ネーミングが奪う想像力

 多様性(ダイバーシティ)・SDGsなど、世間では騒がれているが、その関連ワードを出すだけでに、なってはいないだろうか?


 障がい当事者周りの話でいえば、世間が騒いでいるほど、決して大きく世の中が良い方向に進んだとは言えない、と感じている。

 私の勤め先でも、定期的に多様性の話が会社から降りてはくるが、その中に障害への理解という項目は見かけない。

 基本的にそう言った事は、現場任せになっている、というのが私の場合の現実だ。


 多くの企業やメディアでも「考えてみましょう!」止まりで、結果を伴わないものが多い。

 そういった呼びかけで、意識だけが高まり、新たなネーミングばかりが出てくるなと感じざる得ない。


 こもり人? メンヘラ系? ギフテッド? 天使ちゃん?


 正直、当事者の意思が反映されているとは言えないし、個人的には、これらの呼び方は嫌いである。

 障害をと言われるのもそう。


 ここに共通するのは、見た目には分かりづらい、または、言語化しにくい感覚によって苦しむ類の障害である。


 これらのネーミングには、都合の良い面ばかり強調される性質があり、そう呼ばれる彼ら彼女らにも、必ず苦悩や困難があり、それを見えにくくしている。

 そうした、極めて難しい現実的課題から目を逸らすための呼び名、だとさえも思えてしまう。


 自殺を自死と呼ぶのもそうだ。

「自死」と呼べば、個人の問題で「大変でしたね。」で済むからだろう。亡くなった方への配慮とは言われているものの、個人的にはそうとは思えない。

「自殺」は、「自己・自我を社会に殺された」から自殺なのだ。そこに病気が隠れていれば、病死ではないだろうか。



 当事者たちが、自ら呼び名やカテゴリーを付ける場合は、生きる手段として、良い面を売り出す必要に迫られた場合もあるだろう。または、自身を守るために。



 難しい理解などは、一旦据え置いて良いので、単純に想像力を働かせてほしい。


 障害になったときの、圧倒的無力感であるとか、不可能感を少しでも想像できれば「そんな事も出来ないの?」と言う人間にはなれないはずだ。


 両腕が無い人に、手を使う作業を無理強いしないでしょう?

 目に見えるものしか、想像できない?

 未だに精神論の問題?



 腫れ物に触れるような事ではなく、もし身近に、見えない障害や貧困などで苦しんでいる人がいたら、お互い、勇気をもって話し合ってみてほしい。


 人間なので、良い結果だけでなく、悪い結果も得る事があるかもしれない。

 けれども、話し合わないと、想像する事ができない人がたくさんいるのも事実。


 新しい呼び名で満足して、思考停止する前に、ちょっとだけ想像してみよう。


 前に進むには、先入観や括りは捨てないと。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る