冬の話

 深く、より深く。息を吐き出すと白い靄が溢れてくる。もう随分と寒くなった。羽織るだけだったコートは首元までジッパーが締められ、マフラーで顔の大半を覆っていないと安心して外にも出られない。

 見事に着膨れた櫟は、絹製の柔らかな手袋を纏った指先に煙草を咥え、紫煙と吐息の混じり合った真っ白い靄を見上げた。切れてしまったコーヒー豆を馴染みの店に買いに行っているだけだというのに、鼻先は真っ赤に染まってしまう。櫟は冬生まれだというのに、滅法寒さには弱かった。

 まだ暑さの方が何とか我慢出来るような気持ちにはなるが、寒いのはどうにも昔から苦手だ。遊びたい盛りの時分も冬は室内に閉じこもっていたし、年を重ねるごとに珍しくなる積雪にも心は踊らない。吐いた息が白くなったのを見てもどこか寒さを増やされているだけのような気がして、煙草の煙だからと言い訳をしないとまともに見ることも出来やしない。

 平日の午後三時前は、住宅地であっても市街地であってもどこかひっそりと息を潜めていて、まるで自分だけが生き残ってしまったかのような錯覚を抱いてしまう。ふわりと広がるはずの吐息さえ空高く響いてしまうようで、隠れるように公園の隅に置かれた喫煙所まで逃げてきてしまった。

 一人で黙々と、粛々と、筆を滑らせているとどうにもならないことまで考えてしまう。何も考えず一心不乱に向き合えているときも勿論あるが、ここ数日は雑念ばかりが邪魔をして、集中出来ていないと感じることの方が多い。

 深まりつつある秋の日に、深月から齎された提案は受け止めきれないものだと思った。結婚式を挙げたい、だなんて、如何にもイベントごとの好きな深月らしいと言えないではないが、あっけらかんと飲み干すには些か限度を過ぎてしまっている。

 思い出すのは、繊細に編まれた真っ白いレースを翻す、たった一人の女性のことだ。服飾の知識は持っていなくて、ドレスの名前さえ分からない。それでも、繊細で輝かしい一枚は綺麗で、その女性によく似合っていた。

 櫟は自覚してからずっと、同性愛者として生きていたが、大学生の頃に知り合った女性と結婚式を挙げていた。入籍日は彼女の誕生日で、身内とほんの少しの友人だけを呼んだ、ささやかな式だった。

 同学科で、三年生に上がってからはゼミでも一緒で、よく喋る櫟と聞き上手の彼女とは親友とも呼べる関係を築き上げていた。勤勉で、真面目で、だけれど適度に息を抜くことも出来る彼女のことを櫟は尊敬し、そうして、この人には一生を賭けても勝てないのだと、認めていた。きっと彼女の方も櫟に負けを感じていて、お互い様だと笑い合うことが出来る唯一の関係性だった。

 親愛と、友愛と、憧憬と。彼女に感じていたのはそれだけだったはずで、それ以上のものは欠片も感じていない。異性として尊重する部分はあったとして、それが恋愛に繋がるようなことは決して無かった。

 ただ櫟は、両親を安心させてあげたかった。兄弟も、従妹もいない櫟にとって、孫を見せてあげられるのは自分しかいない。自分だけが、両親に親としての幸せを見せてあげられる。考えて、迷って、悩むことに疲れてしまった櫟は、まるで助けを乞うように、気付けば彼女の手のひらを握り締めていた。

 縋るように伸ばした薄い手のひらを、どうして彼女が握り返してくれたのか。彼女が櫟に向けていた感情に、友愛以上のものが含まれていたのか。最後まで櫟には分からなかった。どうしてと訊ねる余裕も、ごめんと謝って手を放してやる強さもなく、櫟は無様なまでに彼女に救いを求めてしまった。

 あの時はただ、青かった。紫煙を燻らせて笑った櫟は、長くなった灰を揺り落とし、乾燥でひび割れた唇に咥える。煙草独特の苦さと甘さの混じり合った味が、舌を刺激してぴりぴりと痛みが走る。

 彼女と結婚をして、家族関係になって、結局別れてしまった。最後まで身体を繋げることは叶わなかったし、情愛を向けることも出来なかった。別れ際に自分が同性愛者であるのだと打ち明けて、彼女の歪んでいくだろう様を見てられなくて、世間一般で謳われている当たり前の枠組みから逃げ出した。

 若気の至りだと笑い飛ばすことも、青さと直向きさに後悔を向けることも、彼女に苦しみを強要させてしまった自分がしていいことではない。助けを願ったのも、現実に目を背けて逃げたのも櫟の方で、彼女は櫟に巻き込まれただけに過ぎない、言うならば被害者でしかないのだから。

 かさぶたになった傷は存在さえも忘れていたのに、深月の真っ直ぐな瞳のおかげで傷口が開いてしまった。無理矢理に止めておいた傷は、何年経っても真新しい傷として姿を現す。吹き出した血潮は全身に痛みを訴え、去来する感情の波に上手く歯止めがつけられない。

「櫟さん? こんなとこで何してんの?」

 吐き出した白い靄を追いかけていると、ふと背中に声を掛けられた。肌に馴染んだ声は落ち着いているくせして、純に込められた感情は火傷しそうなほどに熱いのだから気持ちが揺らいでしまう。

 深月の爆弾発言から今日で丁度ひと月が経った。張り詰めた空気の中ではあまり聞かないようにしていたのに、思い出した己の青さと肌を貫く寒さに塗れた今は心地良い。

 振り向いた先には、スーツに薄手のトレンチコートを羽織っただけの海青が櫟の方へ向かって歩いていた。普段は無地のネクタイを合わせているのに、今日は恐竜モチーフがプリントされたネクタイを締めている。櫟がネクタイを選ばなくなって一ヶ月。それは付き合い始めた年のクリスマスに、櫟が冗談交じりに贈ったデザインだった。

「見ての通り。どうにも寒いから、一服してたんだよ」

 夏生まれのくせに、海青は暑さにも寒さにも強かった。雪の降り注ぐ中、平気でコートも無しに出歩けてしまうのだから感服に値する。櫟は隙間風に心許なそうな海青の首筋に背中を震わせ、剥き出しだった鼻先をマフラーで隠してしまう。

 寒がりな櫟の見せる可愛らしい動作に、海青はひとつ笑みを漏らして傍に寄った。ぴったりと重なり合った肩に、櫟は全身を蝕んでいた余分な力があっさりと抜けていくのを自覚する。触れたのは何重にも衣類に包まれた肩であるというのに、確かな温もりが広がっていく。

「寒がりなんだから、室内で吸いなよ。心配になる」

「お生憎と、今から行くのはいつものコーヒー屋だからねぇ。ここにしか灰皿はないんだよ」

 住宅地でひっそりと経営されている馴染みの店は、家から歩いてもニ十分ほどのところにある。ひたすらに住宅の合間を縫うように突っ切っていくしかないその場所までは、喫煙所を抱えるスーパーなどは存在しないのだ。そのことは海青も知っているからか、櫟の下がった眉尻を見て溜息をひとつ溢すだけに留まる。

「それより、今日はもう終わったの? 早いね」

「営業先から直帰だったし、さっさと終わらせた」

 真面目なんだか、不真面目なんだか。平然と言ってのける海青に苦笑を滲ませて、短くなった煙草を灰皿に押しつけた。ネクタイを緩める海青が次に何をするのかなんて櫟にはお見通しで、付き合うために二本目の煙草を取り出す。案の定、海青も自分の電子煙草を取り出して、赤いランプを確かめてから白い靄を吐き出す唇で咥えた。

 一口、二口、ただ紫煙を吐き出す音だけが二人を包み込む。何をするでもない無言の時間は、だけれど穏やかで、蜂蜜が蕩けていくような温かさがあった。

「蕪木は、元気そうにしてる?」

 あの日からずっと、萌はなるべくリビングに入らないようにしていた。朝食も夕食も外で済ませてきているのか、徹底的に深月と海青を避けている。自宅が仕事場でもある櫟は挨拶程度に言葉を交わすものの、沈みきった表情を和らげてやることは出来ていない。

「元気はなさそうだけど、体調を崩してる様子はないよ」

 萌を落ち着かせようと寝室に連れて行った櫟ではあったが、二人きりで何かを話したわけではない。萌はずっと同性愛者というだけで否定をされ続けてきて、トラウマのように根付いてしまっているのだろうと想像は出来たが、同じ立場だからといって慰めてやれる言葉を櫟が持っているわけでもない。

 否定される怖さも、胸に去来する痛みも分かってはいるけれど、櫟が出来ることは何もない。姿を見掛けているからと言っても、櫟も海青と同じように萌の感情がどこに落ち着いたのかなど、何ひとつ分からないのだ。

 首を竦めてやって、それを確認した海青は静かにそうか、と相槌を打つだけだった。ゆらりと一瞬だけ揺れた視線は、そのまま行き場を失くしたかのように櫟から外される。それを合図に櫟も海青から視線を外し、だけれど見るべき場所が定まらず、ぐるぐると円を描くように彷徨った。

「……怒ってる?」

 何を、とも、何に、とも続かない曖昧な言葉は、あの日の続きになっているのだと分かってしまう。海青の視線は真っ直ぐに前を向いていて、それに倣った櫟も海青へと視線を預けることはしない。前だけに向けられた視線は平行線を描き、温もりを分け合っているというのに交わることさえも許されない。

「怒ってなんかないよ。ただ……、きつい言葉にはなってしまうけど、無駄なのになぁ、とは思ってる」

 直接的な表現を避けようとして、だけれどオブラートに包み込んだところで意味などないと言葉を取り出す。無鉄砲でもないくせに最初から肯定的だった海青には申し訳ないが、櫟から言えるのは後ろ向きなことばかりだった。

 儀式的な行為をしたところで、生まれるものは何もない。櫟には過去の経験があって、体感としてまざまざと物語っている。別れた彼女との連絡先は残されたままだが、連絡をしようと思うことも、連絡が送られてくることもない。旧姓で登録された彼女の名前は一番下にあって、この数年で目にすることもなかった。

 深月が母親との仲を保ったままでいることはみんなが知っていて、それはとても良いことだと思っている。だけれど、あのとき萌が叫んだように、深月が母親を喜ばせてあげたいというだけで、他の三人に至っては呼びたいと願う人間もいないだろう。

 櫟の両親はすでに他界してしまっていて、別れた女性に今の自分を報告するつもりはさらさらない。海青も実家とは縁を切ってしまっているのだと、淋しさも虚しさも滲ませないままに語ってみせていた。友人は多いのだろうが、取り立てて知らせたいと望むような立ち位置には誰も踏み込ませていないはずである。

 萌は言わずもがな、誰にも言わないだろう。そもそも職場や親しい友人にさえ自分の内情は話しておらず、四人での生活もルームシェアだと言っているはずだ。否定ばかりを向けてくる両親を招待することも、喧嘩別れになってしまった兄姉に報告することもしない。

 参列者が深月の母親だけとは、なんとも淋しいだけの結婚式だ。そんなもの誰も必要とはしていないし、ただお金の無駄遣いをしてしまうに過ぎない。それだったらウエディングドレスを着たいという羨望だけを叶えて、あとはひっそりと生きていた方が随分と堅実的だ。

 溜息に混じった靄は、何よりも白く輝いているように見えた。肺を空っぽにするまで紫煙を吐き出して、櫟はようやく海青へと視線を上げた。海青は今もまだ真っ直ぐに視線を向けていて、横顔からは何を考えているのかまでは窺えない。

「それは、元奥さんとのことがあるから?」

 寒さに悴んだような潜められた声は、はっきりと喋る普段の海青からはあまり想像の出来ないものだった。結婚のことも、離婚のことも、付き合う前から伝えていたことではあるけれど、海青の口から彼女の存在が出たのは初めてだ。それだけ海青の中では触れたくないものとして仕舞われていたことなのに、とうとう吐き出されてしまった。

 彼女とのことは申し訳なさと口惜しさに満ちているだけで、彼女の存在自体を忌避しているわけではない。触れてはいけない不可侵にはめ込んではいないけれど、夫婦と呼べるような生活は送っていなかったと思っている。

 結婚生活について特に話そうとしなかった理由も、話すべきことがないと思っていただけだ。親兄弟と一緒に暮らすのと同じくらい色気がなく、話題に上げても一言で言い終えてしまう。その程度の中身しかないのなら、教室に通っている子どもの話をした方が何倍も楽しい。

 櫟にとってはそれくらいで、話したくないから隠している、というほどのことでもない。だけれど、いくらか年下の恋人からすればそうも思えないのだろう。気を遣わせてしまっていると櫟は反省に頭を擡げたが、隠さずに聞いてくれたことが嬉しかった。

「まぁ、ね。彼女にはずっと、俺の都合で辛い位置にいてもらってたから。安心させたい親はもういないけど、元々祝福なんて期待してない道だよ。わざわざ疲れる方を選ぶ必要性はない」

 人間は誰しも、わざと疲れるようなことはしたくないはずだ。手を抜くのも、楽しい方に流されるのも生きていくための手段で、櫟はそれを否定するつもりはない。櫟だってわざわざ疲れる方に行きたくはないし、出来ることなら心穏やかに暮らしていたい。それは自分だけじゃなくて、海青にもなるべくそうであってほしいと願っていることだ。

 彼女と一緒に暮らした数年がどんなものだったのか、紫煙を燻らすように靄に包まれてしまって上手く思い出すことは出来ない。両親を安心させたいからと籍を入れたとき、ウエディングベールに顔を隠して歩む彼女をそっと眺めたとき、揃って朝食を食べているとき、穏やかな陽気に出掛けたとき。

 隣にいたはずの彼女は笑っていたのだろうか、それともやるせなさに眉を顰めていたのだろうか。肩が触れ合うくらいの距離で立っていたはずなのに、ふわふわとした白い靄が彼女の顔をきれいに隠してしまっている。それはまるで煙草の煙が思考の邪魔をしているようで、吐き出す紫煙が不自然に揺れた。

 彼女の数年を独占して、得たものは後悔ばかりだ。孫を望む両親からの圧力はなかったように思うが、それでも彼女が何も感じなかったなんて、そんな都合の良いことはないだろう。

 海青のことを信じていないわけでも、愛されていないと嘯くわけでもない。海青の囁く愛は火傷しそうなくらいに熱くて、怖いくらいに真っ直ぐで、年甲斐もなく愛されているのだと手放しに思えてしまう。そんな海青が可愛らしいと、愛おしいと感じる。だけれど櫟は、いつでも海青の傍から離れる決心を固めていた。

 元々両性愛者である海青は女性と恋をして、結婚して、子どもを授かって。世間の決めた幸せの中に浸かる未来はいくらでもある。海青の心に別の誰かが現れたところで、櫟はその背中を押すのは自分であるのだと、熱心な告白を受け入れたときから決めてしまっていた。

 櫟にとっての最後は、きっと海青になるのだろう。両親が亡くなって、彼女と別れて、これからは独りぼっちで生きていくのだと心に刻んでいた。そこに嵐のような激しさで海青が割り込んできて、いつの間にか櫟の心には海青の存在が大きくなっていて、これが最後なのだとその手を取ってしまった。

 そのときからずっと、いつかやってくるかもしれない別れを胸に抱えていた。彼が振り返らなくて済むように、後悔がその心を占めないように、笑って手を振ってやるのだと決めている。だから結婚式なんて、そんなものをやってやる気にはならないのだ。

「それはさぁ、疲れてんじゃなくて、怖がってるだけじゃねぇ?」

 ふ、と瞬きの間に櫟へと向けられた海青の瞳には、葛藤にも見える感情が見え隠れしていた。彼女への嫉妬か、説得出来ないことへの苛立ちか、踏み出そうとしない櫟に対しての口惜しさか。どれとも取れるし、どれでも無いし、櫟には上手く掴み切れない。

 自分でも見ようとはしていなかった恐怖を言い当てられて、櫟はただ力なく笑った。怖がっているだけ、と言われてしまうと、否定のしようもない。疲れたくないだけだ、といくら言い訳をしてみようと、試した未来に何が広がっているのかと恐怖ばかりを覚えてしまう。

 海青と離れる覚悟はきちんと持っているくせして、二人で傷付く未来には耐えられそうにない。口惜しそうに、苦しそうに下唇を噛み締める恋人なんて見たくはなくて、だったら今の状態を享受するだけでいいと納得してしまうのだ。

 漏れた息は白く染まり、ゆっくりと二人の間を溶けていく。見えなくなってようやく、櫟は次の言葉を見つけられた。

「その通り、ずっと怖がってるよ。今いる場所に満足して、それ以上を遠ざけて、でもそれが悪いことだとは思わない」

 生産性のない関係だと悔いるのは、もう何年も前に止めてしまった。自分自身を恥いることも、他人に対して申し訳ないと謝ることも、何も意味は成さないのだと知ってしまった。

 何処にも行けないことは、だけれどこの場にはいつまでもいられるということ。それは何も悪いことではないと自分に言い聞かせて、繋いだ手が振り払われることに怯えている。ぬるま湯に浸かっている今も悪くはないのだと、いつか海青も思うようになるのだろうか。

 海青にはこんな場所に行き着いてほしくはないと思いながら、自分から別れは告げられない。それは櫟自身の弱さなのだと思い込んで、いつか離れていく手のひらの大きさに焦がれている。

 両親は、櫟のタキシード姿を目の前にして安心出来たのだろうか。母親は巣立っていく息子に涙を流してくれた。父親からはお前が彼女を幸せにしてあげるんだぞ、と背中を叩かれた。彼女の両親は彼女の目映いウエディングドレス姿を抱き締めて、櫟に向かってありがとう、と感謝の言葉を溢れさせた。

 自分だけが蚊帳の外にいて、まるで出来の良い映画を観ている気分になる。色とりどりに染められた景色は眩しくて、誰にも気付かれないようそっと瞼を閉じた。

 最後まで傍観者でしかいられなかった櫟は、終ぞ両親に自分の世間とは違う当たり前を打ち明けることが出来なかった。それで良かったと思うし、本当を伝えられなかったことを後悔している。

 三十七になったというのに、櫟の周りは怖いもので囲まれている。自分から海青の手を離すことも、彼女の本心を聞くことも、顔見知りの人間に罵倒されることも、怖くて、こわくて、仕方が無い。

 だったら、そんな恐怖に蓋をして、安穏とした幸せの中に濡れていた方がいくらも自由だ。それで深月に、海青にどう言われてしまおうと、平和であるのならそれに越したことはない。

「俺は、これ以上なんて望まないよ」

 告げた声色は吐き出した靄と同じくらいに白々しく、澄み切っていた。笑って、微笑んで、今が櫟にとっての最上だと伝えてあげたいのに、見上げた先の瞳には痛みだけが広がっている。櫟はそれがどうしてなのか分からなくて、こてりと首を傾けて見せた。

 櫟に視線を合わせていた海青は、微笑もうとしている櫟の感情を見破っていた。これ以上は望まないと告げる気持ちに嘘はなく、本心から湧き出た言葉であるのだと知っている。紫煙を燻らせる櫟の姿は本当で、吐き出してくれなかった言葉があるのだと気付いていた。

 だけれど、櫟の眉尻は情けなくも垂れ下がり、迷子になった子どものように不安定さを滲ませている。口角は上がっているはずなのに、それがどうにも淋しそうで、泣くのを堪えているようだった。

 この表情を、海青は知っていた。櫟と初めて出逢ったとき、何もかもを諦めてしまった櫟はこんな風にしか笑えていなかった。大人びた口調で喋るくせに、泣くことも怒ることも出来ない櫟はずっとずっと、淋しそうだった。

 首を傾げた櫟は、そのことに気が付いていない。笑えているとさえ思っているのだろう櫟に、指摘してやることは憚られてしまう。海青はただ首を左右に振るだけで、櫟の秘めたる淋しさを拭ってやることは出来なかった。

「さて、俺はもう行くけど。海青はどうする? 一緒にいく?」

 今日の朝も大して顔を合わせなかったくせに、当たり前のように二人並んで歩くことを提案する。櫟の中では深月の話自体流すだけのものだと割り切っていて、萌のように感情を大きく動かすほどのことではない。多少は仕事中も考えてしまっていたが、それも出口を見つけさえすればどうとでもなる。

 ただ少し、昔の後悔を思い出してしまっただけ。ただ少し、恐怖が湧き上がってきてしまっただけ。それも海青に話してしまったら、過ぎたものだと昇華されてしまう。

 淋しさもなく、今度こそしっかりと笑って見せて、櫟は静かに海青の顔を覗き込んだ。身長差はそこまで大きくない二人であったが、櫟が腰を屈めてしまえば自然と上目遣いになる。櫟の珍しい行動に、海青は煙草の電源を落とし、櫟の指先からも煙草を奪い取ってしまう。

 それを肯定の返事だと受け取って、櫟は少しずれてしまったマフラーをまたしっかりと鼻先にまで押し上げる。三時を半分ほど過ぎた公園には小さな子どもを連れたお母さんたちが集まっていて、届いてくる元気な声が潜む心を刺激した。

「今度はどんな豆にしようか、海青はどんなのが飲みたい?」

「なんでも。櫟さんが淹れたらなんだって美味いし」

 肩を並べて歩くのも、こうして他愛ない話を往復させるのも、一ヶ月ぶりだった。怒りに任せた萌のおかげで、二人が寝室として使っている一階の角は、今では彼女の寝床となってしまっている。ソファで身体を縮めて寝ている海青と、一階の和室で寝起きしている櫟は会話さえままならない。

 重なっていないはずなのに、並ぶ肩からは互いの熱が伝わっているようで、櫟の口元は緩く、穏やかに持ち上がる。これ以上の幸福など、望むだけ無駄なのだと何度も言い聞かせて、櫟は向かう先で包まれるだろう香りに思いを馳せた。

 その隣で、海青が難しく眉根を寄せていたことなど、櫟は少しも気が付かなかった。



*****



「出掛けるから準備して」

 ノックも無しに和室へと乱入してきた海青が寝ぼけ眼の櫟に声を掛けたのは、布団から這い出るのも億劫になるような寒い日だった。寝間着代わりにしている裏起毛のスウェットを顎先まで伸ばし、入り口に立ったままの海青を見上げて櫟は首を傾げる。

 今日は平日のはずで、会社勤めの海青は七時を少し過ぎたこの時間には着替えも、髪の毛のセットも済ませているはずだ。それなのに彼が纏っているのはニットセーターにデニムパンツと、どこに出掛けるのだろうかと不思議に思ってしまうくらいカジュアルなもの。

 年末の休みにはまだ早いはずだ。その頃には萌の機嫌もいくらか浮上して寝室を譲ってくれないだろうか。そんなことを考えていたのに、果たして、今日はどうしたというのだろうか。

「海青、仕事は? まだ年末休暇には早いだろ?」

「有給。俺も深澤も貯まりに貯まってんだよ」

 そうか、有給というものが存在していた。勤め人をしていた頃は櫟もその消化に追われていたはずなのに、すっかりそのことを忘れていて、なんだ、とひとつ納得したところでまた首を傾げてしまう。淡々と宣った長身の彼は、深月の名前も告げなかっただろうか。

 揃って休みを取ったらしい二人に、知らず櫟は溜息を漏らした。深月の爆弾と同等の威力を持つ発言以降、同い年の二人が何かしら思考を巡らせていたことには気付いている。それはきっと、どうやって結婚式を挙げることに賛同させるか、というものだろう。櫟も萌も賛成することなどないだろうによくやるよ、と見て見ぬ振りをしていただけに、意外にも早い行動に辟易する。

 監視するようにじっと見つめる海青と、訝る瞳を隠すこともしない櫟と、交わった視線は互いに一歩も引かない。じりじりと焼け焦がすような熱さに、降参の意を示したのは櫟が先だった。

 はぁ、と今度は意識して重苦しい溜息を吐き出し、櫟はようやく暖かな布団の中から抜け出す。それを見届けて満足したのか、海青は緩く口角を上げてから扉を閉めてしまった。

 一人きりになった静かな空間に、前を通り過ぎていく車のエンジン音がやけに大きく響いた。深月と揃って有給を取ったとなると、萌を引き摺ってでもどこかに連れ出されてしまうのだろうか。

 火曜日である今日は萌も休みになっているはずだが、自分には書道教室で子どもたちに字を教えるという使命がある。夕方までに戻ってこられる保証はない。どうしたものか、と光らせたスマートフォンには、ラテアートの写真と共に日付が踊っている。

 十二月二十四日。クリスマスイブである今日は、書道教室を休みにしていた。きっと親御さんも仕事を早くに終わらせて帰宅するだろう祝いの日に、わざわざ墨を削りにやってくる必要はない。そう思って今年最後の教室は先週に締めていたのだ。そのことに気付いた櫟は、もういっそ笑ってしまうしかなくなった。

 肌を差す冷気に一度身体を震わせて、着替えるために和室を出る。裸足の指先からはフローリングの冷たさが伝わって、走り出したいような、このまま踏み止まってしまいたいような、何とも言えない心地になった。

 尖らせた人差し指でノックを三回打ち、何も反応がないことに安心して寝室の扉を開ける。案の定部屋には誰の姿もなくて、震えの走る身体を懸命に動かしてクローゼットを押した。現在の部屋の主が居たところで不満を漏らすつもりなどなかったが、それでも裸足のまま廊下で待ち続けるのはどうにも、心が折れてしまいそうだと思った。

 模様替えをしたクローゼットの半分には、夏でも変わらない真っ黒の洋服ばかりが掛けられている。墨で汚れてしまうから仕方が無いとは言え、なんとも面白みのない羅列だ。もう半分に仕舞われている海青の洋服は反対に色も柄も賑やかで、そんな彼にしてはカジュアルとは言え、随分と落ち着いた色味のものを合わせていた。

 手近にあった真っ黒いシャツとニット、それからスキニータイプのパンツを手に取る。素早く着替えて、寝間着のスウェットは丸く脇に抱えて寝室を飛び出した。

 海青と櫟が二人で使っている寝室は、二人のものとは違う石鹸の香りと、海青が付けないような甘く、軽やかな香水が僅かに染みついている。置いてあるものはどれも二人で選んで、二人が使っているもののはずなのに、気付いてしまった違和感に口元が歪む。

 酷く泣きたい気持ちになって、澄み渡った空を言い訳に窓を全開に開け放ってきた。萌を恨む気持ちなんて少しもないはずなのに、久しく嗅いでいない海青の香水を思って心の底が震えだす。

 靴下も履かないまま出てきてしまったせいで、裸足の指先は赤く色付いてしまった。年長者なのに情けない。自身を責め立てる心地に、抱えていたスウェットを洗濯機に突っ込むだけでリビングへと足を向ける。罪悪感にざわめき立つ心臓は、寒さによる凍えだと繰り返し自分に言い聞かせた。

「ほんとに、ただ、四人で遊びに行くだけなんだよね?」

 扉を開けた瞬間に飛び込んできたのは、バターの焼ける甘い香りと、警戒心に満ち溢れた萌の硬い声だった。彼女が二人の揃うリビングへと出向いているのは実にひと月振りだ。キッチンでは何かを作っている海青と、ダイニングテーブルに座る深月と萌と。一ヶ月ほど前までは当たり前であったはずの光景は、櫟の胸につきりと突き刺さった。

 懐かしさと、安堵と、期待と。誰に何と謗られようと、差し込む清く柔らかな光で充満したこの空間がいつまでも続けばいい。

「ちょっと、なんで靴下もスリッパも履いてねぇの。あー、もー、俺のでいいから履いといて」

 突っ立ったままの櫟を不審に思ったのか、近付いてきた海青は赤くなった足先に目を止めて、がしがしと前髪を掻きあげたあとに自分の履いていたスリッパを滑らせる。ぼんやりとリビングを眺めていた櫟はようやく我に返って、断ろうとスリッパを持ち上げたときにはもう海青の姿はキッチンへと消えていた。

 宙ぶらりんのスリッパと、赤く染まった指先と、何度も視線を往復させてから渋々といった調子で与えられたスリッパに足を入れる。さっきまで海青の履いていたスリッパは彼の体温を移したように温かい。ほっと息を吐き出して、櫟は四人分のコーヒーを淹れるべくキッチンへと進んだ。

「今日の朝ご飯は……、オムレツ?」

 四つ並べられた平皿には千切っただけのレタスと小盛のポテトサラダ、二本のウインナーとそれから、ふんわりと黄金色を綺麗に丸めたオムレツが乗せられていた。トースターはじりじりと音を上げていて、覗き込むと小さめのベーグルが四つ、網の上でこんがりと焼かれている。

 片手鍋をかき混ぜていた海青は小さく頷くだけで、声色は落ちてこなかった。だけれど料理に集中した海青が返事を溢さないことなどいつものことで、慣れた櫟は特に何か言うこともない。ひょい、と肩越しに海青の手元を見やると、コーンスープが温められていて、櫟は数種類ある豆の中から比較的軽めに煎られたものを選び取った。

 櫟用にと与えられた電子ケトルでお湯を沸かし、フィルターを濡らしてから挽いたコーヒー豆を三杯ほど移す。一直線に均した粉の上にお湯を垂らし、泡立つ香りに深く息を吸い込んだ。

 しつこいくらいに今日の予定を確認していた萌は、変わらない深月からの返答に折れたのか、今は素直に朝食が出てくるのを待っていた。淡いラベンダー色のクルーネックスウェットにフレアパンツを合わせている萌に対して、深月はぴったりとしたシルエットのタートルネックニットにタイトスカートを履いている。

 服装も好みも違うのに、二人が並び立つとパズルのピースのようにしっかりと嵌る。その感覚が不思議で、だけれど当たり前に思えて違和感など忘れてしまう。海青と櫟も友人だとは言い張れない程度に異なる雰囲気であったが、この二人ほどぴったりとは嵌らないだろう。

 一度だけ、二人はパズルのピースみたいだ、と零したことがある。繋がりのない言葉に初めは首を傾げるだけだった二人だが、何を言わんとしているのかを悟って、同時ににまり、と口角を上げる。夫婦は似るって言うじゃない。自信たっぷりに笑ったのはどちらだったか、確か萌だったように思う。冗談では何とでも言えるのに、目の前に広がった可能性を掴めないのは櫟と同じだ。

 黒々と輝くブラックコーヒーが並々と注がれたマグカップが二つと、それよりも少しだけ上を余らせた一つと、半分にも満たない一つ。櫟も今日はブラックの気分ではなかったけれど、萌ほど滑らかさを欲しているわけではない。とろりと牛乳を混ぜ入れて、完成した四つをダイニングテーブルへと運んだ。

 それと同じタイミングで海青がコーンスープを持ってきて、既に出されていた平皿とパン皿の斜め上に置く。湯気の立ち上ぼるテーブルを前に四人揃って座って、誰ともなく両手を合わす。

「いただきます」

 最初に言葉を落とすのはいつだって年長者である櫟の役目だった。今日も変わらず櫟が軽く頭を下げ、それに倣って三人がいただきます、と言葉を繰り返す。小学生のような幼稚さの残る行為ではあったが、誰も不満を口にすることはなかった。



*****



 海青の作った朝食を余すところなく平らげ、ゆっくりとコーヒーで唇を湿らせて、いつものように萌が食器を洗う。九時を回った辺りで家を出た四人が向かったのは電車で三駅ほど移動したところにある、こちらも閑静な住宅街だった。

 率先して前を歩いていく海青と深月に、数歩後ろを着いていく二人は顔を見合わせて首を傾げるしか出来ないでいた。共通の知り合いはいないし、深月の母親が住むのは降りた駅とは反対方向に電車を乗った先だ。心当たりの全くない場所に、二人は何故かびくつく心臓を抑え込む。

「着いた。ここよ」

 足を止めて振り返った深月の前には、ごく一般的な大きさの一軒家が建っていた。左右に並ぶ邸宅と取り立てて代わり映えのしないその家は、《佐々木》と表札が掛けられている。どこかで聞いたことのある苗字に、だけれどその音は珍しくもない。仕事関係で繋がった誰かにいただろうか、と記憶の糸を手繰り寄せる櫟は、がちゃりと玄関の開く音に思考が途切れてしまう。

 伏せていた睫毛を持ち上げて、向けた視線の先には見覚えのある老婦人がにこやかな笑みを携えて待っていた。刻まれた目尻の皺は老いて見えるものの、肌艶の良さはどこか少女然としている。少しだけ前に傾いた背中は、何故か真っ直ぐ天に向かって伸びているように思えてしまった。

 誰だろうか。思い返そうとして、まだ汗の滲む時分に出会った老夫婦を思い出した。隣で彼女を支えるようにして立つ紳士の姿は見当たらないが、そうだ。この老婦人は自分の出品した展示を観に来てくれた大家さんだ。

 驚きに見開かれた瞳を、慌てて隣で立ち尽くす萌へと向ける。唇を戦慄かせた萌は、流石は客商売と言うべきか。契約の際にたった一度だけお会いした老婦人のことをしっかりと憶えていた。

「いらっしゃい。寒かったでしょ、早く入ってくださいな」

 踊るような軽やかさで挨拶を口にした老婦人は、さっと鉄柵を開けて四人を招く。連れてきた海青と深月は当然のように朝の挨拶を返し、平然とした調子で中へと入っていく。だけれど、混乱の中に置かれた櫟と萌の足が前に進むことはない。

 そんな二人の様子に気付いていながら、老婦人は朗らかな笑みを絶やさない。にっこりと微笑んだままで、二人がやってくるのをじっと待っている。根負けしたのは二人の方で、どうすればいいのかも分からないまま、挨拶もそこそこに玄関を潜った。

 広めに作られた玄関も、そこから続いていく廊下も、外壁に伸びるひび割れからは想像も出来ないほど清潔で、綺麗に整えられていた。大切に、心を預けて住み続けてきたのだろう。

 暑さも冷め切らない夏の夕方、家へと帰る道すがら。海青は嬉しそうに綻んだ表情のまま、櫟の作品に対して赤面ばりの感想を溢してくれていた。他の何でもない、海青の全てを体現しているかの如く彩られた漢字のひとつを書き上げたあの書は、櫟が思う以上に興奮を残して気に入ってくれたらしい。すごいと、嬉しいと、声高に漏らす中、二人きりで話をした老婦人の言葉も伝えられていた。

 直接聞いた感想は、いつだって櫟の作品について回る言葉と同じだった。だけれど、あのたった一文字を前にして、彼女は幸せのお裾分けをしてもらったのだ、と話したという。それがどんな褒め言葉よりもずっと嬉しくて、海青の興奮に赤く色付いた頬と一緒に、櫟の一番深く、柔らかな場所に保管されていた。

 お礼を言うべきなのだとは分かっていたが、混乱の極まる思考では上手く形に出来そうにはなかった。また改めて気持ちが落ち着いてからお礼を告げようと、櫟は海青の脱ぎ捨てたスニーカーと合わせて靴を揃えて腰を上げた。

 奥に進んでいった海青の後ろを追い駆けて廊下を進むと、角を曲がる一端に見覚えのある書が壁に飾られていた。普通半紙と同じくらいの正方形には夏の詩が静謐に書かれていて、微かに降り込んでくる光が存分に照らし出していた。

「あの人が気に入ってね、買っちゃったの」

 いつの間にか隣に立っていた老婦人は、目尻を一層和らげて櫟を見上げた。あの人、とは、この場にはいない旦那さんのことを指しているのだろう。

 櫟の前で堂々と飾られているのは、夏の展覧会で老紳士にせがまれて説明した連作のひとつだ。春夏秋冬の詩を何人かの出品者で割り振り、どれでもいいと告げた櫟にはそのまま夏が当てられた。古文でも現代詩でも何でもいい、と随分な適当さではあったものの、悩んだ櫟は誰もが知っている有名なバラード曲の歌詞から一節を拝借した。

 どうしてこれを選んだのか、と尋ねる老紳士に、櫟は何て返したのか憶えていなかった。あまり流行りの音楽を知らない櫟でも知っていた有名さに惹かれたのか、まるで愛しい男のことを歌っているのだと錯覚したのか、櫟の中でもはっきりとしない理由は、どうやら老紳士の中では十分に納得出来る答えだったようだ。

 自分たちの方が後に帰ったはずなのに、もしかしたら後日買いに行ってくれたのだろうか。出品した作品が誰の元に旅立ったのかなど気にしたこともなかったが、この老夫婦の家にやってきて良かった、と心底思った。

「ありがとうございます。きっとこいつも、喜んでますよ」

 穏やかな心地で笑えた櫟に、老婦人はまた笑みを深めた。櫟の心をきっと、海青よりもずっと深い場所で理解してしまっているらしい彼女にそう微笑まれるとどこか、照れくさいような気持ちにもなる。柔らかい部分が擽られているような心地と、それと同じくらい温かな激情が溢れてきた。

 こっちよ、と案内してくれる老婦人に続いて、止まっていた足を踏み出す。一歩後ろに止まって二人の会話を聞いていた萌は怖がるように眉根を寄せたまま、ずっと口を噤んでいる。

 光に誘われるように奥へと進み、辿り着いたのはリビングには見えない、だけれど開けた一室だった。反対側は縁側になっているのか、襖の向こうにはポインセチアの埋まった庭が見えていた。

 広間には先に進んでいた海青と深月と、展覧会で会った老紳士が和やかに話していた。先に気付いた老紳士が二人との会話を途切れさせ、こちらに歩み寄ってくる。隣ではびくりと萌が肩を震わせたのが視界の端で見えたが、彼からは敵意どころか、まるで慈しむ孫を見守るような響きがあった。

「ようこそ、我が家へ。みんなも待っていたよ」

「……みんな?」

 書のお礼を言わなければ、と口を開いて、告げられた言葉の違和感に櫟はぽっかりと、丸く口を開けたまま動けなくなってしまった。みんな、とはどういうことだろうか。意味を問おうとして、だけれどそれは自分たちから答えを持ってやってきた。

「久し振りね、櫟くん」

「萌、あー、っと。元気にしてる、か?」

 襖の影から姿を現したのは、別れたきり会っていなかった櫟の元嫁と、萌の兄姉だった。事態が飲み込めなくて何も言えないでいる二人に、櫟の元嫁はそっと近付いてくる。背筋を伸ばした彼女をそっと眺めている海青は、感情を悟らせないようにじっと口を引き結んでいた。

「元気そうで安心した。海青くんのおかげね」

「えっ、と。ちょっと待って、ごめん、意味が分からない」

 どうして君がいるのか、と言外に問う櫟に、彼女は呆れたように緩く眉尻を下げて微笑んだ。白いニット地のワンピースを纏う彼女は櫟と同い年であるはずなのに、深月と変わらないくらい若々しく輝いて見える。まるで別れた頃からタイムスリップしてきたかのような気安さに、櫟は言葉を失くして何度も瞬きをした。

「海青くんが連絡してくれたの。櫟さんと結婚式がしたいから、雛子さんには絶対に参加してもらいたいです、って」

 彼女、雛子の視線が横に逸れて、それを追った櫟は真っ正面から海青の瞳と重なった。目の前に立つ彼女を凝視し過ぎていて気が付かなかったが、いつの間にかすぐ傍まで寄ってきていた海青は、恥ずかしがるような、怖気づくような、なんとも形容し辛い表情を浮かべていた。

 結婚式がしたい、と深月が提案したあの日から、秘かに二人は動き続けていた。爆弾を投げ込んだ深月でさえ、誰もが憧れるようなチャペルでの結婚式を望んだわけではない。ただ自分たちが認めてほしいと、今の自分たちの姿を見てほしいと思う人たちだけを呼んで、ささやかな宴会が出来ればそれでも良かった。

 そう告げた深月に、海青が一番先に巻き込もうと声を掛けたのが大家である老夫婦だった。彼らは絶対に四人を否定したりはしない、と強く言葉を溢す海青に押され、深月と二人で訪れた際も老夫婦は嬉しそうに歓迎してくれた。

 勘違いを正すことなく契約に持ち込んだことを怒りもせず、反対に苦労してきたのだろう、と温かなお茶を出してくれる。自分たちの勝手を押し付けて申し訳ない、とまで言われて、深月はその場で涙を溢してしまった。崩れ落ちる背中を撫でさする小さな手は、苦労を物語るように皺が深く刻まれている。

 祝福されることを夢見て、だけれど諦めているのは海青や深月も同じだ。マイノリティでしかないのだと卑下し、人波から外れても尚突き進んでいくしかない。決意に表情を強張らせた二人に対して、老夫婦はどこか当たり前のように、怖いものは仕方が無いのだ、と笑い飛ばしてしまった。

「佐々木さんに言われたんだよ。じゃあうちを使って、小さなパーティをすればいい、って。で、お言葉に甘えさせてもらった」

「で、それに私がお呼ばれしちゃった」

 ね、と明るく言葉を弾ませて、説明する二人は視線を合わせて小首を傾げた。そのなんともあっけらかんとした様子に毒気を抜かれたのは櫟の方で、肩を落としては大きな溜息を吐き出した。

 ちらり、と視線を逸らした櫟の先には、表情を強張らせた萌と、そんな妹にどう声を掛けるべきか迷っている兄姉がいた。彼らと一度だけ顔を合わせただけの櫟には、妹のことをどう思っているのかまでは推し量れない。昔は仲が良かったのかもしれないが、同性愛者だというだけで拒絶されてしまうこともある。

 実家に帰ったあとの萌は塞ぎ込んでいるように見えた櫟は、不安が胸の内を占めていく。だけれど今は萌を気に掛けている余裕はなくて、また静かに視線を目の前に立つ二人へと戻していった。

「雛子は、なんで……」

 どうして海青が彼女の連絡先を知っていたのか、それも気になったがそれ以上に、ここにやって来た理由が分からなかった。別れる間際に、櫟は確かに自分が同性愛者なのだと、人間としては尊敬しているが、女性として好きだったわけではないと、打ち明けていた。

 櫟の告白に対して彼女がどう反応したのか、最後まで視線を上げられなかった櫟は知らない。それでも、結婚を許した相手にそんなことを言われて憤りを感じない人間はいないだろう。彼女は櫟に怒って、断罪する権利をその手に握っている。

 海青がどう伝えたのかは知らないが、彼女が櫟に会おうと思った理由は何処にあるのか。あのときは酷いことを言ってくれた、と断罪するためにやって来たのか、それとも請求しなかった慰謝料を改めて受け取りたい、と伝えに来たのか。櫟は何を言われてもそのままを聞いて、彼女の望む通りに動くつもりだった。

 全身を強張らせている櫟に、雛子は眉尻を下げたまま真っ直ぐに見上げる。彼女の身長は女性の平均くらいしかなくて、櫟が屈まない限りは見上げることでしか視線を合わせることが出来ない。

「海青くんと好き合って、あなたは今幸せ?」

 ほろりと漏れた言葉は落ち着いた響きを漂わせていたが、櫟の心には傷を立てるように刃先を向けていた。いっそ両断してくれたら楽になれるのに、彼女の声色は優しく触れ合うかのように小さな傷を残していく。

 息を詰めた櫟に、声を掛けようとした海青を雛子は止めてしまう。人差し指を唇の前で真っ直ぐに立てた彼女に、視線を俯かせた櫟は気付かない。伸ばした海青の腕は宙を舞って、そのままぶらりと垂れ下がっていく。

「櫟くん、私ね、再婚したの。子どもも生まれた。今が幸せだって胸を張って言えるわ」

「っ! それは、……、おめでとう。君が幸せになれたのなら、良かった」

 返事を待たずして告げられた言葉に、櫟は勢いよく垂れた頭を持ち上げた。晴れやかに笑う雛子に嘘をついているような様子も、虚勢を張っているような調子も見られない。幸せだと断言してしまった彼女の姿に、櫟の瞳は水分量を増やしていく。

 自分の根源を自覚してからも、彼女と結婚してからも、櫟には両親を安心させてやることしか頭になかった。どうすれば両親は安心して余生を楽しめるのか、自分には何が出来るのか。振り返ってみると、彼女を通して両親の影を追い駆けてばかりいた。

 雛子を幸せにしようと考えたことなどなく、自分の幸せさえ二の次に思っている。櫟の中では両親の存在が大きくて疑問に感じる余地もなかったが、彼女が幸せを望まないわけなんてなかったのに。

 彼女の口から幸せだと、それが例え自分の関わるものではなかったとしても、聞けるなんて一片たりとも思っていなかった。彼女はちゃんと、望んでいたはずの幸せを享受出来ているのだ。

 ほろりと転がり出た言葉に、雛子は笑みを深めて、海青と櫟とを見比べる。そうして辿り着いた先の櫟を見上げて、綻ぶように言葉を溢していく。

「でも、櫟くんといたときが幸せじゃなかったなんて思ってない。確かに、夫婦としては未熟だったかもしれない。至らない部分は多かったかもしれない。それでもちゃんと幸せだったし、楽しかった。夫婦にも恋人にもなれなかったけど、櫟くんは私の特別よ。だから、」

 物々しく語られていく言葉に、櫟はただ黙って聞いているだけしか出来なかった。

 言葉を挟める雰囲気でも、同意を求めている態度でもない。朗らかな声はこの身を切るような寒さには似合わなくて、例えるなら春の陽気に蕾が膨らんでいくような、温かさばかりが溢れていた。

 幸せだったのだ、と確かに彼女は言った。歪な形を差し出すしか出来なかった櫟に、楽しかったのだ、と微笑みを浮かべる。彼女の数年を奪ってしまったと後悔ばかりを残していた櫟は、靄に覆われていた過去が鮮やかに蘇ってくる。

 社会人として責任を追うようになった櫟を、叱ったあとに励ましてくれたのは誰だったか。両親の誕生日に何を贈ればいいか分からないと頭を抱える櫟に、アドバイスを与えた上で買い物に付き合ってくれたのは誰だったか。

 並んで歩いた桜並木を、冷凍庫のアイスを奪い合った暑い夜を、重たい紙袋を半分ずつ持った帰り道を、真新しい雪道に揃った二つの靴跡を。

 彼女が櫟に情愛を向けていたのかどうか、それを知ることはこの先も一生訪れはしない。櫟は知りたいと思わないし、彼女も今更伝えたいとも思わないだろう。

 だけれど置き去りにした彼女との数年は、思い出すとどれもが色濃く輝いている。親愛と、友愛と、憧憬と。たったそれだけしかなかったかもしれないが、過去の二人はいつだって笑っていた。

 見ようとしていなかったのは櫟だけで、雛子はしっかりとその小さな両手に想い出を抱き締めていた。輝かしさを忘れないように、鮮やかさを色褪せさせないように、彼女は大切に、丁寧に、仕舞っていてくれたのだ。

 飲み込もうとした空気は喉の奥で引っ掛かり、腹の底へと静かに降り積っていく。申し訳なさと、やるせなさと、口惜しさと。そればかりだと思っていた後悔は、彼女の言葉で柔らかで温かなものへと移り変わっていく。

 一度区切られた言葉に、雛子は仰ぐように海青と櫟へと視線を巡らせる。涙を滲ませた櫟と、そんな彼を心配そうに、だけれど微笑ましく眺めている海青と。そんな二人の様子に、雛子は安心したように言葉を続けた。

「櫟くんは櫟くんで、ちゃんと、幸せになって。誰のためでもなく、ただ自分のために、幸せになって」

 ああ、でも。海青くんともちゃんと分け合ってね。好きなんでしょう。

 揶揄うような声色は明るく澄みきっていて、櫟を責める調子はどこにもない。櫟は断罪されるべきだと奥底では期待していた自分に気が付いて、彼女の誠実な優しさに救われた。

「ああ、うん。大丈夫、ちゃんと、幸せだよ」

 許された気になるのは早いだろうか。彼女の視線が語る優しさに浸かりそうになって、俯き加減になった視線を上げさせたのは海青だった。気まずさに冷え固まった指先を海青の大きな手のひらが包み込んで、柔らかく力を込められる。それに慌てて視線を上げれば、海青の照れたように微笑む顔が現れた。

 彼も、怖かったのだろう。海青にとって、情を通わせる相手の元嫁である雛子に会うのは相当の勇気が必要だったはずだ。櫟が同性愛者であるとは知ってはいても、かつては結婚まで許していた相手。内と外をはっきりと区別する櫟を知っているからこそ、恋人同等の特別なのではないか、と勘繰ってしまうのも無理はないだろう。

 それなのに、力強い眼差しで彼女を此処に招いてしまった。何を聞かされても、何を見せられても受け止めるつもりでいたのだろうし、雛子が憎しみを込めて櫟を見るなら守ってさえして見せただろう。愛されているのだと、櫟の胸には温かさばかりが広がっていく。

 指先から伝わってくる温かさに背中を押され、櫟は真っ直ぐに幸せだと言葉にすることが出来た。間違ってしまったと後悔ばかりを覚える過去を連れてやって来た雛子に、自分も幸せなのだと告げて、微笑むことさえ出来てしまう。

 櫟の柔らかく綻んだ表情に安心して、雛子もまたひとつ、笑みを深くした。

「だから、私は……!」

 穏やかに微笑み合う三人の元に飛び込んできたのは、引き攣れた萌の叫び声だった。痛みばかりを携えた声はひび割れて、和やかに解れた空気に緊張の糸を張る。慌てて視線を動かした櫟の瞳には、身体を強張らせた萌が俯いたまま大きく震えていた。

「萌、あのね、」

「私は何も聞きたくない!」

 何事かを告げようとする姉の声は、萌の叫びにかき消されてしまう。困ったように視線を交わす兄姉も、萌の隣で背中をさする深月も、どうにも二の句を続けられずにいるみたいだった。

 結婚式を挙げること自体は、今でも反対だと櫟の中で変わってはいない。雛子の幸せを確かめて、自分も幸せなのだと言葉にして、それで全てが解決するわけではない。だけれど、こうして自分たちに心を寄せてくれる人たちと集まって、自分は幸せなのだと告げられることはきっと良いことなのだろうと、気持ちを改めた。この場を設けてくれなかったら、雛子が幸せに暮らしていることなんて知り得なかったのだから。

 櫟には雛子の幸せというきっかけがあった。変わる起爆剤があったから海青や深月の思いに寄り添うことも出来るだろうが、現状では萌にそれはない。今も彼女は家族に反対されているのだと思って、わざわざ駆けつけてくれた兄姉の言葉にも耳を傾けない。

 一度思い込んでしまったその心を打ち砕くのは難しいだろう。櫟は妹のようにさえ思っている萌の頑なな心を解してやりたいとは思ったが、さっきまで彼女と同じ位置に心を預けていた自分には難しい。

 どうしようか、と思考を巡らせていると、ふと視界の端で誰かの動く気配がした。

「そんなさぁ、世界の全てが敵なんだって神経尖らせて、疲れちゃわない?」

 のんびりとした口調は堂々としていて、張り詰めた空気を震わせるのには十分だった。櫟の記憶の中にはない声の出処を探って、辿り着いたのは縁側と畳の境目。襖に凭れるように立っていたのは、櫟よりも幾らか年上に見える女性だった。

「お母さん!」

 深月が怒りに混じる声を吐き出し、なるほど、と櫟は納得する。肩の上で揺れる艶やかな髪の毛先も、身体のラインに沿ったシンプルな服装も、華やかな赤いリップも、深月を構成するものたちとよく似ていた。

「自分の信じてるものは、ちゃんと信じてあげなきゃ。大丈夫、ちゃんとあんたを見てくれる人はいるよ」

 ほら、と上げた顎の先では萌の兄姉がぐっと眉間に力を込めて、目の前で固まったままの妹に向き直る。それを肌で感じたらしい萌は一層肩を強張らせていたが、叫び出すような真似はしなかった。

「……悪かった。勝手なことばっか言ってたなって、今はちゃんと反省してる」

「萌が選んだ相手と一緒に、楽しく笑って過ごしてるんだったら、きっとそれ以上に私たちが願うことなんてなんにもないんだよね」

 涙混じりに語られたのは、萌の背中を押すような言葉だった。深月にさえも打ち明けていないことではあったが、櫟と嘘の恋人関係になって両親を安心させてやれ、と言い切った二人が溢すとは思えない言葉の数々に、萌はただ呆然と口を開けたまま顔を上げる。

 信じられない、とまざまざと語っている瞳に、兄姉は傷付いたような色を残し、涙の滲む声色を落としていく。

 言葉を探している兄姉も、海青や深月とそう年齢は変わらないように見える。柔軟に対応出来る思考力もあれば、今まで生きてきた中で積み上がった常識もある。妹のためとは言え、受け入れることも考えを改めることも、一朝一夕で出来ることではないだろう。

「深月ちゃんが来て、俺らに頭下げたんだよ。お前の本当の幸せを応援してやってくれって。年下の俺たちに頭下げて、今の萌がどんだけ楽しそうにしてるかを話して。そんで、なんか、はっきりしたっていうか」

「何も違いなんてないんだなぁって、気付かされたの。私が彼氏のことを好きなように、萌も深月ちゃんのことが好きなだけだって。……、今までずっと、ごめんなさい」

 苦しそうに口元を歪めたまま、ごめんなさいと繰り返す二人は揃って頭を下げた。それに反応を返したのは光を背負ったまま動こうとはしない深月の母親で、鼻に抜ける笑みを溢して口角を上げる。

 取り込む光景が信じられないのか、萌は何も言えずにただ睫毛を震わせるだけだった。下げられた旋毛をぼんやりと眺めて、ぽかりと開いた唇からは掠れた二酸化炭素しかはみ出してはこない。脱力し尽くしたようにも見えてしまう萌を支えている深月は語られた少し前の自分が恥ずかしいのか、僅かに耳を赤く染めていた。

 彼らの謝罪を、理解しようと歩み寄る言葉を、萌はどう受け取ったのだろうか。細やかに震える睫毛からも、力の入っていない指先からも、突然の言葉に戸惑っているだろう心を推し量ることは出来ない。意固地になった萌の思考を、雁字搦めになった感情を、完全に解してやることは難しいだろう。それでも、何かひとつでも届けばいい。そう願ってしまうのは、過去の鮮やかな日々を思い出せた余裕からだろうか。

「父さんも母さんも、変わらないと思う。だけど俺たちは、俺たちだけは、お前の味方でいさせてほしい」

 下げていた頭を持ち上げる二人の瞳には、揺るがない強さが湛えられている。ぎゅっと唇を引き結んだ兄はぐるりと室内を見渡して、真っ直ぐに萌を見た。嘘は言っていないのだと伝わる様子に、萌は何かを言おうとして唇を動かすけれど、喉奥から引き出されるのは声にもならない音だけだ。

 耐えるように一度瞳を隠してしまい、開いた瞼は渇いている。自分でさえ涙を滲ませているのに、決して泣き出してはいけないのだと踏み止まる萌の強さを思い知る。

「……急にそんなこと言われても、分からない。ただ、私は死ぬまで深月ちゃんと一緒にいる。それだけ」

 握り締められた手のひらは震えている。歩み寄ろうとする兄姉に抱き付いてしまいたいのか、それともこの場から逃げ出してしまいたいのか。たった一人で耐えようとする萌を、柔らかく包み込むのは隣にいる深月だ。萌の首筋に顔を埋めてしまって櫟からは何も見えなかったが、ぐず、と鼻を啜る音に、きっと彼女はみんなの分も涙を流しているのだろうと分かってしまう。それが深月の優しさであり、強さなのだと知っている。

「幸せはね、分かち合うものなの。一人分の幸せしか受け取れないのって、なんだか口惜しくならない?」

 静まりかえる空間に、深月の母親が明るい声を響かせる。どこまでも前向きに、未来へと続いていく言葉は当たり前のものとして聞こえてくるが、叶えることは簡単ではない。だけれど、彼女の声を聞いているとどこかそうなってしまうのだ、と実感が湧いてくる。

 ようやく知れた雛子の幸せも、言葉にすることで温度を増した櫟の幸せも、きっとこれから萌が受け取っていく幸せも。どこかでみんなと共有出来れば、またそれは何倍にもなって自分たちに帰ってくる。確証も何もないのに、不思議と強くそう思えてしまった。

 銀杏が暴力的なまでに鮮やかな黄金色へと染まっていくあの日、深月が爆弾を落とさなければこうして集まることはなかっただろう。解決したことはないのかもしれないが、それでもただ引き籠るだけだった四人の幸せが、ふわりと靡いて広がっていく。

 四人で暮らしていた一軒家から飛び出していって、身近な人間へと伝わって、互いの世界が色を変える。それは良いことでもあるし、もしかしたら悪いことでもあるかもしれない。穏やかなばかりではなくなってしまうかもしれないが、四人で感じていた以上の幸せが待っているのだと、櫟は初めて未来への期待を感じられた。

 深月の思いきりの良さは母親譲りなのだろう。海青の大きな手のひらを握り返して、深月の背中に両手を伸ばす萌を見つめる。少し上から突き刺さってくる視線を見上げて、交わる瞳の温かさにまた涙が滲んだ。

「さぁさ、着替えてくださいな」

 ぱちり、と澄み渡る柏手は、老婦人の皺くちゃな両手から生み出されていた。微笑む老婦人の隣にはやっぱり、支えるようにして老紳士が並び立っている。当たり前のように交わされる視線が朗らかで、愛おしくて。幸せの象徴を思わせる二人の姿に、だけれど聞かされた言葉にはて、と睫毛を震わせた。

「着替え、とは、どういうことですか?」

「ウエディングドレスとタキシード、着たかったんでしょう?」

 向けた視線の先で老婦人は微笑むだけで、答えてくれたのは深月の母親だった。親としてこの場に来ているだけだと思っていた彼女は、なんとウエディングプランナーという職に就いているらしい。

 深月に結婚式の提案をし、櫟や萌の反応を聞いた彼女はすぐに衣装を借りる手筈を整えてしまった。場所も、参列者も関係なく、自分たちのためにやればいいのよ、と笑いきって、今日のこの場に四着分の重たい布を運び込んでくれていた。

「私たちのおうちだから、豪華なデザインじゃなくなってしまったんだけどねぇ」

「今回は気軽に、気楽に、がモットーなんですよ。動き回れるくらいじゃないと」

 話を進めていくのは母親と老婦人だけで、何ひとつ聞かされていなかった櫟と萌は驚きに固まってしまう。深月は今もぐずぐずと鼻を鳴らしているだけで、海青は呑気にも雛子と楽しそうに喋り始めてしまった。どうにも纏まらない空気に、吹き出してしまったのは櫟も萌も同時だった。

 深月に抱き締められたまま肩を揺らす萌と、海青に身体をぶつけて眉尻を下げる櫟と。朝まではあの場所から動かないと決めていた二人の和らいだ空気に、深月も海青も安心したように微笑み、そうしてつられて笑い声を上げていく。

 四つの声が重なって、早くしろと背中を押されて、それぞれに用意された部屋へと消えていく。真っ白い布に覆われた自分を気恥ずかしく思うのに、なにものにも染まらないたったひとつの色を纏うだけで、どこか救われた気持ちにもなる。

 二度目のタキシード姿に、鏡に映る櫟は微笑みを浮かべていた。雛子の隣ではただ申し訳なさそうに写っていた過去の自分に、ネクタイを締める海青を見上げて溢れ出す感情を噛み締める。

 今朝までは雛子との結婚式に後悔さえ覚え、もう絶対にあんなことはしないと思っていたのに。慣れた手付きでネクタイのノットを整える海青を見てしまえば、この光景が見れて良かったと不覚にも思ってしまう。

 閉じた襖からは淡く色付いた光が差し込んでくる。鏡に映る海青の隣に並ぶと、彼もまた穏やかに口角を上げた。形の違う二つのタキシードは、だけれどパズルのピースのようにしっかりと嵌る。

「櫟さんは、ちゃんと幸せ?」

 分かっているだろうに、繰り返される言葉に櫟は浮かぶ笑みを深くする。自分はちゃんと、彼の隣で幸せなのだと、離す覚悟は必要なかったのだと、心に刻み込んだ。

「幸せだよ。ちゃんと、幸せだ」

 見上げて、ゆっくりと落ちてくる瞳に瞼を閉じる。今日も、明日も、明後日も。飽きもせず、後悔も浮かべず、自分は海青の傍にいるのだろう。未来を見据えて怖くなるときもあれば、周りの言葉に傷付いて何もかも信じられなくなるかもしれない。

 それでも、隣にいるあたたかさは変わらない。そんなことを考えていると、襖の向こう側から二人の名前が呼ばれる。無邪気な声音は深月のものだったが、その隣にはいまだ素直に喜べていない萌がいるのだろう。

 重なり合った唇はすぐに離れて、十センチにもならない距離で愛しい男の瞳を覗き込む。幸せだと細められた瞳の奥に映るのは、海青とそっくり同じ表情をした櫟だった。

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