ぎゅって抱っこして

かずえ

第1話 思い返してみれば、最初の一歩

「村瀬君、ちょうど良かった!」


 甲高い声に呼び止められて、村瀬むらせ一太いちたは心のうちで、げっと悪態をついた。


「この荷物を運ぶのを手伝って欲しいの」


 大学の准教授、と言ってもまだ若い高梨たかなし香織かおりは、段ボール一杯のテキストを両手で抱えて歩いている。


「あの、俺、ピアノ室の予約をしないと……」

「これを運んでからでも間に合うわよ。ほら」


 有無を言わさず段ボールを渡されて、その重さに一太は少しふらついた。栄養の足りない体は、力仕事に向いていない。これを持って歩いたら、手が震えてピアノの練習に支障が出る。

 困った。

 けれど一太が、ぷるぷると震えながら段ボールを持っているなんて一ミリも気付かずに、高梨准教授はすたすたと歩き出した。


「今年は男の子がたくさん入学してくれて助かっちゃった」


 五人……はたくさんなんだろうか。どちらにしろ、荷物運びを頼むなら、一太以外のに頼んでほしかった。その辺の女の子と変わらない体つきの一太ではなく。

 そして、ピアノのテストが近いこんなときに、足を止めさせないでほしい。ピアノを習ったこともなく、家にピアノも無い一太がピアノのテストに受かるためには、とにかく、授業とバイトの空き時間にピアノ室を予約して、弾いて弾いて弾きまくるしかないというのに。

 仕方無く高梨准教授について歩きながら、一太はそっとため息を吐き出した。

 結局、やっと解放してもらってピアノ室の使用許可を取りに行くと、案の定満室だと言う。そりゃそうだ。だって、ピアノのテストが近くて、一太と同じようにピアノを習っていなかった生徒たちが、少しでも本番に近いピアノで練習したくて取り合いになるんだから。


「どうしよう……」


 皆、時間一杯借りる申請をしているらしく、待っていてもピアノ室が空く様子はない。同じように少し出遅れた同級生の女の子たちが、事務室へ来ては諦めて帰っていく。


「家のキーボードで練習するしかないか」


 そんな呟きを聞いて、キーボードがあるならそれでいいじゃん、と思ってしまうのは、何も持たない者の僻みだと分かってはいるけれど。

 一太が、バイト時間までここにいてもどうしようもない、と思いつつピアノ室の使用者名を眺めて歩いていると、松島まつしまあきらという札の下がっている部屋を見つけた。

 よく話しかけてきてくれる、数少ない男子の一人だ。背が高く、どちらかというと細身だが、一太のように細すぎる訳じゃない。優しげな整った顔で、しょっちゅう女子に声をかけられている。女子の誘いを断る口実なのか何なのか、ほとんどの講義が重なっている一太に声をかけてきては、一緒に行動することが多かった。教室の場所が分からなくて右往左往するくらいなら、と有り難くついていかせてもらっているが、話しかけられても、ろくな返事はしていない。ランチの誘いも、お金が無いのを知られたくなくて断ってばかりだ。

 一太は、いつもの様子を思い出して、ぐ、と息をのむ。

 優しくしてくれているのに、邪険にしている自覚はあった。日々の暮らしに精一杯で、人との関わりにまで割ける心の余裕が無かった。元々、人付き合いなんて分からない。やることがありすぎて、そういったことに時間を割く余裕も何も無かった。

 だというのに、彼なら、お願いすれば少しくらいはピアノを貸してくれるのじゃないか、と一太は思ってしまった。

 入学してたった一ヶ月で、こんなにも一人の人間に甘える気持ちが芽生えているなんてことにも気付かないまま。


「あれ? 村瀬くん。どうしたの?」 


 思い切って強めに扉をノックすれば、扉はあっさり開いた。松島は驚いた声を上げながら、すぐに一太をピアノ室の中に入れてくれる。


「あ、あの。その」


 ここまでは、とにかくピアノの練習がしたい、しなくては、とそればかり考えていた一太は、松島の顔を見て我に返った。考えてみれば松島だって、練習するためにこの部屋を借りているのだ。だというのに、一太がこうして声を掛けたことで、貴重な練習時間を奪ってしまっているじゃないか。とんでもない迷惑をかけてしまった、と一太は言葉に詰まる。


「ん?」


 屈んで目線を合わせてくる松島に、苛立ちは見当たらないけれど。


「い、一緒に」

「うん」

「ピアノ、練習、してほしぃ……」


 最後の方は申し訳なくてうつ向いてしまったが、ここまで来たら今更だ、と一太は言い切った。

 ぽんぽん、と優しく両肩に手が置かれる。


「いいよ」


 顔を上げると、嬉しそうににこにこと笑う顔が目の前にあった。


「わ」

「テスト、近いもんね。一緒にやろう」


 顔の近さに驚いた一太を気にした風もなく、松島は一太の手を引いてピアノの前に歩く。


「い、いいのか」

「もちろん」

「ま、松島くんの練習時間が減っちゃう、けど……」

「一人でやってたら同じ間違いを繰り返しちゃうことあるけど、誰かに言ってもらうとすぐに何ができていないか気付けたりするから、たまにはいいと思うよ?」


 確かに、と一太は共感して頷いた。

 一太には、音符を見てもどんな曲かを想像することが難しい。先生が弾いてくれた手本のメロディーを覚えて、それをなぞるように弾いている。途中で苦手な箇所があっても、そこだけを練習することが難しくて、結局は始めから弾いては同じミスを繰り返すのだ。

 一太は松島の言葉にほっとして、いそいそと破れかけの鞄を開いた。


「あ。教科書ならここに」


 松島が言いたいことは分かっている。もう、ピアノの前に、課題の載っている教科書が置いてあるのは見えているのだ。しかし、あの教科書を借りても一太には弾けない。昨日、課題曲が発表されてすぐに、全ての音階をカタカナで書き込んだ特別な教科書でないと。

 真っ黒な一太の教科書を見て松島は口を閉じ、そっと自分の教科書を避けてくれた。


「ありがと……」


 申し訳ないと思いつつ、椅子に座ってまずは右手を練習し始める。いきなり両手で弾くなんて無理なので、片手ずつ覚えて、どちらかを考えなくても弾けるようにしてから、もう片方のことだけを考えて弾かなくちゃならない。確かこんなメロディーだったな、と思い出しながら、つっかえ、つっかえ、弾いていった。


「ピアノ、習ったことない?」


 しばらくして聞こえた松島の声に、あっと顔を上げた。自分ばかり練習していては、松島の練習ができない。今ここは、松島が借りた練習室なのに。


「ご、ごめん。俺ばっかり」

「いや、それはいいんだ。あのさ、指の形なんだけど」


 謝った一太に松島は、そうじゃない、と手を振った。


「指をこう、立てて、指先で鍵盤を叩くようにすると動きやすいんだ。指を寝かせていると大きな音が出にくいし、動きにくいから。こうして弾くといいよ」


 そう言いながら松島は、鍵盤の上に指を置き、流れるように課題曲の右手を弾いていった。手元はほとんど見ずに、教科書の音符と一太の顔を見ながら。

 ああ、弾ける人なのか、と一太はその様子を見て少しほっとした。それなら、練習時間を奪った罪悪感を深く抱かずにすむ。これが原因で松島のテストに影響が出たら申し訳ない、と思っていたから助かった。


「ね? やってみて?」

「あ、うん」


 言われた通りに指を立ててみると、確かに動かしやすいが、その形を保つのが大変で指がつりそうである。爪が少し伸びているので、かんと鍵盤に当たって弾きにくい。


「爪はしっかり切っておかないと弾きにくいからね」

「はい」


 自然と丁寧な返事をしていたが、一太は気付いてもおらず、真剣に言われた通りの形を保って右手を動かしていた。何とか最後までたどり着いて、ほっと見上げた先に、優しくこちらを見ている松島がいる。


「動きがよくなったね」

「あ、ありがとう」

「もう一回。僕が左手を弾くから右手を弾いてみて」

「はい」


 左隣に腰を下ろした松島に真剣な顔で頷くと、松島がくっくっくっと笑った。


「え、何?」

「ううん。何だか先生になった気分」

「あ、えーと。よろしくお願いします」

「うん。じゃ合わせて。せーの」


 たどたどしい右手の音に流れるような左手の音が加わると、もう合格できるような見事な曲が出来上がって、一太はただただ感心した。

 入学してすぐにあった初めての課題テストの曲はとても簡単だったらしいのだが、一人で練習室にこもっても、一太が右手を最後まで弾けるようになるには数日かかった。今日は、もう右手が最後の音までたどり着いている。この調子なら二回目のテストは、一回目のテストの時よりもましな演奏ができるかもしれない。

 とても簡単だったから助かった、とほとんどの者が言っていたテストにぎりぎりで合格した一太は、この後どんどん難しくなるピアノのテストはどうしたらよいのだろう、と悩んでいた。とにかく練習するしかない、と焦るばかりだったのに。

 一太には、流れるようにピアノを弾く松島の後ろに後光がさして見えた。

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