第3話   三崎桐子という名のスポンサー

 涼一は控え室に戻るなり、全裸になってシャワールームへと足を運んだ。


 適当な個室を選んで蛇口を捻る。


 適度な温水が涼一の身体に浮き出た汗を流していく。


 五分ほどでシャワーを終えた涼一は、完備されているバスタオルで全身を拭き終えると全裸のままロッカールームへと向かった。


 広々とした選手用の控え室にはアルミ製のロッカーが何十個も立ち並び、そのロッカーの上には一つ一つアルファベットと番号が刻まれている。


 しかも床には足音を掻き消すほどの高級感が漂う青色の絨毯が敷き詰められ、初めてこの部屋に足を踏み入れた人間はとても控え室と兼用しているロッカールームには思えないだろう。


 実際に自分も初めてこの控え室を見たときは怪訝するほど戸惑ったものだ。


 それでも賭け試合に参加する人間側にすれば当然の扱いだと思う。


 せめて控え室ぐらいは豪華に造られていても罰は当たらない。


 中には専用の個室を用意してくれと主催者側にクレームを付ける参加者もいるほどだ。


 まあ、そのような勘違いした人間は人知れず闇に葬られることになるのだが……


 涼一は自分の私物を保管していたローカーの前に立つと、ロッカーの表面に取り付けられたパスコードに指を伸ばす。


 四桁の暗証番号を打ち込んで中を開け、着替えと財布や携帯電話などの貴重品が入ったボストンバッグを取り出した。


 ボストンバッグのチャックを開けてボクサーパンツ。

 

 黒地の長袖シャツ。


 モスグリーンのカーゴパンツ。


 無地の靴下。


 フェイクレザーのジャケットを取り出すと、スマホもポケットに仕舞って素早く着替える。


 逆に試合で使用したラッシュガードパンツは、ナイロン袋に詰めてボストンバッグの奥に押し詰めた。


 最後にロッカーの内側に張られた鏡で髪型を整えて終了である。


 自宅ならば髪を乾かすためにドライヤーを使用するところなのだが、どうせ徒歩で帰れば勝手に乾いてくれる。


 それに髪が濡れたままのほうが気持ちよく夜風を感じるのも事実だった。


 涼一はロッカーを閉めてオートロックが掛かったことを確認すると、ボストンバッグを肩に吊るして踵を返す。


 今日の試合はすべて消化した。


 後はこのまま会場を出るだけだ。


 前髪を弄りながら入り口に向かう涼一。


 だが、10歩ほど進んだところで涼一の足はピタリと止まった。


 控え室の中に一人の女性が堂々と入ってきたからだ。


 年齢は今年で32歳。


 170センチ弱と女性としては高い身長に、年齢を誤魔化すために施された厚化粧が嫌でも目立つ。


 そして汚れ一つないグレーのドレススーツを完璧に着こなし、ショートボブに切り揃えられた黒髪の下に張り付いている顔は動物に例えれば狐のようだ。


 迂闊に近づけば狡猾な罠に陥れられる印象が全身から漂っている。


 出来ればこの女と接触する前に帰りたかった。


 涼一は暗澹たる思いに駆られたが、遭ってしまったのでは仕方がない。


 頭を下げつつ挨拶をする。


「こんばんは、桐子さん」


 涼一の挨拶を聞いて桐子は唇を歪めて笑みを作った。


 三崎桐子みさき・きりこ


 金融会社〈グランド・ファイナンス〉の社長として手腕を発揮する傍ら、この地下闘技場を主催する一人という裏の顔を持つ女傑であった。


 また桐子と涼一は叔母と甥という関係でもあり、つまり涼一と桐子は歴とした親戚ということである。


 しかし涼一と桐子はただの叔母と甥という関係ではなかった。


 世の中には血の繋がりや身体の繋がりよりも、深い関係で結ばれることがある。


「今日も最高だった。最初は観客に相手側が有利だと思わせ、オッズが終了した直後からドラマチックに勝負を決める。彼我との実力がないと出来ない見事な芸ね」


 見事な芸という括りに涼一は眉根をひそめたが、だからといって明らかな敵意を剥き出しにするわけにはいかない。


 涼一は必死に作り笑いを浮かべて頷く。


「そうしたほうが客の受けもよいと思いました。すべては桐子さんのためですよ」


「うふふ、あなたも大分役者になってきたわね。お陰であなたの試合はいつも儲かるとお得意様も喜ぶのよ。この調子で私のために頑張ってちょうだいね」


「もちろんです。これからも誠心誠意、桐子さんのために尽くしますよ」 


 などと言葉では桐子に忠誠を尽くすかのように言う涼一だったが、心中では吐き気を催すほど気分を害していた。


 本当は桐子などに忠誠を誓うつもりなど毛頭なかった。


 出来ることなら血が滲むほど固めた拳を、桐子の顔面に打ち込みたかった。


 関節技でも一向に構わない。


 腕や足をへし折るなどと生易しいことはせず、一思いに頚椎をへし折って首を百八十度曲げてみたかった。


 そうすれば確実に桐子は死ぬだろう。


 脳裏で幾度もシミュレートした桐子の殺害。


 打撃技、関節技、何を選択しても半径2メートル圏内ならば実行は可能だった。


「どうしたの? 顔色が優れないわよ」


 涼一ははっと我に返った。


 いつの間にか心境の変化が表情に出ていたようだ。


「いえ、何でもありません。少し疲れただけです」


 涼一は瞬時に作り笑いを浮かべた。


「そう? それならいいわ。だったら今日は家に帰ってゆっくり休みなさい」


 そう言うと桐子は持っていた1枚の茶封筒を涼一に手渡した。


 茶封筒自体はどこの文具店でも購入出来るB4形の封筒だったが、中には結構な枚数の紙が入れられているのか分厚く膨らんでいる。


「いつもすみません。ありがたく頂戴します」


 涼一は茶封筒を受け取り、封を切って中身を確認した。


 茶封筒の中には100枚に束ねられた一万円札が入っていた。


 今日の賭け試合のファイトマネーである。


 地下闘技場で行われる賭け試合では多額の金が飛び交うため、選手自体にも破格のファイトマネーが支払われる。


 ただし勝者と敗者では金額の桁がまるで違う。


 それ故に賭け試合に参加する選手は誰もが死にもの狂いで闘うのだ。


 それは涼一も例外ではなかった。


 桐子はファイトマネーを受け取った涼一、何気ない口調で言う。


「今日の試合で手に入れたあなたのファイトマネーは350万円。その中から250万円を差し引いておいたわ。これで残りの借金総額は1億1600万円ね」


 1億を超える途方もない借金の総額。


 これこそが涼一と桐子を縛り付ける強固な縄に他ならなかった。


 すべては4年前に父親が不動産詐欺に遭ったときから始まった。


 涼一の父親は、いまいちぱっとしない戦歴を持つプロの格闘家だった。


 キックボクシングや総合格闘技の大会に何度か参加した経験を持つが、どの大会でも優勝はおろか三位にも入らない。


 たまにテレビ放送されるトーナメントの出場資格を勝ち取るものの、醜いドロ試合を重ねてブーイングを喰らう始末。


 やがては度重なる膝の故障により、満足に大会やトーナメントに出場することも出来なくなった。


 そんな父親が後輩の育成のために道場を開こうと思い立ったのが4年前。


 折しもコロナ禍になる直前、父親はあろうことか人生最大の賭けに出た。


 一度こうと決めたら実行せずにはいられない性格だったことが災いし、涼一の父親は多額の借金を重ねて一件のビルを購入。


 道場を運営するために必要な器具などを買い漁り、着実に道場発足に向けて準備を整え始めた。

 

 その矢先の出来事であった。


 何と父親が購入したビルは又貸しされていた土地であることが判明したのだ。


 しかもビルを購入した数日後に不動産屋自体も倒産してしまい、父親はワケありの物件を多額の借金をしてまで購入した事実だけが空しく残ってしまった。


 それだけではない。


 一般的に都市銀行や信用金庫などの金融機関から多額の融資を受ける際は、厳しい審査をされた上で担保を要求される。


 しかし、うだつの上がらなかった格闘家に多額の融資をする金融機関などない。


 当然、父親は都市銀行などと比べると融資条件が甘いノンバンクの金融機関に融資を求めた。


 ところがノンバンクだと思って足を運んだ金融機関が、実は金利が膨大な街金だったことが後に発覚したのだ。


 それから先はお決まりの借金地獄に陥り、日数が経つほどに金利がどんどん膨れ上がった借金は1億5000万円にまで到達した。


 ここまで借金が膨れ上がると大概の人間は自分の人生に絶望してしまう。


 そしてそれは父親も同じだった。


 格闘家人生を終えてから数ヵ月後、涼一の父親は道場に設置されていた固定式スタンドに首を吊って自分の人生の幕を下ろした。


 一人息子の涼一に一通の遺書だけを残して――


「いち……りょういち……涼一!」


 突如、桐子の甲高い声が涼一の耳朶を激しく叩いた。


 涼一は大きく目を見張る。


「本当に大丈夫? 顔が真っ青よ」


 涼一は軽く首を左右に振る。


「ええ、本当に大丈夫です……大丈夫……ですよ」


 思い出したくない記憶を蘇らせてしまった。


 涼一はこみ上げて来る吐き気を必死に抑えながら、茶封筒をボストンバッグの中に強引に仕舞った。


 最早、1秒たりともこの場所にはいたくなかった。


 桐子の顔を見ていたくなかった。


「桐子さん、今日の試合も終わったことだし帰ります。また試合の日程が決まったら連絡して下さい」


 素早く頭を下げた涼一は逃げるように入り口の扉に向かう。


 だが、ドアノブを握り締めたと同時に声をかけられた。


「そうそう、言い忘れていたけどまた私は会社を一つ手に入れたの。今の世の中は多角経営の時代だからね。それに多く会社を持っていると都合のいいことが多いし――」


 いきなり自慢話を切り出し始めた桐子に涼一はうんざりした。


 叔母の悪い癖は一方的に自分の身の上話を甥に報告することだ。


 普段ならば適当に調子を合わせてもいいが、さすがに今はそんな気分ではない。


 涼一はドアノブを回して扉を開けた。


 会話を強制的に中断するように「お休みなさい」と挨拶してから控え室を出た涼一は、選手専用の出入り口に向かって歩き始めた。


 そこで初めて涼一は通路の奥に人が佇んでいることに気づく。


「やあ、大健闘だったじゃないか」


 声をかけてきた人物の正確な年齢はわからない。


 ただ有名球団の野球帽を目深に被り、地味なブラウンのシャツの上から羽織っていた黒のダウンジャケットを着ている。


 年齢は40代だろうか。


 いや、もしかするともっと上の年齢かもしれない。


 涼一は訝しむように目眉を細めたものの、すぐに警戒を解いて頭を下げた。


「ありがとうございます」


 先ほどの試合内容に関する賞賛ということはすぐにわかった。


 だとすると観客席で試合を観戦していた客の一人なのだろう。


 だがここは選手用の控え室に続く通路だ。


 本来ならば観客が訪れる場所ではないのだが。


 それでも妙齢の男性は軽く拍手をして先ほどの試合内容を褒めてくれた。


「その歳で活き活きした試合をする選手がいるとは噂で聞いていたが、どうやら噂に尾ひれはついていなかったらしい。素晴らしい腕前だ。同じ男として尊敬するよ」


「はあ……」


 褒められるのは嬉しいが、如何せん要領が得られない。


 この妙齢の男性はただ激励をするために、わざわざ賭け試合の選手に会いに来たのだろうか? 


 ならば相当に暇で奇特な人間と言わざると言えない。


 賭け試合を見物する観客にとって選手は軍鶏と同じだ。


 自分が賭けた金を増やすための道具であり、試合内容如何によっては暴動にまで発展する。


 例え賭けた選手が運よく勝ちを拾ったとしても、顔を直に見に来る客などいない。


 勝利した競走馬に会いに行く客がいないように。


「そんなに畏まらなくてもいい。今日はたまたま顔を見に来ただけだからな」


 そう言うと妙齢の男性は踵を返し、暗闇に包まれた通路の奥へ歩いていく。


 そんな妙齢の男性の後姿を、涼一はしばし呆然と見つめ続けていた。

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