第2話 契約
その日、三好は雑居ビルの前にいた。
応募したバイト先からのメッセージで、ここへ来るように言われたのである。
持ち物や服装は自由と言われたため、彼はジャージ姿の手ぶらだった。
メッセージには交通費として五千円分の電子マネーが添付されていた。
三好の自宅から雑居ビルまで、タクシーを使ったとしても三千円もかからない。
明らかに過剰な支給であり、求人の怪しさが一段と増していた。
それでも三好はやって来た。
金銭欲と好奇心が彼を動かしたのだった。
(臓器売買とかだったらどうしよう……)
物騒な想像をしつつ、三好は暗い階段を上がっていく。
指定されたのは三階だった。
インターホンがないので彼は扉をノックする。
数秒後、黒スーツを着た屈強な体躯の男が現れた。
驚いた三好は震える声で名乗る。
「あ、あのっ、バイト募集で来た三好、ですが」
「入れ」
男は仏頂面で命じる。
三好は早くも後悔し始めていた。
しかし、逃げたらもっと恐ろしいことになりそうだったので大人しく従う。
三好が室内に踏み込んだ瞬間、背後で玄関の扉が閉まった。
黒スーツの男はいない。
彼と入れ替わりで外に出たのだ。
逃げ道を失った三好は、用心深い動きで靴を脱いで先へと進む。
殺風景な部屋にはスチール製の机と革のソファがあった。
机の上にはクリアファイルに入った書類とディスプレイが置かれている。
三好が近付くと、ディスプレイから若い男の声がした。
「はじめまして、三好様。よくぞ来てくださりました」
「ど、どうも……」
「私、此度の責任者を務める鷹田と申します。よろしくお願い致します」
鷹田が「どうぞお座りください」と続ける。
ディスプレイは何も映しておらず、声だけが発せられていた。
三好は会釈してから腰かける。
その際、ソファに妙な仕掛け――たとえば拘束装置がないかを確かめる。
三好の行動を知ってか知らずか、鷹田は自然と話を進めた。
「突然ですが三好様。RPGという言葉をご存知ですか?」
「ゲームのジャンルのことですよね。有名作はそこそこプレイしてます」
「ではVR機器を使ったゲームはどうでしょう?」
「そんなに詳しくないですけど、軽く遊んだことくらいなら」
「素晴らしい! あなたは今回のテストプレイヤーにぴったりですね。応募いただけたことに深く感謝します」
「はあ……」
過剰なまでに慇懃な態度に、三好は少し疑念を抱く。
しかし日頃は誰にも褒められないため、彼は照れ笑いを浮かべてしまった。
鷹田は慣れた様子で説明を続ける。
「三好様に参加していただくのはVR機器を使ったRPGです。前提知識がなくても困りませんが、過去の経験が役立つ場面はあるかもしれませんね」
「なるほど」
「最新技術を盛り込んだゲームは、現実との融合を完璧に果たしています。きっと満足いただけますよ」
三好は胡散臭さを感じたが、同時に期待を膨らませていた。
彼の趣味はゲームだった。
近頃は金欠なので新作はなかなか買えないものの、人生の中で最も没頭したのは間違いなくゲームと言えよう。
「三好様には一週間とある島で過ごしていただきます。様々な条件をクリアして賞金獲得を目指してください」
「テストプレイなのに賞金が貰えるんですか?」
「そうしないと正確なデータが取れませんからね」
鷹田は当然と言わんばかりに答える。
それを聞いた三好は小さくガッツポーズをする。
「ゲーム終了後、三好様には最低保証の百万円を進呈します。上手く条件を満たしていけば、報酬は何倍にもなるでしょう」
「どうしてそんなに高額なんですか? 応募した身で言うのもあれですけど、ちょっと怪しいというか……」
言葉を濁す三好に対し、鷹田は少し笑った。
彼は少し熱の籠った声で述べる。
「疑うのも分かります。ですが我々は本気です。だからこそゲーム開発に巨額を注ぎ込んでいるのです。テストプレイには相応の価値があるのだと考えてください」
「す、すみません」
「いえいえ! あんな募集要項ですから怪しむのは当然ですよ。三好様のように事前に確認いただける方はむしろ助かります」
鷹田は怒った様子もなく応じる。
安堵した三好は、鷹田の人柄に信頼感を覚えた。
これまでに募った恐ろしい妄想や疑いが払拭されつつあった。
概要の説明を終えた鷹田は新たに指示を出す。
「机の上にあるのは契約書です。一枚目にサインをしてください」
「念のため中身を読んでもいいですか」
「ええ、もちろんどうぞ。齟齬があってはいけませんからね。しっかりご確認ください」
三好はクリアファイルから取り出した契約書を読み始めた。
最初に彼が気になったのは『最低保証の百万円やゲーム中に獲得した賞金、すべてバイト終了後に支払われる』という文言だった。
(いきなり貰えるわけじゃないのか……少し残念だな)
次に注目したのは『途中でゲームを放棄した場合は支払われない』や『運営会社はゲーム中に発生したあらゆる事故・トラブルの責任を負わない』と書かれた段落だった。
三好は得意げに鼻を鳴らす。
(途中で投げ出すわけないし、事故とかトラブルも大丈夫だ。俺には関係ない話だな)
その他にも小難しい内容が延々と書かれており、面倒になった三好は斜め読みで確認を済ませる。
後から何かを請求されたり、報酬が不当に減額される文言がないことだけを入念にチェックしてから、彼は付属のボールペンでサインをした。
(これで百万円をゲットだ)
三好は契約書を置いてほくそ笑む。
その時、部屋の奥から加湿器の音がした。
(さっきまで動いてたっけ)
少し気になるも、そのような疑問はすぐに霧散した。
三好の思考はテストプレイで獲得できる大金に支配されていた。
鷹田は嬉しそうな声音で彼に告げる。
「では三好様。最後に1から100の中でお好きな数字を一つ宣言してください。これによってプレーヤーの初期状態を決定します」
「初期状態とは具体的に何ですか?」
「そこはお答えできません。ゲームが始まってからのお楽しみです」
鷹田は猫撫で声で回答する。
少し思案した後、三好は思い付いた数字を宣言でした。
「……じゃあ13で」
「かしこまりました。それでは三好様の職業は冒険者です。ご健闘を祈ります」
鷹田が言い終えた直後、三好は猛烈な眠気に襲われた。
彼はソファから転がり落ちて意識を失う。
加湿器から異臭が噴き出していた。
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