執行者とし、山本一郎の遺言書の開封が行われることとなった。


 落ち着いた色でまとめられた広い会議室のテーブルに、相続人である沙織と弁護士が座り、その正面には秘書の後藤と横山弁護士が座った。そこから少し離れた席に渡辺と直人が〝証人〟として傍聴するのは、山本の秘書、後藤の計らいである。遺言書の開封の際の立会人は渡辺だけで十分であったが、部下を会議に参加させたいと要望すると、沙織は快く承諾した。沙織にとって渡辺と神崎は命の恩人である。沙織は二人が保険会社員と偽って近づいた理由も聞かずにいてくれた。


 あの夜、有馬康弘は項垂れるように犯行を認め、抵抗することもなく連行された。あの時渡辺と直人が警察よりも早くに沙織の元に到着できたのは、有馬康弘が軽井沢にいることが事務所にいる幸恵の調べでわかったからである。沙織と有馬の会話を電話の向こうで聞いていた弁護士が警察に通報するよりも前に、すでに二人は山本宅に向かっていた。


 その後、警察による山本一郎の死因の再捜査が行われたが、山本が睡眠薬を常用していることは医師から証言を得ている。あの夜に山本の体内からいくらかの量が検出されても間接的な原因でしかなく、それに比べると薪ストーブの排気口に故意的に細工をした有馬康弘の行為は計画的であり、撹乱していたとはいえ悪意があった。


「皆さん、お集まりいただきありがとうございます」 

 執行者である横山弁護士が静かに口を開いた。

「これから故山本一郎氏の公正遺言書を開封いたします」


 部屋にいる全員の意識が沙織に集中するのを感じながら、沙織は静かに頷いた。

 横山弁護士は慎重に封筒を開けると、中から遺言書を取り出し、ゆっくりと遺言書を読み上げ始めた。


                  ***


「揉めることなく無事終わりましたね」

 美しい街路樹の並木道を歩きながら直人は一つの達成感を味わっていた。


「一代で成り上がった男だからな。揉める要素がない」

 渡辺はつまらなそうだが、依頼主である後藤の契約が終了したのであれば、この件にはこれ以上首を突っ込めない。信用にかかわるからだ。たとえ興味深いことが起きたとしてもである。


 遺言書の内容はそれほど特別なこともなく、沙織以外には山本一郎の姉、そして秘書の後藤も含まれていたが、一か所、感銘を受けた部分があった。読み上げられた時、あの場にいた全員が同じ気持ちを共有したはずである。


「それにしても凄い決断でしたね、感無量です」

「ああ、できた男だった。夫人も惜しい人を失くしたな」

 それは苦悩したであろう山本一郎の英断であった。


「私は、現在妻が懐胎中の子を、私の実子として認知する──」


 遺言書に含められていたその一文を横山弁護士が読み上げた時、会議室は水を打ったように静まり返った。そして沙織の顔が驚愕に歪むと、我を忘れて泣き崩れたのであった。


 その後は、隣に座っていた沙織の弁護士や秘書の後藤、そして横山弁護士も始終、沙織に協力的であった。


「色々書類などを集めたりと大変そうですが、信頼できる人たちに囲まれて夫人も無事出産できそうですね」


 生まれてくる子供に罪はない──大人がしっかりと守るべきであると直人は心の中で呟いた。


「ああ、公正証書遺言にしっかりと記載されていたからな」

 渡辺は行きかう人々を視線で追いながら応えた。


 しかし直人には一つだけ気になる点がある。だが本来、自分が持つ特殊能力がなければ気づかない点だ。知らなくていい事実まで認識してしまうのは、死者の尊厳を汚した代償なのだ──。


 直人は渡辺に目を遣ると、思い出したように云った。

「渡辺社長、約束は守ってください」

「ん? 何の話だ?」

「この事件、無事解決したら休暇くれるって云いましたよね」

「ん──、そうだっけ?」

 渡辺はとぼけながら顎を撫でた。


「ずいぶん忘れっぽいようですね、老いですか? 自分で云ったことに責任を持ってください。次は一筆書かせますよ」

「わかった、わかった、そう怒るな」

 渡辺は冗談交じりに直人を宥めると、頑張ってくれた部下を労うことにした。


「じゃあ、数日休暇を取ります、今から」

「え、今から?」


 昼下がりの並木道にはたくさんの人が散策している。天気も良く、金曜日の午後だからか開放感もあり、通りは人々の憩いの空間と化している。


 渡辺は直人と向き合うと、その母親似の目元から今日が恵子の命日であることに気づいた。神崎恵子は渡辺の友人、神崎隆一の妻であり、今でも交流を続ける橘宗一郎の妹でもある。


「あれから四年も経ったか……」


 渡辺は直人が初めて特殊能力に目覚めた時のことを想い出した。


 四年前、直人が死去した恵子の眉間に触れたとき、共鳴が別の空間パラダイムを開かせた。これが最初の体験である。だが、直人は恵子の残影を覗けても心情はわからなかった。だから恵子が死期に何を思ったのかは直人にはわからない。


「じゃあ、俺も一緒に行くよ、恵子の墓参り」

 そう云うと二人は事務所には戻らず、午後の並木通を歩いていった。

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