第2話
十兵衛が宿場の世話役である惣治とともに外陣に出向いたのはその日の昼過ぎだった。
早い行動には訳がある。店に食材を届けてくれる権蔵も最近、猿の襲撃を受けているのだ。十兵衛の店に届けられるはずの食材が馬の背から猿に掠め取られる。十兵衛にとっても多いに商売の障りになっているのだ。
惣治も宿場町の世話役という立場上さんざ猿の被害を聞かされていたとあって、十兵衛の提案にすぐに乗った。
「お武家様なら弓矢で猿を追い払ってくださるだろうし、何か儂等では思いつかない知恵をおもちだろう。儂の爺さんの時の代官様は遠藤さまと云って、それはそれは物知りのお侍だった。何かあるたびに頼ったもんだ」
惣治は十兵衛よりも五つほど年上で四十半ばの壮年である。
「惣治さんのお爺さんと云うと、まだお殿様が羽代城におられたころでしょうか」
「そうそう。その次の代のお殿様は江戸からお戻りにならずに、まあ、それでか御家中がいろいろあったと聞く」
そこまで語ってふと、惣治は辺りを用心深くうかがう素振りを見せた。
「惣治さん、噂話を聞きとがめるようなお武家様はもういないですよ」
「いやどうも先日までの癖が抜けなくてなあ」
十兵衛たちが商いをしている宿場町は長岡という小さな町で、南に五里ほどいくと東海道がある。その東海道を含めたこのあたりは羽代藩の支配下で、長らく朝永家がその藩主を務めてきた。
朝永家は徳川譜代の臣であったため、この二年ほど尊王攘夷を標榜する西の勢力と緊張状態にあった。薩摩藩の息がかかった浪人が羽代藩の内乱を目論んでいたこともあり、人が集まる場での政治にかかわる発言は禁止されていた。
惣治の緊張は、その時の空気をまだ生々しく憶えていたためだった。
だがその朝永家はすでに羽代藩の藩主ではない。新政府によって下総国の小藩に遷されたという。朝永家に仕えていた武士は主筋を追って下総に移り、あるいは江戸に上り、羽代に残ったものは僅かだった。代官所に派遣されていた役人も任を解かれて羽代を去ったのだろう。
「最後の朝永家のお殿様は羽代のために色々として下さったが、やはり殿様になるようなえらいお武家様には儂等には及びもつかない厳しさがあるのだろう」
惣治は思慮深く地面に視線を落とした。
十兵衛は惣治ほどに深刻にはなれなかった。馬子の権蔵が、今の殿様になって移動を伴う商いがやりやすくなった、と喜んでいたのを知っていたからだ。
「確か御当主だった弘紀様は二十歳を過ぎたばかり、帝の官軍に表立っては反抗しなかったものの降伏が遅れた責を負って当主の座を降りられたようだ」
惣治の言葉に十兵衛は自分が二十歳を過ぎた頃どうだったかを思い返してみた。あまり思い出せることもない。ただ漠然と日々を過ごしていただけの様だ。
「儂らのような者は生業を変えることはできても、お武家様が、それもお殿様がお殿様でなくなったらいったいどうなさるんだろうなあ」
二人の前には外陣が近づいてきて、惣治はそれ以上話を続けることは無かった。
その外陣の門前に立って十兵衛と惣治は困惑した。
誰も門前にいないのだ。外陣に宿泊するような武家ならば門前に下士の一人や二人を立たせておくものである。なのに誰もいない。これでは用事を伝えることもできない。
さらに二人を混乱させたのは、黒々とした屋敷門の扉は半ば開いたままなのである。
「ここから声を掛けて人を呼んでもいいものだろうか」
十兵衛が中を覗き込もうとすると惣治がその腕を掴んで引き留めた。
「お武家様が御泊りなのは確かだ。無礼なことをしてはならない」
「はあ、じゃあ誰かがお戻りになるのをここで待ちますか」
「それしかないだろう」
門扉を背に声を抑えながら言い合う十兵衛と惣治の後ろから、
「何か、ごようですか?」
と問う声が聞こえた。
二人して同時に振り向くと、門扉の内側に小柄な青年の姿があった。
襷がけして袴は股立ちに、手には箒を持っている。庭掃除の途中であろう姿だが、一目で自分たちとは違う、と十兵衛は感じた。
艶のある黒髪を月代を剃らずに結い上げているのは町人にも流行っている髪型だ。武士の証である大小の刀は身に着けていない。なのに。
明瞭な弧を描く眉の下、黒曜の瞳を好奇心に強く煌めかせながらその青年は一歩、十兵衛たちに歩み寄り、そして、あ、と小さく声を上げて足を止めた。
穏やかな午後の日差しが一瞬にして温度を失う。
箒を手にした小柄な青年の視線の先、十兵衛と惣治の首筋には背後に現れた人物の視線が氷の刃のように突き刺さる。振り返えるどころではない。十兵衛と惣治はその場に崩れるように膝を付き、額を地面に擦りつけて平伏した。
――斬られる
二人の頭の中にはその思いしかなかった。
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