のびたあさがお

由佐さつき

*****



「暑い」

 細く長く浮かんでは消える真っ白い煙は、まるで温度の欠片もない。風の吹くままに流れを変えていく姿はいっそ健気にさえ映り、鬱蒼と生い茂る儚さを併せ持っていた。自分も真似て何処かに飛んでいってしまいたいと思ってしまえど、白々しく漂い続ける煙に触れてしまえばきっと熱さに弾けてしまう。

 七月に入った日本列島はどこに逃げても暑さは増す一方で、後悔ばかりが湧き上がってくる。いくら煙草を吸いたくなったからと言って、雲一つないような青空の広がる晴れた昼間に、わざわざ公園になんか来なくても良かっただろう。どうして陽が沈んでしまうまで待てはしなかったのか。

「暑い」

 半分ほどに燃え消えた煙草は指先へと微かな熱を伝えてくる。頬や首筋に汗が垂れ、黒ともグレーとも取れるTシャツに染みを作っていった。普段は肌触りの良い薄い布地が、二の腕や背中で引っ掛かる。

 夏休みにはまだ早い今日は木曜日で、きっとあと二時間もすればランドセルを背負った小学生や、ベビーカーを引き連れた奥様たちで賑わいを見せるのだろう。だけれど今は昼の二時を少し過ぎた程度で、遊具の溢れるこの公園は閑散としていた。怠惰に伸びた髪の毛に隠された鼓膜が拾うのは、じっとりと纏わりつくような風に焦がれた葉っぱの擦れた音だけ。廃れたおっさんが一人煙草を吸うにも文句を言われることはなく、心置きなく堪能出来る最高の環境だった。

 クリーム色だったらしいベンチは雨に晒されて淡い緑に光っている。そこに深く腰を掛けて、ぷかり。ドーナツ型の煙を作ると、何をしているのだ、と勝手に掠れた笑いが込み上げてきた。わざわざ慣れない太陽と向かい合うようにして座っている意味が、きっと昨日までの自分には到底理解が出来ないだろう。

「ぁーあ、あっちぃ」

「言葉にしたらもっと暑くなっちゃうよ」

 また一つ、Tシャツの襟元を染めてしまおうと汗が伝っていく。三度目の正直としてぼんやりと嫌味を零せば、青く澄み切った声が返ってきた。

 人は本当に驚くと、叫んだり飛び退いたりすることも出来ず、全ての反応が遅れてしまう。接触事故のニュースが毎日のように報道されているのはそういうことなのだろうと、体験として知ってしまった。いつの間にか伸びきった灰が足元に落ちていく気配を感じつつ声のした方、つまりは自分の左隣に顔を向けてみると、座っていても頭一つ分は小さな位置に真ん丸い目玉があった。

「……小学生?」

「これでも中学生、一応だけど」

 少なく見積もってもワンサイズは大きいTシャツとハーフパンツに身を包んだ自称中学生は、瞬きをするたびにぱちぱちと音が聞こえてきそうなほどに長い睫毛を携えていた。風に掬われる髪の毛は光に透けて柔らかく、だけれど腰辺りまで伸ばされたそれは首元に張り付いてしまいそうで、この陽射しの中暑苦しくはないのだろうかと心配になる。

 幼さ特有の、少女とも少年とも見える子どもだった。

「学校は。木曜だろ、今日」

 昇っていく煙を追いかけながら思っていたのは、昼過ぎのこの時間帯は暑いけれども甲高い声が響かないおかげで過ごしやすい、ということ。振替休日にはならないだろう木曜日に、中学生がどうしてこんなところにいる。真っ直ぐに瞳を向けてくる姿は体調が悪そうには見えず、通学用の鞄を手にした様子もない。

「お仕事は?平日でしょ、今日」

「……聞かなかったことにしてくれ」

 大人であるからと気を利かせて尋ねてみたものの、そのまま返されてしまっては窘めることさえ出来なくなってしまった。自分がされて嫌なことは他人にするな、か。今もまだじっくりと見上げてくる子どもの視線から逃げるようにぬるい息を吐いて片手を振れば、つまらなさそうに唇を尖らせてしまった。

 掴んでいた煙草を最後に一口味わって、残りはポケットに突っ込んでいた携帯用灰皿に押し潰す。最後の抵抗とばかりに大きく燃えて、それもすぐに煙となって消えていく。あと三口は吸えそうな長さは残っていたけれど、中学生にも見えない子どもが傍にいて吸い続けていられるほど粗野に出来てはいなかった。

「よかったのに、タバコ、」

 もったいない。何故か残念がるような響きを含ませた小さな声に、多分少女なのだろうと自分なりの正解を導き出してみた。剥き出しの手足は僅かな衝撃でも折れてしまいそうなほどにか細いくせして、ふっくらと丸みの帯びた頬は随分と柔らかそうだ。指先が沈んでいくかのような錯覚に一つ頭を振って、突っ立ったまま動こうとしない子どもに隣を譲ってやる。

「それ、おいしい?」

 尖らせていた唇を緩ませ、綺麗に上げられた口角に子どもの顔が幾分か整っていることを知る。平日の真っ昼間から公園にいる煤けた大人を、怖いとは思わないのだろうか。素知らぬ顔で近寄ってきて、にこにこと屈託のない笑顔を張り付けて足を投げ打つ姿に違和感を覚えてしまった。

 子どもとの間には一本分の重さが加わった携帯用の灰皿と、適当な扱いに萎れかけた煙草の箱が転がっている。角が潰れてささくれ立ち、ぴったりと貼られたビニールも中途半端にしか剥がされていない。それ、と指されたのは、宵闇に暮れていく空を思わせるような、深い紺色の銘柄だった。

 子どもが興味を持つようなものでもないだろうに、見上げてくる瞳には期待する色が浮かんでいた。自分が幼かったときは紫煙に憧れを抱くようなこともありはしたが、今は世間が喫煙者の敵となった。羨望を持ち上げる先からは排除されたというのに、この子どもは何を期待してしまっているのか。

「美味くは……、ねぇな」

「えー、じゃあなんで吸ってるの?」

 さして驚いてもいない様子で聞かれ、答えようとした言葉は喉の奥で引っ掛かる。どうして、と問われてしまっても、どうしても、と乱雑な答えしか持ち合わせてはいなかった。吸い始めた理由も、吸い続けている理由も、明確なものなどただの一つとして有りはしない。

「続いてるから、とか?」

「てきとーだね」

「そんなんでいいんだよ」

 幼さを滲ませる子どもは鼻先をひくりと鳴らし、伸ばした指先で箱の淵をゆっくりと撫でていく。陽に焼けていない肌は強すぎる光のせいで、溶けるように空気との境目を無くしていた。

「おとうさんも、これとおんなじだよ」

 子どもの口から零れ落ちるには、大人びて映るような響きを持っていた。おとうさん、と呼び掛ける声は舌っ足らずで、聞きようによっては園児のような幼ささえ含ませている。だと言うのに、甘えるような可愛らしさは須らく排除されていた。

 小学生にしか見えない姿をしているくせに、似合わない煙草の淵を撫ぜる指先は成熟してしまった人間そのものであった。鼻の奥底にこびり付いていた草の焼かれていく香りが滲んで、投げ出していた手の平が微かに震える。

 俯いて表情が見えなくなったせいで、揺れ動く指先と鼓膜を打つ声色に引っ張られてしまう。お父さんも吸っているという銘柄を見て、この子どもは知っているものだと嬉しくなったのだろうか。それとも、禁煙者に成り得ない男を愚かだと馬鹿にしているのだろうか。

「煙草は、嫌いか?」

「んーん、好きだよ」

 上げられた顔には、晴れやかなまでの笑みが浮かべられていた。大人びた調子を滲ませていたさっきまでとは違い、年相応よりもずっと幼い笑い方だった。

 煙草が好きだとは、珍しい子どももいたものだ。それならば気を遣って消さなくても良かったではないか、とたった三口を惜しんでしまう。金銭的に余裕の無かった時代からの癖で、もったいない精神が存分に発揮され、大人気なく後悔してしまうのは随分と矮小だ。一口で吸い捨てるくらいに大らかな男で在りたいと思えども、きっと自分には到底辿り付けない境地なのであろう。

 向けられた笑みに返す表情など持ち合わせてはおらず、ただじっとりと見返してしまった。それにも子どもは気味が悪いと思わないのか、にこやかに笑い続けていた。

 照りつける太陽の下で、一箱分の距離を空けて隣り合っているのは不健全に思えてしまう。仕事に向かうべき大人と、学校に行くべき子どもの姿はさして広くもない公園の中では歪に浮かび上がっていた。

「吸わないでいいの?」

 紺色の淵に短い指を這わせたまま、子どもは数ミリだけ箱を押し寄せてきた。僅かに傾いた箱はこちら側に空け口を覗かせていて、まるで吸ってくれと言わんばかりの格好をしている。

「もういいよ。さっき吸った」

 気まぐれに、一本吸えればそれで良かった。肺を満たしていく煙の重さも、舌先に広がる草の苦さも、大して必要だとは思わない。たった三口を残して消し去ってしまったあの一本で、充分に満足してしまっていた。

 家の中では絶対に吸わないと決めてしまったおかげでこんな場所まで来てしまったが、それでも良い気分転換にはなったと思う。子どもの柔らかな髪の毛を掬っていくだけの風に、燻っていた香りは散り散りに飛んでいく。

「ふーん。おとうさんとちがうんだね」

「ヘビースモーカーか」

「へび……?なぁに、それ」

「ヘビースモーカー。いっぱい吸うってことだよ」

 横文字が上手く言えないのか、つっかえる言葉を丁寧に教えていく。十回目でようやくコツが掴めてきたのか、噛まなくなった舌を馴染ませるように何度も何度も繰り返す。思うように喋れることが嬉しいのか、子どもは興奮したように頬を赤く染め上げていた。

 こんな得体も知れない男から言葉を教わって、同じ銘柄を吸っているらしいお父さんに怒られはしないだろうか。自分が親の立場であれば叱りつけてしまうだろうと思うのに、子どもは何も心配していないのか、嬉しさと楽しさを混ぜ込んでにこにこと笑っていた。

「あ、帰らないと」

 へびーすもーかー、と平仮名を奏でるように転がしていた子どもは、瞬きの内にえらく賢そうな表情に塗り替えてしまう。あれだけ紅潮していた頬は、陽を浴びて白く輝くだけになっていく。三時ぴったりを差している時計台を見て、揺らめかせていた足をしっかりと地面に降り立たせた。

 戻るとは言わなかった声に、学校には行っていないのだろうと窺えてしまった。義務教育である中学校に通えないほど貧乏であるようには見えないし、何か事情でも抱えているのだろう。

 大人として、と考えたところで、それは真似事にしかならないと悟ってしまう。納税という成人した者の義務を果たしているからと言って、同時に大人としての枠に収められることはない。自分にはそんな仮面を被ることなど出来はしない。不可能であるのだ。

「じゃあね、ばいばい」

「気ぃ付けて帰れよ」

 身の丈にあっていない袖口を翻して、子どもは手を振ることもなく立ち去っていった。突然現れて、突然いなくなる。隣り合っていた時間はほんの僅かであったのに、随分と印象に残る子どもだった。

 後ろ姿が見えなくなるまでひっそりと見送って、じきに五月蝿くなるだろうこの場所から退散することにする。滲んだ汗は背中を濡らし、Tシャツはまるでファッションだと言わんばかりに斑模様を作っている。

 顎を伝っていく汗を拭って、帰ったら直ぐに風呂に入ろうと決めた。



*****



「暑い」

 漏れ出た言葉は先週と同じで、学習をしない自分に嫌気が差す。梅雨のすっかり明けた今日も太陽は張り切って仕事に勤しんでいて、陽炎の立つ公園は所構わず熱されてしまっていた。色褪せたベンチの周りには青々とした木々を生い茂らせているくせして、陽射しを遮ってくれるような木陰は出来ちゃいなかった。

 真正面から降り注いでくる太陽の光が眩しくて、目を閉じたままに煙草に火を点けた。じりじりと燃え立つような音がして、それからすぐに広がっていく苦い香りに意識を深く沈ませた。コンクリートが焼かれていく夏ばかりの香りに、燃え切れていく草の渇きが絶妙な具合で混ざり合う。凍えきってしまうような雪の降り積もる日にこそ煙草は似合うと思っていたが、存外こうして汗の滲ませる真夏に燻らせるのも粋ではないか。

 陽射しのせいで目を閉じていても、瞼の裏は光が散っていくように明るい。橙色に燃え広がる視界に、細く高く昇っていく真っ白い煙を思い浮かべた。宙ぶらりんにいつか消え去ってしまうこの儚い道が、太陽さえも燃やし尽くしてしまえばいい。

「暑い」

「また言ってる。もっと暑くなっちゃうよ」

 明滅する光に染まっていく視界の端で、聞き覚えのある声が届いてくる。先週聞いたよりも何処か落ち着きのない、上擦った心地に響く声色に閉じていた瞼を押し上げて、襲ってくる眩しさに二度、三度と瞬いた。やっと焦点が結ぶようになった先には、可愛らしいピンク色のフリルがあしらわれたタンクトップを着た子どもがいた。

 記憶にある子どもはビックサイズ以上に大きなTシャツを着せられていたが、今日の姿は少女らしく可愛らしいものだった。描かれているキャラクターが何と名付けられているものなのかは知らないが、小さな子に人気なのだと何時かのニュースで見かけたことがある。合わせたデニムのミニスカートと透明のサンダルは夏らしく、見ているだけで気持ちを涼やかにさせた。

「なんだ、似合うじゃないか」

「おとうさんが買ってくれたの」

 照れくさそうにスカートの裾を摘まんで見せた子どもは、空いた左隣に腰を落ち着かせた。真ん中には半分以下にまで減った煙草と、携帯用の灰皿が一つ。木曜日だと言うのに子どもはまた、何も持ってはいなかった。

 会いたいと思っていたわけでもなかったが、何となく今日も会ってしまう気がした。中学生らしく学校に行けと説教を繰り出すつもりはなかったし、小さな子どもを愛でる趣味もない。それなのに近所のコンビニへ向かう足はいつしか公園へと向きを変えていて、こうして一週間ぶりに肩を並べている。

 吐き出すだけの煙から、ぷかりとドーナツ型の煙へと形を変える。最初は小さく綺麗に丸められた形も、上へと伸びていく途中に大きく柔くなっていく。覆い隠すように伸びた木の枝に辿り着く頃にはぼんやりとした、輪っかだったのだろうと窺える程度の形に崩れていった。

「すごい!ドーナツだったよ!」

 余程珍しかったのか、子どもは手を叩いて喜んだ。もう一回、と強請られるままに口をぽっかりと開き、間抜けそのものの姿で浮かんでは消えていく円形の煙を眺めていた。

 夏らしい容赦のない陽射しの中で、煙だけが自由に泳いでいる。焦げ付く痛みと、陽炎が立ち込めるせいで見通しの悪い公園で、自分たちは揃って不自由なのだと、どこか核心めいた感情があった。

「……毎日、来てるのか?」

「公園?んーん、木曜日だけ」

「……そうか」

 心の内に飛来した予感はど真ん中を射抜いていた。今日だけだと告げる子どもの横顔は急に翳りを見せ、ぷらぷらと足を揺らすたびにサンダルが音をたてる。ぺたぱたと、きゅるきゅると、鳴り響くのはビニールの素材が擦れ合っているからだろう。

 不安げな様子を隠すことも出来ず、子どもは不器用に笑った。強い陽射しを浴びる頬は零れ落ちるのではないかと思ってしまうくらいに柔らかそうで、大人びて笑おうとする子どもをいっそう歪めていく。

「今日だけが嫌なのか、それとも、」

「木曜日は、いつもおとうさんをつれてっちゃうから……、きらい」

 やはり、と思った。学校に行ってないらしい子どもは、舌足らずに呼ぶお父さんを随分と深く、大切に想っている。同じだと言う銘柄の箱を撫でる指先も、プレゼントしてくれた洋服を自慢してくる口調も、木曜日が嫌いだと悲しそうに顰められる眉根も、ただお父さんが好きだと語る幼子のものとは思えなかった。

 親子がどんな関係性であるのか、両親を早くに亡くしてしまった自分には到底理解が出来なかった。高校卒業まで育ててくれた親戚には感謝しているが、それが親子と呼ばれるに等しい関係性ではなかったと思っている。だから、子どもの語るお父さんがどんな姿かたちをしているのかが想像出来なかったし、子どもを可哀想だと憐れに思うこともしなかった。

「そうか。今はおっさんで我慢してくれ」

「えー、どうしようかなぁ」

 脱げかけのサンダルを揺り動かして放り出してしまい、子どもは屈託のない笑顔を見せた。淋しさを滲ませていた声色から一斉に悪巧みをするような響きに変わり、額から顎へと伝い落ちていく汗がきらきらと陽に透けて輝いていた。

 肩に張り付いた髪の毛を払う子どもは、どうやら機嫌を良くしたらしい。くふくふと笑うたびに喉が上下して、薄い鎖骨には汗溜まりが出来ていた。

「お父さんのことは好きか?」

 子どもの語るお父さんがどんなものなのか、知りたくなった。朧げな記憶の中に鎮座する父親は分厚い眼鏡を掛けていて、笑っているところなんて見たことがなかった。抱き締めてくれた記憶もなく、少し離れたところで母親に抱かれた自分を横目に眺めているような、そんな不愛想な大人だった。

 ぱちりと、瞬きの先で靡く光を反射して、子どもは何処か不思議な何かを見つめるような心地で見上げてくる。心底理解が出来ないのだと言外に訴えてくる瞳は雄弁で、薄く唇を開けた表情は間抜けだった。

「おじさんは、好きじゃないの?」

「好きじゃないわけじゃ、ない、と思う」

 煮え切らない言葉に、子どもは難しかったのか首を傾げるだけの反応を見せた。それから腕を組んで何やらうんうんと考えて、言いたいことが纏まったのかぱちりと手の平を合わせて見せる。

「わたしはおとうさんが好き、大好き」

 時間を掛けて考えていた割りに、酷く真っ直ぐな答えだった。蕩けるように崩れた表情は言葉以上に子どもの気持ちを語っていて、疑うことなく本心から出たものなのだと呆れてしまう。

 父親に好かれていなかったことも、父親を好きだと思えなかったことも、悲しいと感じたことはない。知らない感覚を想像することさえ出来ずにここまで育ってしまったが、子どもの吐き出す感情には素直な感嘆が漏れていた。

「そうか。大好きか、いいな」

「へへっ、世界でいちばん大好きなんだよ」

 子どもらしく笑うと、柔らかそうな頬がぷっくりと膨らんだ。穏やかに形作られた山を撫でるように風が巻き上がって、掬い取られた髪の毛がひらひらと宙を踊る。輪を描いて巻き上がっても、細い毛先が絡まりつく様子はない。それでも顔にかかってくるのは鬱陶しいのか、短い指で器用に押さえ込んでいた。

 肩に掛かって跳ねた毛先が風に揺られ、輪郭をなぞっていく感触がくすぐったい。耳に掛けたところで風に攫われてしまえばすぐにまた擽り攻撃を食らうだろう。子どもを真似るように首元で押さえつけてみるが、不揃いの長さでは別の場所が掬われて舞い上がるだけだった。

「かみの毛、暑くないの?」

「君に言われたくはないな」

 確かに、伸ばしっぱなしにしていた髪の毛は肩に触れるまで長くなっていた。邪魔になるたびに自分で切っている前髪はざんばらで、硬い髪質のせいか全体的にもっさりと重たく見えるだろう。汗で首筋に張り付いてくる毛先は暑苦しくて敵わないが、床屋に行く気力が湧いてくるほどではない。

 剥き出しになった肩にも引っ付いてしまうのか、子どもはまた鬱陶しそうに毛先を払う。自分の方が長い髪の毛を持て余しているくせに、こちらの心配をしてくるとは、今時の子どもは随分とませている。得意げな表情を作って見上げてくる子どもの視線から逃げるように、燃え尽きて煙さえも吐き出せない煙草を携帯用灰皿の中に捨ててしまう。

「今度はゴム、持ってきてあげるね」

 凪いだ風に、子どもは乱れた前髪を丁寧に直していく。眉上で切り揃えられた毛先を左右に動かしてみたところで、流行りを知らないおっさんにはどこが変わっているのかよく見ても分からない。

「持ってくるなら自分の分も用意しろよ」

 二回目の偶然でしかないはずなのに、子どもは何を疑うでもなく次の約束を口にした。今度とは来週の木曜日に該当するのか、それともずっと後の木曜日になるのか。飛び出してきた今度、という言葉に面喰らって、動揺を隠すように軽い口調で返事をした。

 ふと、見つめた先にある時計は三時の少し前を差していた。視線に釣られたのか、子どもは脱ぎ捨てていた涼やかなサンダルに小さな足を刺し入れる。ぴょこり、と跳ねるように立ち上がって、デニムスカートについた埃を払った。

 木曜日のこの時間帯だけが、この子どもにとって良し悪しの分からない不自由な時間なのだ。お父さんが連れ去られて、たった一人。公園で何気なく過ごすことしか出来ない、自分が犯した雁字搦めの時間だった。

「名前は、聞いても大丈夫か?」

 呼び掛けようとして、名前を知らないことに気が付いた。この歳になっても大人に成りきれていないような自分が、小学生にしか見えないような子どもに名前を尋ねたりして、果たしてそれは大丈夫なのだろうか。不審者として通報されないだろうかと不安になって、言葉尻は弱々しくも消えていく。

 折れていたタンクトップのフリルを直して振り返った子どもは、聞かれた言葉の意味を噛み締めるように唇を動かす。余程驚いたのか元々大きいと思っていた瞳ははち切れんばかりに開き、酷く嬉しそうな調子でゆっくりと微笑んだ。

「ひめ、ひめだよ、おじさん」

「……可愛らしい名前だ」

 ひめ、と舌先で転がして、温かな心地に浸っていく。男女差の窺えない幼さを感じていたが、名前を知ってしまうと全くの少女にしか見えなくなった。大好きだと疑いもなく言えてしまう小さな子どもに与える名前として、随分と執念深い愛情が籠っていた。

「おじさんは?」

「ん?あー……、いや、おっさんはおっさんだ」

 どうしようかと迷って、結局は何も告げられなかった。訴えられたときに困るとか、そういう不純な考えが浮かばなかったわけではないが、どうしようもなく分からなくなってしまったのだ。片方の眉尻を何となく下げてお道化て見せると、子どもは特に気にならなかったのか、ふーん、と鼻音だけで返事をした。

 今日は小さく手を振ってくる子どもに自分も振り返して、浅く腰掛けていたベンチに体を沈めた。胸に広がっていく甘酸っぱさに、無性に煙草が吸いたくなった。軽くなった箱から一本取り出して咥えると途端に染みてくる苦さに、胸やけを起こしかけていた心が落ち着いた気がした。



*****



「はい、おじさんはこれね」

 今日は曇っているおかげか、暑いと嘆くほどの気温にはならず、盛り上がっていくだけの七月の終わりとしては過ごしやすい陽射しだった。予期していた二回目の遭遇を果たしてしまい、髪ゴムを持ってくるから、と半ば一方的に約束されてしまってから丁度一週間が経っていた。

 本当に来るのだろうか、と疑わしさを胸に煙草を一口吸って、何の工夫もなく一息に真っ白さを吐き出した。夏らしい青さに満ちた生命力の中に、乾燥して錆びついた香りが隙間なく混じる。陽射しが届かないために晴れ渡った視界が、不明瞭に遮られていく。

 夏休みに突入してしまったせいで人は増えるだろうと思っていたのに、今はおやつ時なのか、公園には自分以外誰もいなかった。砂場には放置されたサッカーボールが転がっていて、持ち主の帰りをただ静かに待っている。

 伸びた枝葉に落ちる色は鮮やかなまでに濃くて、雲に覆われた空の下で見ても惹き込まれてしまう。風に揺れるたびに葉っぱの先からは青臭い香りが漂ってくるようで、名も知らない草木を鑑賞する楽しさに耽っていた。

 すぐ隣から掛けられた声に驚くこともなく、上げていた視線をゆっくりと下ろしていく。今日の子どもは初めて会ったときと同じ大きなTシャツに、ステテコのような綿のパンツを履いていた。パステルカラーで纏められたステテコはきっと可愛らしくお洒落な部類に入るものであろうに、合わせ方がぞんざいなせいでパジャマのようにしか見えなかった。

 差し出されていた黒い髪ゴムを受け取って、先週のことを憶えていたのかと目を見張った。軽い調子で往復された言葉を流してしまうことも出来ただろうに、こうして律儀に準備されたことにむず痒くなる。

 曇っているおかげでそこまで暑さは感じていないが、折角だからと首筋に添って流れる毛先を纏めていく。耳に掛かった部分も手櫛で均してしまえば、後は渡された髪ゴムで結ぶだけだ。くるりと丸まったゴムを伸ばすために歯を立てて、微かに漂った苦い香りには気付かなかった振りをする。

「じょうずだね」

「……やってやろうか?」

「ほんとう!?やって!」

 嬉しそうに勢いよく差し出されたのはオレンジ色の髪ゴムだった。鮮やかな色は夏にぴったりと似合っていて、子どもの透けるように細い髪の毛を美しく飾ってくれるだろう。警戒心を滲ませることもせずに背中を向けられて、ゆらゆらと揺れ動くやわっこい髪の毛に指先を通していく。初めて見たときから思っていた通りに触り心地は良くて、梳いていく指の腹に絡みついてはひっそりと離れていった。

「びよーしさんなの?」

「不精髭生やした美容師なんて即解雇だろ」

 髪の毛に触れられるのが面白いのか、子どもはけらけらと笑い声を上げて随分と楽しそうだ。踵を潰して引っ掛けられたスニーカーが、子どもの動きに合わせてぺたりと音を響かせる。見当違いな予想立ても子供らしくて、純粋な心を騙しているようで申し訳ない気持ちが湧き上がってきた。

「小説家だよ。ただ、手先はそこまで不器用じゃない」

「おはなしを書く人?」

「そう。子どもが読むようなものじゃないけどな」

 丸く形どられた瞳を輝かせて、振り返ってきた頭を片手で戻す。機嫌を損ねることもなく真っ直ぐに後頭部を向けた子どもは、それでも声色だけは喜色に弾ませていた。物書きが珍しいのか、体を左右に揺られては結べるものも結べない。

 児童書の執筆依頼は何度か貰ったことがある。仕事を選べるような立場でもなかった、ずっと若い頃の話だ。考えてみてくれませんか、と折れることを知らない担当編集者から声を掛けられて、折角のチャンスだと思えどもやる気にはならなかった。未来への希望に満ち溢れたストーリーなんて、そんなもの自分に描けるとは到底思えなかったのだ。

「すごいね、おじさん」

 どんな顔をして言われたのか、背を向けられている状況では分からないはずなのに、子どもの声色が明るく優しいことではっきりと予想出来てしまう。二回り以上は違うだろう子どもにさせてしまう表情ではないはずなのに、そのたった一言は真っ直ぐに染みこんできた。

 賞を貰ったとき、重版が決まったとき、映像化を打診されたとき。幾度となく掛けられてきた簡潔な言葉であったはずが、何も知らない子どもから投げられた方が心の奥底へと響いてしまった。

 文章を生業としている身であるはずなのに、返す言葉が見つからない。返事の出来ないまま、惑う心情を隠して掬い取った細い束を持ち上げた。

 手足と同じように細い首筋が露わになって、曇った淡い光に曝される。触れなくても分かるほど浮き出た骨に、血液の流れさえ見えてしまう肌の白さに、目の前が僅かに霞んだ気がした。乾いた煙草の香りに、瑞々しいほどに爽やかな石鹸の香りが混じっていく。

 耳の位置と同じくらいの高さで一つに纏めて、所謂ポニーテールの形に仕上げてみる。肩よりもずっと下で右に左に揺れる毛先は軽く、なるほど、馬の尻尾と呼ぶ名に相応しい。

 出来たぞ、と掛けた声に子どもは頭を振って喜んだ。さらさらと音を鳴らすように揺れるたびに子どもは笑って、ありがとうと口にする声は素直な感情に溢れていた。

「そのゴム、おじさんにあげるね」

「……いや、それはお父さんにも悪いだろう」

「いーの。わたしがあげたいんだから」

 顔だけを振り向かせて笑う子どもに、俺は何も続けられなかった。サイズの合っていないTシャツは肩から滑り落ちていくようで、真っ新な白い肌を広く見せつける。

 柔らかな髪の毛を持ち上げたときから、それに気が付いてはいた。円を描くように赤く色付いた項に、広く開いた襟ぐりからひっそりと覗く鎖骨にも一つ。ぽつりぽつりと陽に焼けていない不健康そうな肌を染め上げる痕に、最初は虫刺されか何かだと思った。

 だけれど、曝された耳朶が噛まれたように赤く腫れていて、微かに覗き見える薄い肩には引っ掻いたような二本の線が残っている。昨日今日出来たような痛々しい痕に、原因は別のところにあるのだと経験が物語っていた。お父さんが大好きなのだと口にした子どもを思い出して、こんな現実があってしまうのか、と眉根を顰めてしまう。

 想像したことはきっと、間違ってはいない。それでも幼さばかりを宿した子どもに聞いてしまうのはいけないことのように思えて、呆然と赤い痕を視線で追った。

「……おじさんは、おとうさんをツウホウする?」

 にこにこと嬉しそうに笑っていた子どもは、視線の動きだけで何を追っているのかを理解して、純粋に輝いていた笑顔を隠してしまう。挑発してくるような口角の向きとは反対に、瞳の奥には恐怖だけが広がっていた。

 暑さのせいではない、気持ちの悪い汗が背中を伝っていく。凪いでいたはずの風が結われていない前髪を掬って、子ども特有のまろやかな額を露わにした。生い茂った木の葉が揺れて、重なっていく合唱に耳の底が痛い。

 きっと子どもも幼いながらにいけない行為なのだとは分かっているのだろう。血の繋がりがあるのか、それとも実際はないのか。そこまでは知らないが、お父さんと呼ぶ存在に抱かれているなど、大雑把に括ってしまえば性的虐待だ。二人の間にどのような感情があるにしても、論理の内から大きく外れてしまっている。

 だから、子どもは怖がった。お父さんと引き離されてしまうかもしれない未来を、死ぬまで会えなくなるかもしれない可能性を、幼く脆い心を震わせて嫌がった。残された痕は忘れてしまっていたのか、隠しもしなかったくせにこちらの反応をじっとりと窺っている。

 いや、違うな。こちらを試しているのだろう。情事を匂わせる痕をはっきりと見せることで、相手の感情が何処に向かっていくのかを試している。怖さを浮かばせているのに、嫌だと嘆いているのに、この幼い子どもはそんなことをしてしまうのか。

「殴られたり、ご飯抜かれたりは?」

「……たたかれるのは、たまに。でもちゃんと、謝ってくれるよ」

 中学校に行っていないのは分かっていたが、ネグレクト、というものとは少し違うのだろうか。Tシャツから覗く腕も、曝された首筋も、折れてしまいそうに細くはあったけれど、子どもの言葉を信じるのならばきちんと食べさせてくれているらしい。

 通報するのか、と聞かれた意味を考える。あまりそう言った出来事には関心がなく、何処に相談するべきなのか見当もつかない。大人としては子どもを保護して、酷い扱いを受けていますと然るべき場所に報告するのが義務なのだろう。

 暑いわけでもないのに、伝い落ちていく汗が止まらない。よれたTシャツは汗を吸って、元の色を失くしてしまっているだろう。振り返ったまま見上げてくる子どもは、返答次第では此処から逃げ出してしまいそうな危うさに満ちていた。

 分かっている、分かってはいるのだ。子どもの望んでいるものを無視して、小さく細い体を抱え上げてでも何処かに届け出さなければいけないことは、正しく理解している。

 だけれど俺がそれをして、この子どもは果たして救われるのか。お父さんに買ってもらったと嬉しそうにスカートを握っていた子どもを、付けられた名前を幸せそうに口遊んだ子どもを、同じ銘柄の煙草を愛おしそうに撫でる子どもを。

 たった一時間の不自由を、少し共有しただけだ。たった、たったそれだけの関係でしかないのに、大好きだと話すお父さんと引き離したところでこの子どもを救えるだなんて。そんなものはただの自己満足でしかない。

「……腹減ってたら、いつでも言え。おにぎりくらいは恵んでやる」

 生暖かい空気を深く吸い込んで、重く圧し掛かるそれを一気に吐き出していく。大人としての義務を放棄して、子どもが望んでいることを選ばせてやりたいと思った。不自由を共有しただけの自分に出来ることなんて、きっとそれくらいだ。

 空腹で良いことなんて何一つとしてない。それだけを排除出来さえすれば、子どもをお父さんから引き剥がす必要なんてない。わざと全身から力を抜いて、淡い緑に色を変えた背凭れに汗の滲んだ背中を沈めていく。

 大丈夫だと、言い聞かせるのは自分自身に対してだった。子どもを救うという大人としての責任から逃れて、ただ傍観者として何もしないのだと、明らかにしてしまうには何もかも決意が足りなかった。

「ありがとう、おじさん」

 子どもは安心したように頬を染めて笑う。無責任な手の伸ばし方をしているのに、無垢な子どもはお礼を言ってしまった。ありがとうと微笑んでもらえるようなことは何もしていないのに、それでも子どもはどこか救われたような表情を浮かべている。

 真ん中に置いた紺色の箱から煙草を一本取り出し、じりじりと先端を燃やしていく。橙とも赤とも取れる色を付けてから、すぐにふわふわと白い煙が浮かんだ。

 ぷかりと、流れていくドーナツ型の煙に子どもはまた、すごいと手を鳴らして喜んだ。



*****



「電気は、っと」

 壁に這わせた指先が四角い何かに当たり、手探りで出っ張りを押す。瞬きをする暇もなく明るくなった部屋に、慣れていない瞼が何度か痙攣した。

 硬いフローリングの上には何の飾り気もなく薄型のテレビが直に置かれ、対面する座卓の上にはノートパソコンが一つ。やけに暗いとレースカーテンの隙間から外を眺めてみると、分厚い雲に覆われた空は重さを含ませた大粒の雨を無遠慮に振り撒いていた。

 夏の天気は変わりやすいように思うが、視界の端までどす黒く澱んだ空気が数時間で晴れてくれるとは思えない。徒歩一分のコンビニに行くだけでも濡れ鼠になるのは確実で、今日の飯はインスタントのコーヒーだけか、と曇った息を吐き出した。

 今日が木曜日でなくて良かった、と思いかけて、結局はそんなことどうでもいいのだと頭を振る。手首には折れてしまいそうなほどにか細い子どもから貰った髪ゴムが引っ掛かっていて、何とはなしに人差し指で弾いてやった。

 気分は少しも乗らなかったが、こんな日くらいは大人しく仕事に勤しむことにしよう。天高くまで広がった雲に背中を向け、何もない部屋へと振り返った。

 このマンションに引っ越して十年は経っているというのに、最低限の家具しか置かれていないリビングは酷く淋しそうに映る。贅沢をするつもりも、潤沢な生活をするつもりもないから仕方が無いとは言え、そろそろテレビ台くらいは購入した方がいいだろうか。

 白色蛍光灯の下で、黒さだけを浮き彫りにしたテレビ画面が冴えない男を照らす。シンプルとも、質素とも判断出来るリビングはソファさえも無く、無情にも映し出された自身から逃げるように開いたままのパソコンに向かった。

 昨日は電源を切ることもせずに夢の世界へと飛び立ったため、スリープモードへと変換された画面はボタン一つで簡単に立ちあがる。無駄に長いパスワードを打ち込んで、寝癖の浮かぶ伸び放題の頭を映したと思ったら瞬きの間に文章ソフトへと切り替わっていた。

 真っ白い画面には、未だ十行にも満たない会話文が散っているだけだ。三か月後に締め切りを控えた短編小説は、もう既に何を書くかが決まっている。デビュー以来変わっていない担当編集者と打ち合わせをして、修正箇所を洗い出して、後は結末までの文章をひたすらに打ち込んでいくだけだ。何年も繰り返し行ってきたはずの作業は淡々とした、言うなれば日常に隠された一瞬と何一つ変わらないというのに、どういうわけか今回は思うように指先が動かなかった。

 画面の向こう側で、受験を控えてナーバスになっている女子高校生がどうして、と、なんで、と、疑問符ばかりを浮かべている。脈ありだと思っていた同級生に思いの丈を告白し、彼も当然のように受け入れるつもりであった。それなのに、現実とは想像通りに道を用意してくれるわけではない。目の前で真っ赤に染まっていく意中の人間に、何の力も持たない十七歳の少女が出来ることなどありはしない。

 創作なのだから、とは耳に胼胝が出来るほど言われてきた。現実世界では起こり得ないような天変地異でも、空想の中では自由に操ることが出来る。あなたは作家なのだから、神羅万象さえも捻じ曲げてください。真っ直ぐに向けられた瞳に、どんな言葉を返したかなんて憶えちゃいなかった。

 小説家としての名前を手に入れたのは、高校三年生に上がる間際の春休みであった。趣味で文章を書いていたわけでも、そういう世界に興味があったわけでもない。それでも目に付いた新人賞のポスターに、これしかないとバカみたいに期待で胸を高鳴らせてしまった。

 初めて結末まで書き上げたのは児童文学に近い似非ファンタジーで、後にも先のもハッピーエンドはデビュー作のそれだけだ。過去の自分はどうしてあんなおとぎ話を考えられたのか、何度思い返しても分からない。

 キーボードに指先を置いてはみるが、未来は明るいと信じて疑わない少女に地獄を見せてやるのは忍びないと思えてしまう。幸せにしてやるつもりはないのだから、打ち合わせした通りに文章を組み立てていくしかないというのに、どうしても週に一度だけ出会う子どもを思い出してしまうのだ。

 重たい雨の降りしきる音だけが木霊する部屋で、考えるのはただお父さんが好きだと繰り返す子どものこと。空想上で生活している少女と比べるまでもなく、あの細いだけの子どもは明るい未来なんてものを欠片も信じていないだろう。大好きだと誇張なく微笑んでしまえる存在を失くしてしまうことを怖がって、だけれどそれを回避するだけの力はない。非力だと自覚しているからこそ試してくる視線に、渡してやれる言葉はなかった。

 電気を点けていても浸食されてしまったかのような灰色の空気に、自身の吐き出した二酸化炭素がゆっくりと沁み込んでいく。子どもを憐れんでいるわけでも、助けてやれない自分を恥じているわけでもないが、やるせなさに空っぽの胃は悲鳴を上げる。

 世界は誰にも優しく出来ていない。十年と少しだけをお父さんの隣で生きてきた子どもにも、期待も不安も須らく捨ててしまった自分にも、コンビニで暇そうに品出しをしているアルバイトにも、誰に対しても等しく優しくなっちゃくれない。

 二度目の溜息は長く尾を引いて、渇いた舌先が気持ち悪い。インスタントコーヒーでも作ってしまおうと胡坐をかいていた足を崩し、勢いをつけて立ち上がる。よっこいせ、と無意識に零れ落ちた言葉は随分と荒んでいて、子どもが聞けばきっとけらけらと可笑しそうに手を叩くのだろう。

 膝に置いた手の甲に髪ゴムが当たって、そこだけが痒くなる。耳朶を擽っていた髪の毛を掬って、寝癖の絡んでいた全体を一つに結び付けた。子どもは上手だと感嘆の声を漏らしたが、鏡も見ないまま結い上げた髪の毛はぐちゃぐちゃに歪んでいるはずだ。

 キッチン台には電子ケトルの他に、使われていない灰皿がひっそりと出番を待っていた。雨が降っているせいでコンビニのついでに吸ってくることも出来ないが、生活を送る室内で吸う気にはならない。

 貰い物であるこの灰皿が使われることは、この先もきっとないのだろう。大した信条もなく続いている喫煙行為だったが、禁煙することはあっても室内で煙草を取り出すことはしないと決めている。理由もないのに守り続けてしまっている決意に、辟易しながら電子ケトルに水を張った。

 子どもが公園に来るのは明後日の木曜日だけ。レースカーテンの奥では変わることなく重たい雨が降り続いていたが、今日明日で止んでくれと、柄にもなく願ってしまった。



*****



「……暑い」

 水溜まりの見え隠れする中を、気怠さを見せつけて歩いていく。昨日の夜には小降りになっていた雨も今日の朝にはすっかりと止み、天高く広がった空には青さばかりが塗られていた。晴れて良かったと思えたのはリビングから外を見渡していたときだけで、一歩マンションから出てしまえば照り付ける太陽に頭痛が襲ってくるようだった。

 長靴を履いて走り去っていく小学生に、通り過ぎる住宅の軒先ではおばあちゃんと孫なのだろう二人がスイカを片手に談笑していた。学生にとって八月の暑さは夏休みという魅惑の前では何の害にもならないのか、眉間に皺を寄せて歩いているのは自分だけであった。

 お昼時を少し過ぎたばかりの公園も、元気の余らせた子供たちで溢れかえっているのだろう。わざわざそんなところに煙草を吸いに行かなくても、とは思うのだが、あの子どもが来るかもしれないとなると行かずにはいられなかった。

 約束をしているわけでもないのに、木曜日だけは飽きずに公園へと向かっている。運動代わりの散歩だとしても割りに合わないと溜息が零れるのに、放っておくわけにはいかないと思った。

 結い上げた毛先に触れて、見えてきた目的地に立ち止まって深呼吸をする。夏特有の青々とした草木の香りに混じって、甘さと爽やかさの丁度あいだのような香しさも漂ってくる。入口を囲うように作られた花壇には赤や白、紫にピンクまで大小の違う花々が所狭しに植えられていた。

 名前が分かるのは太陽に向かって真っ直ぐに伸びていく向日葵くらいであったが、見える限りに咲き誇っている花はどれも傷みがなく、見ているだけで気持ちが和んでいくようだった。鬱々とした暑さの中で可憐に咲いていられる植物に尊敬を覚えて、なんだか背筋が正されてしまう。

 公園の中を走り回っている子供にぶつからないよう端っこを選んでいつものベンチに向かうと、今日は珍しく子どもが先に座っていた。お父さんが買ってくれたのだと話していたフリルのついたタンクトップに、パステルカラーのステテコを合わせている。女の子らしい色合いで可愛らしいと言えなくもないが、どことなく不釣り合いに見えて首を傾げてしまった。

「あ、くくってる!」

 ぼんやりと遠くを眺めていた大きな瞳がこちらに向いて、くるりと光を反射したと思ったら顔中に喜色を振り撒いた。自分の与えたものが使われていて嬉しいのか、それともまた結ってもらおうと企んでいるのか、どちらとも判別のつかない微笑みだった。

「暑かったからな。ほら、お土産だ」

 左に寄って座っている子どもの隣に、煙草と携帯用の灰皿を置くスペースを空けてどかりと腰を下ろす。昨日まで降り続いていた雨に打たれていたはずのベンチは燦燦と降り注ぐ太陽のおかげですっかりと渇いていて、背凭れに体重を預けても汗の吸ったTシャツが濡れることはなかった。

 右手に抱えていたビニール袋を子どもに差し出すと、表情が薄れて長く透き通った睫毛を震わせた。驚いているのか、戸惑っているのか。一向に手を伸ばそうとしない子どもに焦れて、袋の中からカップアイスを一つ、取り出してみせた。

「なぁに、これ?」

「だから、お土産。暑いときにはアイスだろ」

 何も珍しいところはない、何処にでも売っている百四十円のバニラアイスだ。ちゃちな木のスプーンも添えて押し付ければ、子どもは何度も瞬きながら両手に抱えたそれを眺めていた。

 自分用に買ったソーダ味の棒アイスと、お父さんと同じらしい紺色の煙草を取り出してビニール袋は適当に纏めてポケットに。ゴミを入れる用ではあったが、出しっぱなしにしていると木の葉を揺らす風に攫われてしまう。

 じっとりと眺めるまま動こうとしない子どもに、溶けてしまうと言ってやれば慌てたように蓋を外す。丁寧にビニールを剥いで、薄い太腿の上に乗せると滴る水滴がステテコの色を僅かに濃く色付けた。

「……初めてか?」

 カップの淵が溶け出したバニラアイスにスプーンを差し入れて、目の高さまで掬った子どもに不思議な心地がした。甘いものが好きかどうかも分からずに買ってしまったが、染まっていく頬の柔らかさに間違いではなかったのだと知る。

「はじめてじゃないけど、おとうさん、あまいの好きじゃないから」

 照れたように微笑んだ子どもが掬ったアイスを口に運んで、咥えた途端に大きな瞳が細められた。蕩けていく甘さを堪能している様に買って良かったと安心して、自分も溶けてしまわないうちにとビニールの封を切る。その瞬間から人工的な甘ったるさが広がって、香りだけで唾が湧いてくるようだった。噛み締めた瞬間は冷たさが歯の神経を伝って痛みさえ覚えるのに、喉を通る頃には癖になってしまうのだからいけない。

 最初は驚きが優っていた子どもも、一口飲み込んだ後は夢中になってスプーンを運んでいく。解けた口元を横目に確認して、それからは二人揃ってただひたすらにアイスを頬張った。

「おじさん、ありがとう」

「どういたしまして」

 最後の一口を存分に堪能したらしい子どもは、頬の赤さを保ったままに見上げてくる。厳しいくらいの陽射しを照り返す瞳は煌めいていて、タンクトップの影から見え隠れする痕さえなければ可愛らしいだけなのに、と奥歯を噛んだ。口出しすることではないのだと納得させはしたけれど、目に入ってしまうと本当にそれで良かったのかと考えてしまう。

 陽に焼けていない肩の上を細い髪の毛が滑って、子どもは食べ終わったカップにさえも丁寧さを忘れない。ぼんやりと繰り出される小さな指先をじっと見つめていると、半分ほどを齧られて放置されたアイスが文句をつけるように溶け出してしまった。手の甲を滑って手首に差し掛かってようやく垂れてきた水滴に気が付いて、Tシャツの裾で甘ったるく色付けされたそれを拭った。

 太腿にカップを置いたままの子どもはもう既に意識を他のところに向けているのか、古びた金具を鳴らすブランコを真っ直ぐに見つめている。幼稚園児くらいの小さな子供が母親に背中を押され、高く揺れていく世界に楽しそうな笑い声を上げていた。

「乗りたい?」

「んーん、見てるだけ」

 冷たいだけになったソーダ味を舌にのせて、ぼんやりとした様子の子どもに問いかける。若い母親を伴っている園児を羨ましく思っているのか、それともただブランコで遊びたいだけなのか。見ているだけの子どもは静かに首を振って、揺れる髪の毛を少しだけ邪魔そうに片手で押さえた。

 食べ終わった棒切れと、子どもが抱えたままのカップをビニールに入れて、買ったばかりの煙草から一本取り出す。フィルターと草の焼ける音がして、それもすぐに姿を消してしまう。アイスを食べた後の舌にはいつも以上に苦さばかりが広がって、吐き出した煙が子どもの視界を覆うように散っていった。

「ねぇ、またドーナツ作ってよ」

「ん?あぁ、煙な」

 子どもの瞳は光を反射しているのに、アイスを食べる前の輝きには到底届かない。翳りを帯びた睫毛に促されるように、ぷかり。丸く形作られた煙を空中に吐き出すと、子どもは歪んでいく輪っかを真っ直ぐに見上げていた。



*****



「来なかった、か」

 ベビーカーを押して歩く奥様たちとすれ違うように公園を後にして、橙色に染まり始めた雲一つない空を見上げる。いつの間にか木曜日は子どもと会うことが日課になっていて、どれだけ外が暑かろうが、寝不足で体が怠かろうが、真っ昼間に公園まで出向くようになっていた。

 初めて食べて気に入ったらしい百四十円のバニラアイスをまた買ってやったり、一度目はポニーテールに結ってやった柔らかい髪の毛を今度は高い位置で二つに分けてやったり、平仮名ばかりで喋る幼い子どもの語彙力に抗ってしりとりに大勝利してやったり。煙草と携帯用の灰皿を挟んでベンチに二人、並び座っている様は奇妙にも映っただろうが、邪魔されることもなく暑苦しくも穏やかな一時間の過ごし方だった。

 長いはずの夏休みはもう終わりに向かっているのか、公園にやってくる小学生は随分と数を減らしてしまった。鳴いていた蝉の声は先週あたりから聞こえなくなり、今では遠くの方で鈴虫が涼やかに音色を響かせている。真っ直ぐに背を伸ばしていた向日葵も草臥れて、きっと来年に向けて種子を落としている頃だろう。母親と手を繋いで帰っていく小学生を見送って、携帯灰皿の中がいっぱいになったところで帰ることにした。

 通り慣れてしまった閑静な住宅街は、何処其処から美味しそうな香りを漂わせていた。食欲をそそるスパイシーなカレーに、溜息が漏れそうになるほど密やかな出汁の風味、香ばしく焼き上がった肉と胡椒の香りが混じり合って、腹の虫が盛大に鳴り響いた。近くに人がいないことを確かめてから安堵の息を吐き出して、恥ずかしさに動かした視線の先で懐かしいものを見つけてしまう。

 二階建てのこじんまりとした一軒家の玄関先で、プラスチックで作られた簡素な植木鉢に植えられていたのは、蔦を長く伸ばした朝顔だった。花弁が丸く閉じられてしまっているのは時間帯のせいだろう。たわわに膨らんだ丸みに、小学生の頃は抱えて帰るのが面倒で学校に置いてきてしまったな、と後悔を覚えてしまった。今日会えなかった子どもは、果たして朝顔を育てたことはあるのだろうか。

 初めて言葉を交わしたあの日から、木曜日のうちで会わなかったのは今日が初めてだった。丁度この日に雨が降ることもなく、夏らしい陽射しの降り注ぐ中で子どもと取り留めのない話ばかりをした。楽しかったのかどうか自分でもよく分からないが、それでも木曜日の暑い時間に出掛けることを億劫に思わなくなっていた。

 事故にあったのだろうか、それとも今日はお父さんが家にいたのだろうか。後者の可能性が高いな、と暮れていく空に向かって二酸化炭素を思うがままに吐き出して、存外子どものことを気に入っていたのだと思い知らされる。

 気分転換に向かったはずなのに、部屋では吸わないと決めている煙草を吸いに行っただけのはずなのに、いつしか目的がすり替わっている、なんてよくあることだ。

 はしゃいだ様子で頬を持ち上げる姿は子供っぽいくせに、薄く広がっていく煙を眺める横顔は随分と大人びていた。子供らしさと共存させるには怪しげな雰囲気に、人として興味を惹かれてしまったのは必然だったのだろう。

 十五分も歩けば辿り着くマンションのオートロックを外し、配達BOXを確認する。中にはどうでもいいような広告チラシと、ガス料金を知らせる紙が一つ。端が折れることも気にしないで右手に握り、エレベーターに乗り込んで十一階のボタンを押す。新しいタイプのものに改装されて以降、待たされているという感覚は無くなった。

 鍵を開けて、玄関先に配置してあるゴミ箱に手の中のものを残らず捨ててしまう。リビングへと続く扉を潜ったら直ぐにクーラーを点けてしまうのは、文明をきちんと享受している証でもある。

 テレビを点けて、机の上に放置されてあるノートパソコンには触らない。八月に入ってからはどうにも気分が乗らなくてキーボードを叩いてはいないが、たったそれだけの期間で閉じられた機械の上には埃が降り積っていた。指先で一本線を描き、交差する線を足していく。銀色に光ったバツ印は、今の自分に宛てられたものだと思った。

 隣で明滅しているスマートフォンは仕事用のもので、一年程前に買い与えられたものだった。メールがあるだろうと渋る俺に、デビュー当時から変わらない担当編集者は返信してくれるんだったらな、と一言でねじ伏せてみせた。既読マークを付けてくれればいいから、と期待されていない言葉にも馴染めず、こちらも二週間は開いていない。


『ここで最新のニュースをお伝えします。……市に住む男性が刃物で刺され、病院に搬送されましたが、まもなく死亡が確認されました。また、一緒に倒れていた十三歳の少女も死亡したということです。』


 ふと聞こえてきたニュースに反応したのは、お父さんと思われる男性と中学生の子どもという組み合わせだったからだろう。着信を知らせるスマートフォンの明滅から、赤いテールランプに視線が釘付けにされる。流れていく光景は救急車の走り去っていくところと、自宅だと思われる古いマンションのぼやけた全景だった。

 切り替わっていく字幕に、亡くなった二人の名前が映される。三十代だと記された男性の名前には心当たりなんてなかったが、少女の名前として示された『陽芽』という漢字に、子どもの頬を染めて口角を緩める表情が思い出されていった。お姫さまの方だと勝手に思っていたのに、こういった漢字が付けられていたのか。

 毎週木曜日に公園で会っていた子どもかどうか、文字だけでは分からないはずだ。それなのに、あの子どもだと確信めいた思いがあった。褪せて緑色に光るベンチに並び座って、ぷかりと浮かんでは消え去っていく輪っかを、何度もせがんで手を叩いて喜んでいた子どもの横顔が、いつになくはっきりと脳裏に結ばれた。


『死亡推定時刻から、父親と見られる男性が先に刺されていたことが判明しました。凶器となった刃物を少女が手にしていたことから、なんらかの理由で男性を刺し、少女が自殺を図ったとみて調べは進んでいます。』


 なんらかの理由とは、どれだけ入念に調べても分からないか、世間様から一様に誤解されて終わってしまうんじゃないかと思った。毎週のように情事の痕を色濃く残していた未発達の幼い子どもを、警察はどう思うのだろうか。司法解剖が進むと、お父さんから何をされていたのか明らかにされるだろう。性的虐待を受けていた娘が、それを苦に心中しようとした。週刊誌が飛びつきそうな見出しに、吐き気が込み上げてくる。

 知っている人間が殺人罪を犯したことなんて今までになかったはずなのに、幼い子どもが罪を被ったのだとすんなりと信じられてしまった。公園には来なかったのではなく、来れなかったのだと疑いもしない。お父さんと子どもだけの空間は、子どもの手によって大切に守られた。

 たった少しの時間を共に過ごしただけの俺には分からないような絆があったのだろう。週に一回とは言え外出が出来る隙間を見つけているのなら、交番に駆け込むなり学校に助けを求めるなり、中学生であった子どもには何かしらの手立てはあったはずだ。

 だけれど、あの子どもはそれをしなかった。細く小さな身体に何をされているのか、二人のあいだで何が行われているのか。事情を知ってしまった俺に対しても子どもは酷く怯えていた。異常な空間に生きていることを分かっていながら、子どもが望んでいたのはお父さんと一緒に居ること。ただそれだけだったのだろうと、助けを求めようともしない姿に思わされていた。


『少女の身体には痣が残っていたということですが……。子供を育てる父親として、……さんはどう思われますか?』 


『いやぁ、これは酷い事件ですね。少女は学校にも行かせてもらえなかったんでしょ?逃げ場もなく、助けを求める先も知らず、随分と思い悩んだでしょうね。』


 溢れてくる慰めの言葉は、どんな音にも変化しないで耳の横を通り過ぎていく。何も知らないから、知ろうとしないから、こんなにも独り善がりな言葉が吐き出せてしまえる。自然と寄せられていく眉根に、だけれどきっと、子どもに会っていなければ自分も同じようなことばかりを思い描いていただろう。

 子どもの世界にはお父さんと住んでいたあの場所だけで、それだけで充分であったのだ。それ以外を知らないのなら比べようはなく、比較するべき対象をあの子どもが知ることはとうとう叶わなかった。それでも、たったあの世界だけが充分で、それ以外は求めてもいなかった。

 子どもの中にはお父さんだけが溢れていて、俺と過ごしていたあの時間も、交わした言葉も、少女の内には何一つ残らない。お父さんがいない時間を一緒に通過しただけの俺は、子どもには何も残せやしなかった。

 後悔はしていないけれど、少しだけ淋しいことのように思えてしまった。仕方のないことだとは思いつつも、ああそうか。死んでしまったのか、と細くて柔らかい毛先の感触が思い出されてしまう。何をしたいなんて、そんなもの思ったことはなかったはずなのに、もう一度ポニーテールを結んであげたかったとは深く思った。

 何度も繰り返し読まれる悲劇的な色を帯びたニュースは、マンションの全景から真ん中程に位置する一部屋へと映像を切り替えていった。何処にでもあるようなファミリー向けの建物はベランダが狭く、物干し竿を置くので精いっぱいに見えた。ぼやかしたせいで淡く色の塗られた場所に、場違いにも鮮やかな青が居座っている。

 何だろうかと近寄って見ると、それは橙色に染まっていく景色の中で目にしたプラスチック製の植木鉢と同じものだった。少し乱雑に扱うだけで壊れてしまいそうなそれは小学生ならみんな手にするような一般的なもので、それなのに何も植わっていないただの入れ物に酷く安心してしまった。あの子どもにも小学生時代は確かに存在して、幼い両手で掴み取ったのがお父さんの隣だったのだ。

 お陽さまが芽吹く、と名付けられた子どもは、お父さんと過ごすあの部屋では確かにお姫さまだった。お父さんにとってお陽さまであり、お姫さまでもあった子どもは、きっと二人だけの世界で幸せだったのだ。


『この少女のような子供を出さないためにも、自分たちに出来ることは何なのでしょうか?今日はそれを考えていきたいと思います。』


 お父さんが王子さまであったのか、それとも王さまだったのか。それを知る手立ては永遠になくなってしまったが、王子さまだったら良かったな、と思う。勝手気ままに語っているキャスターたちは何も知らない様子で、囃し立てていく言葉尻に吐き気を感じることはなくなった。

 二人のことが勝手に暴かれて、勝手に操られていく未来は気色悪いと思うのに、死んでしまっては介入の余地がない。好きに感じればいいと思うのは、自分に対してもそうだった。本当のことは何も分からないし知りようもなくなったから、お父さんと子どもはきっとあの部屋で幸せだったのだと、俺だけは信じておくことにした。

 お姫さまと王子さまは幸せに暮らしました。二人揃って飛んでいった天国でもそうなればいいと祈って、初めて部屋の中で煙草に火を点けた。お父さんと同じだったという濃紺の銘柄は甘く、苦く舌の上を滑っていく。

 一口吸って、放置していたスマートフォンを解除する。担当から繰り返し生きているかどうかを確認するようなメッセージが送られていたが、それを全て無視してたった一言だけを送り付ける。ぽこりと飛び出したアイコンにすぐ既読が付いたのは、編集者として有能な証拠だろう。

 返事を見るのは億劫で、興味を失くした対象から指先を離す。次に手を伸ばしたのは埃の被ったノートパソコンで、唸るような音を上げて立ちあがった画面には一ページ分だけ進んでいた小説が広がっていた。

 このネタでいこうと決まっていたはずの物語にやる気は湧かず、ただ締め切りまでの日数が削られていくだけだった。序章さえも終わっていない文章を一括に消して、思い浮かんだタイトルを打ち込んだ。次に紡ぐのは少女が夢の中で出逢った男の子と手を繋ぎ合う、幸せばかりの物語だ。

『ハッピーエンドを書く』

 鳴り止まない着信音も、未だ講釈を垂れるキャスターの声も、キーボードを叩き出した俺の耳には届かない。咥えたままの煙草から二口目を吸い込んで、夕焼けに浸かりきった宙に浮かぶのは、子どもがいたく気に入っていたドーナツ型の煙だった。

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