おパンツよりもカロリーを!

鏡銀鉢

第1話 美少女のパンツのせいで受験に失敗!


「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~」

 俺の名前は秋宮幹明(あきみやみきあ)十五歳。

 現在…………人生最大のピンチを迎えている。


 高校入試スタートまで残り五分というこの状況において、緊張しすぎて幽体離脱しそうだった。


 冷たい手のひらは汗でびしょびしょ。


 靴の中も冷え切っている。


 冬将軍を追っ払うべく、教室には暖房が入れられているのに、上下の歯列はリズミカルに音を鳴らし、背筋はつららが入っているように凍り付いている。


 ここが人生のターニングポイント。

 五分後に、俺の人生が、そして高校生活のすべてがかかっているかと思うと、眩暈がしそうだった。


 未だかつて、ここまで緊張したことなんて一度もない。


 好きな女の子に告白しようとした時だって……ちなみにフラれた。

 手紙で呼び出された先で好きな子が待っていた時だって……宛先を間違えたらしい。


 俺が片思い中の女子が、好きな男子の名前を言う時だって……俺じゃなかった。


 ここまで緊張はしなかったのに……あれ、おかしいな、視界が、ぼやけるや。


 ――ああ神様、どうか俺に半日だけの勇気を。


 けれど、勇気どころか目には涙が溢れてくる。

 頭のなかで、物憂げなBGMが流れる。るーるるー……。

 馬鹿に明るい声が降りかかってきたのは、BGMがサビに入った頃だった。


「君、元気ないね。青い顔と唇と耳でどうしたの?」


 右を向けば、さっきまで空席だった隣の席に、一人の女子生徒が到着したところだった。


 俺は角席なので、彼女は唯一のお隣さんだ。


 その彼女は、実に目立つ外見をしていた。


 肩口で切り揃えた、快活そうな金髪碧眼。大粒の瞳はわんぱくな輝きに満ち溢れ、好奇心でにっこりしながら俺の顔を覗き込んでくる。


 海外からの留学生、というわけではなさそうだ。


 欧米人に比べれば堀りの薄い、柔和で親しみやすい顔立ちは、おそらくハーフかクォーターのものだろう。


 ただし、制服の下で窮屈そうにしている胸元は、欧米人顔負けの迫力がある。

 他の追随を許さない、その飛びぬけた容姿に息を呑み、しばし硬直してしまった。

 できれば、小一時間、彼女を見つめていたい気分になった。

 ありていに言えば、俺は一目ぼれをしたのだ。


 初恋だった。


 え? 俺をフッたり手紙の宛先を間違えたり他の男の名前を口にした女子? そんな人いたっけ?


 彼女の顔が、ずいっと迫り、意識を引き戻された。


「ねぇねぇねぇ、緊張してるのかな? かなかな?」


 遠慮なく詰め寄り、大きな瞳に俺の顔を映し込む。


 わっ、わぁ……凄い可愛い。それに、表情が凄く優しい。


 これは、演技じゃなくて、天然じゃないと出せない笑顔だ。直感でそう思う。


 さっきとはまた、違う緊張で舌が空回りする。


 でも、彼女の質問に答えないと。焦りながら、なんとか返事をする。


「そそ、そうなん、だ……緊張で、元気がなくて、ね」


 この学園に入学したら、この子と一緒に登校できるかも。


 

「やぁ、入試で会ったね」

「あ、君はあの時の」

「君のおかげで、僕も合格できたよ」

「そんな、わたしは何もしていないよ。秋宮君の実力だよ」

「はは、ありがとう。これも何かの縁だし、放課後、一緒にどこか行こうか」

「うん、行こ」

 

「幹明君、わたしたち、付き合って三か月だね」

「ああ。君のおかげで、毎日が楽しいよ」

「うん、わたしも。でもね、このままじゃやだな。もう一歩、先に進んでみようよ」

「え? それってどういう」

「大好きだよ。幹明君。ちゅ」


 そんなささやかで淡い期待を、コンマ一秒で巡らせた次の瞬間。


「ふぅん、そっか。じゃあ、わたしが元気にしてあげるね」


 ほにゃ、と魅力的に笑いながら、名前も知らない彼女は、声をはずませた。

 あぁ、なんて明るくて優しく慈悲の心に満ちた子なんだろう。

 今日初めて会った俺のために、ここまで心を砕いてくれるなんて。


 彼女は何をしてくれるんだろう。


 甘い手作りクッキーでもくれるのかな?

 元気になるおまじないとして手に花丸でも描いてくれるのかな?


 緊張が解けるまで手を握っててあげる、とかだったら最高なんだけどなぁ。


 元気いっぱい夢いっぱい。

 俺の心はふわふわの翼を背負い、メルヘンチックな妄想の世界を飛び回っていた。



 その時、彼女の白くたおやかな指が、スカートの裾を握りしめる。


 愛くるしい顔にはとびきりの笑顔をはじけさせて、彼女は無邪気な声を明るく鳴らすと、


「元気になぁれ」


 思い切り両手を上げ、スカートをたくし上げた。

 初恋の女性の、スカートの中身が、俺の前に笑顔で晒されている。


 

 度肝を抜かれた。

 目の前の絶景に心臓が止まり、両目が正円を描くほどまぶたが開いた。

 途端、世界が一変した。



 そこは、パンツの街だった。


 街中の建物が女性用パンツで作った万国旗で飾られ、ビルの屋上からはパンツがハトのように飛び立ち、雲のように空を陣取る天空のパンツの下をはばたく。


 そんな街の真ん中で、俺は佇み、彼女はスカートをたくし上げていた。


 津波のような情報量は、俺の頭から一切の漢字と、数式と、年表と、化学式と、英単語を押し流していく。


 その後のことは、あまり覚えていない。


 筆記試験も、そして、実技試験中も、俺の頭の中は純白で、何も考えられなかった。


 幸い、このMR学園はとある専門高校で、限界受け入れ人数を超えなければ、全員合格になっている。


 だが、それでも俺は、今日のために、睡眠時間を一日四時間まで削って勉強と実技練習に励んでいた。


 何故なら、この学園での待遇は、入試結果で振り分けられる、学園ランキングで決まるからだ。けれど……。


【入試結果 三一八人中、三一八位】

【最下位のため、貴殿への支給学園通貨をゼロ、学食の選択肢をパン耳オンリーとする】


「ノォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」


 こうして、俺の最低最悪の苦々しい青春が幕を開けた。


 ◆


 ドンドコ ドコドコ

『朝だくまー、朝だくまー、朝だくまー、起きるくまー』

 ドンドコ ドコドコ


 和太鼓の音と、くまくまカワイイ声に目を覚ますと、カーテン越しに降り注ぐ太陽光が温かい。


 学生寮で目覚める青年。

 心地よいスズメのさえずりの後に聞こえる、ささやかな羽音。


 まるで、ドラマのワンシーンのように爽やかな朝だった。

 その雰囲気をぶち壊しにする音を視線で辿ると、学習机の上にいきつく。


 そこにいるのは、手のひら大のクマのキャラクター。限りなく楕円に近いボディから、存在理由がわからないほど短い手足を生やした、クマのくまお君が、額にねじり鉢巻きを締め、青地に白の渦潮模様のハッピを羽織り、二本のバチを手に、和太鼓を打ち鳴らしていた。

 

 ドンドコ ドコドコ

『朝だくまー、朝だくまー、朝だくまー、起きるくまー』

 ドンドコ ドコドコ ドンドコ ドコドコ


 朝に弱い俺が、確実に起きるにはこれぐらいが丁度いいと思い、設定したものの、想像以上に寝覚めが悪い。


 このまま起き上がり、ベッドを抜け出し、学習机の上のくまお君の頭をなでてやれば、目覚ましモーションは終了する。


 だがしかし。

 朝のベッドは人外魔境だ。

 この空間において、あらゆる物理法則は意味をなさない。


 重力は五倍。

 時間の流れる速度は五分の一。

 一センチは一キロメートルになり、ベッドの外は地平線の彼方になる。


 アインシュタインが生涯を費やしても解明できないであろう……深海のように深淵な、茫漠とした世界、それが【朝のベッド】なのだ。


 そんな俺の苦労も知らず、くまお君は和太鼓を打ち鳴らし、執拗にウェイクアップを要求してくる。


 いつもは締まりのないたれ目をキュッと吊り上げ、波線のような口を三角形に固め、額からは一生懸命を表現する、飛び散る汗の感情エフェクトを出しながら、短い手でバチを振り続けている。


 ベッドを出るか、太鼓の音とともに眠り続けるか、二つに一つ、いや、三つ目の選択肢が、俺にはあるじゃないか。


 わずかな逡巡を経て、右手を右耳の裏に伸ばした。

 指先に触れる、硬質感。


 それをつまんで外すと、くまお君の姿はテレビ画面が消えるように失われ、太鼓の音もやんだ。


 くまお君の姿も、声も、太鼓の音も、すべては耳の裏に装着したデバイスが、俺の脳に直接送り込んできた、電気信号に過ぎない。


 くまお君は、あくまでもXR技術が生み出したキャラクターであり、そして、デバイスユーザーの生活をサポートする、XRペットなのだ。


 だから、デバイスさえ外してしまえば……あっ。

 しまった、とベッドから跳ね起きる。

 慌ててデバイスを耳に着け直しながら、学習机に跳びついた。


 けれど、時すでに遅し、そこには、ねじり鉢巻きとハッピを脱ぎ捨て、俺に背を向け、小さくまるまり、いじけてしまったくまお君の、寂しい姿があった。


「起こしてって言うから起こしたのに、ひどいくま……」

「いや、ちょっ、ごめんごめん、ちょっと寝ぼけていてさ。機嫌直してよぉ」


 猫なで声を出しながら、指先でくまお君の後頭部をなでた。


 俺の視覚情報に上書きされた3D映像であるくまお君に、感触はない。


 けれど、俺の指先が触れると、本当に突っつかれたように、楕円形の体は、ころころと前後に揺れた。


「ほらほら、そんな拗ねないで、XRペット、ARモードへ」


 俺のボイスコマンドで、くまお君の姿は消失、視界の右上にお引越しした。


 今までのくまお君は【複合現実】と呼ばれるMRモードで、【この部屋の】【学習机の上】にいると設定されていた。


 だから、机の上を見ないと、その姿を目にすることはできない。


 けれど今は【拡張現実】と呼ばれるARモードで、俺の【視界】そのものに重ねられている。


 空を見上げたままいくら走っても月が追いかけてくるように、首を回しても、くまお君は視界の右上に表示されたまま、ついてくる。


 機嫌が直ったらしく、今は視界の右上で、元気にラジオ体操をしている。


 ふぅ、よかった。


 安堵の息を漏らしながら、頭をかいた。

 まったく、あんな寂しそうな姿を見せられたら、起きざるを得ないじゃないか。


 人の生活をサポートするXRペットは、いちいち人の良心に訴えかけてくる、極めて嫌らしいアプリだ。


 けれど、そのおかげで多くの人が生活改善に成功し、旧時代――AR、MR、VRなどの、XRデバイスが普及する前の時代――に比べて、禁酒や禁煙、ダイエットに成功する人が後を絶たない。

 俺も、こうして恩恵にあずかっている。


 

 そして、俺の思い描いていた理想の寮生活では、くまお君の指示に従っておいしい朝ご飯を作り、一日の活力を得るはずだったのだが……入学してから半月、そんな朝は一度もない。


 せいぜいが、コーヒーメーカーの沸騰や落とし終わりを教えてくれる程度だ。


 白いテーブルの上に乗るのは、コーヒーカップと、学食でタダでもらえるパンの耳だけ。


 電気ガス水道は一定額までは無料だし、石鹸やシャンプーなど一部の生活用品は、生活困窮生徒への救済措置として、学園の系列企業の売れ残り品をタダでもらえる。


 ただし、口に入るものへの救済措置はゼロだ。

 調味料すら、学食へ行かなければ無い。

 お皿に盛りつけたパンの耳を一本手に取り、コーヒーに浸して、口へ運ぶ。


「あぁ、こうするとあたかもコーヒーパンを食べているような気分に……なったらいいな」


 視界がぼやける。


 あはは、どうやら、ARモードの調子がおかしいらしい。

 おいおい故障かい? ひとりだけ鮮明なくまお君。


 俺の食事中、くまお君は視界の右上で、ハチミツたっぷりのハニートーストを食べていた。


「くま?」


 ぐっ、ご主人様の俺よりもいいもの食べやがって。でも許しちゃう、だって可愛いから。


 まるまるとした体を揺らしながら、くまお君は頭上にゴキゲンな太陽マークを出しながら、ハニートーストを食べ続ける。

 あぁ、目から汗が止まらない。

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