二、四十一歳と二十二歳 きっかけ
世間は最大で十一連休にもなるゴールデンウィークで、昨日まで続いていた雨も止んだ。梅雨入り宣言はされていないのに降ったり止んだりとぐずついた天気の毎日だったが、日の出前の時間から晴れ間が覗き、今では悪天候など想像出来ないほどの快晴になっている。
こんな日は散歩するに限る。いつもなら大通りを真っ直ぐに進む出勤路を、右に逸れて長く続く塀の隣をゆったりと歩いた。
観光地としても解放されている大きな公園は、一般的な公園と比べてもその敷地が広い。昔は政治の中心として使われており、今でも由緒ある行事が開催されたり文化普及に勤しんでいたりと重要な場所にもなっている。
だが、ゴールデンウィークは主だった行事はなく、施設や文化財の開放がされているわけでもないため、人でごった返している街中とは段違いに過ごしやすくなっている。カメラを構えた観光客もちらほらと見つけられるが、大半は清々しい朝を過ごす地元民の散歩道となっていた。
施設を囲うように作られた、様々な木々の生い茂る敷地をゆったりと歩きながら、綾部はまだ少し湿気ている空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
十一連休だなんだと言われているゴールデンウィークも、大学勤めの綾部にとっては所々に祝日が挟み込まれるだけに過ぎない。年度初めの忙しさからまだ抜け出すには至っていない身としては、赤文字にもなっていない平日は出勤するしかないのだ。
それでも、今日の予定は雑務を片付けたり連休明けの授業準備をしたりするだけで、急ぎで作成しなければいけない論文も、教授から押し付けられた用事もない。気負う必要のない出勤だから、と普段よりも一時間以上は遅く自宅を出発していて、こうして優雅な散歩を決め込んでいる。
九時を回っている時間帯ではあるが、敷地内を歩く人々の流れは緩やかで、混み合った場所特有の焦燥や苛立ちがない。綾部もよく仕事が早く終わった夕方や休日の昼下がりに訪れるが、穏やかに時間の流れるこの公園が好きだった。
今朝方まで降り続いていたのは小雨だったとはいえ、地面にはまだ濡れた感触が残っている。それでも綾部は革靴に土が跳ねることも気にせず、常よりも随分と落とした歩調で公園の端を進む。近くで、遠くで、小さな子どもの笑う声が響いている。
使いどころがなく繰り越していた有給を引っ付けてしっかり十一連休にしてきた越谷は、連休前の仕事終わりに紙袋二つ分の書籍を買って帰ってきた。今年は新年度に合わせて新商品の発売があったため、今の今までずっと新刊を買いに本屋に寄ることも出来ず、大分ストレスが溜まっていたらしい。
今日も朝食の片付けと同時にコーヒーを淹れ、ソファ横の小さなテーブルに買ってきた本を何冊も積み上げていた。ちらりと見えたタイトルは、仕事に使う専門書しか読まない綾部でも知っているような、本屋の一番目立つところに置かれているような話題書ばかりだった。
楽しそうに準備する越谷を横目に出勤するのは正直辛かったが、有給を使えなかったのは自分の責任でもある。現に直接の上司にあたる教授は、数年振りに海外旅行がしたいと十一連休をもぎ取っていた。
取り立てて急ぎの仕事が詰まっているわけではないから、休日出勤の可能性はないし、多くある祝日もしっかりと休める。次の休みには発売されたばかりのRPGゲームをやり始めるのだと、得意げに笑って見送ってくる越谷に吐き捨てて家を飛び出してきた。
四十を超えても、互いの趣味は無くならない。越谷は昔からジャンル問わずに本の虫で、綾部も流行りやマイナー関係なくゲームが好きだ。二人暮らしになってから料理をするようになった越谷はどんどんとその腕を上げ、今ではよっぽどのことがない限りは台所に立ってくれる。
仕事終わりに打ち込める趣味や特技があるのは良いことだ。不満と言えばとうとう始まってしまった老眼くらいで、大抵のことは楽しめている毎日に感謝する。ふっと吸い込んだ空気に、名前も知らない花の香りが混じった。
初夏とも呼べない気候ではあるが、昼間の陽射しは少しずつ夏らしい眩しさへと変わってきている。そんな太陽の下で散歩するのはまだ涼しい季節でも厳しいのか、犬の散歩をしている人が多く目に入った。
「おはようございます」
ペットを飼ったことのない綾部には犬の名前は分からないが、小型犬の散歩をしている人もいる。室内で飼えそうな大きさでも散歩に出るのだな、となんとなしに思っていると、ラブラドール・レトリーバーを連れた上品なご婦人が朝の挨拶をしてくれた。
人懐こい犬種なのか、ゆったりとしたペースで歩く飼い主や偶然近くにいた綾部の足元をぐるぐると回る。愛犬の好きにさせようと立ち止まった婦人に許可をもらってから屈み込み、嬉しそうに近寄ってくる大型犬の頭を撫でた。
「お名前をお伺いしてもよろしいですか?」
「ええ、もちろん。トムさんって言うのよ」
ロマンスグレーの髪の毛を綺麗に編み込んだ婦人は、柔らかく笑ってから答えてくれる。名前を呼ぶ声音の優しさに、一人と一匹の仲の良さが垣間見えた。
何となく、勝手に日本らしい名前を想像していた綾部は一度瞬いてから、大人しく撫でさせてくれるトムさんに目を向ける。
短い毛並は雨に濡れて湿った土で汚れた様子もなく、泥のついた自身の安い革靴とは気位が違う。優しく垂れた丸い瞳に参考にした男優でもいそうだな、と思いながら頭から耳の付け根を往復するように撫で、気が済んだところで立ち上がった。
「ありがとうございました。お気を付けて」
「ええ、ありがとう。あなたはお仕事? 頑張ってくださいね」
生まれも育ちもこの土地である越谷と違って、婦人には独特の訛りがない。物腰の柔らかさから越谷と同じだと思っていた綾部はあれ、と不思議に思ったがおくびにも出さず、もう一度お礼を告げてから歩き出した。
手のひらに残る温かい感触を握り締め、鮮やかな緑を太陽に反射させる木々の下を通る。大きな動物には慣れていないから僅かな怖さも湧き上がってきたが、先程のゴールデン・レトリーバーは一度も吠えることがなく、躾が行き届いていて安心して触ることが出来た。
家に籠って趣味に没頭する恋人を羨ましく思っていたが、優しく可愛らしい犬に触れられたことでそんな気持ちは霧散する。素敵な婦人とその飼い犬に元気をもらったと、綾部は軽い足取りで大学へと向かった。
写真の一つでも撮らせてもらえば良かったな、と綾部がふと思ったのは、正午を十分ほど過ぎた頃だった。越谷も特別動物が好きだというわけではないが、写真や動画を見て可愛いと思う情緒は持ち合わせている。
面倒な事務作業がひと段落し、休憩を挟んでから続きに取り掛かろうと凝った肩を解していると、幾人かで輪を作った生徒が視界に入った。サークル活動で来校しているのか、みんなの手元にはお菓子やジュースが握られている。
窓を閉めていても、彼ら彼女らの楽しそうな声色が届いてくるようだ。晴天らしい淡く朧げな陽かりを全身に浴びて笑っている姿は、綾部を惹きこむように懐かしい心地にさせた。
自分はさしておおっぴろげな交友関係を築いてはいなかったが、それでも一緒に教室移動をしたり食堂で隣り合って昼食を食べたりする友人はいた。眩しさに瞳を眇めた先には唯一無二の存在となった恋人の姿も重なり、思い出すだけで綾部の心は静かに泡立った。
大きく口を開けて快活に笑う高身長の男子生徒が、記憶の中にあるまだ年若い大柄な男へと変わっていく。
越谷が若い子たちと並び立っている姿など久しく目にしていないが、今と昔を比べてみると彼も随分と歳を取った。窓の反射で僅かに映った自身の白髪混じりの髪の毛を見とめて、綾部はまるで隠すように溜息を吐き出した。
ひと段落ついたのだから、いっそ昼休憩にでもしてしまおうか。綾部は閉じていた窓を数センチだけ開けて、はっきりと届いてきた複数の笑い声に苦笑を漏らす。風景につられて声が聞こえた気になっていただけかと思っていれば、実際には薄らと窓を通り抜けて聞きもたらされていたらしい。
「せんせー!」
一人の女子生徒が綾部に気が付き、嬉しさを模ったまま大きく手を振ってくる。一緒にいる生徒も次々に振り返って、それぞれに手を振ったり会釈したりと違った反応を見せた。
彼女は一年生の前期からずっと綾部の講義を受けていて、三年に上がった今年からは受け持ちが無くなってしまったはず。それでもこうして人懐こく笑いかけてくれる柔らかさに、綾部も微笑みを添えて軽く手を振り返した。
「ゴールデンウィークもお仕事? 大変だね!」
「それは君たちも同じでしょう」
「それは確かに。お仕事頑張ってください!」
「ありがとう」
彼女以外の生徒とも適度に喋り、移動していくみんなの背中を見送った。公園ですれ違った婦人と同じように頑張れと声を掛けてくれる優しさに、無意識の内に口端が持ち上がるのが分かる。
流行りのファッションなど四十を越した綾部にはさっぱりと分からないが、薄手のTシャツやニットだけを纏った格好に寒くはないのだろうかと自身を見下ろしてしまう。
冬用のしっかりとしたシャツに、ざっくりと大振りに編まれたカーディガン。室内の暖房は付けられていないが、パソコンの前に座っていた先ほどまではひざ掛けも巻いていた。まざまざと見せつけられた若さに嘆くことはなくなったが、ほんの少しでも分けてほしいなと願うことは許してほしい。
見つめていた背中が完璧に見えなくなってから、綾部は本棚の前に置いていた鞄から保冷バッグを取り出し、書類の積み上がった机の上へと置いた。
午前中は追加の仕事に呼び出されることも、生徒が遊びに来ることもなく集中出来たおかげで大半の作業は終わっている。例えゆっくりと食事を味わったとしても、陽が沈んでしまう前には全て終わりきるだろう。
時間にも気持ちにも余裕を持って出てきたというのに、今日は飲み物を持ってきていない。最近越谷と二人でハマっているコーン茶を昨日作り置いていたはずなのに、と思っても時間は戻ってくれないのだから仕方がない。
綾部は部屋の隅に備え付けられている小さな流し台の元へと向かい、やかんに二杯分程度の水を入れた。
電子ケトルの購入を毎年のように考えるのだが、割り振られる研究費用はきっちりと使い切ってしまっている。わざわざ私物を持ち込むのも手間であると考えて、教員職についてからずっと、研究室に忘れ去られていた昔ながらのやかんを使っていた。
ガスを中火に調整し、沸かしている間に茶葉の準備をする。緑茶か、ほうじ茶か。朝食用のコーヒーを淹れている横でほぼご飯担当となった越谷がお弁当箱に何を詰めていたのかを思い出して、こちらが合うだろうとほうじ茶を選ぶ。
昨日の夕食だった蓮根の挟み焼きは生姜醤油で味付けされていて、白米とも付け合わせのナムルともよく合って箸が進んでしまう。一息つくためには、醤油の濃さに負けない香ばしさのほうじ茶がいい。
急須に茶葉を入れ、ことことと蓋を動かし始めたやかんが沸いていないか確認する。沸騰するまではまだあと少しあるだろう。その間に、とカーディガンのポケットに入ったスマートフォンを取り出そうとしたところで、突っ込んだ指先が硬い機械を引っ掻くだけでぴたりと止まった。
とん、とんとん。
今日は誰の来客もないだろうと思っていたのに、研究室の扉がノックされたのだ。一つひとつを確かめるように響く音は鈍く、食事を前に緩んでいた気持ちでははっきりと認識出来ず、綾部は言葉を放つこともなくぼんやりと扉を見つめた。
とん、とん、とん。
もう三度、鈍い音が響く。さっきよりも一音の感覚が広くなっていて、在室している綾部にちゃんと聞かせようとしているように思える。それにようやく意識が向いて、どうぞ、と言葉を返すことが出来た。
火にかけていたやかんが沸騰して、耳に痛い高音が部屋中にまき散らされる。隙間を縫うようにか細く高い声が入室を告げ、見つめる先で扉がゆっくりと開いていく。綾部はやかんの火を止めながら入ってきた者を確認し、静かに瞼を持ち上げた。
扉の半分ほどを開けて申し訳なさそうな表情を隠しもしないで入ってきた女子生徒は、去年度の授業で見掛けたことのある二年生だった。名前までは思い出せないが、いつも前の方の席に座って熱心にノートを取っていたことだけは憶えている。
「あ、の……、綾部先生、今、大丈夫ですか?」
「丁度お茶を淹れようとしていたんだ。どうぞ、座って」
課題提出が遅れたことはなく、成績も上から数えた方が早いほど真面目で優秀な生徒だったが、授業に関することでも質問に来たことはない。綾部はゲームが趣味だと言うこともあり、生徒とプライベートのことを話す機会も多いが、扉の前で気まずそうに視線を動かす彼女はその輪に入ってきたこともないはずだ。
残念ながら今年の一般教養の授業では見掛けなかったから、一年だけの受け持ちでもう関わることもないだろうと思っていた。綾部は内心でクエスチョンマークを浮かべつつ、部屋の真ん中に置かれたソファに生徒を促す。彼女は小さく頭を下げてから素直にソファへと座り、綾部は急須に沸騰したお湯を入れる。
茶葉は既に入れていたほうじ茶のまま、自分用のマグカップと来客用の湯飲みに少しずつ分けて注ぐ。余裕を持った量を沸かしていてよかった。二つともがしっかりと八分目まで入ったところで急須の中身が空っぽになり、茶葉を捨ててから流し台に水を浸け置き、茶染み対策をしてからソファへと移動した。
二人用のソファと、一人用のソファが二つ。それぞれが向かい合った真ん中に長方形の小さなテーブルが置かれ、書類や書籍に溢れた部屋の中ではここだけが不自然なまでに片付けられている。
応接セット、と呼ぶには簡素なソファとテーブルではあるが、代わりになっているのだから清潔に保つようにしている。教授が口酸っぱく注意するからか、好き勝手に使うゼミ生もテーブルの上だけは気を付けていた。
一人用のソファの右側に座った綾部は、女子生徒の前と自分の前に形の違うカップを置く。ことり、と鈍く響き上がった音は静寂に満ちた部屋を通って、どこか遠くまで逃げていくようだ。
陶器製の湯飲みは柄も模様もないシンプルなデザインであったが、綾部の前に置かれたマグカップはデフォルメされたようなキャラクターがそこかしこに描かれている。女子生徒はそのデザインが気になったのか、背中を丸めて覗き込んだ。
研究室を一人で訪れたことの緊張で縮こまっていた姿とは違う、年相応の好奇心と遠慮の無さに小さく笑みを溢す。それくらいの方が彼女も話しやすいだろうと、綾部はスマートフォンで一つの画像を出してやった。
「待ちに待ったゲームでね。気分が乗って限定版とやらを買ってみたら、ついてきたんだよ」
マグカップからスマートフォンへ、ゆっくりと視線が移された先には一年程前に発売されたRPGのシリーズものが表示されていた。女子生徒はゲームをあまりしないのかへぇ、と僅かに吐息を漏らす程度だったが、世界的に有名なシリーズから発表された待望の新作だった。
制作発表は何年も前からされていたが、追加シナリオがどうだ、新規画がどうだ、と延期に延期を重ね続けていた。情報が更新されるたびにキャラクターが増えていたり、敵のデザインが変わっていたりと、完成品を見るまでは何が本当なのかファンには何も分からなかった。
日本での発売日が正式に決定して、一作目からずっとリアルタイムでプレイしていた綾部は仕事用とは別にスケジュール帳を購入し、日が進むごとにバツ印をつけていくくらいに楽しみにしていた。ゲームの話が出来るから、と親しくなった男子生徒からは呆れられ、同じ研究室の教授からは苦笑いを残される。
浮足立つのが止められないまま、訳も分からず限定版と表示されているものを予約してしまい、随分と可愛らしいマグカップを手に入れてしまった。使えるものは使おうと思っても、自宅では一連を見守っていた恋人に笑われてしまったから、こうして生徒から不思議な視線を向けられても職場に持ってくるしかなかったのだ。
「優しいんですね」
「貧乏性なだけだよ」
スマートフォンを覗き込んで伏し目がちになった女子生徒の瞼には、春らしい淡いピンク色がのせられている。外からの陽かりが温かく差し込んでいたおかげで室内灯は点けていないが、それでも彼女の瞼が細かな煌めきを纏っているのは分かった。
大人と子どもの境目で揺れ動く少女の化粧が上手いのか下手なのか、濃いのか薄いのか、綾部には判断が付けられない。それでも華やかな色合いは彼女によく似合っていると思って、だからこそ下瞼の色濃い隈が際立ってしまっている。
表示していた一枚の画像を消して、前のめりになっていた姿勢を正す。まだ僅かに湯気の立ち昇るマグカップを手に取って、息を吹きかけながら何があったのだろうか、と静かに考えた。プライベートな話などしたことのない女子生徒の悩みなど、女性との交際経験のない綾部には見当も付かない。
入室したときほどの硬さは消えたようだが、部屋の中を眺めているような視線が落ち着くことはない。マグカップの上からどうしようか、と盗み見ていた綾部であったが、いくら考えても答えが出てくることなどない。
「さて、本題に移ろうか」
喉を潤そうとする素振りも見えなくて、このまま黙っていても進まないだろうと声を掛けてみる。女子生徒は窓の方を移動していた瞳を唐突に立ち止まらせ、それから錆の浮かぶロボットのようにゆっくりと綾部を見据えた。
自分から話し出す勇気は出なかったが、抱えているものを綾部に打ち明ける決意はきちんと固めてきたようだ。
「質問、というか、……相談、というか」
不安そうな声音は揺れているくせに、じっと上目に見つめてくる瞳の中に迷いはなかった。これが四年生だったならば就職のことか、単位のことか、と当たりを付けられるのに、彼女は二年生に上がったばかり。自分の担当科目だけで判断しても不真面目な生徒ではなく、勉強面での相談だとは思えなかった。
女子生徒の名前は、
綾部は真っ直ぐに伸ばした背中をそのままに、頭を右側へと傾ける。わざわざそこまで親しくもしていない教員を尋ねてくる理由が分からず、見つけられそうな可能性も自分で否定してしまっている。視線だけで続きを促してやると、楠木は何度か唇を動かしてからようやく言葉を紡いだ。
「綾部先生って、同性の恋人がいる、ん、ですよね……?」
緊張の滲んだ声色が震えている。春と初夏の間の穏やかで、ぼんやりと薄れた黄金色の陽かりが二人に影を作った。
朧げな期待と、否定される恐怖と。分かりやすく見え隠れした言葉に、綾部は驚きに両目の睫毛を揺らして、それからひっそりと厳かに微笑んだ。まだまだ幼さの残る少女はいっそ恐ろしくも見えてしまう綾部の笑みに、喉奥に引っ込んだ言葉をごくりと飲み込んだ。
言語学部の准教授、綾部翔平の恋人は同性だ。
新しく生徒が入学してくるたびに噂として若人の中を駆け抜けていく話だが、彼自身が隠そうともしていない事実であった。自分から触れ回っていくほど社交的な性格ではないが、どれだけ不躾な質問でも聞かれたら正直に答えている。
彼にとって恋人の存在は隠すべきものなどではなく、周りからの評価も深く必要とはしていなかった。
綾部が生徒として通い、院生からそのまま教員に収まった大学で尾びれに背びれも付け加えて噂が広まったのにははっきりとした理由があるのだが、それを知るものは彼が師事する教授以外にはもう残っていない。だから、綾部とプライベートの話をしたこともない楠木には、いまだ半信半疑の噂でしかなかったのだろう。
彼女が面白半分にそういったセンシティブな話をしてきたことはなかったのに、今更何かあったのだろうか。一年の前期は面白がって聞いてくる生徒もいるが、楠木がその場にいたことはなかったために全く予想が出来なかった。
綾部はいくつかの選択肢を頭上に掲げてみて、本人から聞くまでは分からないだろうと結局は消し飛ばしてしまう。
「そうだけど、どうかしたの?」
あからさまな嫌悪感や揶揄いを向けてくるのは男子生徒が多かった。物腰が柔らかく、ゲームのことならば大抵のことは分かってしまうおかげで半年も経てば噂のせいでわざとボイコットをしてくるような生徒もいなくなるが、不信感が一切取り払われるわけではない。
噂を知るまでと変わらずに接してくれる生徒もいれば、大袈裟なまでに態度を変える生徒もいる。まだ講師と呼ばれていた時代に起こった初めてのボイコットで教務課は綾部の辞任を希望してきたが、それを庇ってくれたのはこの大学に入学してからずっとお世話になっている言語学の教授だった。
認めてくれる人間もいれば、嫌悪の対象としてしか見れない人間もいる。人の数と同じだけ思考は変わるのだということは、大学に入学して学んだことの一つだ。
過度な否定も、有耶無耶に誤魔化すようなこともしない綾部を、楠木は目頭に力を込めて見つめる。大人の圧を混ぜ込んだような綾部の笑みに怯んでいた少女は、真っ正面から対峙しようと構えていた。
彼女はどういう意図を持ってここにいるのだろうか、と綾部も生徒に向けた視線を逸らさない。
「あー……、と、その……」
唸り声ばかりが漏れてきて、言葉としては不明瞭なものばかりだ。綾部はもう一度頭を右に傾けて言葉としての形を取り戻すのを待っていたら、ぎゅっときつく瞼を閉じた楠木が意を決したように睫毛を上げた。風が吹いて、窓際に生えている木々の葉っぱが揺らされたのか、少女の丸い水晶体が光を放つ。
きらりと飛び込んできた眩しさに、綾部は無意識の内に目を細めていた。単純な反射ではあったが、だけれどそれ以上に、秘められた複雑な色に気圧されそうになる。まるで過去の自分たちを見ているかのような気持ちになって、こんなにも強く在れただろうかと不安になってしまう。
膝の上で握り締めている拳は震えているのに、瞳に宿す光は強い。時代のせいにしてしまうことも出来ただろうが、例え今の時代に自分が学生であったとしても、彼女のような強さは引き出せない気がする。
「女の子の友だちを、好きになりました」
少女の瞳は輝きに満ちていて、いつからか迷いも恐怖も宿ってはいない。真っ直ぐに届いた言葉は楠木の正直な気持ちが込められていて、嘘も誇張も含まれていないと分かる。そのことに綾部は場違いにも安心して、キャラクターの散るマグカップを持ち上げていた。
「そう。素敵だね」
ひと肌くらいにまでぬるくなったほうじ茶が、ゆっくりと喉を通って腹の底へと滑り落ちていく。
ゼミ生にも恋人との話を聞いてくれ、と惚気なのか愚痴なのか微妙に分かりづらい話を繰り出す子はいたが、関わりのなくなった彼女からそんな話が聞かされるとは思ってもいなかった。
昔から他人の恋愛話には興味がなかったし、この歳にもなって野次馬などするつもりもない。だけれど、二十も下の若い子どもが恋に夢に、一喜一憂する姿を見守るのも悪くはないのだと思えるようにはなっていた。きっと、学生時代を知っている教授や恋人には丸くなった、と笑われてしまうだろう。
多感な時期に立っている生徒に自分からどんな子なのか、と聞いてみるにはリスクが高い。楠木が望んでいる言葉も分からないため、綾部はただぼんやりとした感想だけを溢す。
目元に柔らかさを滲ませた綾部の様子に、固まっていた少女は安心したのか、湯飲みへと手を伸ばして一口目を含んだ。
「先生は、自分から告白しましたか?」
「告白、は向こうからだね。すごいタイミングだったから、今でもよく憶えているよ」
セピア色に褪せてしまっても、あの日の恋人を忘れることなど出来やしない。皺の刻まれた今よりもずっと肌艶のあった青年を思い浮かべて、微笑なんかよりもずっと深い笑いを漏らしてしまった。
楠木は穏やかに、そして幸せそうに笑う綾部に面喰らって、ぽかりと口を開けてしまう。特別に厳しいわけでも、威圧的なわけでもないが、どこか淡々とした印象を抱いていたために意外性が強すぎたのだ。
恋をしているものの表情は年齢も性別も関係なく、ここまで人を優しく、柔らかに形作るものなのだろうか。楠木は天啓を受けてしまったが如く、指先が痺れるのを実感した。
「あの、……詳しく聞いても、いいですか?」
遠慮がちな問いかけをしているのに、じっと見上げてくる瞳には好奇心が前面に押し出されている。綾部は生徒にしつこく問い質されても詳細は語らないようにしていたが、彼女になら聞かれてもいいだろうという気になる。
楠木の性格なら、綾部から聞いたことを吹聴して回るようなこともしないはず。それに、彼女は意を決して自分に打ち明けてくれたのだ。娯楽として済ませるために聞いてくるような生徒と同じにしてはいけない、と真っ直ぐに見つめ返した。
「曖昧な部分もあるけれど、それでも構わないかな?」
「だ、大丈夫です!」
持っていた湯飲みを両手で握り締めて頷く少女に、綾部はにこりと微笑みかけてから記憶を辿るように視線を逸らす。また強く風が吹いたのか、窓辺に生えている木が揺れる。
あの日は寒くて、天気も良くなかった。今日の穏やかな昼下がりの気候とは全く違っていて、思い出した冷たさにぐっと手のひらを握る。温もったマグカップを持っていたはずの指先は氷のようで、木漏れ日の射し込む視界が大きく揺れた。
*****
二月も半ばだと言うのに、肌寒さは薄れてくれない。今年は暖冬だと聞いていたはずなのに、膝下まで伸びるモッズコートでも耐えがたいほどに冷える。大学進学を機に引っ越してきたのはもう四年も前になるが、内臓から冷えるような冬の寒さには一向に慣れなかった。
通常授業が終わったからとあちこちに飛び回っている教授から、今日の早朝なら大学にいると言われ、綾部は春休みにも関わらず七時前から登校してきていた。課題でも何でもない研究の途中報告をするために早起きをして、結局会えたのは五分にも満たない時間。
七時半には解放されてしまった綾部は、眠い目を擦りながらいつのも喫煙所でぼんやりと座っていた。用事はもう済ませてしまったのに、深く沈む込んだ腰はなかなか持ち上がらない。眠気覚ましに点けた煙草が、吸う気力も無く灰ばかりに変わっていく。
東側に向いたベンチは、朝の陽かりを真っ正面から浴びせてくる。薄曇りの空は太陽の姿を見せることはないのに、それでも目を細めてしまうのは朝早くから起きて動き始めたからだろうか。しぱしぱと震える睫毛は、なかなか瞼を持ち上げてはくれない。
灰だらけになっていた煙草が燃え尽きようとしているのか、挟んだ指の間が熱くなって慌ててだらけていた姿勢を起こす。ぼろぼろと崩れていく灰色の粉がベンチの上にも、コンクリートで固められた足元にも落ちていった。
起き上がる勢いのまま立ち上がって、灰皿に吸い口しか残っていない煙草を捨てる。春休みの午前中だからか、捨てられているのは綾部が落とした一本しかない。初めて見る光景に、今自分は一人でいるのだと唐突に思い知らされた。
三年に上がったばかりの頃に、この喫煙所で越谷と出逢った。顔見知りは一緒にいた羽住だけで、気まずい雰囲気の中で名前を言い合ったのをはっきりと憶えている。この場限りだろうとさらりと流している佐倉と違って、緊張した面持ちだったのは越谷だけだ。
これは、そういうことなのだろう。言い淀む男の姿に、綾部は内心で溜息を吐いていた。
見たことのあるようなないような、そんな曖昧な女性からの告白を、自分はゲイだからと断った。予想もしていなかった言葉に目を見開いた女性は二の句が継げなくなったのか、金魚のようにぱくぱくと口を開いては閉じるだけ。これ以上は何もないだろうと、続くかもしれない言葉も待たずに踵を返していた。
その後は分かりやすく嘲笑の対象として後ろ指を指され、今までは普通に話していた同級生が急によそよそしい態度を取るようになった。知らない人は知らないし、知っていても誰なのかまでは聞いていない。そういう人も多くいたが、同じ学部内の人間は大体が知っていただろう。
いくら大学生だと言えども、差別的な見方をする人の方が圧倒的に多い。周りの目を気にして気まずそうにされると、綾部も自分から声を掛けようとは思えなかった。
話し掛けてくるのは揶揄おうとする魂胆が見え透いた男子生徒ばかりで、中には遊びの一環として夜を過ごさないかと言ってくる者もいる。今夜空いていないか、と聞いてくるのはまだマシで、二、三人で囲い込んで無理矢理迫ってくる場合もあった。
好き勝手に噂を流されるのも、聞こえよがしに悪口を言われるのも気にしない。周りの目に反応するような性格ではなかったし、ふざけて声を掛けてくる人は適当にいなしてもすぐに立ち去ってくれていた。
壁に追い込んで言い募ってくるタイプは一番面倒だったが、知識のない男たちに現実を見せてやれば白けた顔で踵を返す。本気の火遊びをするつもりはなく、ただ綾部の反応が見たいだけの嘲笑だ。掴まれた腕を見下ろして、越谷も最初はそういうつもりなのかと思っていた。
だけれど、彼は適当に流そうとする綾部の言葉に驚き、そして友人になりたいのだと小学生のようなことを口にした。どういうことだ、と止まった空気に、焦っていたのは言葉にした張本人だけである。
そんなことを言われるなんて、思ってもいなかった。揶揄って、面白半分に手を出して後は捨てるだけ。そういう考えばかりを見せられていたから、純粋な感情に面喰らってしまう。呆けた表情を晒してしまっただろうが、あの時は取り繕うことも出来なかった。
緊張に任せて咄嗟に出ただろう台詞に問い返せば、戻ってきたのはどこか吹っ切れたような笑顔。裏も表も存在していなくて、純粋な真っ直ぐさで告げられた言葉に、駄目だと拒否を返せるわけがなかった。
友だちになりましょうと宣言をして友好関係を結んだことは、今までに一度だってない。幼い頃に自分たちは友だちだよ、と言い合ったことはあるかもしれないが、宣言してから結ぶような関係性ではないと思っている。
それでも、嘘はないだろう越谷の姿に綾部もまた、笑って受け入れてしまった。交わした握手は、あの時ほど熱いものはない。
宣言して、何かが変わったわけではない。元々学部も選択授業も違うからすれ違うことの方が珍しくて、行動範囲も一緒にいる友人も違う。噂が流れて一人行動の多くなった綾部は特に、最低限の移動以外はしないようにしていた。
どうするべきなのかと考えて、そう言えば東第二館の喫煙所は法学部のたまり場になっていることを思い出す。一緒にいた羽住は法学部だと記憶しているから、気安い関係に見えた越谷も同じ学部である可能性が高い。
初めて会ったのもその喫煙所で、彼らの過ごし方は随分と慣れたもののように見えていた。あの日はたまたま前を通っただけだったが、昼休み中などを狙えば会えるかもしれない。
どうしても顔を合わせやすいから、大学に入ってからは同じ学部の人たちとばかり過ごしていた。盲点だったな、と思いながらも綾部は、知り合うきっかけになった喫煙所へと向かった。
喫煙所で二度目を過ごしてからは、恐らく越谷の方も積極的に綾部を探していたり、昼休憩に食堂で待ち合わせをしたりした。そうしないと会えないのだから当たり前かもしれないが綾部も、きっと越谷も、会う約束をするのが苦にはならなかった。そうしていつの間にか毎日のように顔を合わせ、休みの日にも出掛ける約束をするようになった。
このモッズコートも、綾部に似合いそうだからと越谷が選んだものだ。常連らしい古着屋の店先に吊るされていたコートを、真っ先に取った越谷はすぐに綾部の背中に当てる。サイズも丁度いいだろうとにこやかな男に、綾部はそのまま乗せられるようにして買ってしまった。
一本だけ灰皿の上に浮かんだ煙草を眺めて、二本目を取り出そうとポケットに手を入れる。吸い始めたのも越谷がきっかけだったし、いつの間にか綾部の深いところは越谷との思い出に埋め尽くされていた。
銘柄は越谷と同じものではなく、羽住と同じものに落ち着いた。タール数はそこまで重くないものを選んで、一日に一箱の半分は吸うくらいにまで成長している。
噂が流れてくれたおかげだな、とは、綾部の心の中だけで思っていることだ。今ではもう誰も囁いていない噂はみんなの記憶から消え去り、同級生たちは気にしていない体で普通に話し掛けてくれる。同じゼミを選択した女子生徒なんかは揶揄いまじりに聞いてくることもあるが、お返しにと散々惚気を喋って終わりだった。
初めは点けられなかったライターも、今では片手で簡単に点けられる。火種を残して煙を吸い込み、ゆっくりと五臓六腑に沁み渡らせていく。煙草に興味を持ったことはなかったが、吸い始めてしまえば止められるとは思えなかった。
真っ白に染まった煙が、くすんだ空に昇っていく。煙草によって生まれた煙なのか、それとも寒さによって見えるようになった吐息なのか、いつまでも伸びていく白さに判別がつかない。
たった一本の煙はこんなにも覚束ないものなのだと、綾部は今日初めて知った。越谷を待っている間に喫煙所で煙草を咥えていたこともあるはずだが、もしかしたらその場に自分一人だけだったことはなかったかもしれない。
だけれど、これからはそうなってしまうのだ。越谷も、個人的な接点は残らなかった羽住や佐倉とも、あと数日もすれば会えなくなる。みんな卒業して、それぞれの場所へと旅立ってしまう。
吸って、吐いて、また吸って。一人で作った白い煙が不安定に広がって、空まで昇っていかない。さっきまでは目に沁み入るくらいの太陽を覗かせていたのに、ぼんやりとしている間に空には分厚い雲が所々に浮かんでいた。
まだ蕾さえ膨らんでいない桜の並木を隠すように霧散して、視界を白く濁らせるように辺りを染める。風もない中で煙が目に入るような気がして細めた視線の先で、ちらりと何かが横切ったような気がした。
「おった……」
春休みのこんな早い時間帯にいるのは事務員だろうか、と瞼を持ち上げる。煙るような視界に映り込んだのは、もうすぐ会えなくなるのだと実感していた人物、越谷だった。
走ってきたのだろうか、生まれつきの癖が目立つ髪の毛は自由に跳ね回っていて、剥き出しになった額には薄らと汗が滲んでいる。急に現れた馴染みの男に驚いて何度も瞬きを繰り返している綾部よりも、何故か急いでいる様子の越谷の方が呆けた顔をしていた。
「……おはよう?」
「あ、うん。せやね、おはよう」
吐息が白くなるような寒さのはずなのに、どれだけ慌てて出掛けてきたのか、越谷は厚手のパーカーを着ているだけで、アウターの類は身に付けていない。息を白く染めながら額とこめかみを拭って、越谷は喫煙所へとやって来る。
煙草のケースを探しているのか、パンツやパーカーのポケットを探るが目当てのものは見つからないらしい。諦めてベンチに深く体を沈める越谷に、綾部はケースとライターを渡してやる。普段吸っている銘柄は違うが、持っていないのならこれでも吸うだろう。
そう思って差し出したのに、受け取ろうとした越谷は一瞬迷って、結局は首を振るだけに留めた。一日に一箱のペースで吸っている男にしては珍しいと思って、綾部は静かに首を傾ける。
「どうかしたの?」
問いかける声に、越谷は動物のように喉奥で唸るだけ。泳いでいく目線に眉根を寄せて、次の一手を考えるように煙草を吸う。
いた、と言うからには綾部に用事があるのだろうが、内容には皆目見当が付かない。何か約束をしていたわけではないし、今日ここにいることだって越谷は知らなかったはずだ。
急を要する何かであったのなら、電話でも事足りるだろう。それなのにわざわざいるかどうかも分からない早朝の大学に走ってやって来るとは、それだけ重要なことなのだろうか。
唸るだけで次の言葉を続けようとはしない越谷の姿にあれこれと考えてみるが、ヒントの一つもない状況では分かるはずがない。それなら、と早々に思考を放棄した綾部は、まだ半分以上は残っている煙草を味わうことにした。
「あー、その、うん……」
不明瞭な声音ばかりが、二人だけの喫煙所に響く。この後の予定が入っているわけでもないが、この寒い中で汗のかいている越谷を放っておくと風邪を引いてしまうかもしれない。コートを着ているはずの綾部も寒さのせいで指先が悴んできたし、早く移動する必要があるだろう。
そんなことを考えていると、並木道の方でいくつかの声が聞こえてきた。宙に浮かべていた視線を向けて見ると、何人かの生徒が新聞紙に包まれた何かを抱えていて、なんだろうかと目を凝らす。
良くも悪くもない視力でじっと眺めていると、新聞紙の中から赤や黄色の花が覗いているのが分かった。灰色っぽい紙の隙間から見え隠れしているからか、花壇や花屋で見掛けるよりもずっと明るく見える。
ぞろぞろと連れ立って歩いている生徒は、どんどんとその人数を増やしていく。なんだ、と思い出そうとして、すぐに卒業式のためのものだと気が付いた。
この大学の華道サークルは精力的に活動しているからか有名で、式典や行事のたびに所属している生徒が花を活けているのだと聞いたことがある。彼らは華道サークルに在籍している生徒で、今日は数日後に控えた卒業式の準備に来ているのだろう。
花を抱えている理由に思い至って、そういうことかと納得していると視線に気が付いたのか、歩いている生徒の数人が喫煙所へと視線を寄越す。煙草の匂いがまだ花のつけていない木々の隙間を通って届いていたのかもしれない。
合ってしまった視線に、ぺこりと軽い会釈が返される。それに綾部も軽く頭を下げ、残っている煙草を吸う。届いているかどうかも分からないが、長く伸びていく煙は真上を向いて東第二館の建物に吐き出した。
「綾部!」
入学式や卒業式などの式典に使われる花は、過度なほどに華やかなものが多い。種類や名前に詳しいわけでもないが、見るのが楽しみだなと思っていると、急に後ろから声が掛けられた。
それはずっと唸り声だけを漏らしていた越谷で、声量の大きさに綾部は驚いて肩を揺らしてしまう。その拍子に溜まりつつあった灰が崩れてしまって、モッズコートの裾に落ちていった。
「な、なに?」
言葉の代わりをつとめるように、瞬きを繰り返す睫毛がぱちぱちと音を鳴らす。裾を汚した灰を払うことも、じりじりと燃えていく煙草を灰皿に押し付けることも出来ず、呆然と越谷を見つめた。
どっしりと構えるようにベンチに座った越谷は何故か緊張している様子で、膝の上に置いた両手は拳が作られている。並木道を横に縦に並んで歩いていた生徒たちが、何事かと立ち止まって二人に視線を寄越しているのが背中越しでも分かった。
ぎゅっと真一文字に唇を結んだ越谷からは、いつもの落ち着いた和やかな空気は感じられない。緊張と、焦りと、不安と。越谷が浮かべるには珍しい感情の数々に、聞き返した綾部の姿勢も伸ばされる。
冬の寒さが、二人の間の空気を冷やしていく。じりじりと少しずつしか進まない時間がじれったくて、越谷の緊張が移った綾部もごくりと生唾を飲み込んだ。
「好きです、付き合ってください」
叫ぶように呼ばれた名前の後に何を続けられるのか、待つだけの綾部の手のひらにじっとりと嫌な汗が浮かぶ。これから何を言われるのだろうかと身構えていると、お手本のような告白をされてしまった。
耳まで真っ赤に染めて、耐えられないと言うようにぎゅっと力を込めて瞼を閉じる。真っ直ぐに差し出された手のひらは汗できらきらと光っていて、綾部は初めて見る越谷の姿に呆然と眺めるしか出来ないでいた。
二人して固まっていると、背後から女性の黄色い声が聞こえてくる。五メートルも離れていない彼らには叫ぶように言いきった越谷の声がはっきりと聞こえていたのだろう。次から次に被さっていく女性のきゃーきゃーと騒がしい声に混じって、男性の低いざわめきも加えられる。
聞かれているな、とは分かるものの、そちらを気にする余裕はなくなっていく。いまだに目を瞑って右手を差し出している越谷に、挟んでいた煙草を無意識の内に灰皿に押しつけていた。
告げられた言葉が頭の中いっぱいに広がって、越谷の声そのままに木霊していく。二年前には友だちになろうと言ってきた男が、今度は好きだから付き合ってほしいと言葉にしている。
ぎゅっと絞られるような音を奏でたのは、きっと綾部自身の心臓だ。
「……忘れてるかもしれないけれど、来年度も僕はここにいるんだよね」
すらすらと出てきたのは、そんな憎まれ口のような言葉だった。ひっそりと静かな声色は立ち止まって様子を窺っている生徒の方には届いていないようで、どうなるのだろうかと面白がるようなざわめきだけが変わらずに届いてくる。
綾部の言葉に片手を差し出していた越谷は、思い出したかのような勢いで立ち上がった。瞑っていた瞼は開かれて、眉尻も目尻もいつも以上の角度をもって垂れていく。今にも泣き出してしまいそうな自分よりも大きな男に、綾部は堪らずと言った調子で笑った。
考えるよりも先に飛び出してきた言葉の通り、同大学の院へと進学が決まった綾部は来年度も同じキャンパスに通う。去年に広まった噂はもうほとんどの人が思い出さなくなったとは言え、今見守っている生徒によってまた新しい噂は広められるだろう。
あと数日もすれば卒業する越谷とは立場が違っているはずなのに、何かの決意を固めてやって来たらしい彼の頭の中にはなかったようだ。自分のしでかしてしまった失態に泣き出してしまいそうになっていた越谷は、呆れたように笑う綾部に瞬きの回数を増やす。
「え、あれ?」
「いいよ、恋人」
あの日と同じように、差し出した右手に視線を向けられる。滲んだ汗によって綾部の手のひらも湿っているかもしれないが、引っ込める気にはなれなかった。
ざわざわと落ち着かなかった周囲の音が、固唾を飲んだように静まっているのが分かる。余裕をかましているような態度を見せていたが、綾部の心臓はばくばくと五月蝿く落ち着かない。にこやかに笑っているつもりだが、実際は口角が引き攣っているような気がしていた。
このタイミングで好きだと告白されるとは思ってもいなかったが、越谷から言われなければいつの日か、綾部が我慢出来なくなっていただろう。告白をしたことはないし、ゲイの自覚はあったが誰かと付き合う未来など想像もしていなかったのに、自然と彼には伝えるのだろうなと思っていた。
いつからかとか、何がきっかけかとか、そういうはっきりとした理由はない。強いて言えば、お友だちになろうと宣言されたときで、同級生の女の子に綾部は友人なのだと否定したときだ。
人に見られる可能性のある場所で告白してきたことも許せるくらいには、綾部は越谷のことが好きだった。一人ひっそりと生きていくのだろうなと思っていたのに、気付けば当たり前のように越谷が隣にいる。
彼がどうしてお友だちになろうと言ってきたのか分からないが、綾部にとって越谷は友人という枠では収まりきらなくなった。自分だけが抱えていると思っていた熱情を、彼もまた持ってくれていて、そのことが苦しいくらいに嬉しい。
ぱちぱちと睫毛を揺らしながら差し出された手のひらを見つめ続ける越谷は、まるで石にされてしまったかのように動かない。大丈夫だろうかと心配になるほどの時間が経って、綾部は見せていた右手を引こうと動かす。だけれど、ほんの僅かに移動した瞬間、目の前から大きな両手が迫ってきた。
驚くような暇もなく、中途半端に引っ込めていた右手が越谷の両手に包まれて、ぐっと強い力で引っ張られる。そのまま抵抗も出来ずに傾いた綾部の体は、待ち構えていた越谷に全身で抱き留められた。
「え、ちょっと、」
「っ、ほんま!? ほんまにええの!?」
引っ張った強すぎる力とは比べられないほど、壊れ物のように優しく抱き締められて、思わず飛び出た驚きの声は越谷の興奮したような声音に遮られる。背中に回った温かい手のひらは何枚にも重ねた布越しでも分かるほどに震えていて、綾部はぽかりと呆けていた口元をゆっくりと持ち上げた。
ぶらりと体の横に垂らしていた腕を持ち上げて、自分よりも大きな背中へと回す。小さな子どもを宥めるようにその温かで広い背中をゆっくりと撫で、それから落ち着かせるようにぽんと一度叩いてやった。
「本当に、いいよ」
そっと返すと、抱き締める力が強くなった。それでもすっぽりと包まれた体が痛みを訴えてくることはなく、丁寧に扱われていることが伝わって気恥ずかしかった。
止まっていたざわめきが戻り、詳細は分からない言葉たちが二人の元まで届く。不明瞭な大きさで何を言われているのかまでは判断出来ないが、その声に込められた色に友好的ではないのだろうと窺えた。
背中に回っていた腕がゆっくりと解かれて、数センチしか離れていない場所で越谷が綾部を見下ろす。ぎゅっと真ん中に寄った眉根からは嬉しさよりも辛さや悲しさの方が伝わってきて、聞こえてくるざわめきを気にしているのだろうと分かった。
綾部も届いてくる外野の音が気にならないわけではなかったが、自分たちが過剰に気にするものでもないと割り切る気持ちもある。仕方がないな、と眉尻を下げたところで、今度ははっきりと聞こえてくる知った声があった。
「その様子やったら成功したんやなぁ」
「おめでとさん」
きちんと聞かせようと声量の上げられた声の方を向けば、新聞紙を抱えた生徒たちの間を縫うようにして羽住と佐倉が喫煙所へとやって来ていた。待ちきれなかったのか、羽住の右手にはすでに火の点いた煙草が挟まっている。
予想外の二人の姿に驚いているのは綾部だけではなく、越谷も同じだった。囲うように綾部の腰に両手を回した体勢のまま、ゆっくりと歩いてくる二人を凝視している。
そんな越谷の様子と、急に現れた二人の姿を交互に眺めてから、綾部は堪えきれないと笑いを漏らした。
「ありがとう、二人とも」
祝福の言葉を漏らす二人に、野次馬でしかなかった生徒たちは気まずそうに足早に立ち去っていく。その背中を睨むように視線だけで追ったのは佐倉で、羽住は動物相手のように煙草を持ったままひらひらと手のひらを振った。
「佐倉、羽住も……。なんでおんねん……」
ぼんやりとしたままの越谷に、鼻で笑った佐倉はどかりと両足を広げてベンチに座る。羽住も同じように浅くベンチに腰掛けて、にんまりと楽しそうに口角を上げた。
「なんでって、気になる以外にないやろ」
「急に俺ん家飛び出しよって。ついてくるに決まっとるやろ」
佐倉も可笑しそうに笑って、煙草に火を点ける。深く吸い込んだ煙を真っ直ぐに吐き出して、悪戯を仕掛ける子どものように羽住と視線を合わせた。
抱き合っている姿から想像されてしまったのだろうが、二人が抱える好意にずっと気付いていたのだろう。どうしてここにいるのが分かったのかは知らないが、驚きから戻ってこられない越谷が話していたとは思えない。
揶揄うような口調ではあるものの、おめでとうと口にした言葉には嘘なんて込められていない。二人は友人が同性に向ける恋心に気付いていながらも純粋に応援していて、無事に収まって良かったと安堵してくれていた。
肺に溜まっていた空気を全て吐き出すような溜息に、数センチ上にある顔を見上げれば垂れた眉尻はそのままに笑った越谷がいた。その情けなくも見えてしまう表情に綾部もそっと息を吐き、まだ暴れている心臓を落ち着かせるように深く息を吸う。
苦い煙草の匂いが入ってきて、頭がすっきりとした気がする。一部始終を見ていた通行人の反応が気にならないとは言えないが、今はそれ以上の嬉しさを感じていた。
「これからも、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしゅうね」
差し出した右手に、重なる大きな手のひらがある。その温かさに笑うと、心優しい野次馬からの揶揄いが飛んできた。
*****
話し出すと自分で思っていたよりもずっと、細部までしっかりと憶えていた。陽が昇って間もない朝は薄いコートでは物足りなくて、着の身着のまま飛び出してきた彼は安堵の笑みを漏らしてすぐにくしゃみをした。
そんな締まりのない姿に笑ったのは彼をずっと影から応援していたらしい二人の友人で、綾部はなんだか申し訳ない気持ちになってしまう。
寒さに両肩を擦りながらも結局は煙草を強請り、薄ぼんやりとした曇り空を見上げながら四人で煙草を吸った。東第二館の喫煙所で四人が揃ったのはあの日が最後で、もう二度とあの場所には戻れない。
郷愁にも似た気持ちがこみ上がってきて、ふっと鼻から抜けるような微かな笑みに昇華される。野次馬をしていた華道サークルの下級生が一部始終を広めはしたが、越谷が卒業していなくなったこともあってそこまで大きな話題にはならなかった。
諦めとも呆れとも取れる小さな笑いに、楠木は高揚させていた表情をすっと隠し、不思議がるようにそっと小首を傾げた。大学生らしい無鉄砲な勢いに任せた告白は若者の心を踊らせたようだが、話し終わった綾部の顔には疑問を抱いたのだろう。
「先生……?」
真ん丸に開いた目を真っ直ぐに向ける生徒に、心の内だけで続ける言葉を探す。越谷からの告白は予想もしていなかったこととは言え嬉しいものだったし、同性を好きになったのだと打ち明けてくれた子どもに不安を与えてしまいたくはなかった。
「共通の友人二人と明け方近くまで飲んでいて、二人が起きたときにはもう彼は飛び出していたんだって。卒業も迫っていたし、今すぐ言わなきゃ後悔する、って焦ったらしいよ」
安心してくれたらいいと、普段はそこまで動かない表情筋を動かす。普段から大きく口を開けて笑ったり、表情豊かに眉根を動かしたりするわけではないから、ただ意識してにこりと笑うだけで印象が違ってくるのだろう。
予想の付かないタイミングだった告白の種明かしをしてやると、どうしてと困ったように首を傾かせていた楠木は分かりやすくほっとした。二年生に上がったばかりの彼女はまだお酒が飲めないのかもしれないが、酒と寝不足に浮腫んだ男の顔を想像して可笑しくなったのだろう。
実際には綾部と同様にワクと呼ばれる類の酒豪である越谷は、朝まで飲んだところで具合が悪くなったり顔を浮腫ませたりすることはない。寝不足のせいで度を超えた垂れ目になるくらいで、二日酔いになっている様子も見たことはない。
ただ本当に、三人でもうすぐ卒業だと喋って、綾部ともなかなか会えなくなるのだと実感して、気持ちが昂ってしまったらしい。ベンチに悠々と座った二人から教えられ、頬を真っ赤に染めた越谷が騒いでいたのを思い出す。
次から次へと蘇ってくる記憶に思わず笑っていると、裏話まで聞いて笑っていた楠木がふいに表情を曇らせた。筆で刷いたように急激に変わってしまった様子に綾部も表情を固まらせると、それに気が付いた楠木がぐっと両手を握り締める。
遠い記憶を掘り返し、知る人の少ない思い出を語ったことで、少女の中にも何かしらの変化があったのだろう。綾部はすっかりと冷めてしまったほうじ茶を一口啜り、聞く姿勢を正した。
「先生が、羨ましいです」
「……羨ましい?」
ぽつりと小さく零れた声は、楠木が心に抱えた本音だろう。勢い任せの告白に、あっさりと受け止めた返事。二十年前の出来事だと思うと、祝ってくれる友人が二人もいたことは奇跡に近い。
野次馬をしていた下級生の話はオブラートに包んでいたし、そもそもの出逢いや友人として過ごした二年弱の日々を詳しく話してはいない。要所だけを聞くと、悩める少女からすれば羨ましいという感情に行き着くのかもしれない。
「彼女とは中学からの友人で、私も向こうも彼氏がいたこともあるし、勘違いだと思ったんです。親友みたいに思ってるだけだって。だけど、……多分、違うよなぁって。気付いて……、気付い、ちゃって……。友だち、やめなきゃいけないのかなって」
少女の輝かしいまでに散らされていた光が、暮れていく太陽と同じように沈んでいく。歪んでいく眉根に、じわじわと滲んでいく瞳に、綾部は何を言うべきなのだろうか、と迷ってしまう。
楠木がしたかったのは恋愛の惚気でも愚痴でもなく、燻って燃え上がることも出来ない悩みだったのだ。友人だと思っていた少女を好きになって、打ち明けることも秘密を抱え続けることも出来なくて、どうしたらいいのかと藁にも縋る思いで綾部の元へとやって来た。
乞われるままに話してしまったことを後悔しても遅い。経験者だからと言っても綾部と楠木は別の人間で、感じ方も考え方も違っているから迂闊なことは言えない。綾部は戸惑うように部屋中を見渡してから、目の前の少女へと視線を戻す。
膝に置いた両手のひらを強く握り締めた少女は、瞳だけを真っ直ぐに綾部へと向けている。涙に濡れた瞳は純粋で、それ故に傷付くことを恐れていた。
きっと、先人としての綾部に期待している。彼女が抱えている悩みを綺麗さっぱり拭い払ってくれるようなアドバイスを、この先生なら教えてくれると信じている。
確かに、綾部の恋人は大学卒業を前に告白してくれた同性の男で、ゲイセクシュアルだという自覚も持っている。楠木が両性愛者なのか、それとも好きになったと言う友人だけが特別なのか。それは分からないし問い質すつもりもないが、今の状況は後輩と呼んでしまえるだろう。
だけれど、迂闊なことは言えないと口を噤んでしまう。綾部は楠木の性格も、好きになった友人の人となりや考えも知らない。そんな関係では背中を押してやることも、踏み止まらせることも出来やしない。可能不可能の問題よりも前にしてはいけないことなのだと、向けられる視線から逃げるようにゆっくりと瞼を閉じた。
もし少女の恋い焦がれた相手が男性であったのなら、綾部も口を閉ざすことはしなかっただろうし、それ以前に彼女がここを訪ねてくることもなかったはずだ。何も言えることは持ち得ていないのに、悩める生徒は真っ直ぐに綾部を見つめたまま動いてはくれない。
ふっ、と吐き出してしまった溜息に、楠木の身体が強張っていくのを感じる。それでもすぐに訂正することは出来なくて、閉じていた瞼を持ち上げた。
「君の友人は、君の気持ちを知って嫌悪するような人なのかな?」
何が違うのだろうか、と思ったことは何度もある。好きになった相手が異性だろうが、同性だろうが、気持ちを傾けたことに変わりなどありはしない。自分と相手が同じ時間を共有し、笑っているだろう幸せな未来を願うことの、どこに差があるというのか。
焦りにも近い諦念を抱えていた若い時分を思い出して、知らず奥歯に力が入ってしまう。自認してからそこまでの苦労を感じたわけではないし、無節操に遊び歩いた過去があるわけでもないが、やっぱり他人から勝手に下された評価には疲れてしまう。
自分が大学生だった二十年前と比べると、表面上は寛大になったのだろう。マジョリティとマイノリティの区別だけは嫌味なほどにはっきりと付けているのに、互いを尊重しましょうと美談として祀り上げている。
みんなちがって、みんないい。なんて、そんな理想は微かな吐息で吹き飛んでしまう。語るだけなら誰だって出来るが、誇大広告はご遠慮願いたい。
一年間顔を合わせていた生徒だから、という贔屓目を込めて、彼女には辛い思いをしてほしくはない。告白をすることに決めても、しないことに決めても。どんな未来を選んだとしても、後悔だけはしてほしくない。
「そっ、そんなことありません! 結は明るくて、優しくて、他人を傷付けるようなことは絶対にしません!」
突然力強くなった声音に面喰らって、瞬きを繰り返す。ぱちぱちと睫毛の擦れる音でも響いたのか、少女は肩を竦めて俯いてしまった。
綾部も越谷も、他人から理解してもらいたいわけではない。世界中からの祝福を望んだこともない。ただ、放っておいてほしいのだ。自分たちは自分たちの願う未来へと立ち向かうから、どうか邪魔だけはしないでくれと思うだけなのだ。
たったそれだけのことが、何よりもずっと難しい。理想論は誰でも語れるが、現実に落とし込むのは何年何十年とかかってしまう。
親しい友人に恋人が出来たら、最近の若い子たちはおめでとうと言って祝うらしい。生徒たちが廊下に集まって騒いでいるのを見たことがある。傷付いたように俯いてしまった少女が、いつの日かその輪の中に入れていたらいい。
大人びた印象を与えていた女子生徒が、知らないままに友人を軽んじようとする綾部の言葉に牙を剥く。緊張に硬く結ばれていた唇は昂りのままに震え、言葉を取り繕う余裕もなく感情のまま言葉を返した。
どうしたらいいのかと悩む心へのアドバイスはなく、ただ正面からの疑問として相手を疑う。綾部の質問はそれほど不躾なものではなかったはずだが、正直な不満を露わに出来るのは感情に嘘偽りがないからこそだ。
「私が悩んでいるときとか、疲れたときとか、何も言わなくてもずっとそばにいてくれるんです。何をするにも楽しくて、何でもないことで笑えて、結との時間が一番だって思うんです」
さらさらと木の葉の揺れる音が聞こえて、漏れ届いてくる僅かな陽かりが少女の瞳を照らす。さっきよりも幾分か水分量が増えているように見えて、発展途上の心に詰め込まれた激情の一部をまざまざと見せつけた。
相手が誰だとか、世間から許されるかどうとか、そんな些末なことは関係ない。彼女が拾い上げた硝子玉のように脆く、真似など出来やしないほど鮮やかな恋慕を、綾部はただ眩しいばかりに眺めてしまう。
無責任なことは出来ないと戒めつつも、楠木が願う幸せな結末に辿り着いてほしいとは思ってしまった。
「結以外にそんなこと思ったことありません。それだけ結はいい子で、大切なんです」
言葉の一つひとつに優しさが込められている。綾部には結と呼ばれている子どもがどういう子なのか知ることは出来ないが、ここまで好意的な面ばかりを見つけてしまう彼女に心配はないだろうと安堵の息を吐いた。
無条件に他人を信じ込むことは簡単で危ういが、女子生徒のようにきちんと根っこの部分を知ろうとしていたら大丈夫だろう。
恋愛について、春に例えられる意味が今までは分からなかった。積もっていた雪が溶けて、眠っていた新芽が少しずつ膨らみを見せる。冬から春に移り変わっていく季節は別れと出逢いを示していて、過ごす人間が勝手なイメージで結び付けているだけだと思っていた。
穿った見方をしてしまっていたけれど、実際は指先を解していく温かさが、人々の合間を縫い染めていく眩しさが、彼女の浮かべる熱情と似通っているからなのだろう。懸命に見せてくれる感情の端々に、綾部は言葉もなくただ静かに楠木の語る声音に耳を傾けていた。
「だから私は、……っあ、す、すみません!」
彼女を好きになっただけなのだ、と続けるつもりだったのだろうか。興奮のままに言葉を繋げている自分の声で我に返り、少女は深く頭を下げる。大学生らしく染めているのか、茶色い髪の毛の根元が黒く色を変えている。
青いな、と抱いてしまった感想に、四十という年齢を改めて実感してしまった。周りを顧みずに突っ走ってしまうのは決して褒められないが、彼女の真っ直ぐさは朝焼けに輝く水面のようにきらきらと光っている。見ていて気持ちが良いのだと、綾部は楠木に頭を上げさせた。
「軽率なことを聞いてごめんね。……アドバイスにはなりもしないけれど、ひとつだけ」
季節は春になり、もう間もなく初夏と言える暑さがやって来る。一面が青ばかりの空に、はっきりと陰影の付いた入道雲。学内や公園の花壇には向日葵が咲き乱れ、暑さも忘れてはしゃぐ小さな子どもたちの笑い声もあちこちから聞こえてくる。
恋をするということは、良いことばかりではない。好意を持ったとしても相手が受け入れてくれるのか、付き合えてもそのままずっと続いていけるのか。それは、神にさえ分かりはしない。
「楠木さん。君は君の知っている友人を信じて、君の思うようにすればいい。僕は君の友人を知らないけれど、君はよく知っているんだろう? そんな君が否定なんてしない子だと信じているのなら、きっと悪いようには転ばないはずだ」
一息に語りかけて、渇いてしまった喉を冷え切ったほうじ茶で潤す。もう少し気温が上がったら、水出しコーヒーを準備しようか。マグカップの底に茶こしでは掬いきれなかった細かな葉っぱが沈んでいた。
「上手くいく保証をしてあげることは出来ないけれど、人を好きになることは悪いことじゃない。素敵なことだって、四十にもなるおじさんは今でも信じているよ」
青いことを言っているのは綾部も同じで、その自覚があるからか照れを隠すように残りのお茶を飲み干してしまう。惚気や愚痴を聞かされることはあっても、こうして応援の言葉や遠くなってしまった思い出を吐き出すことは今までになかった。
二十も年下の少女を励ましてあげる言葉に心当たりなどなく、先生業をしているくせに何も言えないのだな、と呆れを通り越して笑いさえ漏れてくる。
期待外れも甚だしいのだろうな、と苦く笑った綾部の前で、悩める子羊を極めていた楠木は瞳の水分量も頬の紅潮も残して口角を上げて見せた。友人を思って語る激情とも、過ぎた言葉に反省する焦りでもない。ふ、と無意識に零れ落ちたらしい微笑みは、二十歳とは思えぬほど幼くも、成熟しても見えた。
「先生は、恋人さんのことが大好きなんですね」
誇張も何もない、心から溢れた言葉だった。熱っぽく色付いた声色は甘く蕩けていて、夢見心地な憧れが込められているようにも思える。綾部はそんな少女の言葉に瞬き一つの間を置いて、にこりと深く微笑んでやった。
「彼が、こんな僕にしてくれたんだよ」
遠回りな言い方ではあったが、目の前の少女には正しく伝わってくれたらしい。嬉しそうに、楽しそうに、年相応と呼べる笑みを滲ませる。この部屋を訪れてから、一番だと思える表情だった。
「……もう一度、考えてみます。伝えるかどうかは、それから決めます」
彼女の瞳には迷いも憂いも存在していない。少しでも力になれたらと思ったところで、背中を押すことも踏み止まらせることも出来ていない。だけれど、心に巣食う靄が僅かでも晴らす手伝いが出来たのなら上々だ。
綾部は覚悟を決めた少女に何も出来はしなかったが、ふと思い出したものがあってソファから立ち上がった。
何も言わずに移動をし始めた綾部を不思議に思って、少女の視線は窓際の机でなにやらごそごそと保冷バッグを弄り始めた男の背中に注がれる。彼もそれに気が付いているのだろうに、言葉を返すことはしなかった。
「あ、あった。はい、どうぞ」
「えっ、……え!?」
目当ての物が保冷バッグには入っていなかったのか、今度は本棚脇のトートバッグを漁り出し、指先に引っ掛かったものを引っ張り出して女子生徒の湯飲みの横に置く。それは個包装されたチョコレート菓子で、脈絡のなさに少女は睫毛を震わせた。
「恋人が懐かしんで買ってきたおやつだよ。お裾分け」
地域差はあるだろうが、スーパーマーケットでもコンビニでも買えるお菓子は、楠木もよく購入するものだ。ビスケット生地にチョコレートがコーティングされていて、季節限定のフレーバーが出るとついつい手が伸びてしまう。
アラフォーと呼ばれる准教授とチョコレート菓子が結びつかないのか、綾部の顔とお菓子のビニールを交互に眺めていた女子生徒は、顔も知らない恋人からのお裾分けだと語られてしまえばなんとなく照れくさくなってしまった。
だけれど、不思議とこの小さな袋から力が伝わってくるようで、転がったままのお菓子を両手に握り締める。考えなければいけないことも、その結果どういう結末に辿り着くのかも分からない。だけれど、このお菓子がそばにあると上手く着地するかもしれない。
そんな気持ちになって、楠木は静かに笑った。
「ありがとうございます!」
「どういたしまして。……頑張ってね」
どういう未来に向かったとしても、少女が後悔を残すことはないだろう。自分の納得がいくまで考えて、行き止まりにぶつかったら自問自答して。彼女は彼女らしく、最後まで自分を見つめ直せるだろう。
そう確信出来てしまうほど真っ直ぐに見つめる瞳は強くて、理不尽にも打ち勝てるだろう輝きを宿していた。
湯飲みに残る冷えたほうじ茶を一口で飲み干して、女子生徒は何度も頭を下げながら帰っていく。真っ直ぐに伸びた背筋が頼もしくて、綾部はにこやかなままでその背中を見送った。
一人になった広い部屋で、今度こそ弁当を食べるべく何か所かへこみのあるやかんに水を入れる。今度は緑茶にしようと茶葉を取り出したところで、少女に語った言葉を思い出した。
素直に好きだとは惚気られないが、自分には彼しかしないのだと苦しいくらいに思い知らされてしまった。二十年近くになる付き合いで培った関係性は、この先変わっていくことなどないのだろう。
今朝も顔を合わせて朝食を取り、行ってらっしゃいと見送られてきたのに。会いたいと思ってしまった自分に、呆けた苦笑いが漏れてしまった。もし女子生徒がまたここに顔を見せに来てくれたら、彼の話をしてみてもいいかもしれない。きっと、彼女なら嬉しそうに、自分のことのように幸せそうに聞いてくれるだろう。
お返しにまたお茶菓子を出して、楠木の決意がどう転がったのか聞かせてくれたらいい。彼女が行き着く未来はまだ何も分からないが、楽しく喋ることが出来たならそれでいいのだと思えてくる。
そんな年甲斐にも無いことを思いながら淹れた緑茶は、味の濃い挟み焼きに合わせて爽やかな風味となった。
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