メメント モリ
星乃夜衣
序章 死者の魂に共振する者
第1話 プロローグ 残影
昼間は音の洪水が不協和音を奏でる病院も、夜になれば一定のリズムを刻む。ただ、今宵はその一定のリズムに変調が生じていたのだが、それを感じ取る者はいなかった。
薄手のドクターコートを着た男は眼鏡のブリッジを指で押し上げると、足音を深夜の廊下に響かせた。男からは特に不自然さは感じられないが、その若い容姿と相反する隙のなさが奇異である。
やがて男の足音が部屋の前で止まると、糸を手繰るような金属音がカチッと合わさり、氷のような冷気が一斉に廊下へと押し寄せた。男は身震いすることもなく薄暗い部屋に忍び込むと、内側から素早く鍵をかけた。
眼鏡を胸ポケットに差し込み、代わりに白衣から懐中電灯を取り出すと、辺りを照らして〝目的物〟を確認する。懐中電灯から放たれるその細い光は先刻運び込まれた遺体を見つけ出すには十分である。男は金属台に近づくと、事前に記憶していた情報から必要事項だけを思い起こした。
氏名
直接死因 一酸化炭素中毒
外因 薪ストーブの排気口の閉塞による一酸化炭素の蓄積
慣れた手つきで覆い打ちを外すと、男の右眼が若干赤みを帯び始めたが、気に留める様子もなく死者の顔に視線を移す。
「眠っている間に一酸化炭素中毒で死亡……苦しんで逝ったワケではない……か……」
自らに云い聞かせるように呟くと、懐中電灯を左手に持ち替え、右の指先部分の皮革を口でくわえて引っ張り、節くれだった手を死者の額にかざした。死者の眉間には、この男にしか見えない命の灯火ともいえる小さな結晶が今でも微かに光を放っている。光の輝きには個人差があるが、死後も三日間だけ光を宿すのは誰であっても平等であり、男はそれを〝命の結晶〟と呼んでいる。だからその光が消滅する前に情報をつかみ取らなければならない。
すると左の虹彩に青や緑の斑点が現れ、男の瞳が変色し始めた。
「死者の記憶と尊厳を汚す者だが、どうか許したまえ──」
そう云って眼を瞑った途端、男は泥の中に引きずり込まれるような感覚に落ちた。
***
混濁した意識から視界が徐々にはっきりとしてくる──、気がつけば先ほどの薄暗い霊安室とは別の空間パラダイムが目の前に広がっている。そして寝衣の上からゆったりとしたローブを羽織り、手触りの良い深みのあるブラウンのレザーソファに寛いでいる──。意識が山本一郎と共鳴した証である。
周辺に意識を向けると、まず眼に入ってきたのは壁一面の本棚だ。棚は天井までの高さで、びっしりと本が並べられている。特注したのであろう。部屋の隅にはアンティーク調のデスクが鎮座している。背後には大きな窓があるようだが、この向きからでは外の風景までは確認できない。死者に共鳴して過去の事象を数分なぞるだけだから、観察者こちらからは山本一郎の生前の行動を勝手に修正することはできない。
ふと、古い書物の匂いに混ざって、温かみのある芳醇な香りが漂った。
「まだ九時ですけど、私はもう横になりますね」
クリスタルグラスを片手に、あくびを噛み殺しながらナイトガウン姿の女性が書斎に入ってくる。状況からして山本一郎の妻だと推測するが、想像していたよりも若い女性だ。報告によれば、後にこの書斎で意識不明になっていた夫を発見し、救急車を呼んだのは二階で就寝中の山本夫人である。
「ああ、今夜は寒いから、ちゃんと肩まで毛布をかけて寝なさい。風邪を引かないように」
山本一郎は夫人からグラスを受け取り、手のひらで包み込むようにして持つと静かにグラスを回した。琥珀色の液体が揺れ、書斎の静寂と相まって深みのある香りが部屋に広がる。この書斎はそれほど大きな造りではないことが解った。
「ストーブの火は寝る前にちゃんと確認してくださいね、おやすみなさい」
夫人は扉を閉めると静かに書斎を後にした。
初夏でも避暑地の夜は冷える。山本一郎がゆっくりとブランデーを口に含めば豊かな風味が一瞬にして口内を満たし、体を温めてくれた。しばらく山本一郎は幻想的に揺れ動く炎を眺めていたが、ふとグラスをサイドテーブルに置き、ソファから重い腰を持ち上げると、書斎に備えられた薪ストーブに新しい薪を放り込んだ。灰になりかけた薪からもう一度勢いよく炎が踊り出すと、パチパチと弾ける音が静寂を破る。
「今夜の冷え込みはこの老体にはちと厳しいな──」
山本一郎は自嘲気味に云うと、読みかけの本を手に取りながらソファに深く腰を下ろした。
薪ストーブの排気口の確認はできないが、現時点では薪は勢いよく燃えている。書斎の空気も煙で濁っていないし、山本一郎も咳き込んではいない。ただ死者の残影を覗くだけでは死亡直前の周囲の状況を五感で感じ取るだけで、本人の心情までは分からない。それでもこのような特殊な方法で得た情報から原因を推理するしかないのだが、あまりもう時間がない──。
すると瞼が次第に重くなるのを感じ、目の前の空間がぐにゃりと歪んだ。その時、胸部に焼けるような痛みが走ったが、意識が低下しているせいか痛みは徐々に鈍くなっていく。急激な眠気に襲われたのはブランデーのほのかな酔いが原因か、それとも一酸化炭素中毒の初期症状なのか──。読みかけの本が山本一郎の膝の上に滑り落ちた。
窓の外には漆黒の闇が広がり、無防備にソファの背にもたれかかった山本一郎の横で、薪ストーブの火は静かに燃え続け、薪が崩れるたびに小さな火花が舞い上がった。
***
目の前に広がる薄暗い霊安室が、無事帰還したのだと確信する。残影に共鳴している間の体感は五分ぐらいだったが、実際にはほんの数秒しか経過していない。こちらの
「プライバシー侵害だよな、本当申し訳ない──」
思わず男の口元に苦笑が漏れたが、急いで呼吸を整えると手袋をはめ、先ほど外した覆い打ちを遺体にかぶせた。
警察の報告書によれば山本一郎の死因は一酸化炭素中毒だが、事故であった可能性が高いと男は推測した。第一発見者である夫人からヒアリングする必要もあるが、残影からは疑問点を見つけられなかった。
「なぜ渡辺社長は──」
──山本一郎の残影を調べるよう指示したのだろうか? いや、それよりも今は一刻も早くこの場を離れるのが賢明だ──
「ったく、人使いの荒い
そう云い捨てると、男は急いで搬送用の出口へと向かった。
「くそっ、寒っ──」
高原では六月でも夜間の気温が十度前後にまで下がることも珍しくない。冷たい夜風を吸い込みながら見上げると、そこには宝石を散りばめたかのような光の点が無数にどこまでも広がっている。自然が放つ圧倒的な力に比べれば、こんな自分の持つ特殊能力など些細なものだと自嘲した。
「死んだ人間を生き返らせるわけでも、時間を巻き戻すわけでもないんだ」
四年前、突然この特殊な能力に目覚めた日のことを思い出したが、
「あ、白衣のまま出てきちまった──」
現実に戻され、慌てて白衣を脱いで丸めると脇に抱えた。東京では味わえない幻想的な天体ショーをもう少し楽しんでいたかったが、早朝にここを発たなくてはならない。
男は足早に歩き出すと、静寂へと消えていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます