第2話 バンコクの混沌と抹茶ラテ

 タイの首都バンコクは、世界でも悪名高き交通渋滞が激しい都市だ。都内の目抜き通りのシーロム通りには、タイで初めての高架式鉄道が完成し、少し近代化のイメージが進みつつあった。しかし、道路の渋滞は一向に緩和されることはなく、タイの国の産業が農業から自動車の生産がアジア一の拠点工場になりつつあり、自動車の台数は増える一方、新しい道路の建設や整備は全く追いついていない。


 ただ、高架鉄道のおかげで新しくできた駅の周辺には、高層ビルやオフィスビルが林立し、昼間はビジネス街として賑わい、また夜ともなればお洒落なレストランやバー、世界的に有名な歓楽街に変貌し、地元のタイ人や海外観光客の人気スポットになっている。


 週末の土曜日の午後とはいえオフィス街は賑わっていた。周辺にはバンコク観光の目玉だ王宮や有名な仏教寺院やホテルなどが多く、外国からの観光客が集まり、また複合施設のショッピングセンターには世界のブランド品やレストランが密集し、地元のタイ人にも人気があり、平日も週末も関係なく昼夜問わず人が溢れている。新しくできた高架鉄道はBTS(Bangkok Transit System)と呼ばれ、わずか三両編成ではあるがバンコク都の大動脈となって、主要な道路にひさしを作るかのように走っている。


 ビジネス街の中心部にある駅のすぐ近くには、近年アメリカから上陸したカフェにラップトップコンピューターとにらめっこしながら、とっくに冷めてしまった一杯のコーヒーで長時間居座る若い日本人がいた。泰地は今年からタイの日本大使館に医務官として着任していたのだ。 


 泰地はカフェの比較的静かな場所を選んで陣取ったつもりだったか、あっという間にタイ人や外国人観光客に囲まれてしまい、聞いたこともない外国語が飛び交って、耳栓代わりにと日本からもってきた日本製の高級ヘッドフォンを慌ててつけてその「騒音」を遮断した。いつもは大好きなロックバンドの曲を聴くのだが、今日ばかりは違った。月曜一番の本省とのテレビ会議の資料を今日中に仕上げなければならないのだ。周囲にはまるで世界一周旅行でもしているかのように、様々な国の言語が飛び交っている。


 「さすがに国際都市バンコクだな…」と生まれて初めて仕事としてタイに来て住み始めた泰地には、この時ばかりは仕事に熱中するあまり、店の前で立ち往生している救急車のサイレンの音さえ耳に入らなかった。


 バンコクの渋滞と騒音はさすがに困ったもので、世界一広い駐車場と揶揄されるくらいに朝夕の通勤ラッシュの時間帯は遅々として進まない。BTSが完成し公共交通網の整備も徐々に、というか他のアジア諸国にはかなり遅れてはいるが、少しは緩和されるかと思われたが、都会のオフィス街で働くタイ人にはやはり自動車通勤がステータスでもあり便利なのであろう。


 ちなみにタイの渋滞における経済損失と言えば、近年のデータによれば首都バンコクのみで、一日あたりの交通渋滞による経済損失は約4億円といわれ、渋滞における時間のロス、燃料の浪費、効率の低下による生産性の減少などが原因となり、渋滞のせいでバンコクの街は排気ガスで常に汚染された空気が立ち込め、通りに出ても澄んだ青空を見かけることは年に数回という。


 資料とデータを必死に追いながら少し顔を上げた時、先ほどからサイレンを鳴らした救急車がまだ店の前で少しも移動してないことに気づいた。


「なんで動かないのだろう?」


 日本なら路上の自動車は救急車や消防車、パトカーなどの緊急車両へは道を譲り空けて通すのが常識なのに、路上で身動きが取れない救急車に対して前の車も横の車も一向に道を譲ろうとしない。渋滞で三車線一杯に埋まった道路では譲りたくても譲れない状況なのか、とはいっても日本なら運転手は少なくともハンドルを少し切って優先車両に道を空けようとする努力はするだろう。


 タイは慈悲深い仏教徒の国と聞いていたのに「なんだか無慈悲な人々だなぁ…」と泰地は自分も医者だったことから、救急車の中にいる患者が心配になり、徐々に心がざわめいてきて、書きかけのラップトップもそのままに店を飛び出した。噎せ返るような熱気が泰地の身体を包む。店内のクーラーが利いたオアシスからいきなり熱帯ジャングルにでも飛び込んだかのような、湿り気のある空気が道路に止まった自動車の排気ガスと交じって襲ってくる。自分に何ができるかわからないが、兎に角外へ出てきたのはいいが何をどうしていいかわからない。


 「なんで動かないんですか?」


 泰地は得意の英語で道を歩いていたタイ人の男性に慌てて声をかけた。その男性は泰地から声を掛けられたことに少し戸惑いながら…


 「渋滞で動かないんだよ、見ての通り。どうしようもない。中の患者が心配だね」


 と一言だけ言って歩き去っていく。


 「なんだよ…これが仏の国の人達かよ…」


 泰地は思い切って救急車を誘導しようと渋滞の中、車で埋め尽くされた道路に飛び出そうとした、その瞬間、


 「オイ待て‼ 危ない、道路に出るんじゃない!馬鹿かお前は!死んじゃうぞ!」


 いきなり腕を掴まれグイっと歩道へ引き戻された。


 腕が千切れるかと思ったほど強い力で引っ張った男は、バイクのヘルメットを被り庇を上げ、まん丸の二重の大きな目を向きながら泰地にタイ語で声を張り上げた。


 「あんた、日本人か? なんて無茶なことをする…」


 男はそう言って、道端に立っている駐車禁止の道路標識の下に数台並んでいるバイクのシートに寝そべって煙草を吸っている数人の男に声をかけた。


 「おい、みんな、行くぞ!」


 とでも言ったのだろうか、男たちはすっと地面に降りて、続いて二人の男がそろそろと車道に降りて行く。泰地は何が起きるのかと、眼をパチパチさせながらその光景を眺める。渋滞の車の間をすり抜けて行く無数のバイクがあり、うかつに道路に降りようものならバイクに轢かれて大けがをすることもある。


 男たちはヘルメットの男の指示で、救急車の前方に留まっている車の運転手に向かって左右に手を振り始めた。車の間を猛スピードで走ってきたバイクの運転手にも何か大声で喚いている。にわかに現れた男たちの誘導で、前方の車は道を譲るように左右にハンドルを切り始めた。その車の運転手に向かって男たちは両手を合わせて合掌ワイをして軽く頭を下げた。タイの風習で「挨拶」や「感謝」の意味を表す手の動きの一つだ。


 見る見るうちに救急車の前のレーンが空いていき、車体がするすると動き出す。すると何処からともなくバイクに乗った警察官が現れて、バイクに乗ったまま救急車の先頭に出て、救急車を先導するかのように前の道をどんどん空けていく。泰地の前から救急車のサイレンが遠のいていき、ほっとしたのもつかの間、道路はまた元の大きな「駐車場」と化していた。


 「ディス・イズ・タイランド!」 (これがタイランドだ!)


 道路上で交通整理をしていたバイクの男は、ヘルメットを脱ぎながら真っ黒に焼けた人懐っこい笑顔で、タイ語訛りの英語で泰地に手を上げて言った。他の男たちは何事もなかったかのように、また自分のバイクのシートに寝そべって煙草に火をつけている。


 男はいわゆる「バイク・タクシー」のチームのボスで、タイには自動車のタクシーに加えて、バイクで乗客を運ぶバイク・タクシーがある。自動車が入っていけない細い路地や、大通りから小さい路地に向かう時や、渋滞時に急いで目的地に行かなければならない時に非常に重宝する、タイでは強い庶民の味方なのだ。ボスの男はまたヘルメットを被り直し、タイ人の若いミニスカートの女性の乗客を後ろに乗せて歩道の上を走り去っていった。


 泰地は今見た光景がまるで別世界の光景のように思え、茫然と立ち尽くし、汗で背中がびっしょりになっていた。渋滞で動けなくなった救急車のサイレンが気になって飛び出してきたものの、結局何もできなかった自分を恥ずかしく思った。そして我に返り、店のテーブルの上にラップトップを開きっぱなしで、外へ飛び出してきたことに気づき、慌てて中へ戻ろうと小走りで店へ戻った。


 自動ドアが開き切らないうちに店内へ駈け込もうとして、泰地はドアに靴の爪先を引っかけ前へつんのめってしまった。


 「ドン!」


 泰地はつんのめった姿勢のまま、床に倒れるかと顔面打撲の覚悟を決めて目をつぶった。しかし、衝撃が女性の胸元で止まり同時に冷たい抹茶ラテのシャワーが降りかかってきた。泰地はそのままスローモーションのように地面に落ち、膝を強く打ってしまった。


 「きゃっ!」


 クワンは持っていた好物の抹茶ラテを突然胸元へぶつかってきた泰地に驚いて握りしめた。その瞬間に彼女の飲み物が泰地の頭に降り注いでしまった。


 クワンは残念そうに空っぽになったカップと、倒れこんだままの泰地を上から交互に覗き込んだ。『抹茶ラテ』はファッション雑誌にも紹介されたことのあるこの店の人気メニューで、クワンが一日一杯必ずと言っていいほどこの店に買いに来る、お気に入りのドリンクだ。


 会社の同僚とランチを終えた後は、ほぼ毎日この店で注文し、仲間と談笑するのが日課の一つだった。一緒にいた友人のトーイがカフェの店員からティッシュペーパーをもらいに行きクワンに手渡したが、手に取っただけで泰地を見下ろし、この人なんでこんなところで倒れてるのという顔をしている。


 「クワン、大丈夫? この人タイ人じゃないわよね?日本人かしら?」


 床に倒れたままの泰地が「イタタタ・・・・・・」と低い声で呻いていたので、クワンとトーイはそれがタイ語ではないと知り、二人は目を合わせ泰地に言った。


 「アー・ユー・オーケー?」


 派手にずっこけてしまった恥ずかしさもあって、泰地はすぐには起き上がれなかった。店の客も数人立ち上がって、それぞれの言語で泰地を指さし笑ったり、心配そうな顔をしていたが、誰もさほど気にしていないようで、泰地は手で膝をパンパンと払いながら、何事もなかったかのようにすくっと立ち上がった。


 覗き込んでいたクワンの目の高さより少し高い位置にきた。タイ人の女性にしてはかなり身長が高いほうだが、それにもまして泰三も高身長だったが、気まずそうに二、三歩離れ頭をクワンの目元まで下ろし、「アイム・ソー・ソーリー、ごめんなさい!」と謝った。


 白のブラウスと黒いショースカート、真っ赤なハイヒール姿のクワンが、申し訳なさそうに頭を何度も下げている泰地に向かって、


 「大丈夫です、あなたお怪我はないですか?」


とタイ語で優しく問いかけた。


 泰地にはクワンが言ったことが理解できなかった。


 赴任して間もない彼にとってタイ語は未知の言語であった。先週からようやく週末のタイ語教室に通い始めたばかりだったが、少しでもタイ語に慣れようと、通勤ラッシュの渋滞の車の中でタイ語のラジオ番組をつけて、タイ人の女性DJがリアルタイムの交通状況を話すのを意味も解らず聞きながらも、その柔らかい穏やかな言葉の響きに心地よさを感じていたのだ。


 独特の音韻体系を持つタイ語は、古代インドの仏教経典に使用されたサンスクリット語やパーリ語を起源に持つと言われている。泰地はタイへの赴任が決まったその日に書店で『すぐに話せるタイ語』という本を買ってきて、その絵付きの会話文を覚えようとしたが、彼には象形文字のように見えるタイ語の文字と、その発音の抑揚が理解できず、日本出国までにはほとんどタイ語を覚えることはなかった。パズルのように母音と子音を組みあわせ、また子音の種類によって声調が五つもあり、文字の組み合わせで綴られた単語も色んな成長に変化する。また、日本語ならば名詞の前に形容詞来て修飾するのだが、タイ語の場合はすべて名詞の後に形容詞が来るので、文法も一筋縄ではいきそうにない。


 語学のセンスがいい泰地にとってもタイ語の勉強には相当時間がかかりそうだった。赴任前には前任の日本人からはタイ語は勉強した方がいいよ、とアドバイスは受けていたが、英語に自信のある泰地はあまり真剣に受け取らなかった。バンコク程のアジアの大都市ではほとんどのタイ人が英語を話せるはずだ、仕事や生活をするのに英語で十分じゃないか、と思っていた。


 確かに大使館に赴任してからというもの、現地のタイ人スタッフや秘書たちはみんな英語を話す。もちろんネイティブではないが、中にはアメリカやイギリスで留学して帰国した帰国子女や、英語に堪能なタイ人スタッフも多くいた。館内の業務においては、ほとんど英語で進むので何ら問題はなかったし、バンコク市内にある日本人の医師や看護師が常駐する大手私立病院などへの訪問の際も、日本語の通訳を通じて業務やコミュニケーションに支障がなかった。


 しかし、大使館を一歩出るとそこは別世界になる。


 昼休みに泰地はよく外出した。大使館のタイ人スタッフとランチに行くのだ。その方が早くお互いを知ることができるし、コミュニケーションがもっとよくなると思って、大使館の近くにあるオフィスビルの間の空き地のようなスペースに大都会とは思えないようなテント屋根が広がり、その下には屋台を敷き詰めたように食べ物屋が並んでいる。


 ほとんどがタイ料理で、中にはクィッティオと呼ばれるタイのラーメン、タイの果物の飲み物や甘いスイーツを売っている。泰地はこの場所がとても気にいっていて、今いる近代的なカフェの雰囲気やお洒落な店内とは雲泥の差がある。炎天下でのテントの下は恐らく40度くらいの熱気になっているのだが、そこの「屋台食堂」でランチをするのが日課だった。そこではすべてタイ語の世界で、注文するにもタイ語での仕方が分からないし、館内では英語をしゃべってくれたスタッフもいきなり、意地悪をするかのようにタイ語に変わっている。


 泰地はわかった振りをして「クラップ、クラップ(はい、はい)」と返事をするが、屋台の美味しそうなグリーンカレーを指さして注文するのが精一杯だった。


 クワンがタイ語で話しかけてきたが、泰地にはさっぱり分からなかったが、心配そうなクワンの顔を見て、ぶつかられて抹茶ラテをこぼされたことに怒っているのではなさそうだ。クワンは流ちょうな英語に切り替えて反しかけてきた。


 「あなた‥‥‥日本人ですか?」


 「はい、そうです、あのぉ、どうもすみませんでした。服が汚れてしまったのでクリーニング代は弁償します」


泰地はそう言って財布からお金を取り出そうとしたが、クワンは遮ってトーイからもらったティッシュペーパーで、抹茶の緑色がついてしまった白いブラウスの袖口を拭きながら、


 「大丈夫です。その代わりもう一杯同じものを奢ってくださいますか?」


 クワンは笑みを浮かべ半分冗談、半分本気のような口調で言い、店のカウンターへ戻って行った。トーイが店員にまた同じ抹茶ラテを頼んでいるようだ。泰地は頭に降りかかったクワンの最初の抹茶ラテを拭うためにそそくさとトイレに駆け込んだ。


 「とんだ醜態をさらしちゃったなぁ…恥ずかしい」 


とトイレで独り言を言い、濡れた頭を拭いて、自分の席へ戻った泰地はまたびっくりした。なんとクワンとトーイが自分の席の隣に座ってお喋りをしている。


 「あら、あなたここに座っていたの?」トーイが驚いて訊いた。


 「ああ、はい、ちょっと仕事をしていたもので、そして外の救急車が気になって、そして色々とあって……」


 気まずそうに頭を搔きながら席に座って、書きかけのレポートを仕上げなければならかったのだが、もうそれどころではないくらい気が動揺していたのだ。トーイがなにやらひそひそとクワンに話しかけているのだが、クワンはただ単に相槌を打ってるいだけのようで、店員に無料で作り直してもらった抹茶ラテを啜っている。常連の特権を利用したのだろうか、店員の心遣いか、新しいのをタダでもらってきたのだろう。


 さっきまで世界旅行をしているような、いろんな国の言葉が飛び交って賑やかだった店内も少し落ち着き始め、静かなジャズのBGMが店内に広がっている。泰地はレポートを仕上げないといけないのだが、ラップトップに置いた両手がまったく動かず、画面を見つめているはずの目がちらちらとクワンに向く。


 クワンにとって今日は特別な日だった。アジア域内での販売戦略として、各拠点から経営陣や各国のメディアを招いて、新しい商品の発表会がオフィス近くのホテルで開催され、クワンはそのイベントのプレゼンターだった。クワンはタイの化粧品ブランドでトップに入る企業のマーケティング部のゼネラルマネージャーを務めている。


 彼女は、若い女性に人気の口紅やスキンケア商品のパッケージデザインを考案し、大ヒットを続けている。新商品の発表会とあって、クワンはいつもより派手目の化粧をし、いわゆる「勝負服」と言われるクロゼットにある一番お気に入りの出で立ちで仕事に来ていた。ここ数週間はこの日のプレゼンテーションのために週末もオフィスに来て、チームのメンバーと共に夜遅くまで仕事をしていたのだ。


 クワンのオフィスはこのカフェの斜め前にあり、超高層のインテリジェントビルの三十階からは眼下にはチャオプラヤ河が流れ、対岸には日本人にも小説などで知られている有名な『暁の寺』と呼ばれる「ワット・アルン」が見える。16世紀のアユタヤ時代に建立された寺院で、夜明けの朝日が寺院に反射し、真珠のような虹色の輝きを放つことから『暁の寺』と呼ばれている。


 タイでも最先端のオフィスビルには、フィットネスや、高級ブティック、日本食レストランやショッピングセンターが入居しており、ビルの一階フロアには南米のアマゾンの熱帯雨林を模した吹き抜けのスペースになっていて、通路の真ん中には人口の川が流れていて、そこには「生きた化石」と言われる体調一メートルほどの巨大な熱帯魚のピラルクが泳いでいる。


 ところどころにこの巨大な古代魚に餌を与えることができるスタンドがあり、家族連れの子供たちに人気がある。クワンはこんな大きな魚が狭いところで飼われて可哀想だと思い、餌を買ってきて一気に水面に向かって全部放り込んだ。水面が一気に水しぶきで賑やかになり、丸太のような黒く赤みがかった巨体が数匹で餌を奪い合っている。いつか自然の河に戻れるようにと願いながら。


 ビルの中にはお洒落なカフェも数店あるのに、クワンは何故かこのカフェの雰囲気が好きで、なにより日本製の抹茶を使った『抹茶ラテ』が一番のお気に入りだからだ。ランチタイムに同僚のトーイとオフィスを抜け出してここで一休みするのがクワンの楽しみの一つでもあった。二人はいつも仕事の合間や休憩中に旅行の話をするのが大好きで、これまで週末や連休にはタイ国内を二人で旅行するのが楽しみの一つだった。忙しい仕事の毎日に時々、現実逃避をしたくなり、タイの国内の旧跡巡りや自然の中でのキャンプやハイキングをするのを気分転換にしていた。


 クワンは今度長期の休みが取れる、タイの正月と言われる「ソンクラン」(水掛祭)に実家へ帰り久しぶりに両親に会いに帰省しようと考えていた。クワンの実家はタイの西部の田園地帯にあり、バンコクからは車で4時間ほどかかるのだが、自然が豊かで近くの山には大きな滝があって、真っ青に透き通った滝つぼには魚が群れを成して泳いでいる。時々野生の象に出くわすこともある。同僚のトーイを誘ってみると即答で一緒に行こうと言われ、二人は旅の計画を早速立て始めようと日程や、行きたい場所についてあれこれ話し始めた。


 泰地は、気を取り戻してラップトップの画面のデータとにらめっこしながらレポートの仕上げに集中した。だが、クワンとトーイの会話が気になってしょうがない。隣の席ではクワンとトーイは旅雑誌に載っている写真を見ながら話している。タイの自然の中のキャンプ場で、滝をバックに乗馬をしている旅レポの写真が目に入ってしまった。条件反射的に泰地はクワンに向かって話しかけてしまった。


 「あの、その写真…素敵ですね」 


 先ほどからクワンとトーイの会話が気になってレポートがなかなか終わらない。あと少しで完成するところで泰地は辛抱仕切れずに声が出てしまった。二人が見ていた旅雑誌は、タイの大自然の中でキャンプやサイクリング、川でのラフティングや乗馬ができるスポットを載せた、タイ語の有名なアウトドアの旅刊誌だった。


 泰地は学生時代にバックパッカーで世界の国々へ一人旅をしていた時、オーストラリアの大自然の中で馬に乗ったことがきっかけで乗馬が好きになり、日本に戻ってからは郊外の乗馬クラブへ通い始め、いつかまた自然の中で乗馬をしたいと思っていた。タイには仕事で赴任しているので、まずは仕事を優先し大好きな一人旅は少し仕事が落ち着いて、タイに慣れてきたころに計画しようと考えていた。


 「ああ、これはカンチャナブリというところです、知っていますか」


 突然話しかけられ、クワンは少し動揺した様子だが、さっきの一連の出来事の続きのように流ちょうな英語で返事をした。


 「カンチャナブリ…ああ、あの昔の映画で有名な鉄橋のあるところ?」


 泰地はカンチャナブリという地名は幼い頃に聞いたことがある。父と母が祖父の命日かなんかで親戚が集まっている中で祖父が戦争中に駐屯していたところだとかなんとか。カンチャナブリという日本語にはない音の響きが「ブリ」という魚のブリを想像してしまい、なんだかおかしな地名だなと思っていた。


タイ語の地名、特に県名には「ブリ」という音があり、その意味は」都市」という意味だ。例えばバンコクは英語での通称だが、タイ人は略して「クルンテープ」と呼ぶ。意味は「天使の都」などと紹介されているが、本当の呼び名はもっと長くて、世界一長い都市の名称で意味の都(王宮がある場所)である。カンチャナブリの意味は、カンチャナ=黄金、ブリ=都市、つまり「黄金の都市」という意味になる。バンコクからは130キロほど離れたタイの西部ミャンマーの国境に位置し、第二次世界大戦中の悲劇の他にも、自然が豊かで滝や国立公園などのアウトドアスポットがあることでも有名だ。


 「クウェー河鉄橋のことね、それ以外にも自然がたくさんあるのよ」


 クワンは続けて泰地の質問に応えるというより、むしろ一人でカンチャナブリの広報にでもなったかのように、その自然の魅力について語り始めた。トーイが見ていた雑誌を取り上げて、色んなページをめくりながら、森の中でのキャンプや、滝での水遊び、草原での乗馬の写真を泰地に見せた。


 さっき初めてあったばかりなのに、初対面の自分にこんなに楽しそうに、時には笑みを浮かべながら話してくるクワンに、泰地は内心胸が高ぶってしまい、興奮気味に話すクワンが指さしている雑誌の写真に目が向かない。泰三はクワンのその愛らしい笑窪が左右に動くのを目で追っていた。


 「あの…私の顔になんかついてますか?」


 そういわれて泰地ははっと我に返り、頸を振ったが返す言葉が思いつかない。


 「いや、あの、写真、素敵なところですね、僕も行ってみたいです」


 精一杯の返信をしたが、思わず口が滑って「綺麗な方ですね」と言いかけて顔面が赤くなった。


 クワンは初めて会う日本人の男性に一人で喋っていたとことに気づき、パッと雑誌を閉じてトーイに渡した。トーイは、そんなクワンの陽気で誰にでも物おじせずに話しかけていける性格を羨ましいと思いながら、雑誌を鞄の中にしまい時計を見た。


 「そろそろクライアントとのディナーミーティングの時間よ!」 


 トーイはそう言って一人立ち上がりクワンを急かすように席を立った。


 「じゃぁ、今日はあなたも大変だったけど、お話しできてよかったわ。Nice meeting you!」


 ほとんど会話らしい会話にはならなかったが、泰地の心は踊っていた。


 「ありがとうございます、いや、ごめんなさいでした…本当に」


 咄嗟に言い返した泰地だったが、別れ際にクワンの服の袖口が少し汚れていたのを見て、


 「あの、服を汚してしまったのでクリーニング代…」


 そう言いかけたがクワンは袖口を見ながら、「大丈夫ですよ!」と言って店のドアへ向かった。


 気づけば日中の肌に突き刺すような日差しも少し和らぎ、西日となってカフェの大きなガラス窓から差し込んできた。店員が天井からするするとカーテンを下し、淡色の照明が店内の雰囲気をセピア色に変えていく。しかし泰地の心の中にはまだギラギラと南国の太陽が照りつけていた。


 ようやくレポートを仕上げた泰地だったが、クワンのことで頭が一杯になり、レポートの内容までしっかりと読み直す気にもなれず店を出た。オフィス街はすっかり夜の街と化していた。通りに面した観光客向けのレストランや若者向けのオープンバーのネオンサインが街や通りを彩り、昼間とはうって変わった顔を見せ始める。クーラーがよく効いたカフェから出た泰地は、外の噎せ返るような湿気を帯びた熱気にふぅーと息を吐いてまっすぐに自宅に向かって歩き出した。


 歩きながら泰地は彼女の名前を聞いておけばよかったと少し後悔した。


 たとえ名前を訊いたとしても、タイ人の名前は憶えづらくすぐに忘れていたかもしれない。タイ人の名前には仏教的な意味を込めた名前が多い。タイ人の名前は日本人とは逆で名前が先で苗字が後になるが、特に苗字については非常に長いものもあり、たいていのタイ人は名前で呼び合うか、親しい友人や家族などからはニックネームで呼ばれ、長い苗字については仲良い間柄になっても知らない人が多いらしい。


 タイ人のニックネームはとてもユニークで、香港やシンガポール人が中国語の名前を英語の西洋人の名前のようにつけることはほとんどない。泰地のオフィスでもスタッフはほぼ全員がニックネームで呼び合っていて、「ダム(黒)さん」、「デーン(赤)さん」」プー(蟹)さん」、「レック(ちび)さん」、」ウワン(おでぶ)さん」など冗談でしょうと思うくらいに、人間の名前としては面白いニックネームをタイ人はみんな持っているようだ。


 一説にはタイ人は信仰深く、赤子が生まれた家庭に「ピー(悪霊)」が来て、赤子を人間の名で呼ぶと悪霊に憑り憑かれてしまうので、人間の名前以外のニックネームをつける風習があったと聞いたことがある。この説が実は一番説得力があるのではないかと泰地は思っている。日本ではかつて「あだ名」と呼ばれ、現代ではハラスメントやいじめととられかねない酷いあだ名をつけられたり、からかわれた人も多かったが、タイ人のニックネームの風習においては誰もからかったり虐めたりすることがないようで、タイは実に寛容な社会だと泰地は実感するのだった……(続く)

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