第6話

       ◆


 その日は特別なことは起こらなかった。

 高坂は僕の部屋を見て、というか、ワンルームなので部屋の全てを見て、少し鼻を鳴らしたようだった。

「トイレ用の芳香剤でも置いているの?」

 ショッキングといえばショッキングな発言だったが、事実だったので何も言えなかった。

 それがやや記憶に残る程度で、高坂はテーブルに着くとぶらさげてきたビニール袋から取り出したペットボトルとお菓子を並べ始めた。そして突っ立っている僕を見て「座らないの?」と聞いてきた。ここが僕の部屋だということを、当の僕が忘れていた。

 来客を想定していないので座布団は一枚しかないし、クッションがあるわけでもない。僕は彼女に座布団を勧めた。彼女が素直に座布団を敷いた事で、やっと一息つけた。

「コップもないんだけど」

 これは自虐として発言したけれど、高坂にはウケなかった。彼女はなんでもないように、ストローをもらってきたから、とストローを二本、取り出した。かなり長いストローで僕は初めて見た。ペットボトル用でもなさそうだけど、何のためのストローかを聞く冗談が通じる自信が持てなかったので、質問は諦めた。

 高坂がレジュメとノートを見せてくれと話を進めてくれたので、僕はホッとしてまとめてあるレジュメと、板書を写したノートを用意して彼女に手渡した。彼女はそれを手にとって、ノートのページをめくっていくと少し顔をしかめた。

「綺麗な字、書くよね。憎たらしいくらい」

「憎たらしいって、そんなことを言われたのは初めてだよ」

「褒めているんだから、気にしないで。ちょっと量が多いから、ノートもコピーさせて。手書きで写すよりその方が早いし、石川くんの字は読みやすいし」

 そう言って高坂は立ち上がると、「コンビニに行ってくるね」と玄関へ行ってしまう。僕がついていくべきか、残るべきか、考えている間に、思考の速度よりも高坂の歩調の方が圧倒的に早いせいで、彼女はさっさと靴を履いて玄関を開けて出て行ってしまった。

 ドアが閉まっていく様を見守って、完璧に閉まってから僕はどうすればいいのか、またも途方に暮れた。

 二つのペットボトルを見るが、ストローが突き刺さっているペットボトルの中身は、どちらもほとんど減っていない。高坂はまた戻ってくるということだ。当たり前だ、ノートとレジュメを返してもらわないといけない。

 少し部屋でも片付けるか、と思い立って改めて部屋を見回しても、どこに手をつければいいのか。正解の見当がつかなかった。

 三段ボックスの中の本を整えたり、部屋の隅で折りたたまれている布団を整えたりと、無意味なことをしているうちに不意に玄関が開いた。ただいま、と高坂の声が聞こえた時、僕は激しい目眩のようなものに襲われた。

「どうしたの? なんで突っ立っているわけ?」

 部屋に戻ってきた高坂に、うん、としか言えなかった。彼女も深くは気にしないようで、ノートとレジュメを返してくれた。

「助かったよ。飲み物とお菓子はお礼だから、気にしないで」

 そう言いながら、高坂は座布団に座った。僕はそれに倣うようにゆっくりと膝を折った。

 もしかしてこれから歓談ということになるのか? ということを考えていたが、高坂がストローから一口、紅茶を飲んでからシュークリームのパッケージの封を切った。そういうことらしい。

 抵抗は諦めた。こうなっては流れに従うしかない、と腹を決めるしかなかった。

 もっとも僕が勝手に力んでいるそばで、高坂はまったく普段通りに、履修している講義の内容が難しすぎる、とか、出席率で成績をつけるのは間違っている、とか、勝手なことを言い出した。僕も普段通りに応じようとしたが、どうしても言葉少なになった。

 シュークリームもエクレアもなくなり、お茶もなくなったところで、高坂は腕時計を確認した。当時でも携帯電話が普及していたけれど、彼女はいつも腕時計をつけていた。

「ちょっと長居しちゃったね。夕飯とかどうするの?」

 特に高坂としては含むところはなかっただろうけど、僕はまさかこのまま夕食も食べていくのか、と想像が飛躍した結果、「自分一人なら適当に食べるよ」と微妙なニュアンスもあるような気がしないでもない返事をしていた。

 僕の返事を気にしたそぶりもなく、高坂は立ち上がって鞄を肩にかけた。彼女の鞄は見た目がすごく小さいのに、勉強に必要なものは全て入っている、いつ見ても不思議に思える鞄である。

「じゃあ、私も帰って夕飯にしようかな。また講義の時にね、石川くん」

 僕は、ああ、と言おうとして、うう、みたいな音で返事をしていた。それがおかしかったのだろう、高坂は小さく声を漏らして笑った。

 靴を履いて玄関の外まで見送りに行った僕に、高坂はなんでもないように最後に巨大な爆弾を落としてきた。

「石川くんの携帯の番号、聞いてないと思うけど、聞いたっけ?」

 僕が返答するまで三秒は必要だった。

「教えていない」

「じゃ、教えて」

 彼女が携帯電話を取り出したので、僕はなんとか自分の番号を伝えた。彼女が携帯電話を操作すると、僕の背後、部屋のテーブルの上に置かれた僕の携帯電話が振動した。

 にっこりと高坂が笑った。

 あまり見たことのないタイプの笑みだった。

「今の番号が私の番号だから登録しておいてね」

「あ、うん、わかった……」

 他に何も言えない僕に頷いて見せると、バイバイ、と軽く手を振る動作の後、高坂は今度こそ去って行った。高坂が見えなくなり、一人で部屋に戻り、ドアを閉めて鍵をかけて、そこから僕はすぐには動けなかった。

 のろのろと玄関の鍵を確認してから部屋に戻り、携帯電話を手に取った。

 僕は高坂の電話番号を登録した。

 しかし、いつその番号に電話をかけるのか、疑問だった。高坂から電話が来ることはあっても、僕から電話することはないのではないか。そう思った。

 僕は携帯電話をテーブルに置いて、台所へ向かった。

 電話番号のことは脇に置いて、とりあえず高坂と夕食を一緒にしないで済んだことに救いのようなものを覚えながら、自分の夕食のことを考え始めた。そうすれば他のことは忘れていられる気がした。

 お菓子を食べたせいか食欲があまりない気もしたけれど、それでも僕は僕にふさわしい日常を取り戻すように料理を始めた。



(続く)

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