愛と復讐のワルツ

春斗瀬

プレリュード

 分厚いガラスの向こうに座ったその人は、記憶にあるよりもずっと痩せこけて見える。しかし清潔感は健在で、生来の顔の造形が良いからだろう、そこにいることがまるで何かの間違いなのではないかと、そう思わされてしまう。親しみ深い微笑は、あの頃と変わらない。後頭部を掻きながら、いかにも困ったなと言いたげな声音で尋ねてくる。

「久し振りだね、その……何で会いに来たの?」

 世間は嘘で構築されている。だから初めは、彼がしたことも虚偽で、全ては誰かの仕組んだ罠だったのではないかと考えていた。

 でも、わたしはあるものを見つけてしまった。

 その事実を信じたくなくて……あるいは咀嚼することに時間が掛かってしまって、今日まで何もできずにいた。でも、伝えるべき言葉は、一度たりとも忘れたことは無い。

 だからこれは、答え合わせだ。

「——あの日、何が起こったのか……包み隠さずに話してほしいんです」

 沈黙。

 黙秘する、という意味合いのものではない。きっと信じてもらえないだろうという考えがあって、躊躇っているのだろう。だから少しだけ、言葉に力を籠めて彼の背中を押す。

「大丈夫、信じるから」

 すると彼は、やれやれといった感じで開口した。

「分かったよ……」

 視線が少し下へ落ちる。手のひらに包んだ何かを見つめるように。

「あらかじめ言っておくけれど。……今から話すことは、馬鹿らしくて正気を疑うような、荒唐無稽な話だ。信じなくてもいいけれど、僕はただ、真実を語るよ」

 そして、諳んじるように彼は語り出した。



 この世界は、何もかもが唐突に訪れる。

 ……僕は光を失った。約一年前のことだ。

 幼馴染であり、友人であり、恋人でもあった少女——常陸深音ひたちみおんが、何の前触れもなく失踪した。本当に、何ともない普通の日だった。夏の暑気が容赦なく皮膚に浴びせられ、あまりの気温の高さから二人でコンビニに立ち寄り、涼みながらアイスを買って食べて、ファミレスでパフェを分け合って、ゲームセンターのクレーンゲームのコーナーを意味もなく歩き回り、ようやく気温がマシになってきたから家路へ就いた。つい先週も同じような日々を送っていた。ありきたりで平凡な、夏の一日。明日も学校で会えるに決まっている、そして夏休みはどこに行こうだとか、何をしたいだとか、そういう話をできると思っていた。

 ただ、僕は忘れていた。世界はいつでも、滅亡に向かっている。生というプラスから始まった僕らは、死というマイナスへ向かって下り坂を歩いている。出会いには別れがある。良いことの後には悪いことが起こる。……つまるところそういうことで、ずっと先にあると思っていた終わりが、ただ容赦なく、眼前にあった。

 翌日学校に登校した僕は、深音が何の連絡もなく欠席しているのだと担任教師から聞き、自然と教室を飛び出した。第六感と言えるものが人生で初めて作用した瞬間だった。本能的に、何か異常なことが起きていると察知した。「おい柊木ひいらぎ! どこ行くんだ!」という制止の声を振り切り、自転車に跨って深音が住む家へと全速力で漕いだ。

 インターホンを押す。何度も押す。しかし、一向に誰も出てくる気配が無い。駐車場にはもちろん車はない。彼女の両親は共働きで、朝も早い。いなくて当然だ。高熱で動けないとしても、せめて学校に電話の一つや、僕に何かしら連絡が来ていてもおかしくない。玄関から五歩後ずさり、上を見上げる。二階にある深音の部屋に、明かりはない。カーテンは開け放たれている。つまり、高確率でこの家にはいない。僕はようやく思い至って、スマホを取り出し通話を掛ける。程なくして、無機質な声に圏外だと突き放された。

 いよいよ本格的に、脳内で警鐘が鳴り始めた。

 焦燥からか、暑気が原因か、あるいはその両方か……嫌な汗が噴き出る。すぐさま深音の母親に通話を掛けた。四コール目で通じた。

「もしもし、蒼汰そうたくん? どうしたのいきなり……」

「深音は、深音は知りませんかっ」

「え? てっきり蒼汰くんのお家に泊まっているのかと思ってたけれど……」

「じゃあ、昨日は帰宅していないということですか?」

「そうなの。珍しく連絡がなかったけれど、きっとそうだろうと思って……。もしかして、蒼汰くんのお家に泊まってなかったの? ヤダ……家出ってことかしら」

 声に不安が滲み始める。警鐘が増幅する。

「とりあえず、捜索願出します」

「うん、よろしくね。仕事早めに切り上げて戻るから、見つかったら教えてちょうだい……って、蒼汰くん学校は?」

「そんなの、二の次です」

 勢いそのままに通話を終了する。

 ……付近の交番へ行き、捜索願を提出した。捜索願は親族やルームメイト、恋人関係にある人物が提出できる。つまり僕も、許可者に該当する。失踪者の身元が分かる物はなかったが、写真を十枚ほど提出した。話を聞き提出が済むと、警官は「失踪者は高校生ということで、特異行方不明者に該当します。すぐさま署に連絡して捜索を開始するので、ご安心ください」と言った。紋切り文句とはまさにこのことだが、特異行方不明者なので実際にきちんと捜索はしてくれるだろうと思い、信用することにした。

 それから、一日中探し回った。何度か警察から連絡があったが、全て届け出の内容確認やら何やらで、嬉しい報告はひとつも無かった。その後、深音の両親から着信があり、状況報告をした。僕の両親、それから深音の妹である香音かのんが捜索に加わり、座して待つことができない六人であちこちを歩き回り、通行人に尋ね、名前を呼んで探した。それを何日も続けたが、一向に進展はなかった。次第に警察からの定期連絡も減っていった。三ヶ月も経てば、まるで深音がいないことが当たり前だとでも言うように、学校の空気が変容していった。深音の両親も、気力が削がれ痩せていき、「いつあの子が帰って来ても大丈夫なように」と仕事に没頭し始めた。僕の両親も能動的な行動を取らなくなった。僕と香音だけが、何ヶ月経っても捜索を続けていた。

 ある時は隣町へ、ある時は初心に帰り通学路付近を、またある時は県外にまで足を伸ばして捜索した。世間は失踪した高校生のことなんて既に忘れ、平穏に過ごしていた。僕はただ、自身の無力と世間の無関心に対して、熟れて崩れた柿のようなどろどろとした怒りを覚えた。でも僕一人の怒りでは、世界も現実も変えることなんてできない。何も変わらない。路傍の石さえ動かせない。だから行動した。ひたすら探した。何千何万と名前を呼んだ。

 そんな生活が半年ほど続いた頃、ついに僕の身体は限界を迎えた。十日にも亘る高熱で倒れ、身動き一つするのもやっとな状態のまま、十日という時間を——二四〇時間を溝に捨てたことで、精神の糸が切れた。張り詰めて、追い詰めて、奮い立たせていた精神が、深い水底へと沈んでいった。もう二度と浮き上がることは無いだろうと、直感した。

 僕のように猪突猛進ではなく、計画的に休息を取りながら捜索を続けていた香音は、僕の見舞いに来てくれた時、静かに言った。

「蒼汰先輩。少し、休んでください。このままだと、先輩までいなくなっちゃいそうで、怖いですから」

 多分、それが止めだった。深い水底、そこにある僕の精神に、鎖に繋がれた錘が絡まり、浮力を完全に消し去った。寒い、寒い雪の日だった。


 それからというもの、僕は死んだように生きていた。空っぽになった僕の身体は、しかし生命活動の維持だけは忘れなかった。毎日どうしようもなく空腹に苛まれるし、眠気が去来する。でも、それすらも段々と薄れていった。今では一日一食、睡眠は三、四時間程度にまで減少していた。もちろん、学校には行けなくなった。推薦で大学には受かっていたものの、一年時の春学期の講義は、すべて欠席だ。ようやく外出する気力が戻ってきたので、精神科医にあたり、心身耗弱による不眠症を証明する紙切れと、トリアゾラムを処方された。手続きを済ませると、学校側も多少は融通を利かせてくれるようになった。

 ようやく普通の人生に戻りつつある中で、やはり僕は深音を探していた。

 もう生きている望みは薄いと知っていながら、昼夜を問わず。

 だから、

「蒼ちゃん」

 その渾名を口にする少女を前にした時、

 僕はただ、涙を流した。



 深夜の公園に人気はなく、ただじめじめとした湿気が漂っている。僕はブランコに腰掛けながら、眼前にある塗装の剥げた手摺に腰掛けている少女に話しかけた。

「深音、でいいんだよな」

 訊くと彼女は、悪戯っぽい笑みを浮かべて「そうだよ」と言った。

「他の誰に見えるの?」

「いや、深音にしか見えない」

 僕は覚えている。忘れるはずがない。彼女が失踪した当時の姿のまま、僕の前にいる。夏仕様の制服の、紺色の細いリボンをひらひらとさせ、後ろで結った髪はポニーテールで、さらさらと揺れている。あの見惚れてしまうほど白く美しい肌も、黒く綺麗な瞳も、桜色の唇も、睫毛の一本一本さえもそのままだ。完全な、あの頃のままの深音がいる。

「生きてる、んだよな……?」

 この時、僕は希望に縋っていた。

 消えかけていた希望に縋り、祈っていた。

 でもそれは、希望でしかなかった。

 寂しそうな微笑を浮かべた彼女は、静かに目を伏せた。

「ううん、死んじゃった」

 血の気が引いていく。虚脱感。僕は背骨を抜かれたみたいに力が入らなくなり、視界が滲み、歪んでいった。喉から空気と音が漏れる。

「蒼ちゃんっ」

 前方に倒れかかった僕を、深音が抱き留める。仄かに香るマスカット……愛用していたジルスチュアートの香水の香りだ。夏の空気だからか、その白い肌から伝わる冷たさに、また涙が溢れた。生きている人間では到底真似することはできない、氷のような冷たさだった。


 暫く抱きしめられていると、ようやく落ち着きが戻ってきた。時間にして五、六分だろうか。体感ではもっと長く感じたが、実際はそのくらいだろう。

「それで、深音は……幽霊なのか?」

 そう訊いた。そう訊くしかなかった。僕の乏しい想像力では、精々それくらいが関の山だから。でも返答は、呆気ないほど単純だった。

「うん」

 そして彼女は、様々なことをつらつらと語った。

「死んだってことは分かるの。でもね、気付いたら……死んでるから意識があるのもおかしいと思うけど、とにかく……家にいたの。私が住んでた家。多分、というか確実に彼岸の世界だと思う。死んだ人だけがいる世界。だからかな、お父さんもお母さんも、香音もいないんだ。玄関を開けて外に出ても、此岸と変わらない景色なの。学校もあって、スーパーもあって、何から何まで生きていた世界と同じ。唯一お金は使っても減らないみたいで、不自由のない生活が送れるんだ。なんだか、理想郷みたいでしょ?」

「確かに」

「もちろん知らない人ばかりだったけど、みんな親切にしてくれるからすぐに馴染めたよ。学校の授業も一応あるけれど……行っても蒼ちゃんがいないって分かってるから、なんとなく行ってない。……蒼ちゃんはちゃんと学校行ってる? っていうか、私が死んでからどのくらい経ったんだろう……」

「分からないけど……今は大学生だよ。大学一年」

 そう言うと彼女は酷く驚いたらしく、目を大きく見開いた。

「ほんとっ? 私、蒼ちゃんがいなくて寂しいから会いに来たんだよ。多分向こうで二週間も経ってないと思う」

 一から十まで荒唐無稽な話だが、どうやら彼岸の世界の方が時間の進行が遅いらしい。

「それから……大学は少し前まで休んでた。何なら、高三も冬休み以降行ってなかったよ。……いや、行けなかった」

 別に、言わなくても良かったのだろう。深音の手前、意地を張って元気にやっていると言えばよかったのだろう。でも、僕にはできそうになかった。僕はどうしようもなく弱かったから。一年という月日が流れ、色々なものが記憶から溺れ落ちて、それでも彼女に関することだけは鮮明に、いっそ残酷なほど脳裏に焼き付いていた。ロマンチシズムなことを言うのであれば——僕が深音をどれほど好きだったのか、どれほど愛していたのか、まだ半分も、いや、きっと十分の一も伝えられていなかった。

「それは、なんていうか……」

 一度沈黙し、頬を掻いた。

「私がいなかったから?」

 力なく頷く。

 すると彼女は、困ったように微笑んだ。

「なんだか、嬉しい」

 僕の居ない彼岸で寂しさを感じ、此岸に来てくれた彼女のように、僕もまた、彼女のいない生活に意味を見出せなかった。ただ本当に、寂しかった。だから、彼女のその言葉は何よりも嬉しく思えた。

 ……訊きたいことは山ほどあった。

それは彼女も同じようだった。けれど僕は、やはり確認しておかなくてはならない。どのような真実があろうとも、受け入れるべきなのだ。

「なぁ、」

 深音の目を見据えながら。

「どうして、死んだんだ?」

 その言葉を聞いて、彼女は唇を歪めた。耐え難い苦痛を秘めているような、そういう表情だった。そして聞かされたのは、僕が予想していたものの中で最悪のケースだった。

「——殺されたの」

 ぎちっ、と拳が鳴る。

 続け様に放たれた言葉は、想像を絶する結果の羅列。

「帰り道で、誘拐された。忘れたいのに、車に乗ってたヤツらの顔、忘れられない。されたことも忘れられない。抵抗できないように手足を縛られて、制服も下着もビリビリに切り刻まれて、山の中に連れていかれたの。殴られたし、蹴られたし、散々犯されて、怖くて気持ち悪くて、吐いたらナイフで切られたの。何かの液体が付いた布を口に当てられて……多分何かの薬だけど……とにかく、玩具にされた。その薬のせいかな、途中から意識が曖昧だったからよく覚えてないけど……最後は、お腹が裂かれていく感じがした」

 初めてが蒼ちゃんでよかったよ、なんて付け足した。見るまでもなく空元気だ。

 それが真実か分からない。

 現実味がないという意味では、この状況すべてに言えることだ。何なら、精神の摩耗によって削り取られた部分を補完するように、僕自身が生み出した幻覚として解釈した方が余程現実味がある。憐れな男が一人夏空の下、虚空に向かって話し掛けているという方が。

 それでも、僕には関係なかった。可憐な笑顔を浮かべて僕の隣を歩いてくれていた深音が、今、僕の眼前で虚ろな目をしている。悔しさか恐怖か、あるいはもっと大量の感情が混淆した塊だろうか、そういうものを抱えてきつくスカートを握り締めている。それが真実だ。

 怒りで腸が煮え滾る——なんて表現をよく聞くけれど、僕の内側に湧き出た怒りは、そういう性質を持っていなかった。どこまでも深く、重く、鋭く、そして冷たかった。真冬の外気を纏っているかのように、皮膚が収縮して震えていた。腸は巨大な空洞で、そこに落とされたクリスタルのように鋭い怒りは、その重量で加速度的に落下していき、ただ僕の内側を刺し貫く。

 選択肢はなかった。

 僕は天命と呼ぶべき一つの結論を下していた。

 その思考と同調するように、深音が小さく呟いた。

「ねぇ、蒼ちゃん。おねがいがあるの」

 その先を聞かなくても、僕には理解できた。

 だって、僕らはきっと、同じ表情をしている。

 氷河さえ凍てつくような、凄絶な微笑を。


「アイツらを——私を殺したヤツらを、皆殺しにして」

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