第3話
◆
高坂とはそれから、週に二、三度、顔をあわせるようになった。
最初は件の日本文化概論の講義でしか受講している講義が同じじゃないのだと思っていたが、彼女は他のいくつかの講義で僕と履修が重なっていた。
どうして僕が彼女の存在に気付かなかったかは、単純な理由だった。それは高坂が履修登録していながら、その講義を完全に放り出して欠席していたからだった。
「保険として履修登録したようなものかな。最初だけ様子を見て、単位を取るのが難しそうなら、面倒になっちゃってね。まぁ、石川くんのおかげでうまくいくかも知れないから、ありがたく思っているよ」
そんなことを知り合って少しすると彼女はあっけらかんと口にしていたものだ。
高坂は僕と同じ講義を受けるときは、すぐ隣へ来るようになった。僕がある種の信念として教室の前方に陣取るのを決めているので、彼女も自然と前方の席に座ることになる。褒められるものではない傾向として、部屋の後方ほど学生が密集するのはどの講義でも同じだったことを考えれば、高坂が僕のすぐ横に着席する動機は完全に理解するのが難しかった。
彼女には講義に対する積極性はあまりないし、僕の隣の席にいてもうたた寝していることがままあった。それなら後方の席にいた方がいいのではないか、と思う僕だったが、彼女は毎回、僕の隣の席に着く。それは僕に理解できない、彼女の信念のようだった。
「石川くんは真面目だねぇ。私にはどうも、九十分の講義は長すぎて」
僕は内心では、講義の時間は九十分だけれど大概の教授も助教授も講師も遅刻してくるけど、と思っていた。九十分の講義は実質的には七十五分程度なのはザラだった。そのことを指摘しなかったのは、高坂の性格からして七十五分でも長いと意見するのは自明だったからだ。
僕は別のことを彼女に言った。
「あまり居眠りしていると、前の席にいても印象が良くないと思うよ」
彼女と初めて話してから一ヶ月ほどが過ぎると、僕でも少しは砕けた口調で話せるようになっていた。そうなると初めて話した時は確かに僕の話し方は不自然だったとも認識できた。
僕の言葉に対して、うーん、などと高坂は唸っていた。
「ここのところ、うまく眠れなくて、どうしても夜更かししちゃうんだよね」
「うまく眠れないって、何?」
僕はお馴染みのトートバッグに筆記用具などを突っ込みながら無意識に聞いたので、その瞬間の彼女の表情は視界の外だった。
「どうも一人だと眠れなくて」
僕が反射的に彼女の方に視線を向けたのは、口調というか、語尾というか、そういう声の輪郭のようなものが普段と違ったからだ。でもどこが違うかは、わからなかった。
咄嗟にまっすぐに見た彼女の表情は、普段通りの、どこかフニャっとした笑顔だった。
「あ、別に彼氏がいるとかじゃなくてね」
彼女の方からそう言葉を続けてくれたものの、僕ははっきりと応じることができずに、変なうなり声のような声が微かに漏れてしまっただけだった。妙な反応だったはずだが、高坂はまだ笑っていた。
「大学生になって一人暮らしを始めたけど、まだまだ慣れないわ」
「一人じゃ眠れないって、じゃあ、どうしているの?」
「逆に、石川くんはどうしているの?」
いや、と僕は少し躊躇ったけど、隠すようなことでもないと思い直して言葉にした。
「音楽を聞いたり、ラジオを聞いたりしているかな」
「ラジオは私も聞いているよ。何聴いているの?」
僕たちはその時は、教室を出て渡り廊下の一角で別れるまでの間、ラジオについて話をした。二人の就寝の時間が近いこともあり、同じ番組を聴いていることもあったし、別のラジオ局の番組を聴いている時もあることが分かった。
ただ、僕はなんとなくラジオの話をしていていいのかな、とは思っていた。
うまく眠れないという彼女のことをもう少し真剣に考えるべきではないか、という気がした。それは講義で居眠りしてしまうからという理由ではなくて、もっと深刻な事態に思えたのだ。
高坂と別れて、僕は次の講義が行われる教室に向かいながら、彼女がどんな気分で夜を過ごしているのか、思い描いた。
僕には想像もつかなかった。
彼女の力になりたいという気もしたけれど、それが僕に務まるかどうかは、よくわからなかった。僕には特別な力もないし、知識もないのは歴然としていた。
それからしばらく、同じ講義を受けながら隣の席で居眠りする高坂を見るたびに、言葉にはできない不安のようなものを感じていた。
僕自身のことではないのに、何故か、切実なものに思われた。
(続く)
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