命題

@IMAKITATIKAMI

一幕『—命題—』


『現実を見るということは、夢を諦めるということだ』


 私の心の声が繰り返し、告げる。

 繰り返し——何度も。何度も。


 そう。どうせ、叶いっこない夢だ。

 こんなもの——捨ててしまえ。


 私は、手元のスケッチブックを閉じて、自室に戻る。


 ふと、外を見る私——旅館自慢の日本庭園の紅葉が見ごろを迎えていた。

 私は、この旅館が大好きだ——けれど、やっぱり。その気持ちと同じくらい……いや、もういいか。


 それはもはや、取るに足らないものだった。

 ——私は、それを無視する。思考から追い出す。


「ねえ、お嬢さん——ちょっといいかな?」


 そんな呆然自室——もとい、呆然自失の私に、突然声がかかったのだった——目の前にいたのは、今日からこの旅館に泊まるという謎の客だった(なんでも、小説を書く人らしいけれど)。


 どうしたことだろう。これは。


 だめだ——いったん、冷静になろう。そうだ……ここは。ここは、私の部屋だな。自室だな。私にとっての安全地帯。私を脅かすものなんてひとつもない、安寧の地。

 うん。

 頭の中が真っ白になる。

 いや、いや、いや……! ——激情が、私を駆り立てた。


「な、なんで人様のテリトリーに、さも当然のように踏み込んじゃってくれてるわけですか?! 最低っ!」


「落ち着いて。ぼくはきみの問題について話がしたくて——」


「ちょっと何言いたいのかわかんないんですけど! もう、気味が悪いからどっか行ってください!」


「きみが悪いって? そんなひどいこと言わない。 それよりも、きみはもっと身の回りのことを考えて生きたほうがいいよ——部屋の鍵をかけ忘れてしまうくらいに、きみは身の回りのことがまるで見えていないようだからね」


 ……私は肩を震わせた。これ以上、会話を続けるのは危なそうだった。


「……わ、私の問題? え、私が悪いの……?」


 ——そう。きみの『問題』なんだよ。ぼくが今まさに話しているのは。

 目の前の客は私をまっすぐに見据えてくる。


「言ったろう? ぼくも必死になって考えてみたんだけれど、こればっかりはどうにもならなかった……正解がわからないんだ。少なくとも、ぼくにはわからない。詰まるところ、これは……」


「難しい……?」


「まあ……。既にきみはぼくに気付きを与えてくれていたけれど、正直、それだけじゃあ、何もわからない。——〝この世にたったひとつ〟の存在というものについて、考えあぐねてしまってね。どうにも扱いが難しい」


「…………」


「ぼくにチャンスをくれないかな? ……せめて、もう少し、正しい答えにたどり着くための糸口がほしいんだ」


 お客さんは急に懇願してきた。

 果たして、女子高生に頭を下げるというのは大人としてどんな気分なのだろうか?


「……そのスケッチブックの中身——それが君にとっての、かけがえのないものなのかな」


 お客さんの問いかけに私は応じる。


「……はい——〝決して手の届かない〟どうせ叶いっこない、私の夢です」


「そっか。君の夢って……」と、お客さんはスケッチブックを示しながら言う。「——やっぱり、〝絵描き〟になることなんだね」


 それこそが。

 ——決して手の届かない。

 ——この世でにたったひとつの。

 きらきらと輝く『宝石』。

 それでも。


「全然違うんです……そんなのは」


 わかっているはずだ。

 もはや、見ても仕方のない夢だった。

 本当の夢は。

 いつまでも〝それ〟を見続けることは、抱くことは——間違っているのかもしれない。

 私にとって。

 そう。これは〝正しい答え〟とは言えない。

 ——不正解。


「不正解」と、私は答えを示す。


「……この旅館を継ぐことが、本当にきみのやりたいこと——きみの夢?」


 私は、ついに問われてしまう。


「………」


 すぐには言葉が出てこなかった。

 まるで、布団から起き上がるのが億劫で。どうしようもなくいやでいやで、ぐずるみたいに。——いつまでも夢の中にいられたら、どんなに幸せだろう。


 けれど。


 私はいい加減、夢ではなく——現実を見なければならない。

 わかっている。


 長い長い夢。その終わり。

 ——ずっと見続けていた。


 小学1年生の時、初めてスケッチブックを買ってもらった私は、その真っ白な世界を手に取って心を躍らせていた——まさに夢心地だった。


 ——この空白に次は何を描こうか。何を、思い思いに描こうか。


 ——どんな世界を広げよう。思い描こう。


 思い出した。


 スケッチブックを携えて、旅館の中を走り回っていた当時の私は、旅館に住む『座敷童子』と呼ばれたものだった。……今も、そう変わらないのかもしれないけれど。


 毎日、毎日、スケッチブックのページを絵でいっぱいに埋めるくらい。

 私は純粋に、ただ、絵を描くのが好きなのだ。


 私は——。


 けれども私には、それと同時に——それと同じくらいに、どうしようもなく好きなものがあった。


 私が生まれ育った——この旅館。

 それは私自身のアイデンティティと言ってしまっても過言ではないのかもしれない。


 実際のところ、私は、この旅館の温泉が好きだ。この旅館の庭園が好きだ。この旅館の門構えが好きだ。この旅館の客間の畳の匂いが好きだ——その上で昼寝をするのが好きだ。この旅館の廊下の軋む音が好きだ。——この旅館に泊まったお客さんの笑顔が好きだ。


 私の将来は決まっていた——お母さんの跡を継いで、この旅館の女将になること。けれど、そのことを素直に喜んだり、誇りに思ったりできない——真面目に向き合えないのが、今の私の複雑な心境だった。


『いつまでも、子どもみたいに遊んでないで、少しは旅館の仕事を手伝いなさい——もう高校生なんだから、しっかりと自分自身の将来のことも見据えたらどうなの』


 ——口酸っぱく言われ続ける。

 そう。お母さんの言うことは正しい。いつだって。

 お母さんは、自分自身の跡取りとして、常日頃、私の言動を注視しているようだった。


 この旅館は、お母さんでちょうど六代目になる——百五十年近くの歴史を持つ老舗旅館だ。そんな、代々受け継がれてきた旅館は今、全盛期に比べて客足が遠のき、まさに風前の灯火なのだから。

 旅館の行末を託すことになる一人娘に、こんなふうに期待が伸し掛かるのも、当然だと言えるだろう。


 今朝、お母さんの再婚相手——私がまだ幼い時分に亡くなった父親に代わって、お母さんが新たに、旅館を切り盛りしていくパートナーに選んだ(私はその人のことを心の中で『』と呼んでいる、つまりは、他の『お客さん』と区別していない)——は、私に尋ねてきた。

 ——今回もどうせ、お母さんから話をするようにと頼まれでもしたのだろう。


「今ちょっと、話してもいいかな……最近、女将さんと口論しているみたいだけれど、その——きみの将来のことで……」


 あれこれと、はぐらかしてきたけれど、もう限界だ。


 決断しなければならない。

 周りからの期待に応えるためにも。

 どうやら私に、考えている余裕は残されていないようだった。


 そうだ——現実を見よう。受け入れよう。


「夢を諦めるということは、現実を見るということだ」


 私は選択する。

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