女王のとなり

いつも座る木製ベンチは、左側に尻を据えると決めていた。しかしその時は、なぜだか右側へと引き寄せられた。

自分でも不思議に思いながら、自販機で買った缶コーヒーのプルタブを開ける。

 

飲み始めて視線を感じ、ふと左側を見て驚いた。

いつもの私の定位置には、普通サイズの5倍は余裕にある巨大なアリがいたからだ。

 

『あなた何なの!?  ホントにアリなの!?』

 

餌にたかっているアリの大群よりも、その巨大アリには存在感があった。

彼女はピクリとも動かず、ただ一点を見つめている。なんだか私を見ているようにも思え、緊張が走った。

 

こんな小さな生命体がここまで私をビクつかせるとは大したものだ。

もしかしたら、これは女王アリなのかもしれない。

そんな貫禄が彼女にはあった。

 

先程私はベンチに座る際、彼女の姿を確認するわけではなかったが、何故だかその時はいつもの席には座らなかった。

もしも私がいつも通りに尻を据えていたならば、女王アリは今頃下敷きになっていただろう。

多分女王は、『この席はワタクシのよ!』

といったテレパシーを、ベンチに座ろうとする私に送った。

つまりニュータイプの虫の知らせだ。

私は潜在意識下でそれをキャッチし、いつものこだわりのある木製ベンチの左側の席を譲ったと言うわけだ。


右隣に挨拶もなしに座る私を、女王は『無礼者!』と思いながら見ている。そう説明すれば今までの流れが納得出来る。

 

私は女王がこちらへと近づいて来るかどうかとビクビクしながら缶コーヒーを口にした。

 

女王はその席を陣取ったまま、動くわけでもなく、ただ風を感じて物思いに耽っているように見えた。

 

ところで彼女は一体、家来も連れず身一つで何をしにやって来たのだろうか。

新生女王アリにしては初々しさが感じられない。

まさかコロニーが何者かによって破壊されたのだろうか。

それとも、家来たちから裏切られ追放されてしまったとか。

もしくは、重圧に耐えきれなくなった彼女は、何もかもを放り出したくなって家出をしたのかもしれない。


『そうよね。生きてると色々とあるものね……』


『……』


『でも私ね、最近やっとジントニックの美味しさに気付いてとても幸せを感じられたの』


『……』


彼女は何も応えなかった。 


女王は私を、多分見ている。

見つめられながらの缶コーヒーは、いつもよりも美味さが半減した。

 

私は貴重な就業前のひと時、コーヒーの味よりも女王の所作が気になった。

 

彼女がピクリと動いたような気がして再び視線をやると、心なしか私の方へと近づいていて、何かを訴えるような雰囲気を醸し出していた。


『ワタクシにもその飲み物を差し出しなさい』

 

そう言っているかのようだった。

 

私は恐れおののきながらも、

 

『あなたがコーヒーの味なんて覚えちゃったら二度と働きたくなくなると思うの』

 

と返し、悪いが全て飲み干した。

 

女王は怒るでもなく、それ以上何も言わなかった。

しばらく私たちは互いに会話をすることも無く、風に吹かれて無言の時を過ごした。

 

『そろそろ働くか……』

 

就業前の、プライベートから仕事へと心を切り替えるこの時間も終わる。

私はベンチから立ち上がった。


『お元気で。互いに頑張りましょうね。あなたの天敵が何なのかは知らないけど、無事を祈ります』


『……』


相変わらず女王は何も言わなかった。


『じゃあ、お元気で』


そう別れの挨拶をし先を行こうとしたが、一つの心配事に立ち止まった。

 

もしも誰かがこのベンチへと来た時、女王の存在に気付かずに尻を据えたなら大変な事になる。

 

私は手にしていた空の缶コーヒーを、女王の傍に置いた。

 

『多分これで大丈夫。ひとまずここに置いておきます』

 

近くに空き缶を置かれても、彼女は微動だにせず堂々とそこにいた。

 

やっぱり女王だな。と妙に納得しながら、私はその場から立ち去った。


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