美奈
34
自分の中で、弟が可愛いだけの存在じゃなくなったのはいつだったか。きっと物心がついた時には遅かった。好きになんて、なりたくなかった。いい姉であろうと必死に頑張った。でも家に帰るとそこにいて、毎日目を合わせる存在。きっと、こんな私のことを慕ってくれているであろう目の前の彼に、今日も罪悪感でいっぱいになる。好きになって、ごめんなさい。
中学の時までは何とかなっていた。けれど高校に入ると、その気持ちは拍車をかけて一気に加速した。止めようにも止められず、ただただ自分の気持ちを押し殺す毎日。
そんなある日、一人の男子にナンパされた。家に帰りたくなかった私はその誘いに乗った。それからはもうずるずるといろんな人と関係を持った。どんどん家に帰る時間が遅くなり、両親からは呆れられた。それでも彼は私を姉として慕ってくれていた。
自分が良くないことをしていると、分かっている。こんなことをしても心は満たされない。でもこの先彼以上に誰かを好きになることが想像できなかった。毎日毎日苦しかった。
その日は何となく、誰とも遊ぶ気にならなくてまっすぐ家に帰った。母に見つからないように、静かに部屋に向かおうと思ったが呼び止められた。リビングで説教が始まるのを黙って聞く。母の言っていることは正しく、反論する気もさらさらなかった。その態度が気に入らなかったのか、ヒートアップした母の手が美奈の頬を思い切り叩いた。
驚きはしなかったが、これ以上話していても埒が明かないと、逃げるようにリビングから出た。リビングのドアの近くに悠佑がいて、こちらを心配そうに見ている。何か言いたそうにしているのを無視して、部屋に直行した。
ベッドの上に座り、ぼーっとしていると部屋のドアがノックされた。母だったら声を上げるだろうから、ノックしたのは悠佑だ。美奈は心拍数があがるのを無視して、扉を開いた。ドアの前には予想通り悠佑がいた。中学の制服を着てこちらを見つめている。まだ純粋な、丸い瞳がかわいらしい。
「悠佑、どうしたの?」
思考を読まれないように笑顔を張り付けて、彼に話しかけた。悠佑は言いずらそうにもじもじしたので、とりあえず部屋の中に入れた。
「ごめんね~さっき嫌なところ見せちゃって」
明るい声を絞り出した。あんな姿を見られて恥ずかしいと思うのに、今更やめることもできない。いっそのこと嫌われてしまいたい。
「謝るくらいなら、もうそういうことやめたらいいのに」
悠佑が優しさで言ってくれていることは分かっていたけれど、その時の美奈にはなぜか胸に深く突き刺さり、傷をえぐった。
「…そうだね」
笑顔で明るく返そうと思ったのに、無理だった。悠佑が何とも言えない表情をしていたので、それ以上はいたたまれなくて、無理やり話題を変えた。
「それで、どしたの? 何か話したいことがあるんでしょ?」
彼の話は想像以上に重いものだった。美奈は気づけなかったことをひどく悔いた。悠佑から樹が好きだと聞いた時、一瞬固まってしまったのを、彼がどうか違和感を持っていませんように…。
美奈が夜遊びしていた時、悠佑は必死に戦っていたのだと思うと、本当に自分が情けなかった。樹のことを話す悠佑は可愛くて、初めて見る表情に嬉しくも、苦しくもあった。
悠佑の話が全て終わった後、思わず抱きしめていた。美奈は自分のした行動に焦ったが、悠佑は戸惑いつつも、手を美奈の背中に回して抱きしめ返してくれて、なぜだか泣きたくなった。
美奈は悠佑の恋を応援することにした。高校生になった悠佑から樹と再会したと聞いた時は、二人はもしかして運命なんじゃないかと思った。悠佑の話を聞いてから、美奈は夜遊びを少しずつ減らしていった。彼は強くあろうと頑張っていて、その姿が愛おしかった。自分もいつまでもこんなことはしていられないと、覚悟を決めた。両親もそんな私の様子に安心していた。
「好きです」
樹から告白されたのは、悠佑が夏休みに友達を家に連れて来た時のことだ。その前にもちょくちょく樹は悠佑の家に遊びに来ていた。久しぶりに再会したとき、美奈の顔をじっと見ていたが、まさかそういうことだったとは。課題をしていた美奈の部屋を誰かがノックして、扉を開けると樹が立っていた。部屋の外に出ると、告白された。すぐに悠佑の顔が浮かんだ。下のリビングから悠佑達の楽しそうな声が聞こえてきて、美奈は罪悪感でいっぱいになる。
「ごめんなさい」
「……理由、聞いてもいいですか」
「…樹くんのこと、弟としてしか見たことないし、これからも恋愛対象には入らないと思う」
嘘は言っていない。樹のことは小学生の頃から知っていて、本当の弟のように思っていた。本当の理由なんて言えるわけがなかった。
そう言い捨てて、部屋に入ろうとドアノブに手をかけた美奈の手を、樹の手がかぶさった。すぐ後ろに樹がいて、息遣いも聞こえてくる。こんなところ、もし悠佑に見られたらまずい。
「俺、諦められません」
美奈は戸惑った。樹の真っ直ぐな性格は尊敬できるけれど、気持ちに応えられるわけじゃない。
「えっと…」
困ったように樹の顔を見ると、彼も戸惑っていた。
「ごめんなさい……でも諦めたくないです。これからも勝手にアピールします」
そう言って頭を下げてリビングに戻っていった。その日は悠佑と話すのが気まずかった。
それから樹のアピールは始まった。ほぼ毎日家に来て、暇さえあれば美奈に告白した。悠佑がいる前でも堂々とアピールしているので、きっと悠佑は樹の気持ちを知っているのだと思う。「家に来ないで」ということもできたけれど、それはしなかった。美奈がそんなことを言って、悠佑と樹の仲が万が一でも悪くなってしまったら嫌だ。でもこの状況も良くない。何度も告白され、その度に断っても樹が引き下がることはなかった。
そんな日々が半年くらい続いた。そろそろさすがにまずいと、美奈は覚悟を決めることにした。そんな日に樹から、改めて二人で話したいと言われた。二人で公園に向かい、ベンチに座る。
「あの、困らせているのは分かってるんですけど、どうしても諦められなくて。美奈さんが好きです」
真っ直ぐに見つめてくる瞳に、自分の気持ちを見透かされた気がした。だから美奈もこれ以上ごまかさずにちゃんと向き合おうと思った。
「…ごめん。……ごめん。今まで、樹くんを振った理由は嘘ではないけど、本当の理由じゃなかったの。私、好きな人がいるんだ。誰かは言えないし、絶対に叶わないんだけどね。でも、どうしてもその人以上のことは考えられなくて。これ以上樹くんのことを中途半端にしたくない。樹くんのことはこれからも弟みたいに思ってるよ。だから、」
そこで一度言葉を区切り、大きく息を吸った。ここからは美奈の願望だ。欲張りだと思われるかもしれないが、これは言っておかなければならない。
「だから、これからも悠佑とは仲良くしてほしい」
「…もちろんです」
樹は即答してくれた。美奈は彼がそう答えてくれること、何となく分かっていた。
「私のこと、好きになってくれてありがとうね」
「はい…」
そうしてベンチから立ち上がり、公園を出た。後ろは振り返らなかった、それがせめてもの美奈の気遣いだった。
次の日、樹はケロッとした顔で家を訪れ、美奈に挨拶した。さすがに数日は家に来ることはできないだろうと思っていたが、自意識過剰だったのかもしれない。はたまた美奈を安心させるための樹の優しさだったのかもしれない。後者であってほしいと勝手ながらに願った。
悠佑が高校二年生になり、家でもよく学校のことを話すようになった。特に樹の話をよく聞く。最初は美奈の様子を窺うようにしていたので、美奈から悠佑に樹の話題を振ると、嬉しそうに話し出した。樹の話をしている悠佑はとても可愛くて、この表情を見れることは嬉しいが、この顔をさせられるのは彼だけだと思うと悲しかった。
でも二年生の終わりになるにつれて、悠佑の様子が何となくおかしいことに気づいた。樹関連だとすぐに分かったけれど、無理に聞くことはしなかった。ただ、悠佑の方から話してくれることがあれば全力で相談に乗ると決めていた。
悠佑から樹と付き合うことになったと報告されたのは、悠佑の高校の体育祭が終わってから二週間ほどたった日のことだ。体育祭の日、家に帰ってきてから悠佑が外に出るのを、窓から眺めていた。いつか来る気はしていたその日が、ついに来てしまった。
悠佑の恋が実ったこと、姉としてはすごく嬉しい。はずなのに、胸に針が刺さったみたいに痛かった。応援すると言ったのに、素直に喜べない自分に吐き気がした。でもそれを悟られないように、悠佑にはおめでとうの声を送った。悠佑は美奈の様子に違和感を持たなかったようで安心した。それどころか、
「姉さん、いつもありがとう、大好き」
と、顔を真っ赤にしながら言ってきたのだ。不意打ちの言葉に、思わず美奈の顔も真っ赤に染まった。今までにないくらい心臓が脈打っている。
(違う、これは姉としてだ。勘違いするな)
心臓のあたりをギュッと掴んで自分の心に必死に言い聞かせた。幸い、悠佑はただ照れただけだと思ったのか、自分の言葉に照れてそれどころじゃなかったか、恥ずかしそうにそそくさと部屋を出ていった。静かになった部屋で、美奈は力が抜けてその場に座り込んだ。
悠佑の顔を見るたび自分の気持ちをぶちまけてしまいたくなる。でも気持ちを言って、良いことなんてお互いにひとつもないと思っていた。だからいつも喉の奥から溢れそうな思いを飲み込んだ。
とりあえず大学に通っているものの、進路が全く決まらずに悩んでいた時、街で声をかけられた。スカウトされることはこれが初めてではなかった。当時は全く興味がなかったし、自分が芸能人になるなんて、想像すらできなかった。でももらった名刺を見た時、美奈でも名前を知っているような大手の芸能事務所で、圧に負けて話だけ聞くことにした。
カフェに入って、相手の話を聞いているうちに、演技なら自分にもできるのではないかと思った。もちろん、そんな簡単な世界ではないことは分かっているけれど、ずっと隠し通してきて誰にもばれたことがないこの気持ちを演技だというのなら、美奈はうまくできる気がした。あと、美奈の恋は叶うことはないので、スキャンダルの心配も一切ない。案外自分に合っている世界なのかもしれないと思い始めていた。その日は相手の熱弁を聞いて、そのまま解散したが美奈の気持ちは前向きだった。
家に帰って、母に今日のことを話すと驚いていた。そして父が帰ったとき三人で話をした。父は色々な面を心配していたが、母は芸能人だとプライベートが制限され、結婚も遅くなるのではないかと示唆していた。母はこういうところがある。まるで恋愛が、結婚が全てみたいな言い方だ。だから美奈は言い切った。
「私、結婚するつもりはない」
父も母も驚き、母の顔がみるみるうちに歪んでいくのが分かった。
「そんなの…まだ分からないじゃない!」
「ううん、これは絶対なんだ。…ごめん」
母の気持ちが分からないわけではない。二人に申し訳ない気持ちも、確かにあった。普通に恋をして、普通に恋愛できればどれほどよかったか。
「美奈が謝ることじゃないだろう」
父はそう言ってくれたが、母は納得いっていないようだった。父の手前強いことは言えなかったみたいで、都合がよかった。母のことは父に任せてその日のうちに名刺に書いてある連絡先に電話をした。
こうして美奈の進路は無事に決まった。あれから母とは気まずいままだが、父や悠佑とは普通に話しているので安心した。
悠佑が大学生になり、一年が過ぎようとしていたころ、樹が家に挨拶に来たらしい。美奈はありがたいことに仕事がどんどん増え、家にいる時間が少なくなっていた。今はバイトをしながら芸能活動をしているが、そろそろ一本に絞ろうかとしているところだ。芸能の仕事はやはり自分に合っているように感じた。
その日家に帰ると、リビングから父と悠佑の声が聞こえた。真面目な雰囲気に、自然と足音を消す。リビングに近づくと会話の内容があらわになっていく。樹と悠佑の関係を母が反対したらしい。私が結婚しないと言ったことも母は口にしていたようだ。それ以上二人の会話は聞かずに、気づかれないように部屋に向かった。
悠佑はどんどん強くなる。自分より他人を考えられる、優しい人柄の悠佑。でも心の中心にはちゃんと芯を持っていて、自分の意思は強い。リビングで盗み見た彼の顔はとてもかっこよかった。美奈はこの気持ちをこのまましまっておいていいのか、分からなくなった。そして次の日、ふと悠佑に聞いた。
「悠佑は、樹くんに自分の気持ちを言ったのはどうして?」
美奈の問いに不思議そうに首を傾げた悠佑だが、すぐにほほ笑んだ。
「自分の気持ちに、樹に、嘘をつきたくなかったから。………なんてね」
悠佑の言葉で美奈は決心した。この気持ちをどうするのか…。
そして、ある人物を呼び出した。
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