第6話 執心

 有馬康弘は頬や顎から滴った水滴をタオルでふき取ると、鏡に映し出されたその形のよい輪郭を眺めた。端正な顔立ちが自然と人を惹きつけるその恵まれた容姿は、三十六年間、女に不自由なく生きてきた証である。


 半年前に大学時代の恋人であった沙織と偶然にも街で再会したのは運命であった。有馬は自分の離婚訴訟のストレスから逃げるように沙織を求めた。だが結末は怒涛の事態を引き起こすこととなる。


 二か月前に沙織が妊娠していることが発覚すると、沙織は思い詰めた挙句に「産む」と云い出した。だがその後、話を詳しく聞いてみると、沙織の出産計画に有馬は含まれていなかった。有馬は凄んだ──、父親は自分であると──。


 目を瞑ると昨夜の出来事が次々と蘇ってくる。その中でも沙織の口から聞かされた衝撃的な決意は、有馬の精神を打ち砕くには十分であった。あの夜、慙愧の思いが心臓を貫き、その傷口からは溢れるほどの血が流れた。


「愛と憎しみは紙一重とはよく云ったものだ」


 愛情も憎悪も同じように強力な感情であれば、ただベクトルの向きが違うだけで、こんなにも結末が変わる。


 あの夜、有馬は衝動に憑りつかれ、撹乱した。あの時、地獄の門をくぐったと思ったが、朝起きればこうして腹が減る自分がいる。


「時間は巻き戻らない──」


 悔いてる暇はなかった。すべては終わってしまった事である。現実が切迫している有馬には、二者択一しかない。一つは罪を認め自白すること。もう一つは逃げ切ること。幸運にも山本一郎の死は事故死として片付けられようとしている。墓場まで持っていく覚悟があるのなら、沙織を巻き込む必要がある──。


「今夜しかない──」


 後者を選択した有馬は非情になるしかなかった。


 

 広大で美しい木々に囲まれ、昼間は鳥のさえずりや木漏れ日が差し込む山本宅も、夜になると一変して、辺りは静寂さに包まれる。昨夜、主人を失ったこの山荘は闇に溶け込み、まるで黄泉の国のようである。


「──はい、明日東京に戻ります。ええ、秘書の後藤さんが葬儀の手続きをしてくれてます。詳細は後藤さんから直接そちらの法律事務所へ連絡が入ると思います。それで税理士を紹介していただけると助かるのですが──」


 沙織は早く東京に戻りたかった。広大で美しい森林も、無数の星が彩る夜空も、今の沙織を満足させることはできない。ここが黄泉の国ならば、沙織は夫の魂を見つけることができるだろうか──。


「はい、お願いします。来週でしたらいつでも構いません。できる限り早く──」

 不意に、沙織は会話を止めた。一瞬、窓の外で何かが動いたのを見たからだ。


「大丈夫ですか、山本さん? 体調が優れませんか?」

 携帯電話の向こう側からは弁護士の心配した声が漏れた。


「──大丈夫です。ここ二日間の間に色々あり過ぎてストレス状態──」

 と云いかけたとき、玄関のチャイムが鳴った。沙織の心臓がドクンと脈打つ。

「──こんな遅い時間に誰が──」


 沙織の手が震えた。こんな時間に尋ねてくる人物は一人しか思い浮かばない。脳裏に昨夜の出来事が鮮明に浮かぶ。


「山本さん、ドアを開けずにモニターから外を確認してください。私は警察に通報します。この電話は切らないで持ち歩いてください」


 沙織は云われた通りに玄関口へと音を立てずに移動すると、モニターを覗いた。しかし画面には誰も映っていなかった。


「誰も映っていません──。配線の不具合でしょうか──」

 その時、居間の方から派手にガラスが割れる音が響いた。

「──っ!」

 沙織の喉がひゅっと鳴った。


 侵入者はテラスから居間のガラス戸を割って入ってくる。だが沙織は恐怖で足がすくんで上手く動けない。暗闇に響いた足音は次第に大きくなり、やがて沙織の前で止まった。


「今夜は月が綺麗ですね」


 硬直した沙織の前に現れた有馬康弘の声には、追い込んだ獲物を弄んで捕らえる捕獲者のような響きがあった。


「──康弘さんですか? 昨夜、書斎のストーブの排気口に何か細工をしたのは!」

 ようやくの思いで沙織は叫んだ。だが、有馬は薄笑いを浮かべると、

「君が悪いんだ」

 と冷たく云い放った。


「なぜ、そんなことを──、だって犯罪行為ですよ!」

「ならば、君も共犯だ」


 沙織は押し黙った。ひどく静かな時間が二人の間を流れていく。不意に有馬が指を伸ばしたが沙織は身をそらし、叩きつけるように云い放った。


「──私はあの晩、あなたに脅されて無理やり時間を作ったんです。もうあなたと話すことはありません、お引き取りください!」


 沙織は弁護士が異変に気づき、警察を呼んでくれることに賭けた。拉致されて夜の山に連れていかれる方が危険であれば、目の前に立ち塞がるこの男を、警察が来るまでここに繋ぎとめておかなければならない。


「君のお腹の中にいる子は僕の子だよ」

「──違います」

 有馬との子であったが、沙織は首を振り否定した。


「どうして嘘をつくのかな、それで君はどうするつもりだったの? 旦那の子として育てるつもりだった?」

 有馬は一歩、二歩と探るように距離を詰めた。


 沙織は自分の額から滝汗が流れ落ちるのがわかった。車の音はまだ聞こえてこない。沙織は泣き崩れそうになって唇を噛んだ。柔らかい唇から血がにじみ、その痛みがどうにか正気を保たせている。


「間違ってると思ったわ──、だから私は夫に正直に告げるつもりだった!」


 それで離婚になったとしても、それは自分に与えられる罰だと沙織は覚悟していた。結婚前に山本が子供に恵まれないことを告げられた時のショックは大きかったが、それでも構わないと云って結婚した。だが三十を過ぎ、やはり心のどこかで子供が欲しいと無意識にも願っていたのだ。妊娠していると知ったときは複雑ながらも沙織は有頂天になっていた。


「僕からすべてを奪う君の旦那が憎かったよ。──だから消えてもらったんだ!」


 ぎょろりとした眼が光った。だがその時、有馬の視線は一点に集中した。沙織の後ろのキッチンカウンターの隅に無造作に置かれていた携帯電話の画面から、沙織が通話中であったことを悟ったからである。


 有馬は顔色を変え、凄むような響きで、

「小賢しい真似を!」

 と叫び、沙織を押し退けると、バランスを崩した沙織は床に倒れた。有馬は携帯を素早く掴み相手を確認したが、相手側は無言であった。


「誰と──、いや、いつから通話中だったんだ?」


 有馬は通話を切ると、般若の面のような顔で沙織を見下した。沙織は呼吸をするのも忘れるほど凍り付いた。この状況は危険だと本能がピリピリと感じ取っている。


 有馬は握っていた携帯にぎゅっと力を籠めると、手を勢いよく床めがけて振り降ろした。床に叩きつけられた携帯電話が音を立てて崩れ、沙織は眼をぎゅっと瞑った。


 ──自分もこの男に殺されるのかもしれない──


 そう覚悟したとき、大きな影が沙織の前を横切った。

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