夜に爆ぜ朝を食い尽くせ
蜂月ヒル彦
第一章 新宿編
第1話 死神とわたしの朧げな記憶
見た目は人のようであった。
人のようであるがしかし、どう考えても人ではない彼は、私の祖母を奪い、そして。
私を、救った。
「————君の番ではないと言うのに」
真っ直ぐにこちらを捉えたその瞳は、まるで宇宙の暗黒を切り取って詰めたような、海の底の極低温の暗闇を掬い取ったような、深く暗い色を湛えていた。にも関わらず、何処までも澄んでいるその瞳は、ある種の説得力のような、重力に近いものがあり、幼年の私は瞳の中に別世界が広がっているような、そんな錯覚をした。
それは、纏っている物全てが黒く、目を見張る程に背が高い。二メートル以上はあるのだろうか。いや、この歳の私にはそれくらいに見えただけだろう。
細長い、黒い塊のような人型の何者かは、暫しこちらに向けていた視線を緩慢と逸らと、そのまま部屋の一角に置かれていたベッドを見た。実際にはベッドの上に横たわっていた、私の祖母を、じっと見つめた。
きっと男の人だろう、この時の私はそう目の前の何者かを推測した。
だがこれは、祖母の部屋に突然現れたこの異様な風体の人物を、身長や声の雰囲気で、自分が知っている生物の中で一番近しいものを当て嵌めただけに過ぎない。
目の前の存在を的確に形容する言葉を、幼い時分の私はまだ持っていなかったのである。
緑茶で染めたような色の絨毯の上を徐に土足で歩き始めたそれは、窓の近くからゆっくりと、静かに眠る祖母の枕元に近付いていった。
「おばあちゃん」
不安になった私は咄嗟に祖母を呼んでみたが、声が小さかったからか覚醒には至らない。
私の祖母は十年以上前から心臓病を患っており、体調が優れない時はそっと部屋に篭って一人静かに休むのが常であった。祖母の性格を考えれば、家族と言えど他人に心配を掛けまいと考えて篭っていたのだろうと、今になって思う。しかし小さな私はそんな祖母の心情を想像できはしない。
それどころか、部屋に戻る際の祖母は落ち込んでいるだけなのだと、何故かそんな風に思っていた。とんだ的外れな想像である。
だからなのか、それともただ祖母の傍に居たかっただけなのかは分からないが、とにかく、リビングに祖母が居ない事に気付くと、私はこっそり祖母の部屋の中に入って様子を見に行っていた。
この時期の祖母は特に病状が重かった。一度長期の入院を終えてやっと家に帰って来たというのに、それでも度々体調を崩していた。この瞬間も祖母の呼吸は浅く、時に呻き声が聞こえている。
幼い私はそんな様子を毎日見ていて、ただただ漠然と不安だったのを憶えている。病気と言う事実も何となくでしか理解できていなかったが、生前の祖母は辛そうな表情をしている時間がとにかく長かった、ような気がする。
私はいつだって、祖母がどうにか楽にならないかと考えていた。
祖母の傍までやって来た黒い男は、片手を上げると祖母の唇の間に指を挿し入れ、すぐに何かを引き抜いた。
突然、自分の祖母の口の中に指を挿れた男に、驚いた私は短く息を吸うと呼吸を止めた。
男は白銀の、
部屋のカーテンは閉まっていて光は入ってきていないのに、その綿飴の糸は小さな光がきらきらと反射している。靄自体が微かに発光しているのだろうか。
全てを引き摺り出すと、黒い男は祖母の身体から引き出した白銀の靄のような何かを、細かく鋭い牙が立ち並ぶ大きく開いた口で、噛み付くようにして食べ始めた。
私は悲鳴は上げなかった。ただ驚いて、口は馬鹿みたいに開いていた。
男はまさに綿飴を味わうように、暫く口の中をもごもごと動かして、一人用の縄跳びの縄くらいの長さの綿飴を先端まで食む。その内嚥下する音が聴こえると、無感情に口の端を舌で舐めた。
今まで微かに聞こえていた祖母の呼吸音は、途絶えていた。
私はそこまでの成り行きを黙って見ていたが、その時に黒いそれは————いや、きっと、彼と言うのが正しいのだろう。彼は、もう一度小さな私を見下ろすと、目に掛かりそうになっていた自身の黒い前髪を、黒爪の長い指で耳に掛け、独り言なのか誰かと話しているのか判断がつき難い小声で、ぼそぼそと喋り始めた。
「君の番ではないと言うのに……やはり、僕の事を認識している。珍しい。君は、何者なのだろうか?」
「わたし?」
貴方こそ一体、何処の誰なのだ、おばあちゃんに何をした、この時私はそう糾弾すべきだったと後になって反省した。しかしこの時の私は恐らく五歳前後で、こう言う時に発揮されるべき常識的な反応など持ち合わせてはいなかった。故に、私は逡巡した挙句、目の前の何者だか分からない彼に向かって、素直に自分の名前を伝えただけだった。
「
「ふむ、自己紹介、感謝する。しかし君はどう見ても普通の人間の子供にしか見えない。何故そこまではっきりと、姿を見せていない僕の事が見えるのだろうか。もしかして君は今まで、他に誰か見た事があるのか?」
「他……? お兄さんみたいな人って、こと?」
私の言葉に、彼は微かに頷いた。私は彼を頭の上から爪の先まで見てみるが、他の人間との違いが、その時は明確にあまり分からず、ただ首を傾げるだけで、質問に答える事はできなかった。
「ねえ、おばあちゃんは?」
「……ああ、彼女は君の祖母なのか」
彼は、ベッドの上で横たわる祖母に視線を向けると、当たり前のように「死んだ」と言った。
そして私は亡骸となった祖母の隣に立つ。
その表情を見て、どこか安堵した。
ずっと苦しげに歪んでいた祖母の表情ばかりを見ていたせいか、初めて見る安らかな脱力した顔に、あばあちゃんはもう苦しくないのだ、と子供ながらに安心したのだ。
私は決して、おばあちゃんが早く亡くなってしまえば良いなどと考えていた訳ではない。
私は祖母が好きだった。これだけは言いきれる。
でも、だからこそ、辛いままでいて欲しくなかった。それだけだった。
だから私は、安心、した。
「お兄さんが……死なせちゃったの?」
「客観的に見れば、そう見えるかもしれない」
「違うの?」
「僕が来なければ、彼女の魂はどこにも行く宛が無くなる。それは生きるよりも死ぬよりも不幸で、救いがない。だから僕のような存在が回収する……つまりこれが、僕の仕事だ」
「お仕事、なの?」
「仕事であり、僕の存在理由だ」
「……ふうん」
私は、この時はやっぱりまだ良く分からなくて、相槌しか打てなかった気がする。記憶は定かではない。ただ彼を責めようとは思わなかった。幼い私には人間の死の実感などまだ無かったし、それにあまりにも、ベッドの祖母が安らかだったからだ。
いや、彼の言い分が、まるで当たり前の事を言っているような口調で言い訳がましくなかったから、つい信じてしまっただけなのかもしれない。
とにかく私はあの日、彼を責めたり断罪しようと考える事など無く、それどころか彼の存在そのものに興味を持ってしまった。
証拠に、私は佇む彼の事を穴が開くまで観察した。その観察時間は、見知らぬ子供の直視に、黒い彼の眉間の皺が微かに刻まれる程に長かった。
黒い彼は、知性と品を感じさせる喋り方や仕草、細く高い身長、昔話の魔女のような骨張った手に、黒いフードから溢れる肩くらいのぼさついた黒髪と、何者にも興味がなさそうな、それなのに泣きたくなるくらい優しい声を持っていた。
何よりもやはり、黒色の瞳が私の目を引いた。
自分の知っている黒ではない。
普通の子供であれば、現段階で大泣きして上の階に居る両親の元に走って行くのがきっと正常な判断だったのだろう。だが物珍しい目の前の存在に、私の理性なんてちっぽけなものは忘れ去ってしまっていた。
そもそも彼からは敵意や悪意を欠片も感じなかったのだ。これは子供ながらの直感でしかないが、落ち着き払った態度や穏やかな声色、そう言った要因が私のあるべき警戒心を解いていたのは間違いなかった。
私は、それまで距離を置いて観察していたが、うずうずと内側に好奇心が渦巻くのを感じて、徐々に黒い彼に近付く。
そして黒い彼の服の端を、摘むように握ってみた。
————居る。
衝撃だった。
ざらざらとした硬い布の感触が、指先から伝わってきていた。
その事実が私の胸を高鳴らせ、存在し得ない宝を見つけたような、夢の登場人物が現実に飛び出てきたような高揚感に全身が襲われた。
私は頭上の彼に向かって、言葉になっていない何かを叫んだ。恐らく、凄い、と言ったと思う。あまりに身長が高く、随分遠くに居るような気がして、聞こえないかもしれないと思って叫んだのだ。
すると予想に反して、彼は煩いとばかりに眉間に皺を寄せると、唇に細長い人差し指を当てて静かにするように私を諭した。私は収まらない高鳴りに任せて低い跳躍を何度か繰り返しながら、今度はやたらと小声になって話した。
「ねえ、名前は、なんて言うの?」
殆ど吐息だけの問い掛けだったが、一応それでも聞こえるらしい彼は、また無表情で返答した。
「無い」
「え、名前無いの? じゃあ、私がつけてあげるね」
その時に初めて、彼の表情が明らかに変わったのが分かった。
眉間に皺を寄せるなんてものじゃなく、伏せがちだった瞼をかっと開いて、大きな黒目が更に大きく見えた。はっと息を呑んだ音も聞こえる。
しかし、すぐに何かを思ったのか、頭上の黒い彼はふいと視線を逸らしてぶつぶつと呟いた。
「……名前など無くとも、別に」
「やだよ。だって私が呼ぶ時、困っちゃうから」
「……君が、僕を呼ぶのか? いつ?」
「これから」
「これから」
驚いたように
突然笑い始めた私を、彼はとっくに取り戻していた無表情で見ていたが、今の話に興味を持ったのか、初めて彼が自らしゃがんで、小さな私に顔を近付けた。
「あっ」
その瞬間、私は初めて気付いた。
彼の瞳は漆黒などではない。
近くで見ないと分からないが、その瞳の中には極小の星々が幾千も輝いていたのだ。
それは、それまで私が見た中で一番綺麗で、小さな星空だった。
子供の時に下手に物事を形容するような言葉を持ち合わせていなくて、本当に良かったと思う。もし少しでも語彙が豊かであれば、それらしい言葉を並べ立てて、その瞳の美しさを台無しにするところだった。
「あのね、名前すごいの、思い付いたよ」
「僕の?」
「あたりまえじゃん」
語彙に乏しいその頃の私が得意げに思い付いた彼の名前は、単純過ぎる点は否めないが、今となっては嫌いではない。中途半端に例えるような言葉よりは、よっぽど潔いだろう。
その時はまるで天啓とでも言わんばかりに降ってきた言葉を大事に抱えて、私は高揚感を隠す事もなく、しゃがんだままの彼の固く冷たい肩に触れて、耳元で囁いた。
「聞きたい?」
くすくす笑いながらわざと秘密を勿体ぶるようにそう言うと、彼は普通の人より少しだけ長くて先の尖った耳を微かに震わせ、こちらを見た。
「君が言いたいのだろう。分かっているぞ」
良いから早く言え、そう言われているような気がした。
私は彼が何故急かすのか不思議ではあったが、それよりも面白さが勝ってしまい、また笑いそうになるのを必死で堪えた。
自身が考えた名前を待つ、目の前の彼の真剣な表情に満足すると、私は小さな足の爪先を精一杯に伸ばして必死に彼の耳に唇を近付けた。どんなに隠そうとも、耳を立てる者は誰も、居ないと言うのに。
そして。
私は。
私は、祖母の魂を奪った彼に名前を付けた。
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