妖精に愛されしもの
二桃壱六文線
1-1 季節外れの桜
海は小さくさざなみ、その度に陽光が揺れて水面はきらめている。
この大海原の遥か彼方は異国へと繋がっている。この国は世界のほんの小さな国の一つで、世界には私が想像もつかないような文化や景色、人々が存在する。
知識として知っていても、俄かには信じられない現実を目の前にして、思わずため息が溢れた。
ペルリとやらが来て、ご逸新が起きて、早5年。私は黒船を見るのは初めてのことだった。
その荘厳で無骨な姿に圧倒されている。あの船と共に世界を巡ればどんな冒険が待っているのだろう。広大な海原に、巨大な城のように屹立する黒船を前にして、多くの人が新しい文化に魅入られ、いろめきだったのが分かるような気がした。
まだ見ぬ世界。想像もつかないような冒険が待つ世界。
この新浜の港には、私の知らない世界の文化の一端や、見慣れぬ異国の人々が多く行き交う。そして、まだ見ぬ異国に新天地を求める人々も。
波止場には、黒船に乗り込もうとする人々の賑やかな声が聞こえてくる。
私も、あの行列に並んだなら。
海の彼方にそんな憧れを思ってみるけれど、私が海の向こうに行くことは出来ない。平凡な私には身の丈にあった冒険が待っている。
先日、16になった私にも縁談が決まった。
幾ら文明開花でご維新で、女学校が出来るような時代になったとしても、親が決めた縁談に逆らうことは出来ない。親から縁談の話をされた時も、唐突なことに驚きはしたけれど、それだけだった。
姉も、従姉妹も、皆そうしてお嫁に行った。ついに私の順番が来たというだけ。
どうせ結婚するならば、夫となる人は、出来るだけ素敵な人がいい。
せめて、私の顔を見るなりげんなりした表情をしないでくれるといい。
この縁談はほとんど決まった話なのだそうだけれど、それでも破談になった話は幾らでも聞くから。愛想をつかされて、すごすご実家に帰るような羽目にだけはなりたくなかった。
冒険の日々に憧れを思っても、私は人並みの幸福で穏やかな人生が送られれば満足。
そんな焦燥なのか、期待なのか、よく分からない感情を抱きながら私は一生を添い遂げることになるかもしれない人を待っていた。
波は静かに静かに揺れて、さざなみだっていて、おだやかに約束の時間へと向かっている。
普通、初顔合わせはお互いの家か旅館なんかに伺うものと勝手に思っていたけれど。この場所に向かうようにと、父から言付かっていた。
その場所が新浜の波止場なんて。少し奇妙な話だけれど、けれどそれが良かった。
お陰で私は海を眺めることが出来て、黒船を拝むことが出来て。新浜の街も初めて訪れることが適った。
きっと縁談のお相手は、この新しい世界を私に見せたかったのだと思う。そんな心遣いにも優しい人なのだと気持ちが膨らんでいく。
家族しか知らないことだけれど、私の目は邪なものを時々写す。
妖とか妖精とか、妖怪と呼ばれるもの達。
けれど今こうして眺めている海原や澄み切った青空にはそんなものは映らない。ただ果てのない空と海との境界だけが広がっている。
これから送るであろう新しい生活は、そんな風に澄み切って、彼らに決して邪魔をされない生活だといい。
ざあ、ざあ、と。海は静かに波音を立てている。
逸る鼓動を抑える為に必死に海のさざ波を眺め、潮風に深呼吸をして。決してボロを出すんじゃないぞと何度も頭で反芻しながら、大丈夫、祖母から受け継いだこの晴れ着だけは立派な装いだと言い聞かせながら、まだ見ぬ人を待っている。
冬が終わろうとしているのに、風はまだ少し冷たい。それが本当に心地よい。
心臓が昨日からずっと強く鳴り響いているから。熱に浮かされたこの体に、その冷たさは心を落ち着けてくれるようだった。
そうして約束の時間がやって来る。
背後にそっと人の気配が訪れる。
「舞香さん、ですか?」
少し低い、大人びた声にどくりと心臓が鳴る。
声が裏返ったりしないように、精一杯落ち着けてから返事を返す。
「はい。貴方が清春様、ですか?」
振り返った先に居た男の人は、背の高い、切れ長の瞳をした男の人だった。髷をしていない髪が艷やかで、洋装がとてもお似合いになる人だった。どこかの商家の若旦那の様な装いだったけれど、腰に挿された刀だけが彼が武士の末裔であることを主張している。
ご維新から先、色んな事や物が変わったけれど。武士という人達ほど大きく変わった人達はない。
そんな時代にお侍の家に嫁ぐだなんて、本当に大丈夫だろうかと一瞬思う。
でも、一瞬だけ。
私と目があったときにそっと微笑んでくれた旦那様の笑顔が優しくて、すぐにそんな想いは霧散していた。
これから、この人の奥方になる。
そんな期待に胸が一杯で、小さくてささやかでも、私の冒険が始まった。
新浜の港で初顔合わせを済ませて、しずしずと清春様の後をついていく。新浜の街にご自宅があるのかと思ったり、世界との玄関口であるこの街で異国の品を扱う商館を冷やかすのかと思っていたけれど、清春様が向かったのは辻馬車の停留所だった。そこで言われるがままに馬車に乗せられる。
4人がけの馬車だけれど、清春様の荷物が2席も占領してしまったから、必然と私と清春様が並んで座る事になる。僅かに空いた距離がいじらしく、息遣いも体温も伝わりそうな距離に、気恥ずかしく顔が真っ赤になってしまう。
そっと横目で覗いてみる清春様の視線は真面目なもので、どこか遠くに意識を向けていらっしゃる。
それがまた涼やかで、心臓が早鐘を打って壊れてしまいそうで、でも堪らなく相手を意識してしまうのは私だけのようで。少しの寂しさと不安と、彼が私よりずっと大人の男性だという現実に、私の顔はまた勝手に熱くなってしまった。
私の装いが長歩きには適さないから馬車をわざわざ用意してくれたのかなと思っていたけれど、どんどんと馬車は街を離れていき、遂には住宅街を抜けて新浜の街を出てしまった。だんだんと田園風景が広がっていく景色に、流石にどこに連れて行かれるのだろうと疑問が浮かぶ。
あの辻まで。あの峠の先まで。
そうやって先延ばしにし続けてきたけれど、一向に止まる気配の無さに焦れてしまって、意を決して清春様に問うてみる。
「あの、清春様。何処に、向かうのでしょうか?」
「……えっと、家の方から聞いていませんでしたか? ここに向かっています」
決して呆れたような声音はなく、少しだけ戸惑いと驚きが混じったような様な声音と表情を浮かべた後、清春様が懐から一枚の写真を取り出し見せてくれる。
雪景色。
家の屋根や路肩に雪が積もった、何の変哲もない農村の光景。けれど1点だけありえないものが映っている。
村の中央に聳える桜が満開だった。
冬の景色に満開の桜が写った、不可思議な光景。
「奇怪な光景でしょう。こいつの原因を探りに行きます」
何でもないことのようにさらりと清春様が言う。普段のお仕事を淡々とこなすかのように何の感情も思いもなく。
(え? 初顔合わせの直後なのに?)
あっけに取られ、そんな事を思うけれど、次にあることに気付いて顔が真っ赤になってしまう。
(こ、これが噂に名高いハネムーンとやら!?)
清春様は努めてなんでもない様な顔でさらりと、事を進めているけれども。実はとても大胆な方のようだった。 異国にはそのような風習があるとは聞いてはいても、ほとんど夫婦になる間柄とはいえ、まだ結婚前の2人がどこかに旅行に出かけるだなんて、新時代でも破廉恥な行いだ。
それも定番の保養地に向かうとか、お伊勢参りをするとかではなく、怪異を追うだなんて、なんて独創的で大胆なお方だろう。
流石は洋装を着こなすモダンな方と思うべきなのか、破天荒が過ぎる人と思うべきなのか。判断に迷う。
それでもそっと覗き込んだ彼の顔は涼しい顔で、照れを隠している様子もなく、背伸びして虚勢を張っている様子もない。
とんでもない人のもとに嫁ぐことになったな、なんて思いながら、そんな強引な様子が嫌いとは思わなかった。
旦那となるかもしれない人と初めて顔を合わせた。そんな興奮がまだ胸に残っているせいで、幾らか私も気が大きくなっているみたい。
揺れる馬車の中、時折彼の横顔を覗き込みながらこの奇想天外な冒険に心が踊っていた。
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