12月2日 出発の準備


 昨日の出来事は、夢だったのかしら。

 そんなことを、じっくり考える時間は、さっちゃんにはありませんでした。なにせ考えようにも、今夜もまた、作業着の女の子が部屋に現れたのです。昨日と同じように床にひっくり返ったまま、さすがに今日は、気まずそうな表情をしています。


「あのう、私も、決してわざとではないんです」

 わざとではないことは、彼女の態度を見れば分かります。もう本当に気まずくて、いたたまれなくて、今すぐにでも言い訳をさせてほしい。そんな態度です。

「挨拶もなくお部屋に転がり込むのは失礼だって、さすがに私も承知しています。これには色々と、事情がありまして」

「怒ってはいないけど、どんな事情か聞かせてくれませんか」

 さっちゃんは女の子のために温かいルイボスティーを淹れてやり、柔らかい座椅子を勧めました。昨日の出来事が夢ではなかったのだと分かり、この見知らぬ不思議な女の子に、だんぜん興味がわいてきたのです。女の子がいったいどこから入ってきたのか、挨拶もなく転がり込んでくる事情は何なのか、詳しく知りたくなりました。


 さっちゃんは、まずは自分が名乗って、それから女の子の名前を聞きました。女の子は、うーんと考えたあとで、「発音が難しいと思います」と言いました。

 それはそれで、どんな名前なのか気になります。差し支えなければ教えてくれないか。と頼んでみますと、女の子は本当に複雑で難解な音を発しましたので、さっちゃんも諦めざるを得ませんでした。

「でも、そしたら、なんと呼べば良いでしょう」

「私の友人たちは私のことを、それぞれ好き勝手につけた名前で呼びますよ。あなたも私に、名前をつけたらどうですか」

 つまり、あだ名で呼ぶということです。さっちゃんは考えます。この子にふさわしいあだ名は何でしょう。

「えっと、さっしのすきまから来たから……」

「さっしのさっちゃんだと、さっちゃんがふたりいるみたいで、ややこしいですね」

「じゃあ、すきまのすーちゃん?」

「すきまのすーちゃん。分かりました」

 そんなわけで女の子の名前は、すーちゃんに決定しました。名前が分かりますと、その人との距離がぐっと縮まったような気持ちになります。



 さっちゃんとすーちゃんは、改めてお互い名乗り、挨拶をしました。そしてさっちゃんは、こほんと咳払いをひとつしまして、昨日からずっと訊きたかったことを一気に尋ねました。

 すなわち、あなたは誰なのか。すきまの世界とは何なのか。この部屋がバス停だというのはどういうことなのか……等々。

 不思議な女の子、すーちゃんは、翡翠色の目をまん丸に見開きました。たくさんの質問を一度に浴びせられたから、ではありません。

「あれっ。それではやっぱりあなた、えーと、さっちゃん。すきまの世界の人ではなくて、物質世界の人なんですか?」

「その、物質世界というのが何なのかも、訊きたくて」

 ええと、ええと。と、すーちゃんは一生懸命考えて、状況を整理しているようです。

「ええと、まず私は、すきま世界の人間でして」

「すきま世界というのは、何?」

「物質世界のすきまに存在する世界のことです。私はそこで、ミトラ採りをなりわいにしています」

「ミトラというのは、何?」

「認知多元空間に多く棲む生きもののことです」

「認知多元空間というのは……」

 万事がこのような調子なので、二人の話はなかなか噛み合いません。けれど、じっくりと話を聞きますと、おぼろげながら、さっちゃんにも事の概要が見えてきました。


 すーちゃんは、さっちゃんが生きている現実の世界、つまり物質世界とは、別の世界から来たのでした。

 普段、私たちが生活しているぶんには、決して目にすることのない世界です。その世界は、この世界のあらゆるすきまの中にあるのだそうです。そしてすーちゃんは、認知多元空間、つまり、すきまの世界を旅しているのだそうです。

「じゃあ、すーちゃんはすきまの世界を移動していたはずなのに、なぜだか私の部屋に来ちゃっていた、ということね」

 さっちゃんが指摘しますと、すーちゃんは「そうなんですよねえ」と頭を抱えます。

「どうして物質世界に落っこちちゃったんだろう。だけど地図によると、すきまのバス停は、間違いなくここだしなあ。そうそう、さっちゃんも、バスカードを持っていましたよね」

 すーちゃんが指差した先、ローテーブルの上に、それは置かれています。真っ黒な四角形のもの。ノートに挟んであって、さっちゃんが栞と間違ったもの。


 さっちゃんはそれを手に取って、すーちゃんに手渡しました。つやつやの黒が天井の照明を反射して、きらっと光ります。すーちゃんはじっくりとカードを眺めて、爪で叩いたり、指ではじいたり、光にかざしてみたりしました。そして、うんうん、と頷きました。

「やっぱりそれが、バスカード?」

「間違いありません。すきま世界を行く、多次元バスのバスカードです。さっちゃんもバスに乗って、どこかへ行くつもりだったんですか?」

「えっと……」

 さっちゃんは、答えに窮します。もちろんさっちゃんは、これがバスカードだなんて、今の今まで知らなかったのです。この部屋にバスが来るというのも初耳ですし、そのバスがどこへ行くものなのかも、一切知りません。

 けれど、バスに乗ってどこかへ行きたいかと問われますと、さっちゃんはたぶん、そうしたいのです。

「そうかも」

 とうとうさっちゃんは、頷きました。そうしますと、すーちゃんはぱっと嬉しそうな表情になりまして、「では一緒に行きませんか」と言いました。

「私の仕事は、人手があると助かります。仕事をほんの少し手伝ってもらう代わりに、私はすきま世界を案内します。仕事で採ったものも、少し差し上げます。それで、どうでしょう」

「ええ。じゃあ、ぜひ」


 そんなわけでさっちゃんは、バスに乗ってどこかへ行き、すーちゃんのお仕事を手伝うことになったのです。この部屋に停まったバスは、いったいどこへ行くバスなのでしょう。尋ねてみますと、すーちゃんは「さあ」と首をかしげました。

「このバス停には、色んなバスが来て、色んな場所に向かいます。私はその時々、来たバスに乗るつもりですからね。さっちゃんは、どこか、行きたい場所がありますか?」

「いいえ。特には」

 どこへ行くのか分からないバスに乗るのは、なんだか面白そうです。そして、どこだか分からない場所で、何だかよく分からない仕事を手伝うのは、もっと楽しそうです。



 さっちゃんはさっそく、バスに乗って出かけたかったのですが、すーちゃんは神妙な面持ちで、作業着のポケットから手帳を取り出しました。そして、あとの方のページをぺらぺらめくりますと、ちょっと肩をすくめて言いました。

「終便を逃してしまいました」

 それもそのはずです。夜はすっかりふけてしまって、ほら、もうすぐ、日付けが変わります。

「夜行バスも、たまに走っているんですけどね。今日は停まらないみたいです。出発はまた明日にして、今日は出発の準備を整えましょう」

 すーちゃんの言う通り。どこかへ行くには、相応の準備が必要です。さっちゃんは、いつも出かける時には小さなハンドバッグを持って行きます。必要なものは、たいていそれに入ってしまうのです。

 けれど、お買い物に行くくらいでしたらそれで充分ですが、今回はそうはいかないでしょう。なにせさっちゃんが向かうのは、近所のコンビニやスーパーマーケットではなく、すきまの世界なのですから。


「何を準備したらいい? お財布?」

「お金は、少しだけで充分です。それより大切なのは、手帳と鉛筆。地図とコンパス。双眼鏡と虫眼鏡。たも網と籠。ガラスの小瓶、木の小箱。針と糸、お鍋とお玉、マッチにろうそく、毛糸玉、かぎ針、手鏡、懐中電灯……」

「待って待って、ちょっと待って」

 準備すべきものが、あまりにも多すぎます。それに、さっちゃんが持っていないものもあります。全て準備するのは無理だと言いますと、すーちゃんは首を傾げました。

「でも、全部そこに、あるじゃないですか」

 すーちゃんが指差しているのは、部屋の隅に積み重ねられている、ほこりっぽい段ボールの山です。すーちゃんは立ち上がりまして、段ボールの山の一角に、手をかけました。重たい段ボールを持ち上げて、どうやらその下に埋もれている箱を取り出したいようです。

 すーちゃんはさっちゃんよりも小柄で、段ボールを半分くらい持ち上げただけで、よたよたしてしまいます。さっちゃんはすーちゃんを手伝って、段ボールをふたつみっつ、移動させました。


 段ボールの山の最下層に沈んでいたその箱は、ずいぶんひしゃげて、みすぼらしい様子です。すーちゃんはそれを開いて、箱の中に手を突っ込みました。

「はい、地図。それからコンパス」

 何も迷うことなく、探すこともなく、すーちゃんは目当てのものを取り出して、さっちゃんに差し出しました。地図は、登山に使うような大判の紙地図です。コンパスは、手のひらに乗る程度の小さな、シンプルなもの。

 地図とコンパスだけではありません。双眼鏡と虫眼鏡。たも網と籠。ガラスの小瓶、木の小箱。針と糸、お鍋とお玉、マッチにろうそく、毛糸玉、かぎ針、手鏡、懐中電灯。すーちゃんが言っていた、すきま世界の旅に必要なものが次々と、段ボールの中から出てくるのです。たも網なんか、柄の部分も含めましたら三メートルもあろう大きさで、どう考えても段ボールには入りそうもないのですが、けれど、とにかく出てきたのです。


 さっちゃんがあっけに取られていることにも気付いていない様子で、すーちゃんは手際よく、それらのものを床に並べました。そして右の手のひらで、地図をさっさっと撫でました。そうしますと、地図は小さく固く厚くなって、たちまちプラスティック板のキーホルダーになったのです。

 同じことを、すーちゃんは繰り返しました。コンパスも双眼鏡も虫眼鏡も、三メートルのたも網だって、すーちゃんの右手のひらに撫でられましたら、みんなキーホルダーになってしまうのです。これで、どこへでも持ち運んでいけるでしょう。


「それ、私にもできるのかな」

 あなたには無理ですよ、と言われるだろうと思いながら、さっちゃんはそう言ってみます。意外にもすーちゃんは、「やってみますか?」と、さっちゃんの手を取りました。

 さっちゃんの右手の上に、すーちゃんの右手が重ねられました。すーちゃんがやっていたように、さっちゃんも、懐中電灯を右手のひらで撫でてみます。懐中電灯は、ちょっと迷ったように震えましたが、やはりするすると小さくなりまして、キーホルダーになりました。


 段ボールから取り出したものを全てキーホルダーにしてしまいますと、すーちゃんは銀のキーリングにそれらをまとめて通しまして、さっちゃんに渡してくれました。

「これを持っていけば、たいてい困ることはありません」

 さっちゃんはうなずきまして、プラスティックのキーホルダーがじゃらじゃら鳴るキーリングを、ぎゅっと胸に抱きしめました。

「さて、ではまた明日の夜、うかがいます。ごきげんよう」

 すーちゃんはそう言って立ち上がりますと、さっと身をひるがえしまして、煙のように消えてしまいました。まばたきをしたら、もう影すらなかったのです。いったい、どこへ行ったのでしょう。すきまの世界に、帰って行ってしまったのでしょうか。



 部屋は嘘のように静まり返って、たった今までこの部屋に女の子がいて、さっちゃんとお話していたなんて、信じられないような静けさです。

 夢だったのかしら。昨日はそんなふうに思いましたけれど、今日はちっとも思いません。だってこの、キーリング。そして、たくさんのキーホルダーたち。これがまさにここにあるのに、さっきまでの夢のような出来事を、どうして夢と疑えましょう。


 窓のさっしのすきまから、冬の冷たい空気がしみ込んできます。さっちゃんの胸は、まだどきどき高鳴っています。

 とりあえずお風呂に入って、明日に備えて早く寝ようと、さっちゃんは思いました。バスカードとキーリングをローテーブルの上に置きまして、お風呂の準備をします。


 ちょうど、日付が変わりました。


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