松山たると物語~菓子侍と夏目漱石~
きょうじゅ
明治編
1
第1話 坊ちゃん
さて、彼は大分のちにこのときのことを自伝的小説に仕立てるわけだが、そこではこんな風になっている。
「茶代を五円も包んでやったら宿の下女は変な顔をして、中学校から戻ってきたら部屋が十五畳敷きの『一番』に変わっていた」
実は、これはほんとうのことではない。金之助は中学校で辞令を貰って、それから県庁にも挨拶に行ってようやく宿に戻って来たのだが、部屋は竹の間のままであった。四月十日の晩も、金之助は竹の間で過ごしたのである。
事態が一変したのは翌日のことだ。朝、「海南新聞」という土地の新聞が旅館に届いたのだが、そこに金之助のことが載っていたのである。曰く、『愛媛県尋常中学校教員ヲ嘱託ス、月棒八十円給与、夏月金之助(四月十日)』。
名前を夏月に間違えられたので金之助はまた憤慨したが、それより仰天したのは旅館の者たちであった。月棒八十円というのは、十銭が千円として換算しても八十万円である。令和の世とは社会情勢が違うとはいえ、それでも大学を出たばかりの若者が貰う給料としては破格であった。だいたい、同じ学校の校長の月給ですら六十円なのだ。そのような高給で赴任できたのは、金之助が当時の社会では非常に貴重だった英語科の教員資格を持っていたことと、彼より前に同じ学校にいた外国人のお雇い英語教師はさらにもっと高い給料をもらっていたこと、そして金之助自身が「外国人教師並みの待遇をするのでなければ(松山くんだりなんてところには)行くつもりはない」と吹っ掛けたから、である。
果たして十一日、中学校で初めての授業を終えて帰ってきたら部屋は『一番』に替わっていた。十銭の茶代のためではなかろう。この「坊ちゃん」が大変な名士であるということを旅館の者たちが知った結果だ、と思われる。新しい部屋には床の間まであるので、金之助は気をよくした。三日目だというのに、今さらながらお着き菓子まで用意されていた。金之助は割合に甘党であるので、これにも気をよくした。茶の用意もある。
「ほう。うまいではないか」
金之助にはそれが何だか分からなかったが、カステラのような生地で、小倉餡を包んだ菓子であった。夜、布団を敷きに来た仲居に、あれは何だと訊いてみた。
「あれとは何ぞな、もし」
「置いてあった茶菓子ですよ。なかなかいい味だった。なかなかハイカラなものを置いてるじゃないか」
ところが、宿の者はその言葉を一笑に付した。あれは
「定行公とは誰だね」
「伊予松山藩の初代藩主でございますよ。正保の頃に、たるとを御考案になられたのです。松山にはこのことを知らぬ者はおりません」
「正保? 正保というのは、あの正保か?」
正保年間というのは十七世紀、一六四四年から一六四八年までのことである。
「その正保以外にどの正保があるぞな、もし」
「ううむ。これは驚いた」
これが金之助、すなわち後の世にいう
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