第6話

 泣くのなんて何年振りだろうか。記憶に残っている限りでは幼稚園の運動会で派手に転んだのが最後で、それを思うと二十年近くこの瞳は渇ききっていた。

 両頬に感じる温かさは優しくて、だけれどこめかみや耳を掠めていく指先は硬い。先程から笑ったり泣いたり、照れたり困ったり、ころころと変わっていく表情は幼くて可愛らしいのに、節々から感じてしまう男らしさにこちらの方が持たなかった。

 日向の柔らかい恋心を聞かず、正面から拒絶したのは須賀だ。いつか変わっていく感情を受け止めきれるほど強く作られてはおらず、弱い自分はただ要らないのだと首を振ることしか出来なかった。

 セックスが出来ないのも、人前で裸にさえなれないのも本当だ。標準体型であったときから苦手意識が強く、無防備な自分を見て気持ち悪いと思われるんじゃないか、汚いと嫌悪されるんじゃないか。

 ヒトの形をしてはいるはずなのに、お前は違うと後ろ指を指されている気がする。一度恐怖を感じてからは、一切が駄目になった。

 血管が透けて見える白い肌も、表情のあまり出ない顔も、鼻に掛かった声も嫌いで、顔も知らない誰かに嫌われるのが怖くて、人前では隠すようになっていった。良いところなんてない、お前なんて嫌いだ。呪いのようにかけ続けた言葉は、いつしか須賀の心を絡めて離さなくなった。

 素顔や飾り立てるピアスを晒して注目されるくらいなら、何もかもを隠して不審者扱いされる方がよっぽどマシだ。外面だけを見てこそこそと囁かれるのはどれだけでも耐えられるが、上げた前髪の奥を見られて振り返られると逃げてしまう自信がある。

 真っ直ぐなまでの好意を信じていられるほど、大らかな心は持っていない。宝物を一つひとつ掬い上げるように語ってくれた日向の心も、いつかは変わってしまうのだ。好きだと紡いでくれた瞳も、声も、肌も、性格も。明日になれば好きではなくなっているかもしれない、嫌悪の対象にすり替わっているかもしれない。

 日向のことは好きだと思う。真っ直ぐに向けられる視線が、朗らかに笑う声が、偽りのない心が、眩しいくらいに好きだった。

 だからこそ、須賀は怖くて仕方が無かった。いつかこの少年の名残りを捨て去った男に嫌われてしまうのが、好きだと呟いていた感情が嫌悪に移り変わってしまうのが、怖くて、恐ろしくて、嫌だった。

 だって、須賀にはこの清らかな男を繋ぎ止めておけるほどの魅力が無い。恋人として当たり前にある触れ合いが出来ない、裸さえも見せられない自分には、日向の未来を奪えるだけの自信など欠片も存在していなかった。

「怖いんだ。今の君が、その、僕を好きでいてくれているのは分かっている。分かってはいるんだけれど、どうして僕を好きでいてくれるのか理由が分からない。君にとっての僕なんて、少し英文を読める程度の価値しかないだろう? 僕なんか、眩しい君に好きでいてもらえるような人間じゃない」

 見下ろされた瞳は涙が散って、輝かしいまでの光の粒が舞い踊るようだった。銀杏の黄色と、赤茶けた煉瓦の色と、健康的に焼けた肌と、空の青さと。この世界にある狂おしい色の全てが、丸く形成された光の雫に溶けていく。

 流れていく涙に抗って僅かに歪められた目尻には、彼の母親にそっくりだと思っていた皺が少しだけ浮かんでいた。血の繋がりはないのだと話してくれたけれど、温かで柔らかい場所で生きていた彼はやっぱり、慈愛に満ちた母親によく似ている。

「千秋さんは、自分が嫌いですか?」

「……うん、嫌いだ。誰よりも、世界で一番、大嫌いだと思う」

 須賀の絞り出す感情に、目の前の少年は苦し気な表情を曝け出す。ぎゅっと寄せられていく眉間の皺に、そんな顔をしないでほしいと思った。須賀が自分にかけてしまった呪いは、自分ただ一人で背負っていくもの。日向がその感情を拾って悲しむ必要なんてない。そう思うのに、日向の表情を晴らす言葉を持っていなかった。

 誰よりも須賀自身が、須賀を嫌っていた。大嫌いな須賀千秋という人物は、愛される資格を持ち得ない。彼の幸せと隣り合う権利なんて、持っていない。

「じゃあ、その分俺が千秋さんを愛します。千秋さんが気付いてない千秋さんの素敵で可愛らしいところを、俺がたくさん、たっくさん、愛します!」

 眉間に刻まれてしまった皺がふっと消えてなくなったと思ったらじわじわと場所を動かして、目尻へとその住処を移す。楽しくて仕方が無いのだと、愛おしくて張り裂けそうなのだと、細められた目が、緩く持ち上がった口角が、彼の心を伝えてくる。

 まるで、そのままで良いのだと言われているみたいだった。須賀の心を雁字搦めに縛り付けてしまったのは須賀本人ではあったけれど、その心の内は淋しくて苦しかった。愛されるのが怖いと嘆いていたはずなのに、愛されないことが怖かった。資格がないと言い聞かせて、権利はないのだと諦めて、それでもこのまま何処にも進めないことが恐ろしく怖かった。

 いつか離れてしまうのだと、絶望にも似た気持ちは吐いて捨てるほど湧き上がってくるけれど、信じてみたいと思った。日向の気持ちは今ひとつ受け取りきれないものばかりではあったが、日向が愛すると言ってくれた自分を、信じてみてもいいかもしれない。

 自分自身を好きになることはきっと一生出来なくて、大嫌いだと呪いをかけ続けてしまうだろう。だけど、こうして目の前で伝えてくれる好意を、いつかは受け取れるようになりたい。ありがとうと言えるくらいになったら、それはイコールで前に進んだことにもなる気がする。

「僕はキスもセックスも出来ない。何も持っていない。それでも、いいの……?」

 ひっそりと囁いた言葉は、正しく日向に届いていた。不安なさまを強くのせていた声は情けないほどに震えていたけれど、日向はそれさえも愛おしいと感じているのか、さっきよりもぐっと深く目尻を下げた。

「っ、はい! 自慢じゃないですが、性欲はすこぶる薄いので安心してください!」

 頬に手を添えたままとんでもないことを言われた気もするが、お互いに剥き出しの本音をぶつけ合ったのだから良いだろう。本人は自分が何を言ったのか分かっていないのか、にこにこと笑うだけなのが日向らしかった。

 情けなく、弱くて、意気地の無いところを吐き出して、晒していた。下品な話もたくさんしていたし、見限る機会はいくらでもあっただろう。それなのに日向は嫌うどころか、そんなところも好きなのだと嬉しそうに話してくれる。

「好きだよ。君が、日向くんのことが、何よりも好きだよ」

 抑えきれなかった激情は溢れ出し、言葉となって晒されていく。今まで散々に愚図ったのに、飛び出した言葉は正直な自分の気持ちだ。

 愛される資格のない自分は、愛する資格もない。そうやって自分を守ってきたはずなのに、出会って間もない彼に変えられてしまった。

 もし彼の気持ちが変わらずにそばにあって、それを少しでも掬い上げられる自分に変わっていったら。これほどに慈愛に満ちた変化はない。未来に向かって変わってしまうことをずっと怖がってきたけれど、こんな風に変わっていけるとするのならばそれは彼の隣が良かったし、変えてくれるのは彼しかいないと思った。

 日向になら変えられてもいいと思ったし、日向なら変わらなくてもそのままでいてくれると思った。自分を嫌い続けてきたおかげで未来のことは分からないけれど、変わっても変わらなくても良いんだと思えたのは、こうして日向に出逢ったからだ。

「千秋さん、好きです、大好きです。俺に千秋さんを守らせてください。付き合ってください」

 大きくて硬い指先が、滑り落ちていく涙を拭っていく。目尻に、こめかみに、耳に、彼の温かさが宿っていくようだった。

「こんな僕ですが、よろしくお願いします」

 いつの日か、彼と恋人のように過ごせる日がくればいい。その形がどんなものになっても、彼となら怖いこともないだろう。こんなにも穏やかな気持ちで未来を望んだのは初めてだった。

 嫌われてしまうかもしれない怖さよりも、こうなっていけばいいと描き出す嬉しさの方が大きくなる。自然と緩んでしまう口角に、顔をぐしゃぐしゃにして笑っていた日向は一層目尻を崩していく。モテそうな顔が台無しだと思うのに、こんな表情を向けてくれる彼のことが、ひどく愛おしかった。

 頬を包んでいた手が外れて、気が付いたときには背中に回っていた。須賀の細い体は体格のいい日向にすっぽりと隠されてしまう。驚いて言葉さえも出てこない須賀に、日向は幾度も愛の言葉を呟いた。蕩けるように甘い声は、凍えて固まった心を溶かしていくようだった。

 耳に掛けた前髪が、日向の吐息によってはらはらと零れていく。秋色に蕩けた光は、二人の間に揺れるピアスと交じっていった。



*****



 須賀が教室を飛び出してから一週間。いつものように最前列を陣取った須賀の背中には、不躾な視線がいくつも注がれていた。注目されることを苦手とする須賀にとっては非常に苦しい状況ではあるのだが、それもこれも自分が蒔いた種なので我慢するしかない。四年である須賀にとって英文学の授業を受けられるのは、この半年が最後のなってしまうのだ。

「千秋さん! おはようございます!」

 先週は飛び出してしまったせいで、どんな本を紹介されていたのかが分からない。英文学を担当している教授は海外でも研究拠点を持っているため、日本では見かけないような珍しいものも紹介してくれる。ノートとトートバッグに差したシャープペンを出しながら少しの淋しさを感じていると、すぐ隣から声を掛けられた。

「おはよう。……ご友人が心配しているけれど、大丈夫?」

 にこにこと人好きのする笑みを浮かべて右隣に座ってくる日向とは、すったもんだの末に恋人という関係に落ち着いた。何となくこそばゆい心地を覚えてしまう名称も、こうして輝かしいまでの感情を向けてくれる彼だからこそ許してしまった。

 だけど、この関係を知らない周りからすればおかしな男に日向が誑かされた、とでも見えるのだろう。今も少し距離を取ったところから、こちらを睨みつけるように窺う男子生徒がいた。日向と話しているところを見かけたことがあるから、友人である優しい日向のことを深く心配しているのだろう。

「え、あー、えっと……」

 日向が須賀の示した方へと視線を向けると、好機だと受け取ったのか男子生徒が歩いてくる。須賀は相変わらず前髪とマスクで表情を覆っていたけれど、あからさまな敵意に眉根を寄せた。

「日向、お前さぁ、なんでこんな奴に話しかけてんだよ。弱みでも握られてんのか?」

 真っ向からの物言いに呆れるどころか、へぇ、と感心してしまう。今まではずっと遠巻きに視線を向けられてばかりだったから、こうして直接言葉を投げかけてくるような人はいなかったのだ。人懐こく、裏表のない日向にだからこそ出来た男らしい友人に、また眩しいと目を細める要因が出来てしまった。

 ちらりと壁に掛けられた時計は、始業まで後五分程を残していると訴えてくる。教授がやってくればこの生徒も大人しく席についてくれるだろうとは思うのに、それまでの時間が長すぎる。修羅場とも取れる状況から逃げ出す方法など知らない須賀は、どうすればこの二人が険悪にならないかを考え始めた。

 元々細い目を吊り上げて睨んでくる男子生徒をぼんやりと見上げて、ただ日向のことを思う。成績の良い須賀も経験のない状況では流石に採用出来るだけの案は浮かばす、取り敢えず日向には彼らの元へ戻ってもらおうと考えた。そうした方がきっと、全てが穏便にすむのだ。

「そんなことないよ。千秋さんはそんなことしない」

「だったらなんで!」

「千秋さんのことが好きだから、一緒にいたいだけだよ」

 日向くん、と呼ぼうとした声は本人によって遮られ、余韻を残す言葉尻に漂う空気は音を立てて凍り付いた。にこやかに告げられた言葉は彼の友人を、須賀を、周りで聞き耳を立てている生徒を、ひび割れるほど固まらせるには充分だった。

「おい、お前、何言って……」

 いち早く復活した男子生徒が、ぽかんと呆けていた表情を引き締める。好きだと告げる言葉に込められた感情の意味合いを計っているだろうが、どの種類に当てはめても納得がいかないと言外に語っていた。

 静まり返った教室で何十、何百という目に見られている。日向にとって同級生がほとんどを占める場所でこれ以上の問答はしたくなくて、彼ら二人を治める言葉を探すが脳内の引き出しでは何も見つからない。

「あと、恋人のこと悪く言われるのは良い気分しないから、やめてほしいかな」

「ちょ、っと、日向くん」

 眉尻を下げて続けられた言葉に、須賀は焦って縋るように彼の腕を掴む。勢いをつけてしまった力に日向は肩を揺らしたが、すぐにどうしました、と微笑みさえ浮かべて振り返る。

 日向は握り締められた袖口を見て嬉しそうに口元を緩ませるだけで、今自分がどれだけ注目されているのか分かってはいないだろう。純粋で真っ直ぐな彼を咎める気にはならず、これから降ってくるだろう面倒事に隠れて息を吐いた。

「……は? 恋人って」

「報告できなくて、ごめん。またちゃんと説明するから」

 言葉が続けられない男子生徒は、あまり大きくない目をこれでもかと開かせて日向を見つめる。隠せない動揺に、周囲のざわめきが混じった。

 まだまだ長いと思っていた五分はいつの間にか進んでいて、始業の音と共に教授が入ってくる。ショックから抜け出せない男子生徒も注意され、重たい足を引き摺って離れた席に座った。

 自分が言ったことの影響力を自覚していないのか、日向は教授の握る数冊の本から目が離せなくなっている。きらきらと光の宿る視線を追いかけると、なるほどと納得してしまった。今週もまた児童書に戻ったのか、三冊の内二冊は薄い絵本のようだ。

 過ぎ去ったことは仕方が無いと、須賀は溜息を吐いて前を向く。目が合った教授に微笑まれたのはきっと、気のせいだろう。



*****



 金曜日の午後六時十五分、日向と須賀は並んで歩いていた。すっかり陽の沈んでしまったこの時間は二人の姿を透かしていて、ひっそりと手を繋ぐことも容易い。重なり合った手のひらは熱く、どちらも緊張と愛らしさで汗ばんでしまっていた。

「さっき連絡したら、すごく張り切ってました」

 今日はバイトを入れていないのだと雑談の延長として話す須賀が誘われたのは、昼休憩に喫煙所で会ったときだった。生活費を自分で稼いでいる須賀は、高校生の頃から続けている喫茶店と、大学に上がってから見つけた翻訳のバイトを掛け持ちしている。

 日向は長期休暇の間しかバイトはしないようにしているが、取れるだけ授業を取っている日向も須賀と同様に忙しい。テストや課題との折り合いもあるため、付き合って一ヶ月が経っても二人で出掛けたことはなかった。

 銀杏並木が隠してくれるあのさびれた喫煙所に行けば会えるけれど、昼休憩のほんの数十分しかない。そんな折に時間が空いているのだとぽろりと溢せば、日向は尻尾を振ってその言葉に飛びついた。

 そうして念願叶っての帰り道なのだが、軽く前髪を耳に流した須賀は何とも形容し難い表情を張り付けていた。繋いだ手のひらがくすぐったくて落ち着かない。

「なんでまた、ご実家なの?」

 てっきり何処かに出掛けるのだと思っていた須賀は、見えてきた一軒のお宅に眉根を寄せる。こじんまりとした可愛らしい日向の家は一ヶ月ほど前に訪れたときと変わらないまま、穏やかな灯りが一つ、二つと点けられていた。

 日向の母親と会って、穏やかで慈愛に満ちた人だと眩しくなった。日向の生まれ育った場所は須賀にとって物語の中でしか見たことのない幸せに溢れていて、自分は相応しくないのだと泣きたくなった。慣れていない環境は居心地の悪ささえ感じさせたが、喜色に塗れた顔で誘われてしまったら断ることも出来なかった。

「……千秋さんがうちを苦手に思ってるのは、知ってます。だけど、うちが千秋さんの帰るもう一つの家になってくれたらなぁって、思いまして、ですね」

 上手く言えないんですけどね。そう付け加えて微笑んだ日向は、なんだか少しだけ淋しそうな色を含ませていた。それに須賀は申し訳ない気持ちになって、ごめんと口の中だけで言葉を転がす。二股に割れた舌先で銀色のボールが動いて、かちかちと音が鳴った。

「ただいま」

「ぁ、えっと、お邪魔します」

 こち、と鍵の回る音がして、すぐに扉が開かれていく。さっさと入っていく日向に慌てて続いて、古くなった革靴に指を掛けた。足音を殺して歩くせいで踵の部分だけが擦り切れていて、指先でなぞると乾いた土が落ちていく。人気のない喫煙所は剥き出しの地面に錆びた灰皿が置かれていて、頻繁に通っている須賀の靴にはいつも土がついていた。

 今日はどこか甘い香りがする。喫茶店でも馴染みのある甘く焼かれた香りに、須賀が脱ぎ終わるのを待っていた日向の腹がきゅるると鳴った。正直な音に本人は恥ずかしそうに頬を赤らめていたが、主張の激しい腹ペコ虫を須賀は思いのほか気に入っていた。

「君の中の虫、僕は好きだよ」

 大きく花開いた刺繍が施されたカーペットに上がって指させば、日向は目尻に皺を寄せて喜んだ。感情のままにころころと変わっていく表情は幼くて、だけどどれだけ思いやりに溢れた男なのかを須賀はもう知っていた。

 両親とは絶縁状態で、高校から寮に入っていた須賀は中学の卒業式を最後に両親とは会っていない。喫煙中の雑談混じりに話した内容は須賀にとって悲しくもなんともない、ただ過去に埋没されただけのものだった。だけれど瞳を揺らして涙を溢した日向に、これは雑談として取り扱っていいものではないことを知った。優しい日向はその後もなかなか泣き止んではくれず、昼休憩が終わるまでずっと手を繋いでいた。

 日向の隣で過ごす毎日は穏やかで、柔らかくて、心地が良い。落ちていた銀杏の実を踏んでしまって悲しく叫んでいる姿を笑ったり、毎週のように訳されてくる物語を添削してやったり、バイトをしている喫茶店に遊びに来た日向に犬のラテアートを描いてあげたり、須賀の毎日には静かに、深く、日向が沁みこんでいた。

 それは日向も同じなのか、最初の頃は偶に覗かせていた焦燥を忘れた頃からはずっと、須賀の隣で穏やかに、時に騒がしく笑っている。相変わらず英文学の授業は並んで座っているせいで彼の友人たちからは複雑な視線を向けられているが、元来の人懐こさのおかげで大事には至らなかったらしい。今でも仲良く話している姿を廊下の隅で見かけていた。

 本当にこれで良かったのかと、不安が無くなったわけではない。女子生徒と話している背中を見てしまったとき、腹ペコ虫を宥めすかして昼の時間全てを自分に分け与えているのだと実感したとき、家族のことを誇らしそうに話す横顔を見上げたとき。どうして自分なんかが彼の隣にいるのだろうか、不釣り合いな手のひらを見つめて溜息を吐いた回数は、もう既に百を超えてしまったはずだ。

 今もまた、不安に苛まれている。土間には草臥れた様子の革靴と、おろしてすぐなのかぴかぴかに光る小さなローファーが揃えられていた。この間は見かけなかったその二足は、日向の父親と妹が脱いだものだろう。

 橙色の柔らかな灯りの漏れるリビングからは、軽やかな話し声が聞こえてくる。テレビの音ではないそれに背筋が伸びて、無意識の内に両手を握り締めていた。耳に掛けていた前髪を払おうと持ち上げた右手は日向に掬い取られてしまって、砦だと思っていたマスクも取り上げられてしまった。

「日向くん、それは、」

「大丈夫です。父さんも小春、妹も、千秋さんのピアスは知っています」

 隠している理由はピアス以外にもあったけれど、自分の顔が嫌いだからと情けなく縋りつくことも出来なかった。垂れてきた一束の前髪を横に撫でつけられ、自分を隠してくれるものは全て失ってしまう。不安と怖さに泳いでいく視線の先で、日向は幼い子どもを宥めるような、優しく柔らかな笑みを浮かべていた。

 掬われていた手を繋ぎ、引っ張られていくままに歩いていく。馴染みのある甘い香りが、まるで地獄に導いていく花のようだと思った。

 この幸せに溢れる家を地獄などと例えてしまう自分が、心底情けない。素直に温かさを出迎えたことのない心は、すぐに言い訳を募らせて逃げ道を探してしまう。

「ただいま」

 玄関先でも溢していた言葉を繰り返し、リビングへと繋がっている扉を開ける。一層強くなった甘い香りは卵の焼けていく音と重なって、半歩前にいる日向の腹ペコ虫が切なげな声を醸し出していた。

「おかえりなさい。千秋くんも、ほら、おかえり」

 丁度区切りがついたのか、キッチンの方から顔を覗かせた母親はにっこりと微笑んだ。肩から下がっているエプロンは胸元に犬が三匹並んでいて、この一家は犬派なのだろうかと場違いにも考えてしまった。

「あ、すみません、お邪魔しま、」

「違うわよ、千秋くん。おかえりなさいには、なんて答えるの?」

「っ!」

 腰を屈めて覗きこまれた瞳は、とろりとした甘さに満ちていた。日本人離れした茶色の強い瞳は吸い込まれてしまいそうな不思議な力があり、人形のような繊細さと強さを共存させていた。

 促された言葉に従ってもいいのだろうか。須賀はひとしきり唸った後も正解は導き出せなくて、未だ手を繋いだままの日向を見上げた。悶々と悩む須賀をずっと見ていたのか、引き寄せられて磁石のようにぴたりと絡まり合った視線はどこまでも優しい。皮の厚くなった指の腹でゆったりと手の甲を撫でられて、須賀はその言葉で答える決心を固めた。どきどきと大きな音を出す心臓は痛くて、苦しくて、ゆっくりと吐き出した呼吸は熱く燃え滾るようだった。

「……ただいま、です」

 小さく、小さく囁かれた言葉は掠れていて、目の前にいる母親と、肩を並べている日向にしか聞こえなかっただろう。だけれど、不安そうに眉尻を下げたまま真っ赤に頬を染める姿を見て不満に思う二人ではない。相当な勇気を振り絞ってくれたのだろうと窺える様子に嬉しさと悲しさと、少しの淋しさを混ぜて微笑んだ。

「はい、おかえりなさい。丁度出来上がったところだから、ご飯にしましょうか」

 薄い茶色の瞳は橙色の灯りを反射して、ぱちりと瞬くたびに光を散らす。日向の瞳はここまで色素の薄いものでもないのに、光を吸収してはじき返す様子は似ているのかと驚いてしまった。

 日向に手を引かれて、リビングのソファで座っていた父親に挨拶をする。ジャケットを脱いでネクタイを外しただけの彼は引き結ばれた口元のせいで怒っているような印象を受けたが、ただあまり表情が変わらないだけらしい。よろしく、と落ち着いた声と共に伸ばされた手のひらに、慌てて自分のそれを重ね合わせた。

 二階から降りてきた妹には綺麗だの細いだのお兄ちゃんのどこが良かったのかだの、気圧される勢いで矢継ぎ早に質問されてしまった。面食らったまま何も言えない須賀を見かねて母親が仲裁に入ってくれて、今は落ち着いた様子でテーブルを囲んでいる。

 須賀の隣には日向が座り、その正面には両親が。妹は本来須賀が座っている席を使っているらしいが、お誕生日席は気を遣うだろうと変わってくれた。

「いただきます」

 四人に倣って両手を合わせて、小さく頭を下げた。慣れていない動作にまた、日向を見上げてしまったが、視線の先では日向が柔らかく笑っていたから間違ってはいなかったのだろう。

 今日の献立は色鮮やかな洋食だった。メインとなるオムライスはバイト先の喫茶店でも出しているような綺麗に巻かれたタイプで、黄色く輝いている山の上にはニコちゃんマークが描かれている。

 透き通ったスープの中には大きく切られた野菜がぷかぷかと浮いていて、添えられている小さなお皿にはトマトのマリネが入っているのだと教えてくれた。フルーツの沈んだゼリーも手作りのものらしい。

 湯気のたつ食卓には所狭しとお皿が並べられていたけれど、須賀の前にはあまり大きくない平皿が一つだけ、ぽつりと置かれている。その上に小さく丸い山を作ったオムライスと、ちょこんと可愛らしく添えられたマリネ。スープとゼリーは小さなお皿によそって乗せられていた。

 量を食べられない須賀を思って盛り付けられたそれに、妹はお子様ランチみたいで羨ましいと嘆いていた。彼女の前に置かれたオムライスは日向と同じくらいのサイズがあり、これでは足りないだろうと呆れた調子の日向に思わず笑ってしまった。

 当たり前のように振り分けられる優しさに、緩んでくる涙は唇を噛むことで耐えた。あれだけ乾ききっていた瞳も、彼への好意を認めてしまった今では溢れ出るままである。子どもの様に泣いてしまったのはあのときだけではあるが、当たり前に配られる日向の優しさに滲ませたのは一度や二度ではない。

 日向なら三口で食べ終えてしまいそうな小さなオムライスにも、可愛らしいニコちゃんマークが描かれている。小山の上で赤色に輝くマークは小さいのに、歪むことを知らずに円を辿っていて母親の器用さを知った。

 日向に格好悪い部分を曝け出したときも、それから隣り合って過ごすようになってからも、彼が須賀を否定してくるようなことはなかった。自分自身を嫌いだと断言した須賀に何か言うこともなく、その分自分が愛するのだと胸を張った。気持ち悪いと罵ることも、考えていることは間違っていると否定してくることもなかった。

 両親の話をしたときですら悲しそうに眉根を寄せてこそいたけれど、だからどうだと口を出してくることはない。自分のところはこうだった、と比べてくることもしなくて、ただこうして、新しい未来を提示してくれるだけ。

 須賀は自分自身を否定し続けて生きてきて、それが当たり前になっていた。自分自身のことが大嫌いで、好きになんかなってもらえるはずがないと否定して、怖がって生きてきた。だけど、日向の隣は酷く心地が良い。自分そのものを受け取ってくれて、否定しないでいてくれるだけでこんなにも息がしやすいのだと、須賀は日向に会って初めて知った。

「母さんの料理は美味しい、好きなだけ食べてくれ」

 黙々と食べていた父親が唐突に口を開いたと思ったら、ひっそりと言われた言葉に今度こそ涙が耐えられなかった。好きなだけ、と告げた言葉には、残しても気にするなという意味もこめられているのだと分かってしまった。

 ぽろぽろと流れ落ちていく雫を、隣から伸びてきた指先が掬っていく。それでも止まらない涙に、焦れた日向は細い体をぎゅっと抱き締めた。

 ご両親の前だからと注意することも出来ず、男らしい腕に包まれて溢れるままに涙を流す。そんな時間にも橙色の灯りは優しく、柔らかな香りは須賀を包み込むように漂っていた。

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